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NO.11381499
「読曞」は享楜ずは、この䞖に二぀ないずいうほどの快楜である【犏田和也】

「矎術鑑賞ず同様に読曞にも、それなりに必芁なものがあるずいうこずです。読曞もたた機䌚ず堎所を遞ぶものですし、それを愉しむためには、ある皋床の道具立おが必芁です。」ず語るのが犏田和也氏。遞集『犏田和也コレクション1本を読む、乱䞖を生きる』から珠玉の読曞論を通しお、“読曞がこの䞖に二぀ないずいうほどの快楜である”理由を存分に語る。

写真PIXTA

莅沢な読曞ずは

 

 本を読むこず、その莅沢さ。豊かさ。

 ずいった、蚀葉、惹句にあなたはうんざりしおいるかもしれない。

 私も、人から、぀たりは私以倖の人間から聞いたら、そう思うかもしれたせん。そういう云いたわしは、䞖間に溢れおいたす。

 読曞は享楜であり、この䞖に二぀ないずいうほどの快楜だ。

 この蚀業は真実であるけれども、ほずんどの人にずっおは実感がないこずでしょう。あるいは、そう感じおはいおも、その䞭身はあたり豊かでないこずも倚い。

 暇぀ぶしの、独り善がりの、䜕ごずかをやり過ごしたり、圹に立぀こずを孊んだような぀もりになるための、スナック菓子やサプリメント摂取のような読曞。長距離列車のプラットホヌムの売店でビヌルや裂き烏賊の燻補ずずもに売られ、読たれる掚理小説や昌時のオフむス街でコンビニ゚ンス・ストアのお匁圓を入れたポリ゚チレンの袋を片手に物色される最新゜フトの解説曞。それはそれで味わいがあり、あるいは圹に立぀ものでしょう。䞀杯のカップ酒に、時に人生の滋味のすべおが集玄するこずがあるずいうこずは、私も認めたす。

 でも、それは莅沢ずいうものではありたせん。享楜でもないのです。

 勉匷するこず、情報を埗るこず、時間をやり過ごすこず。それはもちろんずおも倧事なこずです。

 けれど、本圓の楜しみは、味わいはその倖偎に、ある。

 その楜しみを、楜しみに近づく道を私がお教えしたす。

 ず、云うずたた随分厚顔なこずを云うものだずびっくりされるかもしれたせん。

 そうですね、たしかにそうかもしれたせん。でも、なかなかほかの人間には出来ないこずだず自負しおいたす。

 私は、きわめお享楜的な人間です。

 ずいうよりも、享楜や莅沢の魅力に匱い、ず云い盎しおもいいかもしれたせん。

 午埌の日ながに、陜光の䞋で呑むコルトン・シャルルマヌニュの、青い巎旊杏はたんきょうのように銙ばしく枅柄なブヌケ。仕立おあがったばかりの、リネンのゞャケットを掲げるようにしお袖を通す心持ち。埃っぜい街を歩きたわった埌に、扉を開けた途端に珟れる、すべすべずした磁噚の感床で芋事なたでに掃陀されたホテルの郚屋。客の行き来がようやく萜ち着いお、店仕舞いの甘い予感がひたひたず朮のように寄せお来る時に、無理に所望しお泚いでもらう、かなり前に廃業しお、もう誰も芚えおいる者もいない蒞留所の、ブレンド・スコッチ。

 高朔な宗教家や、堅実な家庭人のすべおが排し、犁じおきた快楜の誘惑に、私はずおも匱いのです。浞っおいるず云っおもいいかもしれたせん。䞍必芁なほどに手の蟌んだもの、ずおも䞖間ずあい枡っおいけないほどに優雅なもの、ほずんど反瀟䌚的なたでに高䟡なものずいった、賢明な人々が避けるもの、むしろ觊れようずすら思わないものの魅力に、私はずっず囚われおきたし、これからも囚われたたたでしょう。

 私にずっお、読曞は、このような無甚にしお高い代償を芁求するものずきわめお近い間柄にあるものなのです。同じものずいっおもいい。

 本圓に莅沢で、豪奢で、背埳的であるたでに甘矎な快楜であり、䞖間の䟡倀芳から遠ざかりながら䜕ら悪びれるこずなく闊歩する者の倫理をもたらす営為ずしおの読曞の道案内をこれから私がいたしたす。

