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バブルの混沌ず『』ず『03』【新保信長】新連茉「䜓隓的雑誌クロニクル」14冊目

子䟛の頃から雑誌が奜きで、線集者・ラむタヌずしお数々の雑誌の珟堎を芋おきた新保信長さんが、昭和平成のさたざたな雑誌に぀いお、個人的䜓隓ず時代の倉遷を絡めお綎る連茉゚ッセむ。䞀䞖を颚靡した名雑誌から、「こんな雑誌があったのか!?」ずいうナニヌク雑誌たで、雑誌ずいうメディアの面癜さをたっぷりお届け「䜓隓的雑誌クロニクル」【14冊目】「バブルの混沌ず『』ず『03』」をどうぞ。

写真著者撮圱

【14冊目】バブルの混沌ず『』ず『03』

 

 教科曞的に蚀うならば、バブル景気ずは1985幎のプラザ合意を契機ずした円高ず金融緩和に始たり、日経平均株䟡が最高倀圓時を蚘録した89幎末をピヌクずしお、90幎月の䞍動産融資芏制からの倧幅か぀連鎖的な地䟡䞋萜が起こった91幎をもっお厩壊した、ずいうのが定説だ。

  私が䌚瀟員だったのは1987幎月から91幎月たでなので、もろにバブル景気ず重なっおいる。日本䌁業が海倖資産を買い持り、六本朚や湟岞にオシャレスポットが乱立。䞖の䞭党䜓がむケむケで、街は深倜たで掻気があった。蚌刞䌚瀟に就職した同玚生からは幎目の倏のボヌナスが100䞇円以䞊出たずいう話も聞いた。が、こちずらひたすら安月絊のハヌドワヌクで、バブルの恩恵を受けた蚘憶はたったくない。あるのは、深倜残業埌にタクシヌが党然぀かたらなかった思い出だけだ。

 ずはいえ深倜垰宅のタクシヌ代が出たこず自䜓、バブルの恩恵だったのかもしれない残業代は出なかったが。そしお、これもたたバブルの恩恵だったなず思うのが、趣味性の高いヘンな雑誌がいく぀も䞖に出たこずである。

 そのひず぀が、『』ワヌルドフォトプレスだった。創刊は1988幎1989幎月号。圓初のキャッチコピヌは「ビゞネストレンダヌのための自分開発マガゞン」で、『ダむム』小孊通1986幎創刊や『日経トレンディ』日経1987幎創刊の路線を狙ったものず思われる。それが1990幎月号でリニュヌアル。キャッチコピヌはそのたただったが、内容的には同じ版元の『モノ・マガゞン』の高玚版ずいうか“モノの文化誌”のような雑誌になった。

 リニュヌアル号の第特集は「たばこの研究――すべおが灰になる蕩尜の快感」。今ではありえないテヌマだが、サブタむトルからもわかるように、たばこの文化的偎面を捉えた䌁画で、たばこのある颚景のグラビアに始たり、囜内倖のたばこの歎史、パッケヌゞや広告グラフィティ、愛煙家図鑑など、博物通的誌面がシブい。

『』ワヌルドフォトプレス1990幎月号。蚘事画像はp22-23より

 

   ず、他人事のように曞いたけれど、その特集を担圓したのはほかでもない、私である。【冊目】で曞いたように、『モノ・マガゞン』線集郚から異動しお、毎号のようにメむン特集をやるこずになった。「たばこの研究」もそうだが、テヌマは超ワンマン瀟長そのキャラに぀いおは拙著『食堂生たれ、倖食育ち』にも曞いたから降っおくる。ただ、それをどう誌面に展開するかは、比范的自由だった。「ポルシェの研究」90幎月号では、挫画家の西颚氏にむラストストヌリヌを䟝頌し、「クスリの研究」10月号では、䜐山䞀郎、神足裕叞、鹿野叞、枝川公䞀、山厎浩䞀ずいった面々に論考や゚ッセむを曞いおもらった。

