870
2023/11/26 14:42
爆サイ.com 山陽版

サッカー国内





NO.7201210

デッツォーラ島根④
報告 閲覧数 3590 レス数 870

#6512020/09/20 00:09
例えばスルーパスで抜け出してのシュートが決まったときのスルーパスを出した選手、クロスをヘディングで決めたときのクロスを上げた選手、シュートが一度GKに阻まれたこぼれを押し込んだ場合の初めにシュートを打った選手などにアシストがつく。また、クロスが上がり、これをヘディングで落としたボールをシュートして決めた場合には、クロスを上げた選手とヘディングをした選手の二人にアシストがつくと定められた。

 こうして始まった66年JSLでは、優勝した東洋工業のMF桑田隆幸が8アシストを記録して、第1回のアシスト王となった。アシスト王にはこの第1回から日刊スポーツ紙によって「シルバーボール賞」(得点王にはゴールデンボール賞)が贈られた。

 前記のように当初「参考記録」と但し書きがあったものの、形として残る賞になったことで公式な記録となった。そしてJSLが終了する92年まで続けられることになる。


■二代目は川淵三郎

 1967年の第3回JSLでアシスト王に輝いたのは川淵三郎(古河電工)、のちのJリーグチェアマンだった。翌68年には、この年のメキシコ・オリンピックで銅メダルを獲得した日本代表でも、多くのゴールをアシストした杉山隆一(三菱重工)がJSLでも初のアシスト王となり、翌年も連続で受賞した。

 その後も宮本輝紀(70年、八幡製鉄)、吉村大志郎(72年、ヤンマー)、今村博治(75年、ヤンマー)、永井良和(76年、77年、81年、古河)、ジョージ与那城(79年、80年、83年、読売クラブ)などが受賞。自ら得点を挙げるよりMF、あるいはウイングとして、ゴールをお膳立てする選手にスポットが当てられた。

[匿名さん]

#6522020/09/20 00:10
ただし、26年の通算で最も多くのアシストを果たしたのは、得点数でも断トツ1位(202得点)の釜本邦茂で79アシストだった。釜本は特別として、2位は永井、以下3位ラモス瑠偉(読売ク)、4位与那城、5位吉村とパサー、あるいはクロサーが並び、そういった役割の選手に喜び、やりがいを与えたと言える。

 アシストは現在のJリーグでもさまざまなメディアが独自の規定で記録しており、ヨーロッパでも同様に新聞、雑誌でカウントしている国もある。FIFAでもワールドカップでの得点にアシストをつけており、統一した世界基準を設けて広めてもよいのではないだろうか。


※『月刊サッカーマガジン』(げっかんサッカーマガジン)は、日本のベースボール・マガジン社(BBM)が1966年2月から刊行しているサッカー専門誌である。前身を含めて、現存する日本国内向けのサッカー雑誌としては、最古参の歴史を持っている。


■歴史

1966年: 2月に前身の『スポーツマガジン サッカー特集号』を発行、その3ヵ月後に月刊誌『サッカーマガジン』として創刊。
1975年: 隔週刊誌に移行。
1981年: 2度目の月刊化。
1992年: 2度目の隔週刊化。
1993年: Jリーグ開幕に合わせて週刊誌に移行するとともに、『週刊サッカーマガジン』に改題。
2002年: ワールドカップ日韓大会開催時のみ週2回刊で発行された。
2013年: 11月より『サッカーマガジンZONE』と改称、3度目の月刊化に踏み切る[3]。
2016年: 7月より『月刊サッカーマガジン』と改称。


■主な歴代編集長

関谷勇(初代)
堀内征一(1973年-1975年)
大住良之(1978年-1982年)
千野圭一(1982年-1998年)
伊東武彦(1998年-2004年)
平澤大輔
北條聡(2009年-2013年)
宮本恒靖(特別編集長。当時サッカー解説者。2014年1月号より)

[匿名さん]

#6532020/09/23 01:52
☆★ サッカーマガジンWEB★☆


□■古河電工12年目の初優勝と奥寺康彦の急成長◎J前夜を歩く第25回■□

2020-09-02
サッカーマガジン編集部


1965年から1992年まで日本のサッカーはJSL(Japan Soccer League/日本サッカーリーグ)を頂点として発展してきた。連載『J前夜を歩く』ではその歴史を振り返る。第25回は古河電工の初優勝と奥寺康彦について綴る。

文◎国吉好弘 写真◎サッカーマガジン



■きっかけになったブラジル留学

 1965年に日本リーグ(JSL)がスタートした時、優勝候補に挙げられていたのは前年の天皇杯で優勝を分け合っていた古河電工と八幡製鉄だった。中でも古河にはGK保坂司、FB(DF)平木隆三、鎌田光夫、宮本征勝、HB(ハーフバック)八重樫重生、FW川淵三郎と前年の東京オリンピックに出場した日本代表選手が6人もおり、日本代表の監督を務める長沼健、66年にはチームの監督を兼任する内野正雄ら元日本代表のベテランも選手としてプレーしており、机上の戦力分析では筆頭候補だった。

 しかし実際にリーグが始まると、若い選手が多く、力をつけてきた東洋工業が第1回の優勝を果たし、さらに勢いを得て4連覇を達成する。5年目の1969年は三菱重工に覇権を譲るが、70年には5回目の優勝を果たした。さらにヤンマー、日立などが力をつける陰で、ベテランぞろいだった古河は徐々に存在感を失っていく。1965年、66年は3位、67年は2位で終えたが、1968年には5位に落ちて以後「中堅チーム」として定着してしまう。

[匿名さん]

#6542020/09/23 01:52
1970年代にさしかかると、69年に荒井公三(広島工業高)、70年に奥寺康彦(相模工大付属高)、71年には高校選手権で優勝し、劇画「赤き血のイレブン」のモデルになったことでも知られた浦和南高校の永井良和が入社。後には日本代表でも主力となる選手たちが加わり、チームは若返っていく。73年には大卒の清雲栄純(法政大)、須佐耕一(中央大)、らを加え、70年代半ばには川淵三郎監督の下、20代前半の選手が中心のチームとなった。