 それは、云うたでもなく教科曞じみた、知識ずお勉匷のための読曞でもありたせん。

 己䞀人に立おこもり、猥雑なものや激しいもの、俗のなかにある深く厄介なものから逃れるための、文孊少幎、少女のための読曞でもない。

 無論、暇぀ぶしや実甚のための読曞でもない。

 悊楜の名前に倀する、曞物の読み方を䌝授いたしたしょう。

 倧ぶりのグラスに泚がれた、ブルゎヌニュ、コヌト・ド・ニュむのワむン。その䞀杯が今、あなたの県前に据えられおいたす。

 あなたがその䞀杯を、突颚のように立ちのがるブヌケず、デビュタントの胞に食られた先祖䌝来の倧粒のルビヌを思わせる茝きに觊れるこずからはじめお、飲み干した埌の意識が遠のいおいくような恍惚ずした衝撃たでは勿論のこず、数日たっお、ふずした時に蚪れ、蘇る、アロマの匷烈な蚘憶に至るたで、その扱い方、味わい方、含み方たでのすべおをお教えしたしょう。

 『犏田和也コレクション』で、取り䞊げる䜜品は、ずにかく超䞀流の䜜品にしたした。

 ずいうのも、超䞀流のものは解りやすいからです。

 ワむンでも、絵画でも、音楜でもそうです。

 超䞀流のもの、最高の氎準にあるものは、きわめお個性的であるず同時に、誀りようのない、明確な茪郭をもっおいたす。

 ハむフェッツの匟くバッハは、たいしたクラシックの玠逊のない人の心をも動転させる力がありたす。サム・クックのハむトヌンは、ポピュラヌ・ミュヌゞックに䜕の興味もない人の胞をも、抉えぐるでしょう。

 超䞀流の力ずはそういうものです。

 ですから、取り䞊げる䜜家自䜓は、非垞に高名な、おそらくみなさんが聞いたこずがある䜜家ばかりだず思いたす。

 䜜品の遞択に関しおは、けしお有名な䜜品ばかりを取り䞊げたわけではありたせん。

 たずえば倏目挱石の䜜品ずしお、『明暗』を取り䞊げおいたす。

『明暗』は、挱石の遺䜜ずしお高名であり、文孊の専門家の間ではきわめお高い、䜜家挱石の達成点を瀺す䜜品ずしお評䟡されおいたす。

 挱石の他の䜜品に比べるず、けしおポピュラヌなものではありたせん。『吟茩は猫である』、『坊ちゃん』、『草枕』、『それから』、『こゝろ』、『道草』ずいった、誰でも知っおいる䜜品しかし、挱石にはこの「誰でも知っおいる䜜品」ずいう奎が本圓にたくさんあるのですけれどにくらべれば、知名床も高くはないですし、実際に読たれおいる数も、ごくごく少ないように思われたす。倧孊の囜文孊科の孊生さんたちや、よほどの読曞家、挱石ファンでなければ読んでいないのではないかず思いたす。実際、結構な厚さですからね。

 にもかかわらず『明暗』を遞んだのは、専門家ずしおの芋地にたっお挱石の最高傑䜜を玹介したいずいうこずではありたせん。『明暗』を読むこずで、ただ挱石の䜜品、あるいは近代日本の小説ずいう枠を超えお、小説を読むこずの面癜さ、それもペヌロッパを起源ずする瀟䌚小説の楜しさを知っおもらいたいのです。

『明暗』を瀟䌚小説ずいう呌び方をするず、抵抗感を持぀方もいらっしゃるかもしれたせん。瀟䌚小説ずいうず、どうも劎働問題ずか貧困ずいった瀟䌚問題を扱った小説であるように受け取られがちです。私が「瀟䌚小説」ず云うのは、小説のなかに䞀぀の瀟䌚が、぀たりたがいに異質であり、たったく別の事を考えおいお、理解しあうこずが難しい、そうした「個人」が集たり亀わり、語り、あるいは戊う空間ずしおの「瀟䌚」——この堎合は瀟䌚ずいうよりは、゜サ゚ティずいったほうが感じがでるかもしれたせん——ずいうこずです。

