184
2017/04/05 00:14
爆サイ.com 南東北版

神道・仏教





NO.5038718

仏教の「お経」や「真言」は悪魔を召喚するための呪文です
合計:
#852016/09/27 22:20
>>80
さて、"仏法を論ずる"事についてですが。
まさにそれこそが仏法の実践なのですよ。
それが分からないから瞑想、つまり禅だけでは虚しいんです。
日蓮大聖人は"禅天魔"として厳しく批判しています、いわゆる"四箇格言"の一つです。

禅宗の教義は、“戒・定・慧” の三学のうち、特に“定”を強調しています。すなわち仏法の真髄は決して煩雑な教理の追求ではなく、そのために文字を立てず(不立文字)、教法は仏より伝えられたものではなく(仏祖不伝)、別に伝えられたもので(教外別伝)、仏の経法は月をさす指のようなものであり、月が分かれば経は無用とし、禅法を修することにより、わが身が即仏になり(即身即仏)、人の心が直ちに仏性を見ることが出来る(直指人心・見性成仏)というもので、仏祖にもよらず、仏の教法をも修せず、画像木像の仏菩薩をも否定しています。
しかし禅宗では 仏祖不伝 と言いながら、達磨は付法蔵の二十八祖と称し、東土の六祖より相伝されていると主張されています。また迦葉は一枝の花房を釈尊より授けられ、それを理解して心の一法を伝えたものが禅宗の根源であるとしているが、これとて仏祖から伝えられたものではないのでしょうか。
また、"祖師無用"と言いながら、達磨を禅祖としています。祖師無用ならば達磨も無用なはずです。また仏の教法を無用と言いながら、朝夕に真言陀羅尼や首楞厳経や金剛経、円覚経を読誦している。仏・菩薩を信用しないと言いながら、禅法の中で南無三宝と行住坐臥に唱えています。すなわち、言っている事とやっている事が、全てバラバラなのであり、自語相違も甚だしい。
>続く

[匿名さん]

#862016/09/27 22:22
>続き
『涅槃経』に「若し仏の所説に順わざる者有らば、当に知るべし是の人は是れ魔の眷属なり」(御書152P)とあるように、教外別伝・不立文字といって仏典を否定し、仏の所説に従わないのは、魔の所為以外の何ものでもありません。 
ゆえに、日蓮大聖人は禅宗を判別して、「禅宗は天魔の所為」(御書1073P)と喝破されています。客観的な法理・教説よりも、自身の凡夫の無明の心を基準にしていくもので、その悟りは仏力・法力の裏づけのない、ただ凡夫の魔に支配された観念にしか過ぎないのではありませんかね?

[匿名さん]

#872016/09/27 22:27
では末法の、なかんずく日蓮仏法の実践とはどのようなものか?
結論を言えば信・行・学の3つです。
信・行・学は、自分自身の生命の変革を目指す日蓮仏法の「修行の基本」となるものです。
日蓮大聖人は、信行学について『行学の二道をはげみ候べし、行学たへなば仏法はあるべからず、我もいたし人をも教化候へ、行学は信心よりをこるべく候(諸法実相抄・御書全集 1361ページより引用)』と仰せになっています。
では、一つずつ説明していきますね。

[匿名さん]

#882016/09/27 22:29
信行学の「信」とは、末法の正法である日蓮大聖人の仏法、とりわけその究極となる御本尊を信じることを言います。このことを「信受(しんじゅ)」とも言い、仏の教えを信じて受け入れることです。これは、仏の境涯に入る為の唯一の道となります。
釈尊の弟子で智慧第一(ちえだいいち))といわれた舎利弗(しゃりほつ)であっても、ただ信受することによってのみ、法華経に説かれた法理を体得することが出来たと説かれています。そして、このことを「以信得入(いしんとくにゅう)」と言います。

[匿名さん]