 さらに、1990幎12月号で同誌は床目のリニュヌアルを迎える。ビゞネス色はほがなくなり、前述のキャッチコピヌも消えた。ゞャンルずしおは、カルチャヌ誌ずいうこずになるだろう。最初の号こそ瀟長䞋呜のテヌマで「珈琲生掻コヌヒヌのある堎所から」ず、それたでのテむストを匕き継いでいるが、その埌は「詐欺垫の研究 䞖界は詐欺垫を埅っおいる」91幎月号、「盞撲の研究 肉䜓無限䞖界ぞの旅立ち」月号、「荒俣宏の研究 ぀の顔の男だぜ」月号、「写真 フォト・゚ゎむズム」月号、「ハヌレむダビッド゜ン倧図鑑」月号、「手治虫の研究 神の県ず虫の県」月号、「ゞャガヌを愛する人々ぞ 豹の解剖孊」月号、「の研究 混迷を深める今䞖玀最倧の謎」月号、「解攟宣蚀 逞脱した性の悊楜」月号ず䜕でもアリ状態にただし月号ず月号は広告がらみの案件。 

 䞊蚘のうち私が担圓した特集は「珈琲」「詐欺垫」「写真」「手治虫」の本だが、ずにかく䌚いたい人、原皿や写真をお願いしたい人に片っ端からアプロヌチしおいる。たずえば「詐欺垫」では、皮村季匘、䞭沢新䞀、䞭島らも。「写真」では、半沢克倫、久留幞子、今道子、森村泰昌、荒朚経惟、赀瀬川原平、久䜏昌之、みうらじゅん、束尟貎史。「手治虫」では、山口昌男、逊老孟叞、赀坂憲雄、鎌田東二、䞊野昻志、豊田有恒、米沢嘉博、村䞊知圊。同特集では、挫画家32人にアンケヌトもお願いした。

巊䞊・『』ワヌルドフォトプレス1990幎12月号、右䞊・同1991幎月号、巊䞋・同1991幎月号、右䞋・同1991幎月号

 

 特集だけでなく連茉゚ッセむや巻頭コラム、文化欄も担圓しおいたので、そこでも奜き攟題やった。連茉では、えのきどいちろうの写真日蚘「東京スパむ」、文板橋雅匘・写真岩切等による廃墟ルポ「倱楜園物語」、いしかわじゅんの䞖盎しコラム「怒髪倩衝どは぀おん぀く倧画報」など。湯村茝圊のシリヌズ連茉「滅びゆく我が肉䜓、哀れ」ずいうのもあった。巻頭コラムや文化欄では、青山南、萩原朔矎、寺厎倮、ナンシヌ関、䞉留たゆみ、抌切䌞䞀らに執筆しおもらっおいる。

 バブル期にもかかわらず予算は今考えればありえないほど僅少だったので、自分で曞くペヌゞが倧量にあった。文化欄の挔劇や矎術、本の玹介などは、耇数のペンネヌムを䜿い分けお毎月䜕本も曞いおいた。もちろん無蚘名の原皿も倚数。別に自分で曞きたかったわけでなく、基本的に予算節玄のため自分で曞けばタダなので、その分ほかのペヌゞにお金をかけられるだったが、そこで筆力が鍛えられた面もある。

 気になる雑誌の線集長むンタビュヌの連茉もやっおいお、【13冊目】でちらっず出おきた『クレア』線集長のむンタビュヌはセルフ匕甚だ。ほかに『』枋谷陜䞀、『』鈎朚正文、『』石川順䞀、『COMIC BOX』才谷遌、『Number』蚭楜敊生ずいった人たちにも取材した。

 䜕しろ仕事量が倚く、毎月入皿時期の日は完培だった。それでも、ただ若かったので䜕ずかなったし、自分が読者ずしお奜きだった人々ず仕事ができるのがうれしかった。そうした぀ながりがフリヌになっおからも倧倉圹に立っおいる。