 こういう瀟䌚空間の、スリル、滑皜さ、悲しみ、そしおダむナミズムを味わうこずが、近代小説の魅力なのです。『明暗』は、このような「瀟䌚」を描いた小説ずしお、ずおもよく出来おいるのです。日本はもちろん、䞖界的にみおも高氎準の䜜品です。是非、みなさんに『明暗』に぀いお読むこずで、その魅力を知り、楜しみ方を芚えおいただきたいずいうのが私の目論芋です。

 ですから、ほかの䜜品に぀いおも、高名であっおも、あたり有名でなくおも盞応の䌁みず趣向があっお、䜜品は遞ばれおいるのです。

どういう姿勢で、曞物にたいし、接するか

 今回の『犏田和也コレクション』で、お䌝えしたいこずはたくさんありたすが、そのなかでもっずも倧事なものは、いかに曞物にたいするかずいうこず。簡単に申しあげれば、曞物を前にした時の構え方です。

 構え方、぀たりどういう姿勢で、曞物にたいし、接するかずいうこず。

 これは、云う迄もないこずですが、曞物ずいうものに接する時には、背筋をのばしお、心しずかに、身を枅らかにしお向かいなさいずいうこずではありたせん。けれどもたたそのような発想ずいうか、考え方には少なからず、尊重すべきずころがありたす。

 長らく䞭囜の文化的圱響を圧倒的に受けおきたわが囜では、読曞に察する姿勢もたた、きわめお䞭華的な䌝統の䞋に眮かれおきたした。その䌝統ずは、すなわち読害を行儀䜜法の䞊から芋るずいうこずです。埌述したすけれど、これはこれで、たしかに圓䞖颚ではないけれど、なかなか倧事な考え方、思想であったず思いたす。

 科挙制床の確立ずずもに䞭囜では、科挙に合栌しお皇垝のもずで為政者ずなる読曞階玚を、人臣の最䞊䜍におき、四曞五経からさたざたな史曞におよぶ叀兞籍をひもずくこずを人間が地䞊でなすもっずも高貎か぀重芁なものずしおきたした。

 読曞を至䞊の行為ず考えおいたこずは、䞭囜の文化の爛熟がどれほど高い氎準に達しおいたか——叀代ギリシアから、むスラム教孊の完成期にいたるたで、かくも読曞が倧きな意味をもった文明はないでしょう——ずいうこずを今日に知らせおくれたす。けれども、その極端に読曞を尊重する気颚は、読曞をその実際の䞭身、぀たりはテキストを読み解き、味わうずいうこずよりも、いかにしお敬虔に、恭うやうやしくテキストにたいするかずいうこずに過床なたでに重点を眮く文化を生みたした。読曞の前には、斎戒沐济さいかいもくよくをし、穢けがれた事物を遠ざけ、静かな堎所で硯すずりを膝元に眮き、たず蘭竹を墚で描いお萜ち着いた埌に、曞物に䞉拝した埌に垖を開く。たるで、瀌拝のような䜜法が、読曞に際しお䜜り䞊げられおいたのです。

 読曞が儀匏ずなれば、圓然圢骞化が進みたす。曞物が本来もっおいる、本質的な興奮や喜び、激しさは等閑芖され、枯れすがれおしたい、枝葉末節の語矩講釈のみが重芁芖されるようになりたす。特に、挢籍を倧陞から招来された貎重きわたるものずしお、もずもず尊重する傟きのあったわが囜では、曞物を敬い、読曞を䞀皮の宗教儀匏ずしお芋る気颚が、極端に発達したのです。江戞期の頃の儒孊者や囜孊者の曞物にたいする態床の真剣さ、物々しいずすら云いたくなるような厇拝する心情から、たずえば本居宣長のような、きわわめおすぐれた文献孊の業瞟が生たれるずずもに、吉田束陰が育った長州藩の儒家のように、経曞を読む時に、虫に刺された痒かゆみに気を散らせただけで、生死に関わるような折檻せっかんをうけるような気颚を蔓延させたした。

 明治維新以来、こうした気颚、぀たりは読曞それ自䜓よりも行儀を尊重するようなやり方は、匷い批刀を济び、たた反省を匷いられたした。第二次䞖界倧戊の埌に、あらゆる暩嚁が吊定されるようになっおからはいよいよ、事倧䞻矩の排斥は激しくなりたした。

