始まって数分しか経ってないのにもうつまらないぞ!
ぐるナイに移動します。
[匿名さん]
あーこれ何かで観たことある
職人技な人とか居るよね?
[匿名さん]
単純な作業をは健常者より真面目で、一生懸命だから凄い集中力だと思うわ。
そして何よりちょっとした事では会社を休まない。
[匿名さん]
日本理化学工業が知的障害者を採用し始めたのは、もう50年以上も前の昭和34(1959)年のことだ。
当時、社長だった大山泰弘さんが、近くの養護学校から、卒業予定の2名に、採用はできなくとも、せめて働く体験だけでもさせてくれないか、と頼み込まれて、引き受けたのが始まりだった。
二人の少女が1週間だけ作業体験をしたのだが、その仕事に打ち込む真剣さ、幸せそうな顔に周囲の人々は心を打たれた。約束の1週間が終わる前日、十数人の社員全員が大山さんを取り囲んで、「みんなでカバーしますから、あの子たちを正規の社員として採用してください」と訴えた。
それから知的障害者を少しずつ採用するようになったのだが、大山さんに分からなかったのは、会社で働くより施設でのんびりしている方が楽なのに、なぜ彼らはこんなに一生懸命働きたがるのだろうか、ということだった。
[匿名さん]
顔がそこそこ良ければ1時間5千円でデリヘルやればいいのに
[匿名さん]
これに答えてくれたのが、ある禅寺のお坊さんだった。曰く、幸福とは「人の役に立ち、人に必要とされること」。この幸せとは、施設では決して得られず、働くことによってのみ得られるものだと。大山さんは目から鱗が落ちる思いがした。
それなら、そういう場を提供することこそ、会社にできることなのではないか。企業の存在価値であり社会的使命なのではないか。
これ以来、50年以上、日本理化学工業は積極的に障害者を雇用し続けてきた。
「徹底的に障害者雇用にこだわる」
しかし、この50年間の歩みは平坦なものではなかった。「私たちが面倒をみますよ」と言ってくれた社員ばかりのうちは良かったが、やがて後から入ってきた人たちは不満が募った。「自分たちの方が仕事をしているのに、なぜ給料が変わらないのか」と訴えるようになった。
また社員旅行や忘年会をしても、健常者の社員は、障害者の世話をしなければならないと思うと、存分に楽しむことができない。障害者の方も普段と違うリズムの時間を過ごさなければならない。
大山社長は、健常者と障害者のどちらに軸足をおいた経営をするのか、はっきりさせなければならない、と思った。
[匿名さん]
障害者中心にいきたい、と腹は決まっていた。しかし、当時の経営状態は決して良くはなかった。障害者雇用に反対する株主もいた。障害者を「お手伝い」ではなく、主力にして、本当に品質・生産量を維持できるのだろうか。
一生懸命働いてくれている障害者の姿を見ながら、大山社長は迷った。その迷いを振り切って、「徹底的に障害者雇用にこだわる」という結論に辿り着くのには、時間がかかった。しかし、この時に徹底して自分を問い詰めたことが、現在に至るまでに障害者雇用をぶれることなく続けてこられた「礎(いしずえ)」になった。
世界のモデルとなるような知的障害者の工場を作ってやろう」
その後、大山さんはアメリカを視察して、この世界一の先進国でも、身体障害者をたくさん雇っている企業はあっても、知的障害者を雇用する民間企業は見あたらないことを知った。大山さんは発憤した。
よし、日本で、世界のモデルとなるような知的障害者の工場を作ってやろう。それも、純然たる民間企業として成立させてやるんだ。
(『働く幸せ 仕事でいちばん大切なこと』大山泰弘・著/WAVE出版)
帰国してから、大山さんは知的障害者だけで稼働する生産ラインを作ることに没頭した。しかし、いくつもの壁が立ちはだかった。ダストレス・チョークづくりには、知的障害者には難しい工程がいくつもあったからだ。
[匿名さん]
たとえば材料の配合では、それぞれの色のチョークに使用する材料の種類を間違えずに、重量をきっちり量らなければならない。これが知的障害者には難しい。
ある材料を100g混入しなければならない時には、秤の片側に100gのおもりを置き、それに釣り合うように材料を乗せる。しかし知的障害者は数字が苦手なので、そもそも「100g」ということを理解できない。
どうすればよいのだろう。毎日毎日、考え続けた。そして、ふと思いついたのが交通信号だった。知的障害者たちは、駅の改札を出てから会社の門をくぐるまで、一人で歩いてくる。その途中にはいくつかの信号がある。
「そうか!」とひらめいた。彼らは文字や数字は理解できなくとも、色の識別はできるのだ。材料の配合を数字で教えようとするから、難しくなる。色だけで識別すればよい。赤い容器に入っている材料は、赤いおもりをのせて量る。そう準備して、知的障害者にやらせてみたら、ちゃんと量ることができた。
今までは、健常者向けのやり方を障害者に押しつけようとしていたのだ。彼らができなかったのではなく、自分たちの工夫が足りなかっただけなのだ。これをヒントに、大山さんは全工程を子細に観察して、知的作業者のやれる方法に変えていった。
[匿名さん]
健常者に負けない生産性を
しかし、世の中には心ない声を投げかける輩が必ずいる。
知的障害者中心にやっていけるのは、所詮は「(障害者でもできる)チョークだから」という。
大山さんは悔しく思って、チョーク以外でも作れることを証明してやろうと思った。そこで東京青年会議所での活動を通じて親しくしていた音響メーカー・パイオニアの松本誠也さん(3代目会長)に「なにか仕事を発注してくれませんか」とお願いした。
松本さんは「そういうことなら」と快く、ビデオカセットの組み立ての仕事を回してくれた。カセットの中に5つの部品を組み付ける仕事である。
同じ仕事を、別の大手メーカーにも発注しているが、そこでは一人1日約1,000個組み立てるという。大山さんはこれを目標にとりかかった。
最初は、その大手メーカーと同じように、ベルトコンベアで運ばれてくるカセットに、一人で5つの部品をすべて組み付けるようにしたところ、せいぜい1日200個から300個しかできない。
[匿名さん]