🎤 芸能ニュース

『今夜すきやきだよ』（新潮社）

　「普通の恋愛」「普通の結婚」「普通の家族」——「ごく当たり前で、ありふれている」という、一見あまり害のなさそうな「普通」という言葉や価値観に、囚われ、苦しめられ、傷つけられている人がいる、そんなふうに思ったことはあるだろうか。まさに日々そう感じているという人にも、あるいはそんなことはまったく考えたことがないという人にも、ぜひ手にとってみてほしい物語がある。

　谷口菜津子さんの漫画『今夜すきやきだよ』（新潮社）は、それぞれの人生に悩みを抱えたアラサー女子の二人が、「理想の結婚相手」が見つかるまでの間一緒に暮らすことになる、という物語だ。主人公の一人「あいこ」は、仕事は充実していて結婚願望もあるけれど、家事が壊滅的に苦手で嫌いなために「家庭的な奥さん」を理想とする彼氏とすれ違い気味。もう一方の「ともこ」は、家事は得意だが仕事はあまりうまくいっておらず、恋愛や結婚をしたいという気持ちがよくわからない、という女性だ。

　タイトルにもある通り、この作品は毎話ともこが作る美味しそうな夕飯を二人で食べる場面が、物語の中心にある。絵のテイストもポップで楽しく読める作品でありながら、恋愛や結婚・家族をめぐる「普通」や「そういうもの」という世間一般の価値観に、知らず知らずのうちに自分や誰かが苦しめられていることに気づかされ、立ち止まって考えるきっかけや、そこから自由になるための手がかりをもらえるような内容になっている。

誰もが苦しめられている「普通」

　物語を読み進めていくと、一見正反対に思えるあいことともこは、社会や周囲から押し付けられる「普通の結婚」や「普通の幸せ」という価値観に、それぞれ違った形で苦しめられていることがわかってくる。

“私の理想の結婚って　一生バリバリ働いてめっちゃ稼いで
掃除洗濯家事全般は誰かにお任せして　お互いの健康状態を確認し合いながら
できれば長生きして心身ともに支え合うことなんだろうな　
それと一生お互いに恋していたい！“
（第３話「モツ焼き屋で語る理想の結婚」）

　そんな結婚の在り方や生き方を理想とするあいこは、今の彼氏である「ゆき」のことは恋人として大好きだ。けれども、「たまには料理作ってよ」「お前と結婚したら一生奥さんの手料理食べれないってことでしょ　それって悲しい」と、まったく料理をしない自分のことは棚に上げ、当たり前のように彼女に料理や家事をやることを期待してくる“伝統的”な価値観を持つ彼に、違和感やいらだち、抱かなくてもいいはずの罪悪感を感じてもいる。

　一方のともこは、昔から恋愛感情が希薄で、「お嫁さんにもお母さんにもなりたいって自然に考えられない」と思いながら生きてきた人だ。元々凝り性な性格で、自分がただ好きで作ったお弁当や料理を見た友人や知人から「いい奥さんになれるよ」「いいお母さんになれるよ」と何度も言われてきたことに、“褒め言葉”だとは知りつつもモヤモヤとした気持ちを抱えてきた。

　恋愛や結婚をしたいという気持ちがないからしていないだけなのに、「まだ運命の相手に出会ってないのかも」と“親切心”で出会いの場をセッティングされてしまったり、「恋愛にあまり興味がない」と話すと、「そんな人いるわけないじゃないですか」「あんま他人に興味なさそうですもんね　情薄いっていうか」と、悪意なく自分を否定されるような言葉を投げかけられ、日々少しずつ、着実に心をすり減らされている。

対話と尊重をベースとした無理のない共同生活

　そんな二人が、元婚約者にフラれたばかりで／収入が減ってしまって、心や生活がギリギリだったときに始めた共同生活は、二人にとって予想以上に楽しくて心地よくて満たされた、他には代え難いほど大切なものになっていく。そして二人の暮らしの在り方から、私たち読み手が気づかされることが数多くある。

　あいことともこの二人の暮らしが心地いいのは、さまざまな面で互いに無理がないからだ。たとえば、収入には余裕があるものの家事が苦手で苦痛なあいこと、収入に不安があるが料理や家事が得意で好きなともこは、家事をともこがやる代わりに、家賃はあいこが８割負担している。お互いに自分の得意な領域を担当し、苦手な部分を補い合うことで、自分一人ではできない心地よく豊かな暮らしを叶えてくれる相手のことを素直に尊敬し、思いやり、感謝し合う。それは、あいこの彼氏であるゆきが、家事が苦手で嫌いなことを知っていながら、それでも「彼女なら普通はやってくれるもの」と一方的に性別に基づく役割を期待し、そのことにあいこが苦しめられているのとは対照的だ。