 本などずいうものは、ただ掻字が䞊んでいるだけのメディアにすぎない。読むずいうこずは、このメディアによっお個性的な個人であるはずの読者が、それぞれに掻字からの刺激によっお粟神を運動させ、感芚、感情を芚え、論理、情報を理解するこずにすぎない。だずすれば、読む行為自䜓は寝っ転がっお読もうず、満員電車の䞭だろうず、テレビ・ゲヌムの電子音の䞋であろうず構わないずいうこずになりたす。

 おそらく、こうした考え方が、今日珟圚の私たちの読曞芳のもっずも䞀般的なものでしょう。

 倧事なのは、曞物、぀たりは物ずしおの本ではなく、内容である。読曞ずはその内容をいかに個々人が自由闊達に受け止めるかずいったこずであっお、その倖偎の玄束事ずか䜜法などずいうものには、䜕の意味もないのだ。

 たしかに、そうかもしれたせん。けれども、そうでいいのでしょうか。

 私には、どうも、ここ癟幎このかたの日本人は、読曞ずいう行為をあたりに抜象的に考えすぎおきたように思われおならないのです。

 抜象的ずいうのは、぀たりは、物ずか振る舞いず切り離しおいるずいうこずです。

 もちろん、掻字ずいうのが、きわめお抜象的な蚘号であるずいう事を考えに入れれば、それは圓然かもしれない。しかし、あたり抜象的に考えたために、具䜓的な物や流儀に埩讐されおいるように私には芋えるのです。

 埩讐ずは、こういうこずです。お酒のたずえばかりしお申し蚳ありたせんが、いくら高䟡なワむンであろうず、呑み手の感性、感芚さえしっかりしおいれば、どんな堎所や、噚で呑もうず構いはしない、ずいっおいるようなものではないのでしょうか。いいお酒を、消毒液の匂いが埮劙に挂うファミリヌ・レストランで呑むわけにはいかないし、パルプ臭のする玙コップで呑むわけにもいかない。そのように圓然さけるべきこずを知らず知らずのうちにしおしたっおいるようにも思われるのです。

 このこずは、矎術通、博物通での矎術展などを念頭においおいただければより分かりやすいず思いたす。

展芧䌚に長時間長蛇の列に䞊び、矎術鑑賞はできるのか

 近幎、それは背景ずしお䞭倮、地方をずわない公的機関の財政悪化があるのでしょうが、矎術通などもどれぐらいの来通者があったか、぀たりは「芳客動員」を求められるようになりたした。この傟向は、孊芞員の暩限の盞察的な拡倧぀たりは地方政治や文化団䜓の小ボスずいった連䞭の展瀺内容にたいする発蚀暩が䜎䞋するずいう肯定的な偎面もあるのですが、もっずも決定的な圱響は、倧衆化ずいう珟象でしょう。

 倧衆化ずいうのは、必ずしも䜎俗化ずいうこずを意味したせん。むしろ、その内容ずは関わらず、倧量の動員を目的ずしたメディアヘの働きかけ、キャンペヌンにより、広くその展芧䌚にたいする興味を䜜りだし、普及するこずに䞻県がおかれおいる。

 実際、近頃話題になった展芧䌚の動員の凄たじさは、倧倉なものです。

 二〇〇〇幎、倧阪垂立矎術通で行われたフェルメヌル展などは、週末には入堎たで六時間、䞃時間の行列は圓たり前ずいう盛況ぶりでした。近いずころでは、東京囜立博物通の暪山倧芳展や囜立西掋矎術通でのプラダ矎術通展なども、平日でも䞀時間以䞊の行列を䜙儀なくされるほどでした。

 もずもず、近代の矎術通制床ずいうのは、倧衆を䞻県ずしお䜜られたものです。フランス倧革呜以降、ルヌノル宮殿で王家のコレクションを開攟したこずがルヌノル矎術通のはじたりだったこずに瀺されおいるように、王䟯貎族が独占しおいた矎術品を、䞀般垂民に公開するずいうこずが出発点ずなっおいたした。぀たりは、より倚くの人々が芞術の魅力に觊れお、教逊を高め、粟神を豊かにするべきだずいう考え方です。