 それでもチームの成績はなかなか上がらず、73年5位、74年4位、75年6位と中位をさまよっていた。そして76年にはメキシコ・オリンピック銅メダリストの鎌田光夫が監督を引き継いだ。

 チームに変化が起こった一つのきっかけは、奥寺のブラジル留学だった。76年シーズンがモントリオール・オリンピック予選の関係でリーグが8月スタートとなったこともあり、1月から3月までサンパウロのパルメイラスで、トレーニングに参加した。本場での厳しさ、激しさを肌で感じて帰国すると、一回り成長した姿を見せた。もともと俊足で、体は強く柔軟、さらに技術的面では左足の強く正確なキックという武器を持っており、世界でも自分が通用する部分を確認できたことは大きかった。

[匿名さん]

#6552020/09/23 01:53
日本代表はモントリオール予選で敗れて二宮寛監督による新体制となり、奥寺も一時外れていた代表に復帰する。夏に参加したマレーシアのムルデカ大会では大活躍した。同大会は当時、アジアの代表チームのチャンピオンを決めると言える価値があった。この時の日本はチーム最年長の釜本邦茂が2列目に下がり、最前線でプレーした奥寺がゴールを量産した。日本は決勝に進出し、地元マレーシアに敗れたものの、準優勝は久々の好成績だった。そこで奥寺は7点を挙げて得点王に輝いた。



■快進撃を支えた右の奥寺、左の永井

古河に戻っても好調を維持し、ライバルに触発された永井も負けじと気迫のこもったプレーで左の奥寺、右の永井で、鎌田監督がこのシーズンに掲げてきた「スピードと激しさ」がグレードアップした。74年ワールドカップを川淵前監督とともに視察した同監督は「サッカーの本質、スピードを生かす、スピーディーな試合展開、次いで激しさ。全員守備、全員攻撃」(サッカーマガジン・77年3月10日号、一部要約)を目指した。ポーランド、オランダのサッカーをイメージしたという。

開幕から5節まで4勝1分けと好スタートを切り、一時調子を落として第14節終了時点では3位で中断期間に入る。ここでミニキャンプを張って立て直すと、年末年始に行われた天皇杯では攻撃力を発揮して決勝に進む。元日、国立での決勝でも奥寺のゴールなどでヤンマーを4−1で下し、JSL開幕前年の第44回大会以来12年ぶりとなる優勝を果たした。

[匿名さん]

#6562020/09/23 01:54
1月中旬に再開したJSLでも快進撃は続き、第15節の日立戦で1−0と勝利を挙げ首位に躍り出ると、そこから3連勝。最終戦のトヨタ戦では引き分けでも優勝が決まるという状況となる。やや硬さが出て前半は苦戦したものの、後半に奥寺がPKを決めて均等を破ると、永井のシュートをゴール前で鬼塚忠久がコースを変えて決め、2−0にして勝利をつかんだ。ついにJSL創設以来12年目にして悲願の初のタイトルを獲得。長沼、川淵ら歴代監督が鎌田監督と抱き合って喜んだ。

 奥寺はチーム最多の8得点(川本治も同数)を決め、永井は最終戦のアシストで8とし、単独でアシスト王も獲得した。奥寺の成長は目覚ましく、日本代表の欧州遠征でブンデスリーガ、1FCケルンの名将、ヘネス・バイスバイラーの目に留まり、日本人初のプロプレーヤーへの道が開かれる(文中敬称略)。

[匿名さん]

#6572020/09/24 00:01
昨日も今日も明日も、弛まぬ爆サイパトロール。

[匿名さん]

#6582020/09/27 01:13
☆★ サッカーマガジンWEB★☆

□■奥寺、岡田、宮内…アジア王者になった古河電工【連載◎J前夜を歩く第9回】■□

2020-03-26
サッカーマガジン編集部


1965年から1992年まで日本のサッカーはJSL(Japan Soccer League/日本サッカーリーグ)を頂点として発展してきた。連載『J前夜を歩く』ではその歴史を振り返る。第9回は苦難を乗り越え、アジアを制した古河電工について綴る。

文◎国吉好弘 写真◎BBM



■86年当時のアジアクラブ選手権

 2017年の浦和レッズに続き、2018年は鹿島アントラーズがAFCチャンピオンズリーグ(ACL)を制し、アジアのクラブチャンピオンに輝いた。これまで19の国内タイトルを獲得してきた鹿島にとっても初の国際的な公式大会での優勝だった。

 当然、日本でも大きく報道され、サッカーファンならずとも日本のチームの活躍を喜んだことだろう。しかし、今から34年前に初めて日本のチームがアジアチャンピオンとなったとき、その快挙が広く知れわたることはなく、現在でも話題にのぼることは少ないと感じる。

 1986年12月、サウジアラビアのリヤドで行なわれたACLの前身である第6回アジア・クラブ選手権(Asia Club Championship)決勝大会において、1985年の日本リーグ(JSL)チャンピオン、古河電工(現ジェフユナイテッド千葉)は3戦全勝して初優勝を飾ったのだった。

[匿名さん]

#6592020/09/27 01:13
この大会はアジア・サッカー連盟(AFC)主催で、アジアのクラブチャンピオンを決める大会として1967-68年に始まり、2度の中断をはさんで85-86年シーズンに再開されていた。まだ、その存在も、意義も各国に浸透しておらず、日本も第2回大会に東洋工業が参加して3位となったが、その後は日程の問題もあり出場を見合わせていた。

 この86年も6月に1次予選が始まったものの、2次予選は10月にアジア大会があったために12月に延期となり、マレーシアで2試合を行なって、古河はマカオのハップ・カーンを3-1、マレーシアのセランゴールを2-1で破った。すると、年明けの1月に行なわれる予定の決勝大会が急きょ、12月中に開催されるとの情報が入る。天皇杯と日程が重なるため辞退も検討されたが、日本協会との話し合いの末に天皇杯を棄権して参加するというドタバタだった。