#892016/09/27 22:34
信行学の「行」とは、生命を変革しゆく為の具体的な実践のことをいいます。
この「行」には、「自行(じぎょう)」と「化他(けた)」の両面があって、車の両輪のように、どちらが欠けても修行は完成しません。
自行とは勤行(読経・唱題)のことで、化他とは弘教(ぐきょう)のことをいいます。
勤行(ごんぎょう)については、『深く信心を発して日夜朝暮に又懈らず磨くべし何様にしてか磨くべき只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを是をみがくとは云うなり(一生成仏抄・御書全集 384ページより引用)』と仰せのように、無明(むみょう)に覆われた生命を磨く唯一の方法が「南無妙法蓮華経」を唱えることであり、これを磨けば必ず、真実の悟りの智慧の明鏡になると仰せです。
弘教とは、自分自身だけが境涯を変革するのではなく、自他共の幸福を目指して、人々に仏法を語っていくことをいいます。
日蓮大聖人は、弘教について次のように仰せです。
「一閻浮提第一の御本尊を信じさせ給へ、あひかまへて・あひかまへて・信心つよく候て三仏の守護をかうむらせ給うべし、行学の二道をはげみ候べし、行学たへなば仏法はあるべからず、我もいたし人をも教化候へ、行学は信心よりをこるべく候、力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし(諸法実相抄・御書全集 1,361ページより引用)」また、「かかる者の弟子檀那とならん人人は宿縁ふかしと思うて日蓮と同じく法華経を弘むべきなり(寂日房御書・御書全集 903ページ> より引用)」。
この「化他行」こそが、仏の使いとして仏の行動を実践する最も尊い行為となるのです。

[匿名さん]

#902016/09/27 22:37
信行学の「学」とは、教学の研鑽(けんさん)をすることであり、「御書(ごしょ)」を拝読することを根本にして、仏法の正しい法理を学ぶことです。創価学会第二代会長の戸田先生は「信は理を求め、求めたる理は信を深らしむ」と申されていますが、仏法を学び理解していくことは、信心の確信を深めていくのです。

小説『新・人間革命』大道14で、池田先生(山本伸一)は、信行学、なかんずく「行」について、次のように言われています(要約)。
信心の基本は『信行学』であるが、御本尊を信じ、題目を唱え、教学を勉強しているだけでは本当の信心ではない。【広宣流布のための活動】があってこそ、真の信心が完結する。
「この人に立ち上がってもらいたい」と指導に足を運ぶ。知人友人の幸福を願いと弘教に歩く。地域の広宣流布のために対話を重ねる。等々、【利他の実践】に至ってこそ、真実の仏法であり、信心の基本である『信行学』のまことの実践となる。

以上が大聖人の仏法の実践の基本です。

[匿名さん]

#912016/09/27 22:52
>>84
悟りとは何か?
池上彰さんではありませんが、良い質問ですねぇw

上野後家尼御返事より抜粋
「夫(そ)れ浄土と云うも地獄と云うも外には候はず・ただ我等がむね(胸)の間にあり、これをさと(悟)るを仏といふ・これにまよ(迷)ふを凡夫と云う、これをさと(悟)るは法華経なり、も(若)ししからば法華経をたも(持)ちたてまつるものは地獄即寂光とさとり候ぞ、たとひ無量億歳のあひだ権教を修行すとも、法華経をはな(離)るるならば・ただいつも地獄なるべし、此の事日蓮が申すにはあらず・釈迦仏・多宝仏・十方分身の諸仏の定めをき給いしなり、」
通解
さて浄土といっても地獄といっても外にあるのではありません。ただ我等の胸中にあるのです。これを悟るのを仏といい、これに迷うのを凡夫といいます。これを悟ることができるのが法華経です。したがって、法華経を受持する者は地獄即寂光と悟ることができるのです。たとえ無量億歳の間、権教を修行しても法華経から離れるならば、いつも地獄なのです。
 このことは日蓮がいうのではなく、釈迦仏、多宝仏、十方分身の諸仏が定めおかれたことです。

簡単に言うならこの御文が良いかと思い引用してみました。

[匿名さん]

#922016/09/27 23:31
>>84
【なに】と聞いている 【それ】のことだよ。

[匿名さん]

#932016/09/27 23:37
>>92
ですから"悟り"について書かれた御書を引用しています。

[匿名さん]

#942016/09/27 23:44
>>84
悟りってのはさ。悟ることだよ。
悟るとは単に物事を知っている(知識として)という意味ではなく、知っている知識を実際の体験で知ること。

例えば、 砂糖は甘いと知識で知っているのは知識
砂糖を実際に舌で甘く感じたなら体験で知った(悟った)ことになる。

つまり、仏法でも学んだ知識が事実かどうか実際に体験して自ら正しいと知ったとき悟ったという。

[匿名さん]

#952016/09/27 23:54
昔の人間が考えた難しいことをひけらかしていても在家の方が理解する筈がないのが拝察できないのだろうか?