 もちろん、こうした考え方は基本的に正しいものですし、誰も吊定できないものでしょう。けれども、同時にこの正矩のために矎術鑑賞のあり方は倧きく倉わりたした。貎族たちの通に食られおいた絵画䜜品は、ずりはずされ、矎術通の収玍庫にしたわれたした。メディチ家ずかオルレアン家ずか名だたる名流が、画家に䟝頌をしたり、あるいは買ったり、戊利品ずしお奪ったりずいう経緯のなかで集められおきた䜜品は、それぞれの時代や画家の流掟などによっお孊術的に分類をされたした。初期の矎術通は、ルヌノル宮やフむレンツェのりフィツィのように、もずもず宮殿などであった建物を転甚したのですが、次第に矎術通を目的ずしお建おらた建物が䜿われるようになりたした。そうした矎術通は、どのような䜜品の展瀺にも適応できるように、無限定な空間ずニュヌトラルな内装を持っおいたす。䞀蚀でいえば䜓育通のような堎所になったわけです。

 このようにしお、芞術品は、䞀郚の人々の独占物から、囜民の、あるいは人類の共有財産になりたした。その事自䜓はいいこずに違いないのですが、それによっお明らかに倱われたものもあるのです。か぀お、貎族や倧ブルゞョワが談笑するサロンにかけられおいた絵が、啓蒙を目的ずした無機質な空間に移された時、あきらかに矎術品を芳る芋方、スタむルが倉わったのです。それは、個々の矎術䜜品の質ずは別の、より包括的な喪倱なのです。

 前にも蚘したしたように、こうした人気を集めた展芧䌚は、その䞭身もたたなかなかのものでした。フェルメヌル展にしおも珟存䜜品の過半数を集めた孊芞員諞氏の努力は賞賛されおしかるべきものでしょうし、スルバランやベラスケスの傑䜜を揃えたプラダ矎術通にしおも、なかなか芋ごたえのあるラむンナップではありたした。

 しかしたた、いかに展瀺されおいるものが玠晎らしくおも、長時間の行列の末に、たさにラッシュアワヌの地䞋鉄のような人いきれの䞭を抌し合いぞし合いしながら絵の前を通りすぎるこずを矎術鑑賞ず呌ぶこずには倧きな抵抗を感じざるをえたせん。ず云いたすか、私にずっおは、その反察物でしかない。

 䞀人䞀人の個人は、それぞれに独自の感性をもっおおり、虚心に絵の前に立おさえすれば鑑賞行為が成立するのだ、ずいう近代的な矎術通からすれば、その呚囲がどのような状況におかれおいようず、芳る者がきちんずした姿勢を自分の内心に保持しおいれば、ちゃんずその絵の本質を把握するこずができるのだ、ずいうこずになるのでしょう。そういう芋方があっお、はじめおこうした倧混雑展芧䌚の意矩は認めるこずができるはずです。

 しかし、どうなのでしょうか。私からすればこういう状況は人を個人から矀れに、塊ずしおの存圚に貶おずしめおしたうこずにほかならないように思われるのです。぀たりそこには矎術ずたいするずいう本質的なものはどこにもなくお、ただその展芧䌚に行く、名画の前を歩くずいうこずだけが目的化をした、平たく云っおしたえばある皮のむベントになっおしたっおいる。ディズニヌランドずいったテヌマ・パヌクに行くのず倉わらない、その内実からすればもっずもっず貧しいむベントにされおしたっおいる。

 矎術鑑賞ずいう、䞀人䞀人の粟神なり教逊なりを涵逊するはずの営為が、むしろ人をしお集団化し、無個性化するずいう、きわめお逆説的な事態、文化をめぐる悲喜劇がそこでは挔じられおいるのです。矎術鑑賞には粟神的なものだけが倧事だずする態床がむしろ粟神を貶めおいる。

 そしお、こうした逆説が起こるこずの背景には、矎術を芋るずいうこずにかかわる䜜法や身構えずいったものが消滅をしおしたった、意識されなくなったこずがもっずも本質的な芁因ではないでしょうか。

 矎しいものず察する時には、ある皋床の静けさず孀独が必芁であるずいう基本が、より倚くの人々がよりよいものず接するべきだずいう文化囜家のスロヌガンの䞋で空転しおしたっおいる。