 そんなある日、連茉担圓しおいたいしかわじゅん氏の事務所に原皿を受け取りに行ったずきのこず。「今、こんなのやっおるんだけどさあ」ず芋せおくれたのが、ずある雑誌のマンガ特集内の䌁画「珟代日本挫画䜓系 人名蟞兞篇」だった。人気マンガのキャラクタヌ100人を解説する事兞颚の蚘事で、その監修キャラの遞定ず執筆者のずりたずめを同氏が担圓しおいたのだ。

 そこで「新保くんも䜕か曞く」ず蚀われ、「曞きたす曞きたす」ず二぀返事で匕き受けお、䜕人か分の解説を曞いた。執筆者クレゞットも入るずいうのだが、䞀応瀟員線集者の立堎で他瀟の雑誌に名前が出るのもどうかず思い、「なんか適圓な名前入れずいおください」ずお願いしお、できた雑誌を芋たら「南信長」ずなっおいた。いしかわ氏はもずより、吟劻ひでお、江口寿史、杉䜜倪郎、高取英、ずり・みき、村䞊知圊、吉田戊車、米沢嘉博  ずいった豪華執筆陣の䞭では圓然䞀番無名だったが、今もマンガ関連の仕事で䜿っおいるペンネヌムは、このずきいしかわ氏によっお呜名されたのである。 

 「南信長」デビュヌずなったその雑誌の名は『03』。新朮瀟より1989幎に創刊された。タむトルロゎに「TOKYO Calling」の文字が組み蟌たれおいるこずからもわかるように、東京23区の垂倖局番から取った誌名である。キャッチコピヌは「TRANS-CULTURE MAGAZINE」。コンセプトずしおは、東京発の倚文化混合雑誌ずいうこずになろうか。創刊号89幎12月号の特集は「ニュヌペヌクに未来はあるか」。衚玙は圓時『ドゥ・ザ・ラむト・シング』で䞀躍脚光を济びた映画監督のスパむク・リヌだった。ロヌリヌ・アンダヌ゜ン、山本耀叞、久保田利䌞、いずうせいこう、高城剛、高朚完、藀原ヒロシ、山田詠矎らが登堎する誌面はバブル的゚ネルギヌに満ちおいる。

『03』新朮瀟1989幎12月創刊号の衚玙ずもくじ

 

 号目の特集は「銙枯遊撃旅団」、号目は「ロンドン 90幎代の音楜工堎」、号目は「パリ 新䞖玀の䞉色旗」  ずいった具合で、創刊呚幎蚘念号90幎12月号が「東京 暎走する怪物郜垂」ずきた。その特集の扉には次のような文蚀が躍る。

〈虚食ず砎壊ずが産み出したずされるこの怪物は、䞀瞬たりずも静止するこずなく、あらゆる物を呑み蟌みながら果おしなく膚匵を続け、今や倪平掋の向こう偎にたでその錻息が届くずいう噂だ。異垞な地䟡ずいう䞋半身に支えられ、囜際情報郜垂ずいう頭を持぀怪物は、どこぞ行こうずしおいるのだろう。新宿の倜空にグロテスクな姿をさらけ出す新郜庁は、怪物郜垂滅亡のシンボルか、はたたた新たなる繁栄の序曲なのか〉

 さすが「23区の土地代でアメリカ党土が買える」ず蚀われた時代だけのこずはある。『03』ずいう東京を象城するタむトルを冠したのも“トヌキョヌ・アズ・ナンバヌワン”の意識があったからに違いない。そういえば今の郜庁ができたのもこの頃だった。コロナ犍党盛のずきには赀く染たり、今はお粗末なプロゞェクションマッピングに圩られおいる郜庁。匕甚文末尟の問いの答えは蚀うたでもないだろう。 

 この創刊呚幎蚘念号以降、同誌の特集テヌマは郜垂を離れ、サブカル化しおいく。「ロックは死んだか」91幎月号、「―もっず深く」月号、「映画 日本映画―最埌の反撃」月号、「革呜的ファッションの逆襲」月号、そしお「緊急指什065257号 越境せよ」月号では麻原地晃ず荒俣宏の察談が話題を呌んだこの時期、同誌に限らず倚くのメディアが麻原地晃をカリスマ扱いしおいたこずは忘れおはならないし、今も同皮の過ちを犯しおいないか自戒せねばなるたい。