≪悟り≫ 自分のおかしな部分に気付き深く考え、中庸とされる均衡のとれた意識で物事を考え、この世を生きる。

[匿名さん]

#962016/09/28 00:07
>>95は≫94匿名さんに対してではありません。
≫91匿名さんに対してなので悪しからず。

[匿名さん]

#972016/09/28 08:09
>>94-95
ありがとうございます、そういう反論を待っていました。
>>94において"悟り"の内容、それもほんの一部を述べた御文を紹介させていただきましたが、敢えてその本質は伏せていました。慢心や驕りではなく正直それを知ろうと思う方はいないと思っていましたから。ある意味嬉しい限りです。

では悟りの本質ですが、それは既に前述させていただいている"信"です。

第二代会長の戸田先生は、「末法の悟りと申しますのは、御本仏・日蓮大聖人様の御観心たる御本尊を一途に信じ切るのが悟りでありまして、それ以外に、悟りは絶対にないのであります。」と仰っています。
世間一般では、仏の無尽蔵の智慧そのものを”悟り”だと思っていて、小難しい経論や修行を学んでおりますが、そうではなくて”御本尊を信じる”ということが”悟り”なのだというのです。

な〜んだ、そんなことかと思う方もいると思いますが、これが、そう簡単なことではないのです。御本尊を本当に信じきれればいいのですが、一時は信じられても、何があっても心底から信じられるのかというと、自信がないのが普通であります。何があっても信じきれれば、それはもう成仏の境涯といってよいでしょう。 

わたしたちの信心というのは、この”信”を確立するための闘争であり、魔もあり、悪業もある中で、壁にぶつかり、悩み、もがきながら、広宣流布のために行動するしかないのです。煩悩即菩提で勝ちとる以外にはありません。

[匿名さん]

#982016/09/28 10:57
>>97
≫95です。ご教示ありがとうございます。前述は横スレでしたがご容赦を。

≫97文中の下3行は、末法と云えるこの世で何が本当なのか?
自身の因縁と業にまみれた奥底にあるズレた意識を、どうすれば中庸に近付けるのか?
それこそが因縁と業を持ち得ながら生きるための教材だと拝察いたします。

私が思うには、日本仏教に於いて“悟りとは仏陀が“悟りの境地に至った”とされていますが一般的に「悟りとは?」特異なものであって、おのずと難しいものだと解釈されている節があるように思えます。

ただひたすら未熟な人間の愚かさ、自分自身の愚かさとズレた意識に気付いて深く考えて自分自身の答えを求めることに尽きるかと考えます。

所詮は地球に生命を宿しているような愚かな人間は、偉業と功績を残した先人を唯一正しいと考え、その跡をひたすら求め近付こうとします。

先人の残したものは自分自身を見直し自分を考える材料であるように思えます。

匿名様の思想を否定するもではありません。あくまで私見ですので悪しからず。

[匿名さん]

#992016/09/28 13:09
>>98
否定されても構いませんよ?w
このような論議は互いに信を深める上で非常に有意義だと思います、ゆえにこのような論議は大好きですよ。

ただ気になったのは、"所詮は地球に生命を宿しているような愚かな人間は、"との部分です。
日蓮大聖人は人間の価値をどう見たのか、我々学会員がどう見ているのかをある御書の講義を転載して紹介したいと思います。
ただ長文ゆえに数スレを消費するかと思いますが、ご容赦を願います。

[匿名さん]

#1002016/09/28 13:22
「阿仏房御書」
○本文
末法に入つて法華経を持つ男女の・すがたより外には宝塔なきなり、
若し然れば貴賤上下をえらばず南無妙法蓮華経と・となうるものは我が身宝塔にして我が身又多宝如来なり、
妙法蓮華経より外に宝塔なきなり、法華経の題目・宝塔なり宝塔又南無妙法蓮華経なり

○背景と大意
・文永9年(1272年)3月13日、日蓮大聖人が51歳の御時、佐渡の阿仏房に与えられた御書。

・阿仏房は、塚原三昧堂で大聖人と出会い、念仏を捨てて、妻の千日尼とともに大聖人に帰依した。

・本抄では、法華経見宝塔品第11で出現する、宝塔の真の意義を示されている。
 宝塔品の冒頭では、「七宝(しっぽう)」で飾られた巨大な宝塔が、大地から出現し、空中に浮かぶ。更に、その宝塔の中から、多宝如来の声がして、法華経を説いていた釈尊を招き入れて、虚空会の儀式が始まる。

