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すべおは『プガゞャ』から始たった【新保信長】新連茉「䜓隓的雑誌クロニクル」冊目

子䟛の頃から雑誌が奜きで、線集者・ラむタヌずしお数々の雑誌の珟堎を芋おきた新保信長さんが、昭和平成のさたざたな雑誌に぀いお、個人的䜓隓ず時代の倉遷を絡めお綎る連茉゚ッセむ。䞀䞖を颚靡した名雑誌から、「こんな雑誌があったのか!?」ずいうナニヌク雑誌たで、雑誌ずいうメディアの面癜さをたっぷりお届け 今回は【冊目】「すべおは『プガゞャ』から始たった」をどうぞ。

『プガゞャ』こず『プレむガむドゞャヌナル』プレむガむドゞャヌナル瀟

【冊目】すべおは『プガゞャ』から始たった

 

 りチの実家は倧阪・梅田の食堂だった。倕食は基本的に店のメニュヌから遞んで食べるシステムで、぀たりはずっず倖食で育ったようなものである。そのぞんに぀いおは『食堂生たれ、倖食育ち』ベストセラヌズ2024幎に詳しく曞いたのでぜひお読みいただきたいが、その実家から埒歩分くらいのずころに「倧毎地䞋」ずいう名画座があった。

 本立おで孊生600円圓時。䞭孊高校時代、そこで数えきれないほど映画を芋た。『郵䟿配達は二床ベルを鳎らす』ず『カッコヌの巣の䞊で』ずいうゞャック・ニコル゜ン぀ながりのシブい組み合わせもあれば、『1941』ず『がんばれ!! タブチくん 激闘ペナントレヌス』なんお意味䞍明のカップリングもあった。

 䜕しろ家から近いので䞀番足しげく通った映画通であるこずは間違いないが、もちろんほかの映画通で芋るこずもある。ずはいえ、ほずんどが名画座で、料金の高い封切通で芋るのは幎に回。『未知ずの遭遇』やリバむバルの『2001幎宇宙の旅』などは奮発しお封切通で芋たものの、それ以倖は名画座だ。関西人以倖は名前を聞いおもピンずこないず思うけど、戎橋劇堎、千日䌚通、甲南朝日、森小路ミリオン、トビタシネマなど、いろんな映画通に足を運んだ。

 そうした名画座めぐりの際に、匷い味方ずなったのが『プレむガむドゞャヌナル』プレむガむドゞャヌナル瀟だった。いわゆるむベント情報誌の草分けで、1971幎の創刊。今なら映画や挔劇、コンサヌトなどに行こうず思ったら、むンタヌネットで日時や堎所を調べ、チケットもネットで賌入するのが普通だろう。が、ネットのなかった時代、そういう情報は新聞か雑誌でチェックするものだった。

 同じ71幎に東京では『シティロヌド』゚コヌ䌁画が創刊され、翌72幎には『ぎあ』ぎあが登堎するが、それらは倧孊進孊で東京に来おからの付き合いずなる。私が䞭孊に入孊した77幎には、倧阪で『京阪神マガゞン』神戞新聞出版センタヌも創刊された。しかし、私が遞んだのは『マガ』ではなく『プガゞャ』だった。 

 理由は぀あっお、たず倀段が安かったこずが䜕より倧きい。『マガ』が180円だったのに察し、『プガゞャ』は創刊からリニュヌアルしお刀型が倉わる83幎たで、ずっず100円ずいうワンコむン䟡栌で今の若い人は知らないかもしれないが、昔は消費皎などなく100円のものは100円で買えた、䞭高生の財垃にも優しかった。しかも、䞀郚の映画通ではプガゞャ持参で割匕きもあった。100円割匕を䞀床利甚すれば、それで元が取れたのだ。

 第二に、持ち歩きに䟿利なサむズず厚さ。『マガ』が刀の倧孊ノヌトサむズだったのに察しお半分ので120ペヌゞ皋床だったので、二぀折りにしおズボンの尻ポケットにも抌し蟌め、街を歩くための情報誌ずしおは最適だった。 

 そしお第䞉に――これが最倧の『プガゞャ』の魅力でもあるのだが――読み物ペヌゞが充実しおいたこずが挙げられる。号によっおは本来メむンであるはずの情報ペヌゞず同じくらいのボリュヌムがあり、内容も「ルポ・小人プロレス」「今、若者の文化ず暮しはひずり立ちしおいるか」「マリワナ裁刀レポヌト」ずいった硬掟な蚘事のほか、井筒和幞、川厎ゆきお、いしいひさいちなど連茉陣も個性的だった。もちろん曞評や音楜評もあり、ごった煮情報満茉の名物コヌナヌ「颚噂聞曞かぜのうわさのききがき」も読み応えがあった。

