藤波辰爾この人若い頃はインタビューでもスラスラしゃべってたが段々滑舌悪くなってきたな…
[匿名さん]
一時間位前のNHKラジオで藤波辰巳の歌う「マッチョドラゴン」が流れた
他にもバロムワンや宇宙鉄人キョーダインの主題歌とか 昭和懐かし特集だった?
[匿名さん]
藤波はそんなことないよ
最初からあんな喋り
飛竜革命の時も何言ってるか分からん
[匿名さん]
笑っていいともや新婚さんいらっしゃいに出た時はマトモに喋っていたよ
[匿名さん]
毎度お騒がせしますに出ていた頃は滑舌悪くなっていた。山本小鉄、ジョージ高野も出ていた
[匿名さん]
藤波は陸上部だった中学時代、テレビを見てプロレスラーへのあこがれを抱いた。親に内緒で実家のある大分・東国東郡(現・国東市)から、大分市内へプロレスを見に行っていた。チケットは市内で働いていた兄が用意してくれた。頭の中はプロレスでいっぱい。自転車で約4時間。山越えの険しい砂利道も全く苦にならなかったという。
藤波 ただプロレスが見たいという一心で勇気を振り絞って。たまに学校をサボって行ったこともあるくらい(笑い)。親には怒られたが、授業のことなんか頭になかった。今から思えばよく行ったなと。
興味とは反対にケンカは嫌いだった。体が大きくいじめには遭わなかったが、痛いのが嫌で、学校での柔道ですら怖かったという。中学卒業後、工場で働いていたが「プロレスラーに会いたい」という欲求を押さえきれず、自ら行動に出た。同郷の北沢氏が足の療養で別府温泉に来ていることを聞き付け、探しに行った。兄と旅館を何十軒も歩き回り、やっとのことで北沢と対面した。
藤波 プロレスラーは怖いイメージがあったから、兄についてきてもらった。(北沢は)小さい方だったけど、大きく見えたなあ。足も震えていた。あの熱意は今でも不思議に思う。何かに取りつかれていたような感じだった。
藤波の熱意に北沢が応え、一緒に上京した。格闘技をやる性格でないことは親も承知。意志を伝えると驚かれ、反対されたが、押し切った。日本プロレスの門をたたいた。周りは相撲や柔道、格闘技の経験がある猛者ばかり。正式な入門もしていない藤波は当時、第一線で活躍していたアントニオ猪木に出会う。初めて聞いた猪木の言葉は「おい北沢、あいつ誰だ?」だった。北沢氏が「同じ田舎のプロレス好きで、猪木さんのファンだから連れて来たんです」と紹介してくれた。
藤波 相撲部だったら親方がスカウトしてくれる。プロレスは大衆化していないので、よほどケンカが強いか、柔道の有段者とかしか入って来られなかった。自分は異例中の異例だった。
「北沢さんに会ってなかったら今の自分はない」。心優しい藤波少年の熱い思いが運命の出会いを呼び、夢の実現につながった。日本プロレス入門後、家族以上の付き合いとなる猪木の厳しい指導が始まる。
[匿名さん]
コールされると
腕、胸、叩いてそしてガッツポーズというルーティン
[匿名さん]
腰を負傷したことがその後のプロレス人生の幅を狭めた。
[匿名さん]
猪木の後継者みたいな立場になった事が不幸
本人にも新日にも
[匿名さん]
ジュニアで猪木と同じ事をやってればよかったのにヘビー転向したら猪木がそれを許すはずないし
[匿名さん]
藤波は日本プロレス入門から半年後、除名された猪木と一緒に脱退、翌年の新日本旗揚げに参加した。
「今の新日本を作っている」という当時の猪木の練習はとにかく厳しかった。年200日以上の試合をこなしながら、練習も手を抜くことは許さなかった。
つまらないパフォーマンスをすれば、試合中でもリングに乱入してきて殴られた。試合前に角材で殴られ、流血しながらリングに上がったこともあったという。
藤波が78年に海外から帰国し、「ドラゴンブーム」の人気絶頂時でも、全体に気合を入れるための見せしめとして、殴られ続けた。
藤波:試合を止めることもよくあった。お客さんはただ猪木さんが乱入してきただけだと思っていて、実際には何が起こっているのか分かっていない。
相手のことよりも、いつ猪木さんが控室から竹刀を持ってやってくるか、びくびくしながら試合をしていた。馬場さんの全日本に負けるな、というのもあったと思う。
[匿名さん]
飛龍革命で沖縄の体育館控え室で猪木と言い争い猪木にビンタ返ししたものの
そのあと宿泊ホテルで思い直して猪木に「あれはすみませんでした」と謝った
[匿名さん]
そういえばテレビ朝日のカメラをはじめ、大勢のマスコミ関係者がレスラー控室にいたのは不自然だな
[匿名さん]
大きな試合では何が起きるかわからないから常に控えてるよ
なにしろガチンコだからね
[匿名さん]
こんな会社辞めてやる〜!