 本圓の事を云うず、私はフェルメヌル展も、倧芳展も芋おいたせん。近代日本画にたいしおは抜き難い偏芋をもっおいたすから、倧芳展にはもずもず行く気はありたせんでした。フェルメヌルは、䞁床京郜に甚事があったので、盞応の芚悟をしお倧阪倩王寺たで出かけたのですが、午前䞭にもかかわらず長蛇の列をなしおいるのを䌚堎の傍で眺め、アルバむトの男の子がハンド・スピヌカヌで䜕時間埅ちずか䜕ずか怒嗚っおいるのを聞き、䞀気に気持ちが萎えるずずもに、自分がたったく性に合わないこずを詊みおいるこずを自芚したした。

 私は、タクシヌを拟い、䞭之島の倧阪東掋陶磁矎術通に行きたした。この矎術通は、戊埌日本最倧のコレクションずしお高名な安宅コレクションが、その家業である安宅産業が経営の危機に陥り散逞の危機に瀕した時、メむン・バンクの䜏友銀行圓時が䞀括しお買い䞊げお倧阪府に寄附したものです。

 安宅コレクションは、点数こそたいしお倚くはありたせんが、その質の高さにおいお、ロンドンのデノィッド・コレクション、台湟の故宮博物通ず䞊ぶ䞉倧コレクションの䞀぀ずしお高く評䟡されおいたす。特に宋の磁噚ず高麗青磁に぀いおは、その質においお他の远随を蚱したせん。

 嘆かわしいこずに、近幎ここでも䌁画展をよく催すようになりたしたが、垞蚭展の時には、だいたいい぀も空いおいたす。自然光をうたく甚いた、ほずんど人のいない展瀺宀を回っお、䞀息぀くず黒門町の犏喜鮚に行きたした。たさに絶品ずしかいい様のない明石蛞を぀たみながら、ネヌデルランドの鬌才の䜜品の前で抌しくら饅頭をするのではなく、䞀人でゆったりず北宋汝官窯の奇跡的な磁噚の切れ味ず察面するこずを遞んだ自分に満足をしおいたした。人はそれを自己満足ず呌ぶのかもしれたせんが。

 長々ず矎術通の話を曞いおしたいたしたが、私が云いたいのは、ごく圓たり前のこずです。矎術鑑賞ず同様に読曞にも、それなりに必芁なものがあるずいうこずです。読曞もたた機䌚ず堎所を遞ぶものですし、それを愉しむためには、ある皋床の道具立おが必芁です。本を読むこずに関しおも、矎術通を雑螏にしおいるのず同様の混乱ず倒錯がはびこっおいたす。その倒錯は、前に蚘したように、あたりにも読曞ずいった粟神的な䜓隓を抜象的なものに、぀たりは粟神だけにかかわるものずしおずらえおしたった結果です。

曞物ず、緊密な絆を結び、友情を育むずはどういうこずか

 本を読むこず。曞物を愉しむずいうこずにも、きちんずしたやり方があるのです。

 私は、そのやり方、構えを語るこずで、みなさんず曞物の関係を決定的なものに、固い絆を結んでいただきたいず思っおいたす。

 倧孊の教員をしおいお痛感をしたのは、若い人たちはけしお本が嫌いでもなければ、読む力が萜ちおいるわけでもないずいうこずです。

 珟代文芞ずいう講矩をずっず担圓しおいるのですが、この講矩ではこの「珟代」をかなり拡倧解釈をしお、十九䞖玀から珟圚たでを扱っおいたす。毎幎ずりあげる䜜家、䜜品は違うのですけれど、䞀幎ごずに日本ず西欧を亀代で扱っおいたす。

 毎回小レポヌトを課しおいお、週に䞀䜜品ず぀を読んで貰いたす。䞀䜜品ずいっおも、ゟラの『居酒屋』ずか高橋和巳の『邪宗門』のような、かなりのボリュヌムがある䜜品もずりあげたすから、毎週、毎週課題をこなすのはかなり厳しい。

 その䞊に、採点基準も甘くはありたせんから、履修をするにはそれなりの芚悟がいる科目ですけれど、それでも毎幎、盞圓数の孊生が受講をしお、倧郚分が毎週䞀冊ずいう課題をこなしおくれたす。

 その講矩をやっおいお、い぀も感に堪えないのは、今の十八、十九の若者たちも、読むこずになれば、きちんず本を読める、ずいうこずだけではありたせん。みな読めば面癜いし、感動もするのです。若い人たちの感受性にずっおは、スタンダヌルもディケンズも叀びおはいない。倧叀兞でなくおも、怎名麟䞉や歊田泰淳、梅厎春生ずいった、䞀時代も、二時代も前の青幎たちを熱狂させた䜜家たちの䜜品だっお、今日の若い人たちの魂を燃えたたせるこずができる。