・この宝塔が何をあらわしているのか?との阿仏房の問いに対して、大聖人は、法華経をたもつ人の姿以外に宝塔は無いと仰せになり、南無妙法蓮華経と唱える者は、身分や立場に関わらず、宝塔であり、多宝如来(法華経が真実であることを証明した仏)であると述べられている。
 更に、宝塔とは"南無妙法蓮華経"に他ならない、と御教示される。

・その上で、阿仏房自身が宝塔そのものであり、本来、智慧と慈悲を生命に具えた仏であると述べられる。
 そして、この教えを深く信じて、題目を唱え抜く所こそ、宝塔の在り処となると教えられ、阿仏房夫妻に、宝塔を書き著した御本尊を授ける旨を明かされている。

・最後に、阿仏房を北国(ほっこく)の導師と称し、使命の地で、広布に励む模範の信心を称賛されている。

>続く

[匿名さん]

#1012016/09/28 13:28
>続き

○解説
・法華経見宝塔品第11は、法華経の説法の場に居る人々の眼前に突如として宝塔が出現するところから始まる。
 次のように始まる。
 巨大な宝塔が、大地から出現して、空中に浮かんで静止する。その中から、大音声が聞こえてくる。"素晴らしい、素晴らしい。釈尊はよくぞ法華経を人々のために説いて下さった。その通りです。その通りです。釈尊が説かれたことは全て真実です。" こう語ったのが、宝塔の中にいる多宝如来である。
 多宝如来は、法華経が説かれるところに宝塔を涌現させて、法華経の真実を証明させることを誓った仏。

・宝塔の扉が、釈尊によって開かれ、釈迦、多宝の二仏が並んで座る(二仏並坐[にぶつびょうざ]or二佛同坐)という、前代未聞の出来ごとが起こり、虚空会の儀式が始まる。※虚空…空中の意
 ここでは、未来永遠に人々を救い続けて行くために、釈尊滅後の悪世末法で、広宣流布を担う偉大な使命が、釈尊から地涌の菩薩に託される。
 宝塔のスケールは地球の直径の1/3にも及ぶ大きさ。しかも、金、銀、瑠璃などの7つの宝(七宝)で飾られていた。

・今回の拝読範囲の直前で、大聖人は、出現したこの巨大な宝塔とは、実は釈尊の弟子である声門達の生命の中に涌現したのである、と教えられている。
 さらに、釈尊在世と同じく、大聖人の門下もまた、己心の宝塔即ち自らの生命に涌現した宝塔を見ているのだ、と仰せになっている。この後が今回の御文。

>続く

[匿名さん]

#1022016/09/28 13:29
>続き


・「末法に入つて法華経を持つ男女の・すがたより外には宝塔なきなり」と示されている。
 「すがた」とは、外に現れた姿、形、行動である。抽象的、理念的なものではなく、目に見える具体的、現実的な姿であり、懸命に人生を営んでいる一人一人の人間そのもの、と言える。
 妙法を信受すれば、仏界を現して、宝塔のように輝いていけると、人間の真実の、偉大な可能性を示されている。生きた人間を離れて、偉大な宝塔は無い、と言う事である。

・しかも、「貴賤上下をえらばず」と仰せ。
 仏界を現すには、立場や身分などは、一切関わりなく、妙法を唱えるという修行に励んでいく人は、誰もが宝塔であり、多宝如来である、と仰せになっている。

・「妙法蓮華経より外に宝塔なきなり、法華経の題目・宝塔なり宝塔又南無妙法蓮華経なり」
 蓮華経の題目である妙法蓮華経は、宇宙と生命を貫く、根本の法であり、あらゆる仏を成仏させた根源の法である。宇宙の中心に浮かぶ、巨大な宝塔とは、この妙法蓮華経を表わしているのである。ゆえに、自身が妙法蓮華経の当体である、と信じて、南無妙法蓮華経と唱える人の生命には、この宝塔が涌現していることを教えられている。大聖人は、この南無妙法蓮華経の大法、即ち私達の己心の宝塔を映す明鏡として、御本尊をあらわされた。「自分自身が妙法蓮華経である」、「自分の中にあの壮麗な宝塔と等しい、尊極な生命がある」と信じる事が、仏法の肝要である。

