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1871年7月23日(明治4年6月6日)、柏崎県刈羽郡荒浜村(現:新潟県柏崎市)で渡辺長松・イネの長男として誕生。出生名は渡辺 長七(わたなべ ちょうしち)。1877年、親戚である牧口善太夫の養子となる。
1885年に尋常小学校を卒業後、単身、北海道へ職を求めて渡る。小樽警察署の給仕をしながら苦学の末に、1891年、札幌の北海道尋常師範学校(現:北海道教育大学)第一学部3学年に編入。
1893年、常三郎(つねさぶろう)と改名。同年3月に卒業し、母校の付属小学校の教師となる。当時24歳であった1895年、牧口熊太郎の二女クマ(当時18歳)と結婚。1901年、母校の助教諭となる。
1902年、国粋主義で知られる地理学者の志賀重昂の門を叩く。1903年、人間の生活と地理との関係を論じた『人生地理学』を32歳で発刊。牧口は志賀に校正・批評を依頼し、志賀は同著に序文を寄せた。同著は新渡戸稲造や柳田國男らの目に留まることになり、新渡戸宅で開催された「郷土会」にも牧口は名を連ねている。地理学者である牧口と民俗学者である柳田が共に研究・現地調査を行った記録も残されている。
1905年、教職を辞して上京する。富士見、東盛、矢正、西町、三笠、白金、新堀の各小学校の校長を歴任。1912年には『郷土科研究』を発刊。1916年、信仰の道を求め、田中智学の講演を聞くため東京・鶯谷の国柱会館へ何度か通う。
1920年、牧口のもとを戸田城聖(後の創価学会第2代会長)が訪問。牧口は戸田を同校の代用教員(訓導)として採用する。1922年、白金尋常小学校に転勤する。