䜕でもアリのごった煮情報コヌナヌ「颚噂聞曞」。『プレむガむドゞャヌナル』プレむガむドゞャヌナル瀟1978幎月号p12-13より

 広告はラむブハりスやゞャズ喫茶、本や雑誌や映画関連のものが倚く、それ自䜓が情報だった。かねお぀食品珟カネテツデリカフヌズの広告で、䞭島らもが「埮笑家族」ずいう、およそ広告らしくない奇劙なマンガを描いおいたのも蚘憶に残る。

 䞀方の『マガ』は、あくたでも情報䞭心。むベントだけでなくタりン情報も扱い、〈最新レゞャヌ情報カタログ〉ず銘打たれおいた。創刊圓時は新聞瀟が母䜓ずいうこずもあっおか、幅広い情報をフラットに扱う感じで、良くも悪くも線集郚の独断ず偏芋が誌面に反映された『プガゞャ』ずはそこが違った。

 そんなわけで、䞭か䞭の頃には『プガゞャ』を毎月買うようになっおいた。『週刊少幎ゞャンプ』などのマンガ誌を別にすれば、自分の小遣いで継続的に賌読した最初の雑誌である。䞀番にチェックするのは映画のスケゞュヌルだが、買ったからには特集蚘事やむンタビュヌ、連茉も読む。䞭孊生にはよくわからない郚分もあったけれど、ずにかく䞖の䞭にはいろんな人がいお、いろんなこずを考え、いろんなこずをやっおいるのだずいうこずはわかった。

 それたでにもりチの食堂に眮いおある新聞や週刊誌などをちょこちょこ読んではいた。が、それら叀参の倧手メディアの蚘事はどこか遠い䞖界の話ずしお芋おいた気がする。片や『プガゞャ』は、䜜り手の肉声が聞こえおくるような身近さがあった。

 実際、読者ず䜜り手の距離は近かった。誌面だけでなく線集郚内に「フリヌマヌケット」のコヌナヌを蚭け、読者からの出品本、雑誌、チケット、シャツなどを売買する。むベント情報には「自䞻䞊映」「自䞻講座・講挔䌚」ずいった項目があり、「読者短評」ず名づけられた投皿欄では熱い議論が飛び亀う。さらにすごいのが「今月のプレれント」。䜕がすごいっお、埀埩はがきでの応募で圓遞通知を受け取った者は、プガゞャ事務所たで賞品を受け取りに行かねばならないのだ。

 かくいう私も、名画座の招埅刞を圓おおわりず圓たりやすい、取りに行ったこずがある。数癟円のチケットのために電車賃を払っお取りに行くのはどうなのかず今なら思うが、プガゞャ事務所を蚪ねるこず自䜓にワクワクした。奥付ペヌゞには事務所の手描き地図が茉っおいお、〈プレむガむドゞャヌナルの事務所ぞあそびに来おください〉ず、これたた手曞きで曞いおある。このミニコミ的手䜜り感が、『プガゞャ』の魅力のひず぀だった。

 手䜜り感ずいえば、「お詫びず蚂正」が充実しおいるのも『プガゞャ』の特城だ。毎号、びっくりするぐらいの数の「お詫びず蚂正」が茉っおいる。誀字脱字ならただしも電話番号や日付の間違いもけっこうあっお、情報誌ずしおあるたじき話だが、それがある皋床蚱された時代でもあった。

 線集埌蚘同誌では「線集雑蚘」ず称すや小さなコラム、読者投皿ぞの返答などからも䜜り手の顔が芋えおくる。“どこかの誰か”が䜜っおいるのではなく、“こういう人たちが、こういう考えで䜜っおいる”ずいうのが䌝わっおくる。そしお、自分も単なる受け手ではなくそこに参加しおいるような気がしおくる。それは必ずしも『プガゞャ』に限らず圓時のメゞャヌではない雑誌党般にいえるこずではあるけれど、自分にずっお雑誌ずいうメディアの面癜さに目芚めたのが『プガゞャ』だったのだ。

 今芋返すず、たさに圓時の関西若者文化の最先端が詰たっおいる。誌面に登堎した人物を既出の名前も含めおざっず挙げれば、笑犏亭鶎瓶、玳助・竜介、䞊田正暹、束本雄吉劇団維新掟、䞭川五郎、倧塚たさじ、友郚正人、いしいひさいち、川厎ゆきお、ひさうちみちお、䞭島らも、井筒和幞、倧森䞀暹、日䞋最䞀、森英二郎、糞川燿史  など。今や倧埡所だったり故人だったりもするが、圓時は新進気鋭であった。『プガゞャ』の自䞻䌁画で森田芳光や長厎俊䞀のむンディヌズ䜜品の䞊映䌚を開催したり、井筒監督の『ガキ垝囜』ではプレむガむドゞャヌナル瀟が補䜜に名を連ねたりもしおいる。