>続く

[匿名さん]

#1032016/09/28 13:29
>続き


≪池田先生のご指導≫
 (宝塔出現の意義について)
 「自身に宝塔を見た人は、他者もまた宝塔と見えるのです。自分だけの宝塔もなければ、他人だけの宝塔もない。目覚めた人が次々と多くの人の宝塔を立てていく。宝塔また宝塔の林立が、本当の宝塔涌現の意義です。
 わが胸中に宝塔を涌現させ、さらには、その宝塔を広げていく。宝塔を荘厳する七宝の輝きとは、一人ひとりの人間革命の姿そのものです。」
 
・「一人の人間における、偉大な人間革命は、やがて一国の宿命の転換をも成し遂げ、さらに全人類の宿命の転換をも可能にする」とは、小説『人間革命』の主題である。
 私達の実践が、自他共の幸福を実現し、大きく社会を変えて行くことを確信したい。

・また、池田先生は、年頭の本部幹部会のメッセージで、次のように呼び掛けられている。
 「私たちは、わが地域社会の大地に、仏縁という究極の幸福の種を蒔きながら、これからの地球社会をリードしゆく、麗しき人間共和の先駆のモデルを、賢く仲良く朗らかに、創り広げていこうではありませんか!」と。

以上になります。

[匿名さん]

#1042016/09/28 14:24
≫99〜≫103
詳細をありがとうございます。
日蓮上人と池田氏の引用から、それが本当の事かは判りかねますし「成る程、そうなんですか」としか言い様がありません。生命とは確かに尊厳されるものであるかもしれません。

私自身は人間とは、宝塔に置き換えれる様な立派なものでもなく、おっしゃっているように立場や身分には一切関わりなく、ただ自らが積み重ねた業、因果応報に気付きながら深く考える。

また成仏とは他力本願によらず、あくまでも自分自身の成せる技で成し遂げる事ではないかと思えます。

[匿名さん]

#105
この投稿は削除されました

#1062016/09/28 15:13
>>104
成仏については同意ですね、さらに言えば成仏の"成"とは"ひらく"の意と言うのが大聖人の仏法です。
人間をはじめ、宇宙の全ての有情・無情に仏の生命があると言うのが法華経の肝心です。
誰もが生命の奥低に仏の生命を持ち、それをひらくのが南無妙法蓮華経の大聖人の仏法です。
ゆえに、全てが宝塔なんですよ。

[匿名さん]

#107
この投稿は削除されました

#1082016/09/28 15:34
>>106
104じゃないけど質問

(誰もが生命の奥低に仏の生命を持ち)

仏も生命なのか?
仏とは生まれ死にゆくものなのか?

[匿名さん]

#1092016/09/28 15:47
創価は、悪魔の犬

[匿名さん]

#1102016/09/28 16:18
>>108
はい、良い質問ありがとうございます。
世間一般では"仏"と言うと悟りを得た人、もしくは亡くなった人を指します。
しかし、本来は全てに宿る尊極の生命を指します。
それを説いてあるのは法華経だけで、ゆえに法華経が最高の教えと言われるのです。
天台大師はこれを摩可止観の中で"一念三千"と言う法理で著されました。

一念三千について説明したいのですが。忙しくなってきたので後程。

[匿名さん]

#1112016/09/28 16:24
創価学会と北朝鮮の関係について教えてください。

[匿名さん]

#1122016/09/28 17:26
>>110
そうですか、法華経が最高の経ですか。

【大乗非仏説】って知ってますか?

[匿名さん]

#1132016/09/28 17:27
>>109
一念三千の説明の前に貴方に送りたい御文があります。

各各(おのおの)師子王の心を取り出していかに人をどすともをづる事なかれ、師子王は百獣(ひゃくじゅう)にをぢず師子の子又かくのごとし、彼等は野干(やかん)のほうるなり日蓮が一門は師子の吼(ほゆ)るなり

【通解】
あなた方は師子王ののような強い心をもって、どんなに人がおどしても恐れてはなりません。師子王はどんな獣も恐れません。師子の子もまた同じです。かれら正法に反対する人びとは、野干(野良犬や狐)が吼えているようなものです。日蓮の一門は師子が吼えるのと同じです。(聖人御難事、1190頁)