 私は、はたず考えおしたいたした。

 掻字離れだ、䜕だず云われながら、若い人たちは曞物に接すれば、也いた海綿のようにその魅力を吞収する力をもち、たたその意欲もある。

 にもかかわらず、読む䜓隓自䜓が貧しく、乏しいのはなぜなのだろうか、ず。

 手前味噌ですが、私の講矩の受講者の倧半は、おそらく履修をしなければ䞀生アンブロヌズ・ビアスも野間宏の名前も知らず、もちろん読みはしなかったでしょう。それどころか『赀ず黒』も、『倧いなる遺産』も読たなかったに違いない。

 圌らが、それを読んだのは、倧孊ずいう堎所で、なかば高圧的に぀たりは単䜍取埗ずいう匷迫の䞋で読たされたからにほかなりたせん。もちろん、他にちゃんずした講矩がいくらでもあるのですから、敢えお私の講矩を遞択するずいうずころには、読曞にたいする朜圚的な意欲があるずしおもです。

 では、教育制床の、なかば匷制的な働きかけの䞋でなければ、もう若い人に読曞を、それもややずっ぀きにくい、コクのある本を読たせるこずはできないのか。

 私は、その点に぀いお絶望したくありたせん。

 実際、本を読む力ず意欲のある人たちがいるのに、その人たちに本を手に取らせるこずができないのは、これはいかにも残念なこずではないか。同時代に文芞評論家の看板を出しおいお、恥かしいこずではないか、ず思ったのです。

 情報革呜の流れやテレビ、ゲヌム、さたざたな嚯楜や生掻習慣の倉化をいいわけにしお、掻字文化の頜勢たいせいを肯定しおしたうこずは、䜕ずも卑怯なこずではないか。

 そのような発想の䞋で、たず曞いたのが䞀昚幎に出した『䜜家の倀うち』でした。

 拙著に぀いおは改めお述べたせんが、倧量に流通しおいる曞物の海のなかで、倚くの読者が困惑しおいる、倧宣䌝に乗せられお買っお埌悔をしおいるずいう状況にたいしお、䞀぀の指針を提䟛しようずする詊みでした。

『䜜家の倀うち』が、「䜕を読むか」ずいう疑問に答えた曞物だずするず、本曞は「どう読むか」に答えた本です。最高の文章ばかりを集めお、その味わい方を、知っおいただくための本です。

「どう読むか」ずいっおも、それは通り䞀遍の方法論ではありたせん。速読術や情報凊理でもありたせん。

 ここで、䞀番みなさんに知っお欲しいこずは、本ず自分の間に、いかに関係を築くかずいうこず。

 曞物ず、緊密な絆を結び、友情を育むにはどうすればいいか、ずいうこずです。

 䞀蚀でいえば、みなさんの人生の地図の䞭に、はっきりず、倧きく、曞物の存圚を曞き蟌んでいただきたい。

 嚯楜や、勉匷ずいった目的にずらわれない、人生にずっお䞍可欠の郚分ずしお、読曞をずらえおいただきたいのです。

 その関係の䜜り方、絆の結び方こそが、本曞の目的なのです。

 そのために、ここでは、䞀語䞀句、じっくり逐語的にテキストを味わっおいくずころから、堎所、時に応じお読むべき本の遞択や読み方、読曞ず䌚話や飲酒ずいったこずにたで觊れおいきたす。ペヌロッパヘの航空機、食事が䞀段萜した埌にポヌト・ワむンを舐めながらヘンリヌ・ゞェヌムスを読む楜しみから、倏の午埌に陜光の䞋で䜐藀春倫の詩に぀いお論じあう楜しみたで。かっちりした文孊論から、スノッブな愉悊たで、人生の楜しみの倧半を、曞物ずずもに過ごすすベをお教えしたしょう。

『犏田和也コレクション1本を読む、乱䞖を生きる』より本文抜粋

【日時】2023幎09月26日 16:00
【提䟛】BEST TiMES

本サむトに掲茉されおいる蚘事の著䜜暩は提䟛元䌁業等に垰属したす。