　また、恋愛をするのが当たり前なあいこが、そうではないともこに対して自分の「普通」を押し付けようとしてしまったとき、ともこははっきりとこう伝える。

“あいこちゃん　自分が思ってるより偏見すごいよ”
“私『普通』とか『そういうもん』って言葉　大っ嫌い！”
（第４話「肉まんと男女の友情」）

　それぞれの個人にとっての「普通」や世間一般の「そういうもん」という価値観を押し付けられることに対して違和感や疑問を感じたら、どちらか一方が黙って我慢するのではなく、その都度きちんと対話をして折り合いをつけ、問題を解決していく。だから、そんな二人が築きあげる共同生活の在り方は、互いに無理がなく、快適で心地よいのだ。

　そして、それは当然、異性愛カップルのあいことゆきの関係性にも当てはまる。互いの結婚観や相手に求めるものに相違があることによってケンカやすれ違いが起こっても、具体的な対話をせずに恋愛的な「好き」という気持ちだけで解決した気になり、根本的な問題がいつまでも残ったままになっている二人に対してともこが放つ言葉は、人と人との健全で良好な関係性を築く上での、核心を突いているように思える。

“問題が起きたらちゃんと話し合って答えを出して前に進まなきゃ”
“何で怒ってるかちゃんと聞いて！で相手がどんな気持ちか想像して！”
（第６話「手料理と洗い物」）

　ともこの言葉をきっかけに、「結婚」や「共に生きること」について一つ一つ具体的に対話や思考や実践を重ねていくことで、あいこ、ゆき、そしてともこの3人は、世間から「これが普通」「そういうもの」と提示されるものではなく、自分たちが本当に求めている、互いにとって理想的な暮らし方が、次第に見えてくるようになる。

　そんな三人の姿から導き出されるのは、人と人との関係性や共に生きる在り方には、自明で絶対的な正解やルールなどはなく、常に互いの対話と尊重をベースに、自分と相手の気持ちをすり合わせながら、手探りで作り上げていっていいはずのものである、ということだ。

『恋せぬふたり』が描く「家族」の在り方

　今年の1-3月にNHKで放送していたテレビドラマ『恋せぬふたり』でも、「アロマンティック・アセクシュアル」（他者に対して恋愛感情を抱かない恋愛指向・性的感情を抱かない性的指向を指す言葉）である兒玉咲子（岸井ゆきの）と高橋羽（高橋一生）の二人が、恋愛感情も性的接触もなしの同居生活をしながら、自分たちなりの“家族（仮）”としての生き方を模索していく姿と、周囲の人々との葛藤や対話が描かれている。

　自身のセクシュアリティを理由に、「普通の恋愛」も「普通の結婚」も「普通の家族」も、よくわからないししっくりこない咲子と高橋の間には、男女や恋愛規範にもとづく「当たり前」は何一つ存在しない。二人は家賃や料理や洗濯は誰がどのようにやるかを一つ一つ話し合って決め、お互いが嫌な気持ちにならないために性的指向や恋愛指向についてのアンケートに答えて共有する。「一緒にいて不快か快適か、そもそも一緒にいる意味はあるのか」という感覚の確かめあいを行ないながら、どこまでも丁寧に誠実に、互いが一番心地よいと思う関係性や共生の在り方を探そうとする。

　自分たちなりに必死で幸せに生きられる関係性や生き方を手に入れようとしている二人に対して、「恋愛感情のない男女が家族になる理由ある？」「そういうの全然納得できない！」と多数派の価値観を押し付けて一方的に批判してくる親や周囲に高橋が返した言葉は、強く胸を打つものだった。

“なら納得も理解もしなくていいんじゃないんですかね。ただ、なんでこういうときって、こういう人間もいる こういうこともあるって話終わらないんですかね。僕たちは僕たちなりに、幸せな家族というものを作れるかどうか、試してるんです。”（第２回）

　これらの作品を読んだり見たりした時、人によってはなんだか責められているように感じたり、登場人物たちの感情や感覚や選択を「理解できない」と思ったりするかもしれない。しかしその一方で、「恋愛感情に依らない、『恋人』『夫婦』『友人』といった既存の言葉や概念では表すことのできない他者との関係性や共生の在り方を肯定し言語化してくれるようなこんな物語が、ずっと読みたかったし見たかった！」と思う人が、きっと間違いなく存在している。涙を流しながら、救われ勇気づけられるような気持ちで、これらの物語を大切に受け止めている人たちが。他者への恋愛感情や性的感情が希薄で、他者に対する「好き」の感情の違いを明確に区別することのできない恋愛・性的指向を自認して生きている私自身も、まさにそんな一人だ。

多様な「家族」や「共生」の在り方

　恋愛感情で繋がる男女のカップルのことだけを「正しくて最も重要かつ特別な関係性」であり「家族」とみなすような価値観や規範が強いこの国では、私たちに提示されている「家族」や「誰かと共に生きる在り方」の選択肢とそれを表す言葉や物語は、まだあまりにも少ない。異性間の結婚しか認めず、同性カップルを含む多様な「家族」の在り方を否定するような現状の法律・制度にも、大きな問題がある。