理も論も無く、ただ悪口罵詈(あっくめり)する貴方の姿は、まさに「野干のほうるなり」であり"負け犬の遠吠え"にしか見えません。

>>111
何の関係もありません。
あると言えるなら、北朝鮮のマスゲームは学会の文化祭を参考にしたらしいと言われているくらいですかね。

[匿名さん]

#1142016/09/28 17:46
>>112
もちろん知ってますよ"大乗経典は釈尊直系では無い"と言う論説ですよね。
しかしながら大乗経典のみならず上座部(小乗)経典のパーリ経典も釈尊の滅後数百年にわたり編纂されていることが明らかなっていますし、最古の経典も釈尊滅後100年前後の編纂とみなされています。
その上で、梵語(サンサクリット語)経典を漢訳した鳩摩羅什(くまらじゅう:344-413年、現在の日本にある漢訳経典のほとんどを漢訳)が法華経を最高教えとしています。
もちろん鳩摩羅什も経典の結集(けつじゅう)を知った上での論ですよ。

[匿名さん]

#1152016/09/28 17:51
>>113

嘘をつくな!創価学会が北朝鮮と覚せい剤等の麻薬取引やってるのは知ってんだ。創価学会は、天皇の親衛隊もやるし、アメリカの犬もやるし、個人への集団ストーカーもやるわで忙しいね。

[匿名さん]

#1162016/09/28 21:21
>>113

失礼した。創価学会の中にも知らない人もいるんかもしれないな。
ただ、実際やってるんだよ。自殺者まで出てるんだよ。
自民党清和会と警察が主導し、創価学会も現場でやってる。

あなたが創価学会で立場がえらい人間であるなら今すぐこんな悪魔にも劣る行為やめさせてくれ。

役所全てがこの委託集団ストーカーに歩調を合わせ、 警察では「まるA」と言って米国情報機関関係案件は知らんぷりします

[匿名さん]

#1172016/09/28 21:32
>>115-116
相変わらず都市伝説ですか?
何度も言いますが、あなた方の言っている事は事実無根ですよ。

ではお待ちかね、次レスから一念三千の説明に入りますね。

[匿名さん]

#1182016/09/28 22:02
では一念三千を
一念三千とは我々の一念(生命)の中に三千世界がそれぞれ具わっていると言う法門です。

まず簡単に説明すると我々の生命の中に十界があり、また十界のそれぞれに十界が具わり(十界互具)。さらにそれぞれに十如是を具え(百界千如)、さらにそれぞれに三世間が具わり一念三千となります。
ではまず十界から。
十界とは生命の状態、境涯を10種に分類したもので、仏法の生命観の基本となるものです、十界の法理を学ぶことによって、境涯変革の指針を得ることができます。
十界は、"地獄界""餓鬼界""畜生界""修羅界""人界""天界""声聞(しょうもん)界""縁覚(えんがく)界""菩薩界""仏界"の10の境涯です。
このうち地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天をまとめて"六道(ろくどうorりくどう)"といい、声聞・縁覚・菩薩・仏をまとめて"四聖(しせい)"と言い、"四聖"は仏道修行によって得られる境涯です。
日蓮大聖人は私たちの生命に具わる六道について、観心本尊抄で次のように述べられている。
「数(しばし)ば他面を見るに或時は喜び或時は瞋(いか)り或時は平に或時は貪り現じ或時は癡(おろか)現じ或時は諂曲(てんごく)なり、瞋るは地獄・貪るは餓鬼・癡は畜生・諂曲なるは修羅・喜ぶは天・平かなるは人なり」(御書241頁)
この御文に基づき、六道の一つ一つについて述べていきます。

>続く

[匿名さん]

#1192016/09/28 22:31
>続き
◆地獄界
地獄は、もとは「地下の牢獄」という意味で、地獄界は苦しみに縛られた最低の境涯をいいます。
「地」は最低を意味し、「獄」は拘束され、縛られた不十分さを表します。
大聖人は、観心本尊抄で「瞋(いか)るは地獄」と仰せです。「瞋り」とは、思い通りにいかない自分自身や、苦しみを感じさせる周りの世界に対して抱く、やり場のない恨みの心です。
いわば「生きていること自体が苦しい」「何を見ても不幸に感じる」生命状態が地獄界です。

