清水アナウンサーは「キム・イル大木金太郎」と丁寧に連呼していた
[匿名さん]
大木金太郎が修徳高校の柔道部にキム・ドクをスカウトしに来た話は有名
[匿名さん]
晩年は無茶な頭突きの後遺症で強い頭痛に悩まされたとか
[匿名さん]
晩年近く大木にとって何のメリットがない国際プロレスに入団したのは、当時経営的に苦しい国際プロレスを何とかしてやりたいとう大木の人柄があったのかな?
[匿名さん]
耳をもぎ取られそうになった時の対戦相手はだれだっけ
[匿名さん]
戸口正徳は日プロの若手時代にゴッチ教室に熱心に参加
[匿名さん]
赤塚不二夫原作マンガ「もーれつア太郎」に出てくるア太郎の子分の強靭な石頭を持つデコぱちのモデルは大木金太郎だった。
[匿名さん]
小学生の頃、土曜の夜に1時間枠でプロレスやってた時代
爺ちゃんがプロレス好きで一緒にテレビを見てて金太郎選手のファンになった記憶がある。
[匿名さん]
子供の頃、府立体育館前で大木選手に握手してもらった
大きな固い手でニコッと笑って握手してくれたのが忘れられない
うれしかった
[匿名さん]
韓国では英雄らしいからね。
プロレスにあまり興味なさそうな女の人でも、キム・イルの名前だけは知ってるみたい。
日本で言えば、馬場や猪木は誰でも知ってるような感じか
[匿名さん]
1959(昭和34)年9月4日、東京・日本橋浪花町プロレスセンターでデビュー。デビュー戦の対戦相手は、後に全日本プロレスのレフェリーとして有名な樋口寛治(ジョー樋口)。
その後は先輩のミツヒライ、ユセフトルコ、吉原功、ミスター珍、田中米太郎らに連戦連敗。記念すべき初勝利は、1960(昭和35)年9月、東京・台東体育館での猪木寛至戦(アントニオ猪木のデビュー戦)。
当時、大木金太郎31歳。1年遅れで入門した後輩、馬場正平は22歳、猪木寛至は17歳。
出世は馬場が最も早く、1961(昭和36)年6月にはアメリカマットへ海外武者修行が決まるので、1960(昭和35)年4月からの1年3か月間が「道場三羽鳥」の期間。
[匿名さん]
今から46年前の1975年3月27日には大木の母国である韓国・ソウルで、猪木が大木の保持するインターナショナルヘビー級王座に挑戦した。
「韓国のプロレスファンを沸かせた一戦は27日夜、ソウル市の奨忠体育館に超満員8000人の観衆を集めて行われ、“韓国の英雄”大木が大奮戦した。左耳を切って血まみれになりながらも、頭突きを連打。場外に落としたが、逆に足4の字につかまって両者リングアウトに終わった。
猪木はパンチで左耳に集中攻撃。大木の左耳に血がにじむ。怒った大木は火が噴くような原爆頭突き。猪木は耐える。2発、3発…しかし4発目でついにダウン。猪木は飛ばされて場外に落ちた。館内総立ち。エプロンに手をかけると大木の頭突きが飛んでくる。5発、6発、7発。猪木はリングアウト負け寸前だ。
しかし8発目、猪木の右フックがカウンターでヒット。形勢逆転だ。猪木はすかさず大木の足を取って珍しく足4の字固め。大木は裏をかかれた。自分の必殺技で猪木に足をからめられ、すっかり慌て気味となる。猪木は裏返しにされるとスネを痛めると判断したのか、体をよじって反転した。20秒、30秒…すさまじい声援の中でドーンという大音響。両雄は足4の字をかけ合ったまま場外に転落した。観客は総立ち。ついに20カウントが数えられた。
ざわめくリング上では、猪木と大木が健闘をたたえ合って抱き合う姿がスポットで照らされる。昨年10月10日蔵前国技館のあのシーンが再現された。しかし戦いは続く。両雄は来る4月4日に蔵前国技館で開幕する第2回Wリーグ戦公式戦でまた当たらなければならないからだ」
