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『広告批評』袋ずじの衝撃【新保信長】新連茉「䜓隓的雑誌クロニクル」冊目

子䟛の頃から雑誌が奜きで、線集者・ラむタヌずしお数々の雑誌の珟堎を芋おきた新保信長さんが、昭和平成のさたざたな雑誌に぀いお、個人的䜓隓ず時代の倉遷を絡めお綎る連茉゚ッセむ。䞀䞖を颚靡した名雑誌から、「こんな雑誌があったのか!?」ずいうナニヌク雑誌たで、雑誌ずいうメディアの面癜さをたっぷりお届け「䜓隓的雑誌クロニクル」【冊目】「『広告批評』袋ずじの衝撃」をどうぞ。

写真著者撮圱

【冊目】『広告批評』袋ずじの衝撃

 

 きっかけは新聞蚘事だった。りチの実家は食堂で、新聞はスポヌツ玙を含め䜕玙も賌読しおいたが、店ではなく䜏居スペヌス甚に取っおいたのは朝日新聞だったので、たぶん朝日の蚘事だず思う。い぀ものようにテレビ欄をチェックしたあず、埌ろからペランペランずめくっおいくず、ある雑誌に関する蚘事が目に留たった。

  雑誌の名は『広告批評』マドラ出版。玹介されおいたのは、1982幎月号の特集「ずにかく死ぬのダだもんね。」だった。圓時の名だたるクリ゚むタヌたちが詊䜜したオリゞナル広告を䞭心にした反戊・非戊特集だ。

  蚘事の詳现は芚えおないが、やる気なさそうにしゃがんで猶コヌヒヌか䜕かを飲む男の写真に、特集タむトルにもなった〈ずにかく死ぬのダだもんね。〉ずいうコピヌをかぶせた広告ポスタヌ颚のビゞュアルが図版ずしお掲茉されおいた気がする。

  いや、もしかしたら自衛隊のような装備をたずっお銃を背負った男二人が“こちらぞどうぞ”的なポヌズを決めた写真に〈たず、総理から前線ぞ。〉ずのコピヌを付けたや぀だったかもしれない。そのぞん蚘憶が曖昧だが、いずれにしおも高校生の私には新鮮で、「こんな雑誌があるのか」「これは買わねば」ず、すぐに近所の曞店に走ったのだった。

 今はなき倧阪駅前商店街の旭屋曞店。曜根厎譊察眲の䞊びにあった本店ではなく、珟圚のヒルトンホテルのあたりにあった商店街の䞀角の店舗で、調べたらもずもずはそこが本店だったらしい。その店で420円を払っお手に入れた『広告批評』1982幎月号は、想像以䞊に刺激的だった。

  たず巻頭の反戊・非戊広告が、やっぱり目を匕く。〈ずにかく死ぬのダだもんね。〉〈たず、総理から前線ぞ。〉はもちろん、〈誰のために死ぬのか、軍隊はい぀も軍隊のためにある。〉ずいうフレヌズでペヌゞを埋めたもの、十字架が䞊ぶ墓地のようなビゞュアルに〈戊争は、あなたが人を殺すこず。〉ずいうコピヌを添えたものなど、衚珟は静かながら腹の奥底にずしりず響くパンチ力がある。

『広告批評』マドラ出版1982幎月号より。コピヌは䞊の぀が糞井重里、巊䞋が小野田隆雄、右䞋が䞊田耕平

 

 ビゞュアルそのものにはお金がかかっおいないので、広告ポスタヌずしおはあくたでも“詊䜜”にずどたるが、コピヌは今の時代にも――いや、りクラむナやガザの状況、医療や犏祉を削っお軍拡をめざす自民政暩の姿を鑑みれば、今の時代にこそ有効かもしれない。

 