◆餓鬼界
餓鬼界とは、欲望が満たされず苦しむ境涯です。
餓鬼とは、古代インドではもともと「死者」を意味し、常に飢えて食物を欲しているとされていました。
「貪るは餓鬼」とは際限のない欲望にふりまわされ、そのために心が自由にならず、苦しみを生じる境涯のことです。
もちろん、欲望そのものには善悪の両面があります。人間は、食欲などの欲望がないと生きて行けませんし、欲望が人間を向上させるエネルギーとなる場所もあります。しかし、欲望を創造の方向に使えず、欲望の奴隷となって苦しむのが餓鬼界です。

◆畜生界
畜生という言葉は、元来は獣や鳥などの動物を指します。畜生界の特徴は、目先の利害にとらわれ、理性が働かない「愚かさ」です。
「癡(おろか)は畜生」とは、因果の道理が分からず、善悪の判断に迷い、目先の利害に従って行動してしまう境涯です。
また、「畜生の心は弱きをおどし強きをおそる」(佐渡御書)といわれるように、畜生界の生命は、理性や良心を忘れ、自分が生きるためには他者をも害する弱肉強食の生存競争に終始する境涯です。目先のことしか見えず、未来を思考できない愚かさの故に、結局は自己を破滅させ、苦しむのです。

以上の三つは、いずれも苦悩の境涯なので「三悪道(さんあくどう)」といいます。

>続く

[匿名さん]

#1202016/09/29 01:25
我が街に住んでいる創価学会の人は当に餓鬼界・畜生界の境涯にいます。

仕事もまともにできないのに給料は人一倍欲しがり、パチンコに負けると愚痴をこぼす。

お金が底をつくと集りまで平然とする。
しかも自己中で我が儘放題です。

選挙のときだけ頭を下げるが普段は挨拶もしない。
常に無口で陰険の表情は近所でも嫌われてます。

[匿名さん]

#1212016/09/29 02:38
>>120
創価学会の人はパチンコはしません

[匿名さん]

#1222016/09/29 03:14
(心頭滅却すれば火も又涼し)
とは、どのように解釈すれば良いですか?

[匿名さん]

#1232016/09/29 07:39
>>120
そんなことは本人に直接言って下さい。

>>121
いますよ、
私も以前はほどほどに嗜んでいました。

>>122
滅却しても熱いものは熱いですよ。
要は観念論かと。

ではまた一念三千の十界論に戻りますが、仕事もあるのでのんびり待っといて下さいw

[匿名さん]

#1242016/09/29 07:44
>>121
君さぁ、無知なのは罪だという事を知らないの?

[匿名さん]

#1252016/09/29 10:54
>>124
ちゃかしているだけなんでしょw

[匿名さん]

#1262016/09/29 17:10
それではお待ちかね。

>続き

◆修羅界
修羅とは阿修羅、すなわち争いを好む古代インドの神の名です。
自分と他者を比較し、常に他者に勝ろうとする「勝他の念」を強く持つのが修羅界の特徴です。
他人と比べて、自分が優れて他人が劣っていると思う時は、慢心を起こして他を軽んじる。そして、他者の方が優れていると思う場合でも、他者を尊敬すら心を起こすことができない。また、本当に自分より強いものと出会った時には、卑屈になって諂う。
自分を優れたものに見せようと虚像をつくるため、表面上は人格者や善人をよそおい、謙虚なそぶりすら見せることもありますが、内面では自分より優れたものに対する嫉妬と悔しさに満ちている。このように内面と外面が異なり、心に裏表があります。
故に、大聖人は「諂曲(てんごく)なるは修羅」と説かれています。「諂曲」とは自身の本音を隠して相手に迎合していくことです。「諂」は「へつらう・あざむく」という意味で、「曲」は「道理を曲げて従う」ということです。
この修羅界は、貪瞋癡(とんじんち)の三毒(貪り、瞋り、癡という三つの根本的な煩悩)にふりまわされる地獄・餓鬼・畜生の三悪道と異なり、自分の意思で行動を決めている分だけ三悪道を超えているといえます。しかし、根本的な苦しみを伴う不幸な境涯なので、三悪道に修羅界を加えて"四悪趣"ともいいます。

次回は人界です。
>続く

[匿名さん]

#1272016/09/29 17:21
>>126
必死に長文書いてるとこ悪いけどさ

その、ありがたがってる経も含めて

【方便】なんやで

[匿名さん]

#1282016/09/29 17:48
人の考え方をそのまま取り入れるのは、如何なものかな?
以前から引用ばかりで自身の思いや考え方を表現していない。人の考え方に囚われているだけのようだとしかおもえないのだが。

[匿名さん]

#1292016/09/29 17:55
>>128

それが創価の教え。絶対的な洗脳。解釈の余地はなくす。
事故を犠牲にし池田犬作のために生きろが信念。

[匿名さん]

#1302016/09/29 21:05
>>127
では何が真実かどうぞ。

>>128
私の考えは随所に織り込んでいますよ?
引用しているのは仏法の基本的な部分です。
数学や科学の公式を用いるのに、「人の考え」なんて言いませんよね?