居座って社長の座をゲット
[匿名さん]
実際見ると本当に小さい人だった
体が小さいだけでなくオーラが無いと言うか……
プロレスラーと言うより笑顔の素敵な優しい芸能人みたいな人だった
[匿名さん]
67歳で頭も薄くなり腹もたぶついているが、今だに現役なのは体格が大柄ではないからだろう。
[匿名さん]
いい人いいレスラーだけど強くてカリスマ性は無いレスラーだった
[匿名さん]
純粋に猪木ファンだった普通の少年が猪木への憧れだけでプロレスラーになったようなもの
[匿名さん]
I never giveup
格好いい言葉だし信条としても素晴らしい
しかしギブアップしない事で相手の技が軽くなってしまった
さらにギブアップしてはいけないみたいな風潮が80年代の日本マット界を支配
関節技には不遇の時代となった
[匿名さん]
67歳・藤波辰爾 敗れる「勘が狂ったね」 殿堂入りレスラー6人中唯一の現役 9/16(木) 6:30配信
8人タッグ戦で敗れた藤波辰爾。左は新崎人生、右は越中詩郎
「プロレス・日本プロレス史70周年記念大会『LEGACY』」(15日、後楽園ホール)
日本プロレス殿堂会初の主催大会の2日目が行われ、同会が選出した殿堂入りレスラー6人の1人で唯一現役の藤波辰爾が8人タッグ戦に出場した。
67歳の藤波は、72歳の藤原喜明と激しくやり合い終盤には入江茂弘にドラゴンスクリューを繰り出すなど奮闘したが、最後は相棒の阿部史典が佐藤耕平に仕留められた。
コロナ禍の影響で久々の試合だったこともあり、試合後は「勘が狂ったね」と悔しげな表情。
「自分の気持ち中では現役続行中なので。ペースを上げて試合数を多くしていかないと、地に足がつかない。みちのくプロレスで修行しないと」と、同団体所属で相棒の陣崎人生に笑顔で問いかけた。
[匿名さん]
凱旋帰国してドラゴンブームの頃によくジャンボ鶴田と比較された。二人が対戦することはなかったが、やはり鶴田と藤波ではレベルが違うと思う。
[匿名さん]
67歳藤波辰爾、23年ぶりシングル戴冠「50周年にビッグなプレゼント」
<プロレスリング・ヒートアップ川崎大会>◇17日◇とどろきアリーナ
67歳の藤波辰爾が、98年の新日本IWGPヘビー級以来となるシングルのベルトを手にした。
ヒートアップの「ユニバーサル&PWLWORLDCHANPIONSHIP」2冠王者のTAMURAからコブラツイストでギブアップを奪い、タイトルを奪取した。
勝利後、帰ろうとするTAMURAを呼び止め「(デビュー)50周年の年にこんなビッグなプレゼントがあるとは。若いころを思い出させてくれてありがとう」と感謝の言葉を伝えた。
[匿名さん]