 前述のマンガ特集は1991幎月号。猪瀬盎暹による梶原䞀階論に始たり、呉智英による手塚治虫論、小林よしのり×えのきどいちろう察談、×かわぐちかいじ察談、抎本俊二×吉本ばなな察談、「ゞャンル別・これがマンガの最前線」など盛りだくさんの内容だ。梶原䞀階論の芋開き扉は、根本敬が『巚人の星』や『あしたのゞョヌ』のキャラをボディペむンティングした女䜓写真だし、䞭嶋朋子が吉野朔実、束苗あけみ、小怋冬矎のキャラクタヌに扮した撮り䞋ろしのグラビアもあり、お金がかかっおる感じがする。 

 察しお、私が担圓した『』1991幎月号の手治虫特集は、芋開き扉のビゞュアルにむラストレヌタヌ・モデラヌの暪山宏氏䜜のオブゞェを䜿甚同氏はのちに手治虫文化賞のトロフィヌも手がける。本来なら䜕十䞇か支払うべきずころを栌安で制䜜しおもらったが、それでも圓時の線集郚の予算的には倧奮発だった。䞀点豪華䞻矩ずいうか、その分、ほかのペヌゞはカリスマ節玄䞻婊ばりのやりくりでしのいだ。

䞊・『03』新朮瀟1991幎月号p20-21、䞋・『』ワヌルドフォトプレス1991幎月号p22-23より

 

 そもそも『03』ず『』では人件費線集郚の人数からしお倧きく違う。䞊蚘の号のクレゞットを芋るず、『03』は「EDITOR」ず名の付くスタッフが線集長含め12人。『』は名目䞊の線集長である瀟長を含めおも人だ。戊力差は明らかだが、この時期の『03』ず『』は、扱うテヌマや執筆陣、混沌ずした誌面の雰囲気に共通するものがあった。個人的にも『03』は奜きな雑誌だったし、䞀方的にほんのりラむバル芖もしおいた向こうは歯牙にもかけおいなかったず思うけど。

 しかし、『』は91幎10月号、『03』は同11月号をもっお䌑刊ずなる。最終号の特集が『03』は「テレビ―぀たらぬ電波に愛の手を」で『』は「吉本興業の研究」ずいうのも䜕ずなく重なるずころがある。フゞテレビや吉本興業に問題噎出の今芋るず、このテヌマでゞ・゚ンドずなったのは皮肉なめぐり合わせにも映る。

 冒頭で述べたずおり、1991幎はバブル厩壊の幎でもあった。䞡誌の䌑刊は必ずしもそれが原因ではないが芁は売れ行きが芳しくないずいうこずで、特集ずかやりだすのは危険信号、結果的に「バブルず共に去りぬ」ずいうこずになった。

 『』の䌑刊を機に、私は䌚瀟を蟞めおフリヌの道を遞んだ。前回曞いたずおり、レギュラヌ仕事は決めおいたし、もずもずの絊料が安かった手取りで20䞇円に届かずので蟞めおも惜しくなかった。その時点ではただ䞖間にもバブルの䜙熱が残っおおり、自分䞀人食っおいくぐらいはどうにでもなるず思っおいたずころもある。

 果たしお、翌幎には所埗倍増、幎埌にはめでたく幎収1000䞇を突砎した。䞖間的にはバブルは厩壊したが、個人的にはそこからがバブルだったずいうか仕事盞応のギャラをもらっただけだが。もし『』が぀ぶれおなかったら、そのたた䌚瀟員ずしお安月絊で働いおいた可胜性は高い。人生䜕が幞いするかわからないものである。

文新保信長 

【日時】2025幎06月01日 08:00
【提䟛】BEST TiMES

本サむトに掲茉されおいる蚘事の著䜜暩は提䟛元䌁業等に垰属したす。