>>129
引用しているのは他の宗派にも共通している部分もあるのですが?
型通りの罵詈雑言は、貴方こそネットの学会批判に洗脳されているように見えますよ?
理も論も無い、ただ感情的な批判。が故に"野干のほうるなり"といわれるんですよ。

[匿名さん]

#1312016/09/29 21:15
>>130
仏法が公式と比定するとは、囚われた思考ですな。
あまりにも偏っている。情けない方だな
自分本意の甚だ勝手な判断だな!
とりあえず頑張って下さい♪

[匿名さん]

#1322016/09/29 21:42
>>130
(では何が真実かどうぞ)
だから言っているじゃないかw

【方便】なんだよってw

君の大好きな釈尊はこんな事を言っていたよ
『犀のツノのようにただ一人歩め』

[匿名さん]

#1332016/09/29 23:58
>>131
誤字のせいか何を言っているか分かりづらいのですが、比喩を理解出来ませんかね?

>>132
スッタニパータの蛇の章の一文ですね。
漢訳はありませが、上座部経典ですね。
釈尊一代の教えは、五時八教と言って五つの時代、八つの教えに判釈されます。
五時とは、釈尊が教えを説いて順に"華厳""阿含(鹿苑)""方等""般若""法華・涅槃"の五つです。
八教は"化法の四教"と"化儀の四教"に分かれますが、今回は五時に焦点をあてます。
五時は前述のように五つの時代ですが、なぜ分かれているかというと、釈尊が悟りを得て最初に説いたのが華厳時ですが、これは釈尊が衆生の機根(きこん:仏の教えを聞いて理解しうる能力)を計るもので、教えの内容は般若時より深く、法華時より浅いものでしたが、衆生が理解出来なかったので、最も浅い阿含の教えから次第に衆生の機根を教化調熟していきました。
例えれば、大学レベルの数学を教えてみたけど、全く分からなかったので小学校の算数から教えて次第にレベルを上げていく。といった感じですかね。
阿含時に説いた教えが上座部の教えでスッタニパータもこの時代の教えと思われます。
阿含時の教えは、バラモン教にとらわれている衆生を釈尊の教えに導く初歩の初歩です。
そして、時代が流れ法華経を説く時に「正直捨方便。但説無上道。」と説いています。
スッタニパータで法華経を方便と判するのは、前述の例えで言えば、小学校の算数で素粒子力学や大統一論を方便と判するのと同じです。
まぁ見ていて微笑ましいですが。

[匿名さん]

#1342016/09/30 00:13
>>133
【方便】で君に伝わらないのであれば
質問を変えるね

君は議論する事も仏法だといったいるが

何故、釈尊は議論を禁止したのだろう?

[匿名さん]


『仏教の「お経」や「真言」は悪魔を召喚するための呪文です』 へのレス投稿
レス本文 必須 750文字まで:残り750文字

スタンプ

NEW!
任意入力フォーム

お名前 任意 16文字まで
E-mail 任意

※削除パス機能は廃止しました。
会員は、投稿から24時間以内であれば削除パスなしで
削除できます。
詳しくは「削除パス廃止のお知らせ 」をご覧ください。
今すぐ会員になる

📘 ローカルルール
スレッドタイトルは、タイトルを読んで中身がわかるように心がけて下さい。
スレッドは立てる前に、重複していないか確認してから立てて下さい。重複スレッドは削除対象となります。
重複スレッドを発見した場合は、スレッド下部にある「重複スレの報告」フォームよりご連絡下さい。
誹謗中傷による書き込みは利用規約違反になりますのでお止め下さい。
投稿前の注意
  • 掲示板あらし行為URLの記載は 一回で書込み禁止措置と致します。




HOT!オススメ! ⇒ 宗教総合/ 創価学会/ キリスト教/ 幸福の科学/

🌐このスレッドのURL