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曹操の死後18年後くらいの魏国に邪馬台国の卑弥呼の使者が朝貢に行ったという。
景初2年(西暦238年)6月 倭の女王は大夫の難升米等を(帯方)郡に詣いるよう遣わし、天子に朝獻を求める。太守の劉夏は吏將をつけて京都(魏の都)に送った。
正始元年(西暦240年)、太守の弓遵が中校尉の梯儁らを遺わし、倭國に詣りて詔書・印綬を奉じ倭王に拜假した。また、金帛・錦・罽・刀・鏡・采物をもたらした。倭王は謝恩の上表文を詔した。
その8年、太守に王頎が到官。倭の女王の卑彌呼と狗奴國の男王の卑彌弓呼は元より不和で、倭は載斯・烏越たちを郡に遣わし、互いに攻擊している状態を説明した。塞曹掾史の張政たちを遣わし、詔書と黃幢を難升米に拜假し、告喻しこれを檄した(木札に書いた)。卑彌呼は死んでおり、塚が大いに作られ径100歩ほど、狥葬者は奴碑100人ほど。つぎに男王が立つが國中が従わず、互いに殺し合い当時1000人くらい殺された。その後また卑彌呼の宗女の壹與という13歳の者が王になり、國中がついに定まった。そういう訳で政(張政)たちは壹與に告喻し檄したのである。壹與は倭の大夫の率善中郎將の掖邪狗たち20人を遣わし、政(張政)たちが還るのを送るとともに、臺(魏の都)に詣り、男女生口30人、貢白珠5000孔、青大句珠2枚、異文雜錦20匹を獻上した。