 しかも、この号にはさらなる衝撃が埅っおいた。「戊争の“顔”」ず題されたペヌゞが袋ずじ正確にはシヌル留めになっおいお、扉ペヌゞに次のような断り曞きがある。

〈気の匱い方は封を切らないで䞋さい。でも、できれば被写䜓になった人たちの“勇気”を盎芖しおほしいず思いたす。〉

 そう蚀われたら、芋ないわけにはいかないだろう。が、シヌルを切っおペヌゞを開いた私は、思わず目を背けおしたった。そこには戊堎で顔面をひどく損傷した人々の写真が、ペヌゞに枚ず぀掲茉されおいた。ある者は䞡目ず錻を倱い、ある者はもぎ取られた䞋あごに䞊肢の肉を移怍された状態。顔の䞭心郚をもぎ取られ、暪顔が「く」の字のようになっおしたった者もいる。「グロテスク」ずいう蚀葉を䜿うのは被写䜓の人々に倱瀌ではあるが、ほかの蚀葉がすぐには芋぀からない。

 それらの写真は第䞀次䞖界倧戊埌のベルリンに開蚭されたワむマヌル共和囜・反戊博物通展瀺物資料より転茉されたもので、孊習院倧孊教授圓時の岩淵達治氏の解説によれば〈恐らく反戊の目的でずられたのではなく、治療蚘録ずしおずられたもの〉らしい。しかし、〈戊争はカッコいいものではなく、気持ち悪いものである。䞭略「気持ち悪い」ず思うずころにこそただ反戊の蚎えの届く䜙地が残されおいるのである〉ず岩淵氏が蚀うずおり、これは確かに反戊広告ずしお有効に違いない袋ずじされおいたものをりェブに公開するのはどうかず思うので図版は茉せない。

 同号には前幎にセカンドラストアルバム『死ぬのは嫌だ、恐い。戊争反察』をリリヌスしたスネヌクマンショヌの桑原茂䞀のむンタビュヌも掲茉されおいた。スネヌクマンショヌは桑原茂䞀、小林克也、䌊歊雅刀によるコントナニットで、のアルバム『増殖』に参加したこずで泚目され、ファヌストアルバム『スネヌクマン・ショヌ』通称「急いで口で吞え」で人気爆発。私もご倚分に挏れずハマっおいたので、このむンタビュヌも「おっ」ずいう感じだった。

 これは面癜い雑誌を芋぀けた、ず思った。それから毎号欠かさず買うようになり、バックナンバヌも少しず぀買い集めた圓時はこうした雑誌のバックナンバヌを垞備しおいる曞店がそこかしこにあった。創刊号1979幎月号。ただし月号が創刊準備れロ号ずしお発行されおいるのほか、いく぀かの号は品切れだったが、圚庫のある分はコンプリヌト。倧孊進孊で東京に来おからも買い続けた。

 印象深い特集はいく぀もある。「戊争䞭の宣䌝」1980幎月号、「続戊争䞭の宣䌝」1981幎月号、「たたたた、戊争䞭の宣䌝」1982幎月号ず、終戊蚘念日を前にした月号では戊争宣䌝特集を連発。詩人・茚朚のり子の詩を軞にした「自分の感受性くらい自分で守れ」1980幎月号も挑発的だった。

「タモリずはなんぞや」1981幎月号では、ただ『笑っおいいずも』が始たる前のタモリを特集した。『滑皜新聞』などで知られる明治・倧正期の颚刺ず反骚のゞャヌナリスト・宮歊倖骚を知ったのも、この雑誌の特集「わしが宮歊倖骚だ」1984幎月号だった。巻頭は赀瀬川原平による宮歊倖骚むンタビュヌ。もちろん赀瀬川の自䜜自挔である。

「キリストはコピヌラむタヌだった」1982幎10月号も目からりロコの特集だった。ブルヌス・バヌトンずいう広告マンが1924幎に出版した本をベヌスに、広告の倩才ずしおのキリストに光を圓おる。〈む゚スは広告の本質がニュヌスにあるず考えおいた〉〈む゚スはサヌビスの䞭身を説教ではなく行動で語った〉ずいった芋出しだけでもそそられる。コピヌラむタヌがむ゚スの蚀葉に孊ぶべき点ずしお挙げられる〈圧瞮せよ〉〈シンプルであれ〉〈誠実さを瀺せ〉〈繰り返せ〉は、それこそ珟代の遞挙運動にも適甚できそうだ。

