>>342
ワイは、だんじりにも否定的な変わりモンなんやわ。あないなモン、アホの極端やねんで。
岸和田のモンも、今では生粋の岸和田人なんて数パーセントやねんわ。
そもそも、だんじり祭りいうのんは?
語ると長うなるけど、江戸時代初期の岸和田藩領いうのは領主が何回も変わったんよ。その都度、年貢率なんかの負担もコロコロ変わるし、最後に岸和田城に入った、岡部氏が岸和田藩主になる際には、泉州地区のいわゆる名主庄屋層が全て
ムシロ旗🏳️⚧️を掲げて、岸和田城下に参集して領主岡部氏に年貢率などの交渉?したわけなんよ。
その頃の泉州の領民いうのは、紀州の根来衆や雑賀宗、大阪冬の陣夏の陣なんかに参加したり、一向宗の影響も受けていて荒々しく難治が予想される土地柄やったわけや。
もちろん、名主庄屋の代表の数人は、当時の因習?やからそれなりの処罰は受けてるねんけど、その後の岡部氏の統治方針には大きな影響を与えてるねんわ。
ここまで書けば、勘の良い人なら分かるやろ?
だんじり祭りいうのは、最終的に岸和田城の中の縄張り内にある神社まで各町のだんじりが入るねんけど、そういう事ですねんわ。
ガス抜き?な。年番制で1番に入る町が決まりまんねんな。
五穀豊穣を祈念するのは当然ですねんけど、紀州の皆ハンも考えてみて下さいよ。
江戸時代なんか、いわゆる地道ですやんな。今はコンクリートやアスファルトやさかいに、比較的簡単に引っ張れば、だんじりも動いてくれますわ。今はもうおまへんけど、昔に古老から聞いた話じゃ、その昔は少しでも坂があると牛の出番🐃でしたんやわな。
明治になって南海電車が走っても、その線路を越えるのは至難の業でやはり牛🐃の出番。笑笑
昭和後期から、アホがやたらと見せたがるようになりましたんや