宗教の問題は端的に言って「自立」と「依存」で分類できます。
そもそも自然に対する感謝、崇拝の儀式は世界中にありました。獣に近かった人間には「感謝」の軸が必要でした。感謝こそが人間たらしめるものでした。そこに仲介者が誕生し導き始めました。ここで自然に対する感謝のトーラスが、自然のサイクルに沿う形で出来上がりました。(仲介者の本分:貢献)「自立させるのが目的」だから自然のサイクルの中で生きる視点になるのです。
しかしその本文を超え、己を崇拝させる輩が誕生しました。そこから偶像は誕生し、宗教は誕生し、洗脳奴隷も併せて誕生しました。これは自然のサイクル、トーラスから逸脱した形態になります。サイクルにパイプを設け抜き取る様なものです。(利用)「依存させるのが目的」だから自然(人間含む)への支配的な視点があるのです。
宗教の偶像崇拝の指摘は…宗教における弾圧の歴史と、その中での「何とか後世に真実を伝えたい」という活動の、人類の積み重ねた歴史です。真偽とも善悪とも分類できます。偶像崇拝の問題は像の有無の問題では無く、像(固定対象)を設けてトーラスを捻じ曲げる事を問題視しているのです。
自然を無視して前進すれば、たどり着くのは生物の破滅です。
文化の元が一緒だったのでしょう、聖書にしろ韻を含んだ表現が多く残されています。
イザナギが黄泉の国へ迎えに行った時、暗闇で化け物へと変貌していたイザナミの話は…
夫婦(一体)であった筈のモノが宗教へと変貌した問題を示唆しています。後に来るであろう大問題を、化け物と表現しています。(選民思考、自然の破壊、絶対と絶対の宗教紛争)
be continue
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