早稲田大学在学中にAV女優「渡辺まお」としてデビューし、人気を博すも大学卒業とともに現役を引退。その後、文筆家・タレント「神野藍」として活動し、初著書『私をほどく〜 AV女優「渡辺まお」回顧録〜』を上梓した。いったい自分は何者なのか? 「私」という存在を裸にするために、神野は言葉を紡ぎ続ける。新連載「揺蕩と偏愛」がスタート。#8「誰かと眠るのが、私にとって最良の睡眠薬。大人になっても夜が怖い理由」

◾️誰かの体温が私の意識をゆっくり溶かす
幼少期、家族四人川の字になって寝ていた。大きな和室にそれぞれの布団が並んでいて、私は部屋の中心にある照明の下に陣取っていた。照明の紐を引くのは私の役目で、皆が布団に入ったのを確認して明かりを消す。部屋が暗くなったのを合図に、「おやすみ」と言い合う。部屋が暗くなると、近くにいるはずの家族の気配が薄くなる。
私はどうしても最後に「おやすみ」と言うのが嫌だった。言った瞬間に、一人だけぽつんと取り残されるような気がしていた。頭からつま先まで布団で覆い、ぎゅっと目を瞑る。心臓の音だけが聞こえてくる。妙に音が大きい。すかさず隣で眠る母に、「ねえ、おやすみって言って」と駄々をこねる。母の声に満足をし、返事もせずに眠るのが常だった。
大人になっても夜が怖い。
誰かと眠るのが、私にとっての最良の睡眠薬だ。誰かが隣にいると、安心して身を任せられる。相手の体温に包まれて、自分の身体の境界が曖昧になる。意識がゆっくりと溶かされていく。
ただ、小さい頃からの習慣は大人になっても変わることがなかった。どうしても最後に言葉を発するのを恐れてしまう。何でもいいから話を続けようと、他愛のないような質問を投げかけてしまう。相手からの言葉に満足して、何かを続けることなく目を瞑る。きっと相手は疲れて眠ってしまったと思っているのだろう。
一人で眠るしかないときは、犬の温もりに触れていないと落ち着かない。かつ身体を布団でしっかりと覆い、横向きで丸まって寝る。セミダブルのベッドは空白だらけ。それでも目が冴えてしまうときがある。せめてと思って目を瞑ってみるも、一向に意識は落ちてくれない。静まり返った空気に耐えきれずに、何度も繰り返し観た映像を再生する。かろうじて言葉が聞き取れるぐらいの大きさで、人の声に耳を傾ける。誰かがそばにいるような気がして、心の騒めきが薄くなる。少しずつ話の内容を咀嚼できなくなっていく。目覚める頃には映像も音も途切れて、真っ暗の画面が取り残されている。
◾️東京という街から離れられない
先日、久しぶりに日付が変わってから帰宅した。タクシーの座席に身を任せて、窓枠の外に流れていく風景を眺める。どの道を通っても、数メートル先が見えないような暗闇に出会わない。東京の夜は眩しい。至るところから光が漏れ出し、人が存在している気配を感じる。雨で路面が濡れているからか、反射できらきらと光る。街が眠らずに、絶えず動き続けている。その事実は私を一瞬救ってくれるような気がした。だから、この街から離れられない。まやかしの眩しさに縋ってしまう。アルコールで溶かされた意識の中で、大きな存在に包まれている感覚があった。
タクシーを止め、足早に自宅を目指す。鞄に仕舞い込んだ鍵を取り出し、差し込む。ようやく家に着いた。ガチャリと鍵をかけた瞬間、小さな暗闇に閉じ込められた。光も音も切り離され、私だけが取り残される。先ほどまでの眩しさが遠い。空間を隔てることで、私の孤独の輪郭ははっきりとしてしまう。今日も一人の夜が始まるのか。いつも通りの日常を飲み込む。足元にはふわふわとした存在がすり寄ってくる音が、私を現実に引き戻した。しゃがみ込むと、何かを察したように顎のあたりを舐めてきた。犬のぬるい体温は私を縛り付ける気持ちを少しだけ解いた。
目を覚ますと、夜の私はどこかへ消えている。
カーテン越しに差し込む光を見ながら、私はそっと息を吐く。朝が来た。今日もちゃんと目を覚ました。あんなに怖かった夜が、もう遠くに感じられる。昨夜の恐怖などなかったように、淡々と日常を始める。隣で眠る相手に話かけることなく、そっとベッドから抜け出す。相手に気を遣っているからではない。私の朝を独り占めしたい。だから、起こさない。すやすやと夢の中にいる様子を見て、ほっと胸を撫で下ろす。
朝の私は、夜のことを忘れる。夜の私は、朝が来ることすら信じられない。
何回も繰り返しているはずなのに、何もなかったように記憶が真っ白に塗り替えられる。毎日死んで、毎日生まれ変わっているみたいに。また今日も夜がやってくる。ながいながい一人の夜が。
文:神野藍
※連載「揺蕩と偏愛」は毎週金曜日午前8時配信