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🍙 新潟市雑談


No.4914535
合計:
#130
坂元義種の説
〔表面〕

泰■四■■月十六日丙午正陽造百練銕七支刀■辟百兵宜■供侯■■■■■作
<判読>

泰和四年五月十六日丙午正陽、百練銕(鉄)の七支刀を造る。出んで百兵を辟く。侯王に供供するに宜し。■■■■作る。
〔裏面〕

先世以来未有此刀百濟王世□奇生聖■故為倭王旨造■示後世
<判読>

先世以来、未だ此の(ごとき)刀有らず。百済王・世子、奇しくも聖晋に生まれるが故に倭王旨の為に造る。後世に伝示せ(られんことを)。
以上のように銘文を解釈すると、百済は東晋に朝貢して、東晋から「百済王」と、時代の王たるべき「世子」の地位を与えられたので、その喜びを分ちあうべく、倭王にこの七支刀を贈ったということになる。『日本書紀』神功皇后摂政五十二年条に「七枝刀一口,七子鏡一面」などの重宝を献上し、その時、百済王はこれらは谷那鉄山の鉄を用いたものだと伝えている[3]。『日本書紀』の紀年に問題があるが、百済王の即位・薨去記事から換算すると、この年は372年にあたる。この前年、百済は高句麗の平壌城を攻め、高句麗王斯由は流れ矢に当たって戦死した。百済はこの戦果をもって、漢山に遷都し、翌咸安二年(372年)正月、東晋に朝貢し、東晋は、その六月、使者を百済に派遣して、百済王余句を鎮東将軍・領楽浪太守に封冊した[3]。なお、『三国史記』によれば、この高句麗戦争には百済王と太子がともに兵を率いて出撃したとあり、『日本書紀』にも百済王父子、つまり、肖古王と貴須王子が軍事行動をともにしている様子が伝えられており、ここに七支刀銘文の「百済王と世子」の歴史的背景がうかがわれる[3]。


[ 匿名さん ]
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