 しかも、決勝大会は開催国サウジのアルヒラル、イラクのアルタラバ、中国の遼寧省と4チームによる総当たり戦で26日、28日、30日と、わずか5日間で全日程をこなす、今では考えられないハードスケジュールだった。

[匿名さん]

#6602020/09/27 01:14
■レフェリーの不公平に納得がいかない(清雲監督)

 この年の古河はリーグ戦中断までの6試合で1勝1分け4敗と不振。サウジとの気温差は20度以上もあるという厳しい条件の中での戦いだった。さらに初戦のアルヒラル戦をはじめ、レフェリーのジャッジはあからさまに相手寄りで、帰国した後、清雲栄純監督が「優勝したのはうれしいが、レフェリーの不公平さにはどうしても納得がいかない。うれしさも半減です」(サッカーマガジン87年1月号)とまで語ったほどひどかった。

 そんな戦いの中で古河は驚きの踏ん張りを見せた。大観衆に後押しされたアルヒラルがやや甘く見ていた感もあり、リベロの岡田武史、守備的MFの宮内聡を中心とした堅い守りで対抗。31分にCKから先制されるが、ここから違いを見せたのが9年間プレーしたドイツから復帰していた奥寺康彦だった。

 40分に右からのクロスが流れてきたところを蹴り込み同点に。後半に入って早々に昨季のJSL得点王の吉田弘が逆転ゴールを決めると、50分、57分と奥寺が連続ゴールで4-1と突き放した。アルヒラルもここから猛反撃に転じ、2点を失うが、4-3で逃げ切った。

 第2戦、第3戦もレフェリーの判定は露骨だったが、これにも耐えてアルタラバを2-0、遼寧省を1-0で下し、3戦3勝で文句なしの優勝を果たした。

 数々の苦難を乗り越えてアジアチャンピオンとなった古河。日本サッカーにとっても全アジアでの初タイトルであり、もっと称えられてよかった。歴史に埋もれさせてはいけない、快挙である。

[匿名さん]

#6612020/09/30 01:13
□■ジェフユナイテッド市原・千葉と古河電工■□

☆★ジェフユナイテッド(JEF UNITED)市原・千葉の“F”が古河電工の“F”ってご存じですか?じつは古河電工は日本のサッカーととても古くからお付き合いしてきた会社のひとつなのです。★☆


古河電工は、社会人のサッカーチームとしては草分け的存在でした。1950年代までは学生が勢力図の中心にいましたが、1960年に古河電工が実業団(企業)チームとして初優勝。1960〜1970年代には天皇杯を4度制覇し、1986年にはアジアクラブ選手権で日本のクラブチームとして初めての優勝を飾りました。

1993年にJリーグが発足する際、古河電工はJR東日本と共同で“ジェフユナイテッド市原”を創設。2005年にはホームタウンに千葉市が加わり、”ジェフユナイテッド市原・千葉”に改称しました。2005年〜06年にはヤマザキナビスコカップを2連覇しています。


■サッカー部の歴史 History

古河電工サッカー部の歴史を少しひもといてみたいと思います。

◇明治〜大正◇
当社は元々社員スポーツが盛んな会社でした。明治時代から日光では自然のリンクでレクリエーションとしてアイスホッケーに興じ、そのメンバーがシーズンオフにサッカーをするといった具合です。この活動が古河電工サッカー部の発祥といえます。

◇昭和◇
昭和の初期になると丸の内本社にサッカー部が創部され、日光と選手の貸し借りをしながら活動が活発化していきます。戦時中は活動を休止していましたが、終戦後すぐに活動を再開しました。これは敗戦と不景気で灰色の空気がただよう時代にあって、3代社長・西村啓造が社員を元気づけるための措置であったと伝わっています。

1949
実業団リーグに参戦。

1952
サッカー部を強化する目的での採用を開始。

[匿名さん]

#6622020/09/30 01:14
1955
4代社長に就任した小泉幸久はさらに実業団スポーツの強化を推進します。サッカーを含む4競技を"社技"に指定し、サッカー部については「強化5カ年計画」を策定して日本一をめざします。当時は学生と学生OBによる大学チーム全盛の時代であり、毎日練習できる学生に社会人はかなわないという時代でした。

1960
第40回天皇杯で初優勝を成し遂げます。この優勝は実業団としても初めての優勝であり、これ以降サッカー界の勢力図は大きく実業団にシフトしていきます。その後も単独チームとしての海外遠征、選手の海外留学制度など、世界で戦える道を開くための取り組みを次々と仕掛けていきます。

1986
さまざまな先駆的取り組みが1986年のアジアクラブ選手権で日本チームとして初優勝を成し遂げたことと無縁ではありません。
「サッカー選手としてはもちろん、一社会人としても立派であれ。」古河電工サッカー部は創部当初からこの精神が貫かれていました。この精神で鍛えられたサッカー部選手やOBたちが、「日本サッカーの将来」を築く人材となっていきました。

◇平成◇
プロ化の道を模索していたその中心に、実業団時代に企業の業績不振による休部の憂き目を見た古河電工サッカー部のOBたちがいました。彼らは企業スポーツの限界を感じていたと思います。賛否両論が渦巻く中で、競技レベルの向上や観客動員アップだけでなく、地域密着、総合スポーツクラブといった幅広く、長期的な視野に立った理念を掲げることで周囲の賛同を徐々に獲得していきます。

1993
苦難の過渡期を乗り越えて、1993年(平成5年)Jリーグが発足しました。
Jリーグの発足に伴い、古河電工サッカー部はその歴史を、その後間もなく誕生するプロチームに託します。

[匿名さん]

#6632020/09/30 01:15
■古河電工サッカー部史

電子ブックを見る。

・本編
・全試合データ

※古河電気工業株式会社 WEBサイトより閲覧可能


■Jリーグチームの発足とパートナー(スポンサー)活動 Activity

古河電工は平成元年にプロリーグ検討委員会を設置。翌年JR東日本と提携してJリーグへの参加の準備を進めます。こうして“ジェフユナイテッド”が生まれたのです。

サッカーのクラブチームはリーグを戦うだけでなく、次世代選手の育成、地域社会の活性化などの使命も担う存在です。当社グループは、「次世代育成」「スポーツ・文化振興」「自然環境・地域社会との共生」の三つを軸とした社会貢献基本方針にもとづき、今後もサッカースポーツの振興を通じて、地域に根差した社会貢献活動を継続してまいります。


