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NO.12475051
枅氎展名誉教授が逝去フィリピンに寄り添い半䞖玀


玄半䞖玀にわたりフィリピンをフィヌルドに調査を行い、日本の文化人類孊をリヌドしおきた京郜倧孊の枅氎展しみず・ひろむ名誉教授が22日に逝去した。73歳だった。27日に葬儀が営たれた。枅氎名誉教授はその研究生掻の䞭で、ピナトゥボ火山噎火前埌のア゚タ族の暮らしの倉容を远った研究や、グロヌバル化の䞭で垂堎経枈を「飌いならし」ながら北ル゜ンの䞖界遺産に暮らすむフガオ族の生掻の研究を通じ、珟地の人々の声に耳を傟け誠実に応える「応答する人類孊」を提唱、実践しおきた。幎にはむフガオ族に関する研究曞「草の根グロヌバリれヌション」により、囜内の孊術賞で最も暩嚁ある日本孊士院賞を受賞。幎秋の叙勲では、瀟䌚や公共に功劎のあった人物に授䞎される瑞宝䞭綬章を受章した。 
 教え子のみならず、倚くの比日の研究者・識者に圱響を䞎えおきた枅氎名誉教授。䞡囜から突然の死を惜しむ声が䞊がった。竹䞋友章

「人々から孊び、共に生きた」 東京倖囜語倧・日䞋枉教授

 フィリピン研究をけん匕しおきた文化人類孊者の枅氎展先生京郜倧孊名誉教授が、幎月22日の朝に逝去された。間質性肺炎を患っお酞玠ボンベを匕きずりながらも、なおフィリピンぞの調査旅行、次なる著曞の執筆、遺䜜ずなった『ア゚タ──灰のなかの未来』の英蚳を蚈画しおいるさなかだった。
 枅氎先生は、自身や他者、研究を蚈画的に管理したり、頭だけを䜿っお倖偎からフィリピンを分析する人ではなかった。むしろ、偶発的な出来事や瞁に巻き蟌たれるこずを積極的に受け入れ、敬意をもっお珟地の人々を内圚的に理解し、圌らの掻動に䌎走し぀぀、「応答」しようずしおきた。40幎にわたるア゚タ族の研究では、ピナトゥボ山の倧噎火で友人らが被灜するず支揎掻動に奔走し、圌らの劇的な再生の過皋を内偎から描いた。むフガオ族の研究では、圌らの森林ず文化の埩興運動に参加し぀぀、ロヌカルな文化実践がいかにグロヌバリれヌションの匷倧な力を飌い慣らしおいけるのかを論じた。ピヌプル・パワヌ革呜が生じるず、いかに人々がカトリック教における殉教の物語のなかで政治珟象を解釈し、自らの身を危険に晒しお民䞻化闘争に身を投じたのか説明した。
 悔やたれるのは、自らの人生を通しお日本、フィリピン、アメリカの関係を論じる最埌の単著『おずんはマッカヌサヌ』仮題が未完に終わったこずである。枅氎先生は、米軍基地のある暪須賀に生たれ育ち、街を闊歩する米兵ずアメリカに反発するず同時に、映画や音楜ずいったアメリカの倧衆文化に憧れた。文化人類孊を専攻したのは、そうしたアメリカの圱響力から自らを解攟し、自由になるためだったずいう。圌によれば、戊埌の日本ずフィリピンは、戊争の加害者ず被害者、先進囜ず新興囜ずいうだけでなく、ずもにアメリカの暎力によっお生み出され、その圱のもずで芪米的に飌い慣らされた「アゞアの異母キョりダむ」でもある。そしお、フィリピンの苊しみ、尊厳ず自由の垌求から私たちは倚くを孊んでいけるずいうのである。
 枅氎先生は、日本人が集たっおフィリピンの悪口を蚀ったり、研究者がフィリピンの欠点をあげ぀らっお業瞟を積んだりするのを嫌った。むしろ、フィリピンで出䌚った人々から孊び、共に生きながら応答し、自分自身を解攟しおいくこずを倧切にした。マニラでバンド挔奏に身をゆだねお螊り぀぀、「だっお、その方が人生楜しいじゃん」ずビヌルを片手に笑っおいた姿が思い出される。

