松原山八正寺領
松原八幡神社領
叶田井 金田村 菊田村 兼田村
[匿名さん]
兼田遺跡
兼田1号墳
兼田2号墳
兼田3号墳
兼田4号墳
兼田5号墳
[匿名さん]
そういえば、自分の会社の年寄り🧓は、変な自慢する人が、いました!
変わった人でした。
[匿名さん]
昔、市川が、今ほど整備されていなくて、
河原地で、すぐに氾濫し、おまけに下が、河川敷なので、水はけがよすぎて、田んぼの水が
すぐに抜けていました。
稲作に適していませんでした。
つまりは、江戸時代は、貧乏村ということでした。
ホンマのこと言ってすみません。
うちのなくなった、父が、言っていました。
父は、そこに住んでいたので、本当です。
[匿名さん]
逆に、米ができにくいですが、水はけが良いので芋🥔とか野菜🥦🥬は良く出来て、市場に出荷して、現金収入は有りましたね。😊
[匿名さん]
兼田は明治時代に3回の堤防結界の大洪水に遭い、米が全部パーになった。
人々はそこで、こいも(兼田海老芋)の収穫に出た、
それが大当たりして京都の料亭にも出荷、天皇陛下にも献上した。
後、兼田の土は陶器造りにも大活躍した。
[匿名さん]
温故知新ということで、将来を考えるには、昔のことも知ることは大事だと思います❗️😊
[匿名さん]
国府山 袴垂城(妻鹿家)
北半分 金田村(兼田領)
南半分 目賀津(妻鹿領)
[匿名さん]
兼田村 中世(平安末期〜室町期)
戦国期に見える村名。播磨国飾東『しきとう』郡のうち。
延徳3年6月12日の浦上則宗書状に『三野南条内兼田村』とある(松原八幡神社文書)。
文亀2年分の年貢算用を記した松原八幡神社年貢算用状には、兼田分として田数2町2反25代があげられている(松原八幡神社文書)。
また永正18年9月6日の浦上村宗奉書では、松原荘、兼田村、目賀村、緋田荘(四郷町明田)、大塩村の商人らの諸公事免除が認められている(松原八幡神社文書)。
当時の兼田村には松原八幡神社の所領が存在すると共に、商業にたずさわる人々がおり、彼らは松原八幡宮の神役を勤める事でその活動を保証されてきた事が知られる。
文禄3年10月17日の入部御用銭割付状によれば、当時の村高は255石であった(芥田文書)。
[匿名さん]
三野(中世)
鎌倉期から見える地名。播磨国飾東郡のうち。古代の三野郷は中世に入ると三野北条、三野南条に二分したと思われる。ただし三野北条は中世の史料に見えない。正応2年5月6日の関東御教書によれば、松原社と地頭小野幸蓮の間で(三野南条内目賀津百姓)の神役をめぐって相論が起きている(松原八幡神社)。この相論は正安2年4月日三野南条郷地頭小野幸員と松原別宮惣検校任耀の間で和与が成立している(同前)。三野南条のうちには目賀村、本郷、水上村、兼田村が含まれ松原八幡社領が存在した(同前)。また(政所方書)によれば(三野南条継、緋田両庄内一分地頭職)は目賀の善同庵領であり三野南条は継荘、緋田荘をも含むものであった(室町幕府引付史料集成上)。一方文亀2年松原八幡神社年貢算用状に(三野分)と見える(松原八幡神社文書)。大永2年5月赤松則職は大村政所に国分寺への狼藉を停止するよう(三野庄内農長以下)に命じたとされる(播磨鑑)。また(大館常興日記)天文9年9月2日条に松田三郎の知行分として三野荘があった。なお文禄3年6月5日豊臣秀吉が小出吉政に与えた知行目録に[同(播州飾東郡)ミノむら]と見える(金井文書/姫路市史史料編1)。
[匿名さん]
『播州飾磨郡松原山八正寺神事軌式之亀鏡』
中世後期 松原八幡宮の例大祭史料
ー[灘の松原自治会]所蔵の貴重史料 ー
一、神馬三疋、馬草、金田村より出る。
応永三年(一三九六)九月
〈神馬三疋、馬草〉 神馬は神様が乗る馬。三疋は三匹と同じ。神馬三匹とその馬草(秣)なのか、神馬三匹の馬草なのか、はっきりしませんが、当時の松原八幡宮と金田村(兼田村)との密接な関係から考えて、おそらく神馬三匹とその馬草と思われます。
〈金田村〉 兼田村のこと。兼田は、荘園時代に松原荘が荘園外に荒地を開発してできた田、すなわち加納田が訛った村名と思われます。
[匿名さん]
ささくれ太鼓、どんな音色やろの、削ったら使えるやろか。
もーあかんかな?
[匿名さん]
兼田村
かねだむら
兵庫県:姫路市>旧飾磨郡地区>兼田村
(現在地名)姫路市兼田
飾東郡に所属。市川の左岸に位置し、南は妻鹿村、東は北原村。集落は上兼田と下兼田に分れて発達している。嘉吉三年(一四四三)一一月四日の青木重行下地寄進状(松原八幡神社文書)によると、三野南条本郷のうち「兼田」の一段の地が松原八幡宮に寄進されている。文亀二年(一五〇二)分の松原八幡宮年貢散用状では兼田分として田二町二段余がみえ、分米一七石余のうち一一石余が納入されていた(同三年八月吉日「重慶等連署散用状」同文書)。永正一八年(大永元年、一五二一)九月六日には「兼田村」などの商人が松原八幡宮の神役を勤める代償として諸公事を免除されていた(「浦上村宗奉書」同文書)。
[匿名さん]
昨日、兼田のポンプ場のとこパトカーが土手道ふさいどったけど何かあったん?
[匿名さん]