私の意見として、他者からどう見えるのか、というのが割と大事なところだと思っています。
私が「悟りを開いた」と叫んだとして、一体誰がそれを信じるんでしょうか?
修行によって得られた集中力を悟りの証とする人がいるようですが、似たような集中力を得るためならば、修行なんて必要ありません。
いえ、ある意味で修行ではあるかもしれませんが。
つまり、専門職を極めることに邁進していれば、似たような境地に達することは可能だということです。
問題は、それが仏陀の「悟り」と同じものなのか、ということですね。
残念ながら、正しいとも間違っているとも、証明することはできません。
>>268
「悟り」を開いていても、分からないことはありますよ。
それは、「同じ境地に達した他人の心」です。
これは多分なので間違っていたら申し訳ありません。
仏教では最高指導者と同列の他人というのは、想定されていないのではないでしょうか?
>>272
一休宗純には奥さんがいて、子供も作っていたそうです。
で、2人とも弟子にしていたんだとか。
どういう意味での弟子なのかは知りませんが。
ちなみに、彼は奥さんを持つ以前から色々な戒律を破って、当時の仏教界を批判する破戒僧だったそうです。
当時の仏教界は腐っていることで有名で、色々な理由を付けて贅沢をしたり、不犯の戒律の抜け道として男色が流行っていたんだとか。