　けれども、選択肢が少ないことで苦しめられているかもしれないのは、なにも少数派の恋愛・性的指向を持った人々に限らない。「普通の恋愛」や「普通の結婚」をしていると思っている人の中にも、実は自分自身を社会や周囲が定義する枠の中に押し込め、「そういうものだから」「仕方がない」と、本当は感じている違和感や苦しさから目を背け、諦めている人もきっといるはずだ。

　『今夜すきやきだよ』の中でも、性別やセクシュアリティを問わず、さまざまな次元やレイヤーで「普通」の価値観によって生きづらさを抱えている人たちの姿が描かれており、自分が見て見ぬふりしてきた自身の抱く苦しさや葛藤に、あらゆる人が気づくきっかけも散りばめられている。

　一緒に暮らすことにこの上ない心地よさや共に生きていく心強さを感じて、二人の共同生活を互いに大切に思っている、あいことともこ。そして、恋愛的に愛し合いパートナーとして大切に思い合っているものの、生活スタイルにはやや齟齬を感じている、あいことゆき。そんな三人は、物語の中で最終的に、自分たちにとって一番心地よくてしっくりくる理想的な生き方として、決して「普通」とは言えないであろう、ある“新しい道を切り拓く”ことになる。

　その“新しい道”を目にしたとき、私が真っ先に思い浮かべたものがある。それは、「クワロマンティック宣言　『恋愛的魅力』は意味をなさない！」（『現代思想』2021年9月号　特集＝＜恋愛＞の現在　青土社）という論考の中で、社会学研究者の中村香住さんが語っていた「重要な他者」という言葉であり概念だ。

　「クワロマンティック」とは、一般的に自分が他者に抱く好意が友情か恋愛感情かを区別できないと感じる恋愛指向を指す。その「クワロマンティック」を自認する人が、世間一般でいう「恋人」でも「（ただの）友達」でもない、自分の人生にとって特に大切な人たちを定義し表すための言葉として、当事者でもある中村さんが用いているのが「重要な他者」という名前である。

　この論考の中で指摘されているように、恋愛をするのが当たり前とされる社会の中では、既存の言葉やカテゴリーに当てはまらない他者との関係性が、本人たちにとってとても重要なものであることが、外からは理解されにくい。だからこそ、まさにともことあいこ、あるいは『恋せぬふたり』の咲子と高橋は、自分たちにとって大切で心地よい関係性の在り方を周囲からなかなか理解してもらえず、困難や葛藤にぶつかることが多いのだ。

“（…）私にとっての「重要な他者」は、「一緒に歩く」という実践を何らかの形でしたいと自分が思う相手のことかもしれない、と思う。相手によって「一緒に歩く」の内実も「一緒に」が指す距離感もさまざまであるし、その実践には常に困難がつきまとっていてその調整を日々行う必要があるが。” （『現代思想』p.68）

　作品を未読の方にも、この物語の結末はぜひ自分の目で見届けてほしいと思うため明言は避けるが、中村さんが論考の最後で自身の「クワロマンティック実践」について綴るこの言葉は、まるで『今夜すきやきだよ』の三人の選んだ生き方や想いをそのまま表しているかのようで、少し驚く。

　私のようなクィアな人間にとって、中村さんが示してくれた「重要な他者」という言葉や概念は、既存の枠組みにあてはめることのできない不確かで曖昧な自身の感覚や感情に、より確かで心強い輪郭を与えてくれるものだった。それと同じように、『今夜すきやきだよ』の三人が選びとり実践する関係性や共生の在り方は、世間一般の価値観に囚われることなく、より自身の感覚や感情に寄り添い尊重しながら、自分の大切な人たちと共に生きていく方法や選択肢を、はじめて具体的なイメージとして見せてくれているように感じられるものなのだ。

　作者の谷口さんは、“この物語を読んで、新しいと感じる人もいれば古いと感じる人もいると思います。おとぎ話だと感じる人もいるはずです。”とあとがきで語っている。残念ながら今の日本では、まだ多くの人にとって、この物語は「新しい」という感覚を与えるものであるに違いない。けれども、ここに描かれている登場人物たちの選んだ生き方や関係性の在り方が決して「おとぎ話」であってほしくはないし、さらによりよく、より多様な在り方や生き方があることが当たり前となるように、これから私たちみんなが、とりわけ世間や社会の側が「普通」の幅を広げ、更新し続けていかなければならないだろう。

　ともことあいことゆきが手探りで選び、示してくれる“新しい道”に、勇気や希望や気づきをもらう人はきっと多いはずだ。まさにその一人である私自身も、「結婚」や既存の言葉で表される関係性の在り方に対する自分の中の違和感や葛藤から目を背けたくないし背けなくてもいいのだと、強く思った。そしてこの三人のように、自分が本当に納得できる在り方を見つけられるまで考え続け、時に勇気を出して大切な人たちと対話をしながら、多少不器用でも苦しくても自分なりの道を模索することを諦めずに生きていきたいと、今気持ちを新たに、そう思っている。この物語を必要とする一人でも多くの人のもとへ、どうかこの物語が届きますように、と願いながら。

『今夜すきやきだよ』（新潮社）