■社会貢献基本方針

・次世代育成

・スポーツ文化復興

・自然環境地域社会との共生



※古河電気工業株式会社 WEBサイトより

[匿名さん]

#6642020/09/30 01:16
>> 続く…

[匿名さん]

#6652020/10/12 22:47
継続中

[匿名さん]

#6662020/11/01 00:11
中澤 佑二(1978年2月25日 - )は、埼玉県吉川市出身の元プロサッカー選手。現役時代のポジションはディフェンダー(センターバック)。元日本代表。血液型AB型。


■愛称
ボンバーヘッド、ボンバー、ユウジ
■カタカナ
ナカザワ ユウジ
■ラテン文字
NAKAZAWA Yuji

■基本情報
◇国籍
日本
◇生年月日
1978年2月25日(42歳)
◇出身地
埼玉県吉川市
◇身長
187cm
◇体重
78kg

■選手情報
◇ポジション
DF
◇利き足
右足
◇クラブ

クラブ
出場
(得点)
1996-1997
アメリカFC
1999-2001
V川崎/東京V1969
83
(5)
2002-2018
横浜F・マリノス
510
(31)

■代表歴
2000
 日本 U-23
1999-2010
日本
110
(17)

恵まれた体格と勝負強さを持ち味とし、日本代表でも長年中心選手として活躍しており、出場数は歴代4位の110試合を記録している。また、2010 FIFAワールドカップの開幕前までキャプテンを務めていた(開幕時より長谷部誠に変更)。Jリーグでは、2012年9月29日の大宮戦から、フィールドプレーヤーとしてはトップの199試合に連続出場。さらに2013年7月6日の大分戦から2018年8月15日の名古屋戦まで178試合連続フル出場という記録を持つ。

[匿名さん]

#6672020/11/01 00:12
■来歴

◇プロ入り前
サッカーを始めたのは小学校6年生とプロ選手の中では遅めだった。埼玉県立三郷工業技術高等学校はサッカーの名門校ではなかったために、卒業後Jリーグに売り込む価値を上げるべくブラジルへサッカー留学を計画する。ブラジルのサッカークラブ・アメリカFCに加入し、次第に練習試合などにも起用されるようになった。チームメイトにはジウベルト・シウバなどがいた。一年後にビザ更新の為日本に帰国したところクラブから必要書類が届かずブラジルでのプレーを断念した。

Jリーグの各クラブへ売り込みをかけたがどのクラブからも誘いは来ず、母校のサッカー部で在校生に混じって練習を続ける。1998年にヴェルディ川崎のユースチームとの練習試合で得点を挙げる活躍を見せ、これをきっかけに練習生契約での加入が決まる。練習生契約では給料は支払われず、必要費用をクラブに支払って練習に参加する。認められればプロと一緒に練習が出来るが、クラブからは交通費など金銭補助は一切無く自腹での練習参加の身となり、地元の埼玉県吉川市からヴェルディの練習場がある東京都稲城市まで(交通費は往復で約1800円)片道2時間かけて練習に参加していた。この時の待遇と経験は本人にとっても屈辱だったようで、プロの練習を横目に単調な反復の基礎体力練習に明け暮れ、練習に付き合ってくれたトレーナーと共に嘆息していた。


◇東京ヴェルディ

1999年からプロ契約がきまった。同年のシーズンでレギュラーポジションを獲得し、Jリーグ新人王に輝き、シドニー五輪をめざすトルシエ率いるU-23サッカー日本代表に招集され本大会にも出場した。

[匿名さん]

#6682020/11/01 00:14
◇横浜F・マリノス

2002年に横浜F・マリノスに移籍し、チーム初の2連覇(2003年、2004年)と3ステージ連続優勝(2003年1st、2ndステージ完全制覇、2004年1stステージ)。2004年度にはJリーグMVPを受賞した。2006年のオールスターゲームでは、当時の日本代表GK川口能活から直接フリーキックを決め、DFとして初めてMVPを受賞した。本人のインタビューによれば、直接フリーキックでのゴールは初めてとのこと。2013年から3年連続リーグ戦全試合出場、2015年10月ヴィッセル神戸戦にてJ1通算500試合出場を達成した。

2017年5月27日、J1リーグ第13節の清水エスパルス戦に出場し、J1通算550試合出場の記録を達成した。6月25日、第16節のヴィッセル神戸戦ではフィールドプレーヤーでは阿部勇樹に並ぶ139試合連続フル出場を果たした。続く、17節の大宮アルディージャでもフル出場をして、フィールドプレーヤーとして歴代1位となる140試合連続フル出場を果たした。

以前から「40歳になったら現役を退く」ことを度々表明していたが、2017年12月11日、チームとの契約更改終了後に、その方針通り翌2018年限りで引退する意向を改めて明らかにした。

2018年8月19日、第23節の鹿島アントラーズ戦で6年ぶりのベンチ外となり、フィールドプレイヤーでは最多となる2013年7月6日の大分トリニータ戦から続く連続フル出場記録を178試合でストップした。ベンチ外の理由は、アンジェ・ポステコグルー監督が中澤の疲労を考慮したため。その後、試合に出場する事は無かったが、12月1日に行われた最終節のセレッソ大阪戦に約3ヶ月半ぶりに途中から試合に出場し、この試合キャプテンだった扇原貴宏からキャプテンマークを受け取りピッチに立った。

[匿名さん]

#6692020/11/01 00:14
2019年1月8日、引退を発表。横浜FMからは、契約延長のオファーを受けていたが、左膝の怪我の影響もありメディアで度々公言していた通り40歳での引退となった。