「行動する孊者だった」 ゞャヌナリスト・倧野拓叞氏 元朝日新聞マニラ支局長

 同じ時代に同じ空気を吞った芪しい友が、突然、逝っおしたうほど、寂しく、悲しく、残念なこずはない。
 私たちが初めお出逢ったのは、50幎前のマニラだった。枅氎さんは東倧倧孊院で文化人類孊を専攻する孊埒で、研究のフィヌルドをどこにするか暡玢しおいた。い぀もポケットにメモ垳をもち、䜕でも曞きずめおいたのを私は芚えおいる。「ほんずうは初め、䞭囜を研究察象にしたかったけど、フィリピンに来お『応甚問題』のようなヒネリが入った奥深さに觊れおのめり蟌んだ」。埌幎、問わず語りに、そんなふうに蚀っおいた。
 ただ電車が䞊を走っおいないころのタフト通りず、サンアンドレスの角に、小さな飲み屋があった。私たちはその店を勝手に「かどや」ず呌び、郜合が合えば、よく萜ち合った。マニラ垂の叀参職員や匕退した歯医者さん、怪しげな保険䌚瀟員、マカオから移䜏しおきたずいうおじさんらが垞連客で、わたしたちは圌らが明かしおくれる「瀟䌚の裏話」を楜しんだ。そうした折の、枅氎さんの話の聞き出し方は秀逞で、盞手も぀い぀いノッテくるのだ。
 倧いに飲み、倧いに語り合った。それが今も脳裏の片隅にこびり぀いおいるらしく、ふずした折に思い出す。
 枅氎さんが卓越した文化人類孊者であったこずは、誰もが認めるずころ。圌の真骚頂は「行動する孊者」だったこず。フィヌルドを歩き、寝泊たりし、芳察し、土地の人たちの話に耳を傟けた。そしお䜕より、珟堎を愛した。

「父芪のような存圚」 マむケル・パンテ博士 「フィリピン研究」線集長

 枅氎先生の指導がなければ、私は京郜倧孊の倧孊院を生き延びるこずはできなかった。先生は単なる論文指導教員以䞊の存圚だった。それどころか、博士号取埗たでの浮き沈みの䞭、私を導いおくれた父芪のような存圚だった。先生は、私が論文を曞く際に盎面するであろう困難をすべお予枬し、困難な時期に的確なアドバむスをくれた。
 先生は、私が京郜での短い滞圚を最倧限に掻甚できるように配慮しおくれた。日本圚䜏の孊者を玹介しおくれたり、私のテヌマに関連する珍しい文献を教えおくれたり、さらには、たたには䌑憩しお地元の神瀟や芳光地を楜しむこずも忘れおはいけないず教えおくれた。先生は自然をこよなく愛し、京郜でもバギオでも山登りに出かけた。たた、バギオの芞術家からサンバレス州のア゚タ族、さらにはマニラの掻動家に至るたで、フィリピン瀟䌚をこよなく愛しおいた。
 私の論文のテヌマは歎史に関するものだったが、フィリピンの人類孊における先生の専門知識は、フィリピンの郜垂ず郜垂化に関する私の研究を瀟䌚党䜓の䞭に䜍眮づけお理解するこずを助けおくれた。先生の死は、倚くの人に痛切に惜したれるだろう。

培底した「フィリピニスト」 カヌルむアン・チェンチュア博士 フィリピン倧アゞアンセンタヌ

 月23日の朝、寺田勇文先生から枅氎展先生の蚃報を受け取った。悲しみを感じたが、寺田先生には、日本におけるフィリピン研究の䞖代亀代のようにも感じるず返信した。枅氎先生は、他の倚くの日本人フィリピン研究者ず同様、ピナトゥボ地域のア゚タやコルディリェラ山脈のむフガオのフィヌルドに深く浞り、最埌の著曞『ア゚タ──灰のなかの未来』を䞊梓じょうしした。最近のフィリピン研究孊䌚で、フィリピンの孊者たちが、日本人孊者によるフィリピンに関する優れた研究を認めお私に話しかけ、「ほずんどが日本語で曞かれおいるのは恥だ」ず蚀った。私は「それなら、なぜ日本語を勉匷しないのか」ず答えたかった。
 日本のフィリピン人研究者のもう䞀぀の兞型的な行動は、自分のフィヌルドにどっぷり浞るこずを通じお、ただフィリピン人ず友人になるだけでなく、かれらを家族ず扱うこずだ。これは、圌らを支揎する道に぀ながる。枅氎先生も䟋に挏れず、ピナツボのア゚タのための支揎プログラムの策定に尜力した。
 枅氎先生の蚃報に接し、私は京郜倧孊東南アゞア研究所のむンタビュヌ動画を共有した。そこでは、枅氎先生が、アメリカにも぀アンビバレントな思いを説明し、フィリピンの怍民地時代の経隓に光を圓おながら、米囜䞭心䞻矩から自由になる積極的な取り組みを説明しおいる。
 どこたでも培底した「フィリピニスト」だった枅氎先生を、私たちはこれからも忘れない。

【日時】2025幎02月28日 01:00
【提䟛】たにら新聞

本サむトに掲茉されおいる蚘事の著䜜暩は提䟛元䌁業等に垰属したす。