>>113
あー、ちょっと矛盾した言い方になるんですが。
物事を正しく捉えるために、自分自身の感情は邪魔になることがあります。
しかし、社会を読み解くのには、感情を排除しては読み解くことができません。
例えば、仏陀はヒンズー教の身分制に反発する形で仏教を作り上げたそうです。
そのために、身分制度を排除する形で経典が作られたと考えられます。
仏教の信者は仏陀が己の感情を排除した結果辿り着いた結論と思うかもしれませんが、厳しい身分制度の中で虐げられている人々を見て、「どうにかしなければ」と考えた、感情の揺れ動きの結果とも考えられます。
この時、仏陀が「どうにかしなければ」と考えた感情の動きを正確に読み解くには、考察する人が感情の動きを熟知している必要があるんです。
手本は自分自身の感情です。
感情を消すのではなく、自分の感情を理解した上で我が身のように想像し、その時の感情に振り回されることなく、情景を正確に思い描く。
さらにもっと深く潜れば、仏陀を見ていた奴隷達や仏陀に反発していた僧侶1人1人の思考、それを押し留める国王。
もっとも、私がその場にいたように想像するのは、手塚治虫氏の漫画「ブッダ」という情報源があるからですが。
条件さえ揃えば、思考による未来予知も過去視も決して不可能ではないと私は思います。
人間の頭というのは、慣れ次第で世界を3つ4つは丸ごと作り出して回すことができるだけのポテンシャルがあるんです。
もしかするとこれは悟りの反対側の極致みたいなものなのかもしれませんが。
多分、私は死後地獄に落ちると思いますが、そこで笑って過ごせる自信もあります。
もし地獄で一休宗純と会えたなら、現代と過去の違いを語り合いたいですね。