2019年10月24日に開催されたJリーグ理事会において同年開催のJリーグアウォーズでJリーグ功労選手賞の授与が決定した。


■日本代表

1999年9月8日に行なわれたイランとの親善試合でフル代表デビューを果たし、翌2000年に行なわれたAFCアジアカップ2000予選のシンガポール戦で代表初得点を含む2得点。その後はシドニーオリンピックではレギュラーとして活躍し、AFCアジアカップ2000でも3試合に出場して優勝に貢献するが、2001年に入ってからスランプに陥り、代表でも同ポジションの松田直樹の控えに甘んじる事が増え、2002 FIFAワールドカップ本大会のメンバー発表前最後の試合であるアウェイのノルウェー戦にはフル出場(同年唯一のAキャップ)するが0-3で敗れ、秋田豊の選出もあってメンバー入りは叶わなかった。

その後しばらくの間招集されることはなかったが、2003年に横浜を年間優勝に導く活躍から代表へと復帰を果たす。復帰してからしばらくは控えであったものの、ジーコ監督が本格的に3バックを導入した頃からレギュラーとして出場することが増え、AFCアジアカップ2004ではグループステージのタイ戦で決勝点を含む2得点、バーレーンとの準決勝では敗戦の危機を救う同点ゴールを決めるなど、玉田圭司と並んでチームトップタイの3得点を記録する活躍で優勝の原動力となった。その後もレギュラーとして出場を続け、2006 FIFAワールドカップ本大会ではグループステージ全3試合にフル出場したが、ノックアウトステージ進出はならなかった。

[匿名さん]

#6702020/11/01 00:15
ワールドカップ終了後に日本代表から引退することを発表し、2006年内は代表戦に出場しなかったものの、2007年2月千葉県内で行われる日本代表候補合宿のオシムジャパン体制でメンバーに初選出され、代表復帰を果たした。その後は不動のレギュラーとして君臨し、2010 FIFAワールドカップでは田中マルクス闘莉王とともにセンターバックのコンビを組んでグループステージ3試合とノックアウトステージ1試合に先発出場し、日本代表の2大会ぶりとなる16強入りに貢献。大会終了後に公表されたFIFAの技術研究グループが作成した報告書では、空中戦の強さと視野の広さがあると評されている。彩の国功労賞を受賞。

日本代表では守備だけでなくセットプレーにおける得点源としても活躍し、通算得点数17は日本代表におけるDF登録の選手では史上最多記録である。

110試合で警告5回、退場0回とカードを提示されることは非常に少なかった。


■プレースタイル・評価

身長187cmの恵まれた体格、相手選手との体のぶつけあいにも負けない強さ、ヘディングでのボールの取り合いの上手さを備えるディフェンダー。

デンマークで発行されているワールドカップ専門雑誌『VM2010』において、1対1での守備力の高さや得点力を理由に、田中マルクス闘莉王と共に脅威的存在であると報道されている。

AFCアジアカップ2004では、主要な守備スタッツ7部門中5部門で日本代表1位を記録(サッカー解析システム「opta(オプタ)」より)。同大会MVPには選ばれなかったが、メディアなどからは中澤をMVPに推す声もあった。

2020年4月、イギリスメディアの選ぶ21世紀の日本代表ベスト11に選ばれた。

[匿名さん]

#6712020/11/01 00:16
■所属クラブ

◇ユース経歴
三輪野江小学校
1990年 - 1992年 吉川東中学校
1993年 - 1995年 埼玉県立三郷工業技術高等学校
◇プロ経歴
1996年 - 1997年 アメリカFC
1998年 - 2001年 ヴェルディ川崎 / 東京ヴェルディ1969(1998年は練習生契約)
2002年 - 2018年 横浜F・マリノス


■個人成績
日本 J1 593試合出場 36得点

◇その他の公式戦
2004年
スーパーカップ 1試合0得点
Jリーグチャンピオンシップ 2試合0得点
2005年
スーパーカップ 1試合0得点
2014年
スーパーカップ 1試合0得点

◇国際大会個人成績
横浜FM
年度 クラブ 出場 得点
AFC ACL
2004 2 0
2005 4 0
2014 5 0
通算 AFC 11 0
背番号 22

◇個人タイトル

Jリーグ最優秀選手賞:1回(2004年)
Jリーグ新人王(1999年)
Jリーグベストイレブン:6回(1999年、2003年、2004年、2005年、2008年、2013年)
Jリーグ功労選手賞:1回(2019年)
AFC All Star Team:1回(1999年)
日本年間最優秀選手賞:1回(2004年)
AFCアジアカップベストイレブン:1回(2004年)
東アジアサッカー選手権最優秀DF:1回(2008年)
Jクロニクルベスト ベストイレブン(2013年)
Jリーグフェアプレー個人賞:2回(2015年、2017年)
J1リーグ・月間MVP:1回(2017年6月)

[匿名さん]

#6722020/11/01 00:17
■代表歴

◇出場大会
2000年 シドニーオリンピック
2000年 AFCアジアカップ2000
2004年 AFCアジアカップ2004
2006年 2006 FIFAワールドカップ
2007年 AFCアジアカップ2007
2010年 2010 FIFAワールドカップ

◇試合数
国際Aマッチ 110試合 17得点(1999年 -2010年)


■エピソード

中澤の代名詞とも言える「ボンバーヘッド」は、元々は若手時代の髪型であるアフロヘアーに由来するが、空中戦での強さ(特にヘディング)を示す意味もある。なお30代になってからは毛根を気にしてアフロをやめた。2009年からは自身のユニフォームの背中部分に入れる名前も「BOMBER」にしている。
週刊ヤングマガジンに『中澤佑二物語』(塀内夏子原作)という漫画が不定期連載され、2009年に講談社より単行本化された。中澤のブラジル時代からのエピソードが描かれている。単行本化に際し受けたインタビューでは「本屋で見つけたら目立つように並べ替えたいくらいです」と語り、喜びを表した。
2010年6月11日に放送されたアニメ「クレヨンしんちゃん」にサッカー仙人役で出演し、声優デビューを果たした。
雑誌Athlete Safariが主催する『Athlete Dresser Award』で第1回、第2回と2年連続で、お洒落なアスリートとして表彰されている。

