>>80
さて、"仏法を論ずる"事についてですが。
まさにそれこそが仏法の実践なのですよ。
それが分からないから瞑想、つまり禅だけでは虚しいんです。
日蓮大聖人は"禅天魔"として厳しく批判しています、いわゆる"四箇格言"の一つです。
禅宗の教義は、“戒・定・慧” の三学のうち、特に“定”を強調しています。すなわち仏法の真髄は決して煩雑な教理の追求ではなく、そのために文字を立てず(不立文字)、教法は仏より伝えられたものではなく(仏祖不伝)、別に伝えられたもので(教外別伝)、仏の経法は月をさす指のようなものであり、月が分かれば経は無用とし、禅法を修することにより、わが身が即仏になり(即身即仏)、人の心が直ちに仏性を見ることが出来る(直指人心・見性成仏)というもので、仏祖にもよらず、仏の教法をも修せず、画像木像の仏菩薩をも否定しています。
しかし禅宗では 仏祖不伝 と言いながら、達磨は付法蔵の二十八祖と称し、東土の六祖より相伝されていると主張されています。また迦葉は一枝の花房を釈尊より授けられ、それを理解して心の一法を伝えたものが禅宗の根源であるとしているが、これとて仏祖から伝えられたものではないのでしょうか。
また、"祖師無用"と言いながら、達磨を禅祖としています。祖師無用ならば達磨も無用なはずです。また仏の教法を無用と言いながら、朝夕に真言陀羅尼や首楞厳経や金剛経、円覚経を読誦している。仏・菩薩を信用しないと言いながら、禅法の中で南無三宝と行住坐臥に唱えています。すなわち、言っている事とやっている事が、全てバラバラなのであり、自語相違も甚だしい。
>続く
さて、"仏法を論ずる"事についてですが。
まさにそれこそが仏法の実践なのですよ。
それが分からないから瞑想、つまり禅だけでは虚しいんです。
日蓮大聖人は"禅天魔"として厳しく批判しています、いわゆる"四箇格言"の一つです。
禅宗の教義は、“戒・定・慧” の三学のうち、特に“定”を強調しています。すなわち仏法の真髄は決して煩雑な教理の追求ではなく、そのために文字を立てず(不立文字)、教法は仏より伝えられたものではなく(仏祖不伝)、別に伝えられたもので(教外別伝)、仏の経法は月をさす指のようなものであり、月が分かれば経は無用とし、禅法を修することにより、わが身が即仏になり(即身即仏)、人の心が直ちに仏性を見ることが出来る(直指人心・見性成仏)というもので、仏祖にもよらず、仏の教法をも修せず、画像木像の仏菩薩をも否定しています。
しかし禅宗では 仏祖不伝 と言いながら、達磨は付法蔵の二十八祖と称し、東土の六祖より相伝されていると主張されています。また迦葉は一枝の花房を釈尊より授けられ、それを理解して心の一法を伝えたものが禅宗の根源であるとしているが、これとて仏祖から伝えられたものではないのでしょうか。
また、"祖師無用"と言いながら、達磨を禅祖としています。祖師無用ならば達磨も無用なはずです。また仏の教法を無用と言いながら、朝夕に真言陀羅尼や首楞厳経や金剛経、円覚経を読誦している。仏・菩薩を信用しないと言いながら、禅法の中で南無三宝と行住坐臥に唱えています。すなわち、言っている事とやっている事が、全てバラバラなのであり、自語相違も甚だしい。
>続く