 そんな『プガゞャ』の衚玙に打たれおいたキャッチコピヌが〈街で生掻するひずぞのメッセヌゞず京阪神のむベントガむド〉。途䞭で「京阪神の」が削られたが、単なるむベント情報誌ではなく「メッセヌゞ」が蟌められおいたのである。ずいうか、そもそも誌名に「ゞャヌナル」ず入っおいるずおり、そこには確かにゞャヌナリズム粟神があった。

 しかし、81幎10月号で誌面がリニュヌアルされ、キャッチコピヌも〈街で生掻するひずたちの出䌚いずむベントガむド〉に倉曎される。〈衚玙の文句が象城的に倉えおありたすが、蚘事の方もいくぶん軜く、プガゞャ偎からの䞻匵ず毒気がうすくなっおあくたで読者の仲立ちずいう立堎に倉わったように芋受けたす〉ずいう目ざずい読者からのお䟿りに、就任したばかりの代目線集長・村䞊知圊氏は〈スタむルは軜くなっおも、こめるものの重みは倉わらない぀もりです〉ず返答しおいる。

村䞊知圊氏の線集長就任盎前号には橘川幞倫氏ずのメディアに関する察談が掲茉されおいた。『プレむガむドゞャヌナル』プレむガむドゞャヌナル瀟1981幎月号p108-109より

  思うに『プガゞャ』ずは、ひず぀の「堎」だったのだ。そこにさたざたな情報や人が集たり、そこから䜕かが生たれおくる。「䜕かをやりたい」ずいう若者たちが集い、情報亀換し、仲間を芋぀ける。そういう媒介メディアずしおの圹割を考えれば「メッセヌゞ」から「出䌚い」ぞの倉曎は、むしろ筋が通っおいる。 

 ただ、その背景にあった「“熱血”の70幎代から“シラケ”の80幎代ぞ」ずいう時代の倉化は芋逃せない。情報は求めおもメッセヌゞは求めない読者が増えおいた。リニュヌアル前の81幎月号に〈近頃、読者短評を芋おいお、女の子の投皿が増えおきたこずに、ビックリしおいたす。正盎蚀っお、こんな自分勝手で混沌ずした雑誌プガゞャを女の子がおもしろがっお読んでるなんお、信じられたせん。無理しおるなら、早くマガに切り倉えた方が、倉な病気にならずにすむず思いたす〉ずの投皿があったが、実際のずころ『プガゞャ』は『マガ』に抌され気味だった。芁は、䞖の䞭党䜓が“マガ化”しおいたのだ。

 そうした流れのなかで、『プガゞャ』はさらに倧きな転機を迎える。83幎月号をもっお、「平綎じ・100円」ずいう創刊以来のスタむルから「䞭綎じ・180円」ぞず倉身したのである。それはほかでもない、『マガ』のスタむルだった。

 その倉曎に぀いお、前出・村䞊氏は「䞀぀は広告察応のため。広告䞻が“『マガ』ず同サむズのほうが広告入れやすい”ずいうので笑。もう䞀぀は、では情報が入りきらなくなっおいた。かずいっおペヌゞを増やすず、印刷に時間がかかり、情報の締め切りが早くなっおしたう。そんなこんなで倉えたんですけどね」別冊宝島345『雑誌狂時代』ず述べおいる。

  それは苊枋の決断だったに違いない。読者の反応は賛吊䞡論だったが、やはり『マガ』远随には玍埗できない局が私も含め倚かったのではないか。その刀型倉曎からカ月埌、私は倧孊進孊のため倧阪を離れるこずになる。奜むず奜たざるにかかわらず、『プガゞャ』ずもそこでお別れずなった。

  その埌、『プガゞャ』は87幎12月号をもっお代目線集長・小堀玔氏以䞋、党スタッフが退瀟。翌月からたったく別の䜓制で発行されるも88幎月号で䌑刊ずなる。

  実家の食堂も倧毎地䞋も『プガゞャ』も今はもうない。いずれも最埌を芋届けるこずはできなかった。しかし、その぀のどれが欠けおも今の自分はなかったし、『プガゞャ』がなければ線集やラむタヌの仕事には就いおいなかったかもしれない。もちろん、こんな連茉もしおいない。すべおは『プガゞャ』から始たったのだ。

 

文新保信長

【日時】2024幎12月01日 17:00
【提䟛】BEST TiMES

本サむトに掲茉されおいる蚘事の著䜜暩は提䟛元䌁業等に垰属したす。