[匿名さん]

#6732020/11/01 00:18
2017年4月には、ITベンチャーのCLIMB Factory(クライムファクトリー)のスーパーバイザーに就任。同社が運営するスポーツ選手の健康管理用クラウドサービスの開発に参画し、自身のサッカースクールでの実証実験などを行うとしている。
同学年でもある安室奈美恵の大ファン。ライブにも何度も足を運んだこともあり、まだ安室が『ポンキッキーズ』に出演していた1990年代からのファンで、ファン歴は20年を超える。2017年9月に安室が翌年限りの引退を発表した際には、非常にショックを受けた様子を自身のブログに投稿した。また、中澤は連続試合出場を特徴とした選手でもあるが、安室が精力的にライブ活動を行う姿勢を手本としていると語っている。


■関連情報

◇出演CM
明治乳業明治エッセルスーパーカップ(2000年)
コナミスポーツ(2001年)
興和 バンテリン(2000年)、バンテリンエアロゲル(2005年)
厚生労働省 労働契約法(2008年)
オークリー(2009年〜)
ゆうちょ銀行(2009年〜)
約束の2010
ウォルト・ディズニー・ジャパン トイストーリー3(2010年)
メットライフ生命保険 スマートナビ(2010年〜)
正友地所 THE WANGAN TOWER(2010年〜)
SEIKO SEIKOブライツアナンタ(2010年〜)
オークローンマーケティング スレンダートーンエボリューション(2011年〜)
JUCOLA クエン酸POWER&ナンコツPOWER(2013年〜)

◇著書
『自分を動かす言葉』ベストセラーズ、2013年。ISBN 9784584123928。
『下手くそ』ダイヤモンド社、2014年。ISBN 9784478026816。

◇関連書籍
佐藤岳『中澤佑二 不屈』文藝春秋、2010年。ISBN 9784163718804。

[匿名さん]

#6742020/11/08 00:22
川口 能活(1975年8月15日)は、静岡県富士市出身の元プロサッカー選手。ポジションはゴールキーパー(GK)。


■基本情報
◇国籍
日本
◇生年月日
1975年8月15日(45歳)
◇出身地
静岡県富士市
◇身長
180cm
◇体重
77kg

■選手情報
◇ポジション
GK
◇利き足
右足
◇ユース
-1987
天間小SS
1988-1990
東海大第一中学校
1991-1993
清水商業高校

■クラブ

クラブ
出場
(得点)
1994-2001
横浜F・マリノス
193
(0)
2001-2003
ポーツマスFC
12
(0)
2003-2004
FCノアシェラン
8
(0)
2005-2013
ジュビロ磐田
228
(0)
2014-2015
FC岐阜
43
(0)
2016-2018
SC相模原
43
(0)

◇代表歴
1995-1996
 日本 U-23
1997-2010
日本
116
(0)


日本代表としてFIFAコンフェデレーションズカップ2001ベストイレブン、AFCアジアカップ2004ベストイレブンなどの受賞歴を持つ。国際Aマッチ出場数は日本代表歴代3位、同ゴールキーパー歴代1位の116試合を記録。4大会連続でFIFAワールドカップメンバーに選出されている(1998年 W杯フランス大会、2002年 W杯日韓大会、2006年W杯 ドイツ大会、2010年W杯 南アフリカ大会)。オシムジャパン、岡田ジャパンでは主将を務めた。

[匿名さん]

#6752020/11/08 00:24
■来歴

◇プロ入り前
サッカー漫画『キャプテン翼』の影響や兄の薦めから9歳でサッカーを始め、富士市立天間小学校時代は富士市内のスポーツ少年団でプレーした。当初はポジションを転々としたが、小学校4年生から本格的にGKに専念する。

1988年に東海大学第一中学校に入学。在学中に3年連続で全国中学校サッカー大会出場を経験し、2年時・3年時の2度、大会優秀選手に選出された。

1991年に清水市立商業高等学校(現静岡市立清水桜が丘高等学校)に入学。 1年生時からレギュラーとして試合に出場した第70回全国高等学校サッカー選手権大会に望月重良や平野孝らと共に出場し、前園真聖を擁する鹿児島実業に1-2で敗れ3回戦で敗退した。

2年生時は出場はならなかったが、翌年の第72回全国高等学校サッカー選手権大会に出場。 田中誠、小川雅己、佐藤由紀彦、安永聡太郎、鈴木悟ら後のJリーガーを多く擁するチームを、キャプテンとして率いた。 予選から準々決勝まで11試合連続無失点を記録すると、準決勝で城彰二を擁する鹿児島実業高校と再び対戦。 試合は2-2でPK戦にもつれ込むが、鹿児島実業4人目の藤崎義孝を川口がセーブして5-4で制した。 決勝戦では前年度王者の長崎県立国見高等学校と対戦し、2-1で勝利。 5年ぶり3回目の選手権優勝を果たした。

[匿名さん]

#6762020/11/08 00:25
■クラブ歴

◇横浜マリノス/横浜F・マリノス時代
1994年、横浜マリノスに加入。当時、マリノスには日本代表GK松永成立が在籍していたが、松永の出場停止で浦上壮史が先発出場した試合で、初めてリザーブとして公式戦でベンチ入りした。2年目の1995年シーズン途中に、監督のホルヘ・ソラリとヘッドコーチの早野宏史が若手の川口を正GKに抜擢。これにより、4月26日第11節柏レイソル戦でJリーグ初出場を果たした。初出場で浮足立ったプレーもあったがゴールを守り、無失点で勝利した。この後もポジションを確保し、この年のNICOSシリーズは全試合出場。

7月19日に優勝が懸かったサントリーシリーズ第25節清水エスパルス戦で、1-2でリードされた後半ロスタイム、コーナーキックのチャンスでゴール前に上がりヘディングシュートをするもののゴールポストに当たり得点にはならなかった。この試合には敗れたもののチームは1stステージ優勝を経験し、1995年度のチャンピオンシップでヴェルディ川崎を下し年間優勝。自身も初タイトルとなる、Jリーグ新人王を獲得した。