結局、再戦となったWリーグ戦公式戦は大木が大混乱の末にリングアウト勝ち。しかし猪木は、大木とキラー・カール・クラップに喫したリングアウト負けのみで決勝トーナメントに進出。決勝戦でクラップを撃破して2連覇を達成した。
[匿名さん]
大木は80年2月に国際プロレスに入団。そこで新技に出会う。
それは「卍」ではなく「X」(エックス)…X固めと命名されたアバラ折り。それを「授けた」のはマッハ隼人だった。
80年5月15日、大宮スケートセンターでのジョー・ルダックとのインターナショナル・ヘビー級選手権の3本目…私はこの技を観た時に即、“マッハが教えたな”とわかった。その後、7月1日、大阪でのジプシー・ジョーとの防衛戦でもこの技がフィニッシュだった。
マッハにこのことを聞くと「大木さんから“自分に合うメキシコの技を教えてほしい”と大先輩なのに言って来られたので、私の(マッハ)ノートの中からお教えしました。僕みたいペーペーに対して、とっても謙虚なのに恐縮しましたよ」と言っていた。そのあたりに大木の大木らしい人柄のいい部分が出ている。
[匿名さん]
キムチ固め、万景峰号スープレックス、カクテキドロップ、正恩バスター
[匿名さん]
※大木のX固め。卍より安定感があるが、ネーミングがダサかった。
X固めは足のフックが卍固めと同じなのだが、相手の左腕を一緒に絡めることで動けなくするというのが最大のポイントだった。
事実、卍固めよりも掛ける側に安定感があり、卍は片腕が自由なのに対して、Xは両腕を殺している。そのため脱出手段がない…とても理に適った技だったのだ。
選手としてピークが過ぎた時期に、この技と出会ったのは惜しい。それも国際の最晩年だからアピール度は低下しおり、インパクトにも欠けた。
もし日本プロレス時代の全盛期の大木金太郎がこの技をやっていれば、猪木に引き離されずに済んだのではないかと思ってしまう。遅すぎたプレゼントだった…。
[匿名さん]
若手三羽烏時代もあったようだが馬場猪木と大木じゃ格が違いすぎる
大木棚ぼたエース時代の日プロはあっさりと崩壊
頼みの綱、韓国プロレス界の英雄の座維持のため私利私欲に走り過ぎた
[匿名さん]
日本の二大スーパースターの馬場・猪木には敵わずだったのでそうでもない
時の朴韓国政権が韓国の力道山的存在にしようと祖国で重用されただけ
[匿名さん]
子供の時、握手してもらった大木さんの手は硬く大きかった
ニコッと笑って握手してくれたことを忘れません
[匿名さん]
当時直前の全日本プロレスシリーズ参加してたのに
1979年の3団体揃い踏みの夢のオールスター戦へのオファー無し
[匿名さん]
大木金太郎って本当に頭固かったの?
技が地味だから頭付きもバリエーションに加えたのかな?自分が頭痛いのを我慢して
[匿名さん]
wikiより
大木は石頭として知られ、ヘッドバットと言うより「頭突き」と言った方が当てはまる。
得意技に頭突きを選んだ理由としては、
当時朝鮮系は石頭というステレオタイプ的なイメージから
力道山が「お前は韓国人だから頭を鍛えなさい」といわれたことに依拠する。
大木いわく、頭突きの鍛錬方法はゴルフクラブのドライバーで力道山が頭部を殴っていたという。
映画力道山での初登場シーンは掛け声とともに鉄柱に突進するシーンである。
[匿名さん]
対猪木シングルマッチ戦績は9勝1敗29分け
唯一の敗戦が1974年10月10日蔵前国技館
[匿名さん]