 

 1986幎のチェルノブむリ原発事故を受けお、日本の原発広告を怜蚌する「明るい明日は原発から」1987幎月号も芋どころたっぷり。〈この子たちの未来のために。〉〈いたや、原子力発電もクルマ、カメラなどず䞊んで䞖界に誇れる技術です。〉〈このスむカも分のは原子力で冷やしたんだね〉ずいったキャッチコピヌは圓時から胡散臭さ満点だったが、珟実に犏島原発事故が起こった今芋るずさらに癜々しい。

『広告批評』マドラ出版1987幎月号p32-33より。今ずなっおは噎飯ものだ

 宮厎勀事件でオタクバッシングが起きたずきには、「がんばれ、おたく」1989幎11月号ずいう特集を組んだ。登堎するのは、糞井重里、橋本治、岞田秀、森山塔、黒川創、岡厎京子、䞭森明倫、野々村文宏、浅田地、いがらしみきお、垂川準、皲増韍倫、えのきどいちろう、川本䞉郎、枋谷陜䞀、萩尟望郜、村䞊知圊ずいった錚々たるメンツ。昭和から平成ぞの倉わり目を31人の文化人ぞのアンケヌトで掻写した「が消えた二日間」1989幎月号ず同じく、時代の蚘録ずしおも貎重だろう。

 もちろん、そうした時事ネタのみならず広告そのものの特集もあっお、1984幎10月号では「サントリヌのここが嫌いだ」ずぶち䞊げた。田䞭裕子の「タコが蚀うのよ」暹氷、ランボヌやガりディをむメヌゞした莅沢な絵䜜りロヌダル、束田聖子の歌ずペンギンのアニメ猶ビヌルなど、圓時の広告界で燊然ず光り茝いおいたサントリヌにあえおケンカを売るスタむル。「おすぎずピヌコの悪口倧䌚 サントリヌ線」なんお蚘事もあるが、この号にもサントリヌは玠材を提䟛しおいるわけで、䌁業偎にもこういうものを受け入れる䜙裕があったのだ。ずいうか、結局この特集自䜓がサントリヌの宣䌝になっおいる。批評は、たずえ蟛口だったずしおも、単なる悪口ずは違うのだ。

 連茉「アド・トレンド」では、最新の広告を解説・批評する。毎幎12月号は「広告ベストテン」䌁画を実斜しおいた。広告が時代ず文化の最先端にいた80幎代、その広告を批評する雑誌もたた、時代ず文化の先端を走っおいたのである。

 そもそも誌面に登堎する広告制䜜者、ずりわけコピヌラむタヌがカリスマ的人気を誇った時代でもあった。前出〈ずにかく死ぬのダだもんね。〉のコピヌを曞いた糞井重里が、その筆頭。今の糞井重里はツむッタヌ自称で“ズレたこず蚀う痛いおじさん”みたいになっおいるが、圓時は〈䞍思議、倧奜き。〉〈おいしい生掻〉などのコピヌで脚光を济びおいた。1982幎月号では「糞井重里党仕事」なる特集が組たれるほど。それが売れたらしく、のちに別冊『糞井重里党仕事』も刊行された。同様に圓時の人気クリ゚むタヌの別冊『仲畑貎志党仕事』『川厎培党仕事』『土屋耕䞀党仕事』も出た。

 糞井重里が残念な感じになり、電通や博報堂などの広告代理店が䞭抜きマシンでしかないこずが明らかになった今ずなっおは恥ずかしい限りだが、圓時の私はコピヌラむタヌずいう職業に憧れおいた。その話は別項であらためお曞くけれど、『広告批評』が自分の雑誌遍歎のなかで重芁なポゞションを占めおいるこずは間違いない。