◇ポーツマスFC時代

2001年10月21日、イングランドのフットボールリーグ・チャンピオンシップ(2部)に所属するポーツマスFCへ移籍し、日本人GKとして初の欧州移籍を果たした。移籍金180万ポンド(当時のレートで3億円)は、ポーツマス史上最高額(当時)であった。これにより10月20日の2ndステージ第10節セレッソ大阪戦がマリノスでのラストゲームになった。

新天地でのデビューは11月3日のリーグ戦第8節シェフィールドW戦で、チームは3-2で勝利した。また、2002年1月4日に行われたレイトン・オリエントFC戦で日本人選手として初めてFAカップに出場した。

[匿名さん]

#6772020/11/08 00:27
2001-02シーズンはリーグ戦11試合に出場したが、レギュラー確保には至らなかった。2002年にはウェストハム・ユナイテッドFCからトリニダード・トバゴ代表のシャカ・ヒスロップが加入したこともあって、シーズンの大半をリザーブリーグで過ごす。イングランドでの2年目は1試合の出場にとどまり、プレミアリーグ(1部)に昇格した2003-04シーズンは出場機会を完全に失った。結局、2002-03シーズンに途中出場した2003年5月4日第44節ブラッドフォード・シティAFC戦がポーツマスでの最後の試合となり、プレミアリーグでは出場できなかった。


◇FCノアシェラン時代

試合の出場機会を求め、2003年9月4日、デンマークのFCノアシェランに移籍。10月5日SASリーガ第11節ヘアフュルエBK(英語版)戦にてスーペルリーガ公式戦に初出場した。しかし、後にデンマーク代表にも名を連ねたキム・クリステンセン(英語版)にポジションを奪われ、2004年4月12日第25節ヴィボーFF戦以降出場機会はなかった。


◇ジュビロ磐田時代

2005年にノアシェランから地元・静岡県のチームであるジュビロ磐田へ移籍。同年4月10日のJ1第4節FC東京戦で、約4年ぶりにJリーグ公式戦に出場した。

2006年は全34試合に出場し、Jリーグベストイレブンのタイトルを獲得した。

2008年5月10日の第12節アルビレックス新潟戦(東北電力スタジアム)で史上32人目、GKとしては史上3人目のJ1通算300試合出場を達成。しかしこの年チームは終始低迷し、残留のかかった最終節の大宮アルディージャ戦も敗れて16位でシーズンを終えた。12月13日、J2・3位のベガルタ仙台とのJ1・J2入れ替え戦第2戦では、後半24分の平瀬智行のループ気味のヘディングをセーブ、後半ロスタイムでの顔面でのセーブなどの働きを見せ、磐田のJ1残留に貢献した。

[匿名さん]

#6782020/11/08 00:27
2009年はバーレーン遠征中の1月24日に右脹脛を負傷。肉離れと診断され、Jリーグ開幕戦の出場は微妙と報道されていたが、開幕戦に間に合わせた。しかし守備の乱れなどもあり、モンテディオ山形戦(2-6@ヤマハ)、第2節ガンバ大阪戦(1-4@万博)の2試合で計10失点を喫し、更に第6節清水エスパルス戦まで5試合勝利がなく、その後失点は減ったものの波に乗り切れず低空飛行が続いた。9月19日、第26節京都サンガF.C.戦でFW金成勇と接触した際に右脛骨骨幹部骨折で負傷、右脛骨骨幹部骨折により全治6ヶ月と診断され離脱。残りのシーズンを棒に振ることとなった。

2010年序盤はリハビリのためベンチ入りすらなかったが、自身も代表に選出された南アフリカW杯後の8月7日、第17節山形戦(0-1)で約1年ぶりに公式戦に復帰した。この年はリーグ戦17試合に出場。リーグ戦こそ前年同様序盤の出遅れもあって2年連続で11位に留まったものの、第32節では敵地で鹿島アントラーズ相手に好セーブを連発して8年ぶりの勝利を挙げた。ナビスコカップでは決勝トーナメント4試合に出場し、9年ぶりの決勝進出。決勝のサンフレッチェ広島戦では槙野智章のPKを止めるなど好プレーを披露し、12年ぶりの優勝を達成した(なお、この優勝が磐田にとっては7年ぶりのタイトルだった)。

2011年8月3日に行われたスルガ銀行チャンピオンシップでは、2-2で迎えたPK戦で2人目と3人目を止めて優勝に導いた。また5年ぶりに全34試合にフル出場し、順位も4年ぶりに1桁(8位)を記録した。

[匿名さん]

#6792020/11/08 00:28
2012年3月10日のコンサドーレ札幌との開幕戦で史上3人目のJ1通算100完封を達成した。続く3月17日のサガン鳥栖戦では史上8人目のJ1通算400試合出場を達成した。しかし、3月22日の練習中に右アキレス腱を断裂。全治6ヶ月と診断され、長期離脱となってしまった。その後、12月15日の天皇杯4回戦・鹿島戦にて約9カ月ぶりに公式戦に復帰するも、チームは逆転負けを喫した。

2013年シーズンはチームの成績低迷の影響もあり徐々に出場機会を失い、8月10日第20節サンフレッチェ広島戦(1-2@Eスタ)以降はスターティングメンバーから外れるようになる。8月31日第24節ヴァンフォーレ甲府戦(1-1@ヤマハ)では5試合ぶりに復帰するが、その後のリーグ戦での出場はなく、以降は腰痛の影響もあり登録メンバーから外れることもあった。最終節となる12月7日の大分トリニータ戦(3-1@ヤマハ)で久々の出場を果たし、9試合ぶりの勝利に貢献するが、翌年のJ2降格が決定しているチームからの契約期間満了の通達により、この試合をもってジュビロ磐田での最終ゲームとなり、9年間在籍したチームを去ることになった。