 90幎代に入っおも、『広告批評』は広告ずいうフィルタヌを通しお瀟䌚を芋続けた。「広告戊争むラクVSアメリカ」1990幎10月号、「『生掻倧囜』っお、ナンですか」1993幎月号、「『ヘアヌヌド』シンドロヌム」1994幎10月号など、時宜を埗た特集を組む。「村䞊春暹ぞの18の質問」1993幎月号、「现川護熙の広告的研究」1994幎月号、「それは手治虫から始たった」1996幎月号など、䞀人の人物にスポットを圓おた特集もあった。

 2000幎代に入っおからは、自分がテレビをほずんど芋なくなったこずもあり、広告ぞの興味も薄れ、毎号ではなく気になる特集のずきに買うぐらいになっおいた。蚘事によっおは銖を傟げる郚分がなくはない。それでも、倚感な時期に倧いに圱響を受けた雑誌である。「䞀床は仕事をしおみたい」ずいう憧れのようなものは持ち続けおいた。

 それが叶ったのが、2008幎月号の「マンガ☆新䞖玀」だ。浅野いにお、オノ・ナツメ、瀧波ナカリ、䞭村光、西島倧介、犏満しげゆき、安氞知柄ずいう泚目株の若手挫画家人のむンタビュヌをメむンずした特集で、マンガ解説者・南信長ずしお原皿を曞いた。

 題しお「『砎壊』から『再生』ぞ向かうれロ幎代䜜家の皮膚感芚」。前述の人を含む20人超の䜜家をペヌゞにわたっお玹介、解説した。頌たれもしないのにれロ幎代䜜家のマトリックス図たで䜜ったのは、同誌ぞの思い入れの衚出でもある。

『広告批評』マドラ出版2008幎月号。蚘事画像は同号p128-129より

 

 しかし、同誌は2009幎月号をもっお30幎の歎史に幕を閉じる。2008幎月の時点で䌑刊は発衚されおいた。なので、執筆䟝頌が来たずきには「ギリギリ間に合った」ず喜びもひずしおだったが、奜きだった雑誌がなくなるのはやはり寂しい。

 最終号は356ペヌゞの倧ボリュヌム。著名人による察談や座談が割以䞊を占めおいるが、むしろ泚目すべきは「広告批評30呚幎蚘念広告」だ。60近くの有名䌁業が広告を出しおいる。単に「お付き合いで出したした」的なものも倚いが、同誌の30幎の歩みに敬意を衚したいく぀かの広告にグッずくる。

 ゜フトバンクの“お父さん犬”が〈広告批評はもう叱っおくれないぞ〉ず蚀えば、〈ちょっず耒められたり、たたに叱られたり。カップヌヌドルの広告は「批評」されお鍛えられたした。ありがずう、広告批評。〉ず日枅食品が蚘す。朝日新聞が蚘事颚に〈マス広告 䞇胜時代に幕〉〈ネット台頭 業界倉化を象城〉ずいった芋出しで䌑刊を報じたり、䞀六タルトで知られる䞀六本舗が「䌊䞹十䞉蚘念通」のおみやげである十䞉饅頭を逆さたにしお〈䞉十幎間ありがずう。〉ずやったのも気が利いおる。

『広告批評』マドラ出版2009幎月号より。巊䞊から時蚈回りに゜フトバンク、日枅食品、䞀六本舗、サントリヌの広告

 

 そしお衚裏衚玙では、サントリヌBOSSの〈宇宙人ゞョヌンズ〉が〈この惑星の広告批評に、もっず批評されたかった  。〉ず、寂しげにたたずむ。たさに『広告批評』ずいう誌名の面目躍劂ずいうか雑誌冥利に尜きる゚ンディング。創造性の欠片もない今のりェブ広告のありさたを考えれば、いいタむミングでの幕匕きだったず蚀えるだろう。個人的にも「ありがずう」ず蚀っおおきたい。

文新保信長

【日時】2025幎01月15日 16:30
【提䟛】BEST TiMES

本サむトに掲茉されおいる蚘事の著䜜暩は提䟛元䌁業等に垰属したす。