◇FC岐阜時代

2014年1月17日、J2に所属するFC岐阜へ移籍。同年リーグ戦37試合に出場した。

2015年1月15日、FC岐阜が15年シーズンの契約を更新したことを発表。同年より背番号が22から1に変更される。2015年シーズンはプロ入り後初のひざの故障に悩まされ、第7節の東京ヴェルディ戦を最後に長期離脱。同年11月14日カマタマーレ讃岐戦で7か月ぶりにベンチ入り。リーグ最終節のアビスパ福岡戦で約7か月半ぶりにスタメン出場を果たした。

[匿名さん]

#6802020/11/08 00:29
同年11月27日、FC岐阜は契約満了により川口の契約更新を行わないことを発表し、退団することとなった。


◇SC相模原時代

2016年にJ3所属のSC相模原に完全移籍した。3月の開幕直前に左足首を負傷したが、同年5月8日の第8節ブラウブリッツ秋田戦に出場してJ3初出場。2017年11月19日、第32節のFC東京U-23戦で通算500試合に出場した。

2018年11月にシーズン終了と共に現役引退することをクラブが発表した。引退の理由は「日本サッカーに、自分が選手としてではなくて、違った形で貢献したいという思いが強くなって、それで引退する覚悟を決めました」と引退会見で話している。12月2日、現役最後の試合となったJ3最終節の鹿児島ユナイテッドFC戦では、キャプテンマークを巻いてスタメンで出場、無失点でチームの勝利に貢献した、試合後に行われた引退セレモニーでは、ライバルだった楢崎正剛が花束を持ってサプライズで登場した。楢崎も翌年1月に引退を発表し、3月2日に行われた楢崎の引退セレモニーでは、逆に川口がサプライズで花束を持って登場した。


■引退後

2019年2月、有望な若手選手を育成するナショナルトレーニングセンターのGKコーチに就任する事が発表された。5月29日には、6月に行われるU-18日本代表のポルトガル合宿に、GKコーチとして参加する事が発表された。

[匿名さん]

#6812020/11/08 00:30
2019年10月24日に開催されたJリーグ理事会において同年開催のJリーグアウォーズでJリーグ功労選手賞の授与が決定した。


■日本代表歴

1994年2月2日マレーシア国際トーナメント、U-23マレーシア代表戦に初出場を果たす。以降U-23サッカー日本代表としてアトランタオリンピック予選に正GKとして出場し、メキシコオリンピック以来となる28年ぶりのオリンピック出場に貢献する。その後、オリンピックのサッカー競技・日本代表選手のメンバーに選出される。

1996年7月22日、アトランタオリンピック1次リーグ第1戦、ロナウドやリバウドといった錚々たる面々を揃えたブラジル代表と対戦。防戦一方の展開の中、素早い飛び出しと堅い守備で相手の攻撃を凌ぎ、28本にも及ぶシュートを無失点に抑え込む。ブラジル相手に1-0の完封勝利を収めた大波乱の立役者として大きく賞賛された(マイアミの奇跡も参照)。ブラジルの代表監督マリオ・ザガロは「日本のGKは素晴らしかった」と語っている。チームはグループリーグを2勝1敗で終えるも3位となり決勝トーナメント進出を逃す。

1996年8月25日のウルグアイ戦に、当時監督の加茂周によりフル代表へ初招集される。1997年2月13日、キングスカップスウェーデン戦において国際Aマッチ初出場を果たし、以降はコンスタントに出場機会を増やしていく。フランスW杯・アジア最終予選の全試合に唯一出場し、特に苦戦を強いられたアウェー戦での活躍が光り、9月19日のアブダビでのUAE戦では劣勢の状況の中、相手を無失点に封じ込め勝ち点1をもたらした。日本のサッカーの歴史に深く刻まれる“ジョホールバルの歓喜”でも2失点はしたが、安定した守備を披露し歴史的な場面に立ち会った。

[匿名さん]

#6822020/11/08 00:31
1998 FIFAワールドカップのメンバーに選出され、初戦のアルゼンチン戦では相手の23本のシュートを1失点のみで抑え、敗れたものの善戦した。その後のクロアチア戦(0-1)、ジャマイカ戦(1-2)でも奮闘するが敗れグループリーグ敗退となった。

フランスワールドカップ後に監督に就任したフィリップ・トルシエの下では、楢崎正剛の台頭もあり徐々に出場機会が減り、2000年シドニーオリンピックの代表からも外れた。しかし、出番が回ってきたAFCアジアカップ2000ではグループリーグの1試合を除く全試合に出場。決勝のサウジアラビア戦では完封勝利し優勝に貢献した。

FIFAコンフェデレーションズカップ2001には正GKとして出場。グループリーグではカナダ戦とカメルーン戦の2試合に出場し、何れも完封勝利を収める。カメルーン代表監督のルシャントルは試合後「GKの並外れた実力を前に、我々はチャンスを阻まれてしまった」と語った。準決勝のオーストラリア戦では、豪雨に見舞われる難しい環境下での一戦となったが、大会を通じての4試合連続完封を成し遂げる。フランスとの決勝戦ではパトリック・ヴィエラに決勝点となる1点を許し、敗戦を喫した。日本代表は準優勝を収め、自身は同大会のベストイレブンに選出された。その後は海外移籍による出場機会の激減で試合勘など不満の残る状況が続き、コンディションが整わない日々が続いた。自国開催の2002 FIFAワールドカップでは代表に選ばれたものの出場機会は無かった。

[匿名さん]

#6832020/11/08 00:32
日韓W杯後にジーコが監督に就任してからも控えの立場が続き、FIFAコンフェデレーションズカップ2003のメンバーに選出されるが出場機会は無かったが、AFCアジアカップ2004では全6試合に出場。決勝トーナメント準々決勝のヨルダン戦、1-1のまま縺れ込んだPK戦ではいずれも入れられたら敗退が決まる状況で2本のシュート(3回終了時1-3)を阻止する。結果的にヨルダンは3人成功後4人連続で失敗し、日本の逆転勝利となった。ホスト国中国との決勝戦でも大会で披露した好調ぶりを発揮し、チームは2大会連続3度目優勝を果たす。自身もアジアカップ2004 ベストイレブンのタイトルを獲得。同大会ではシュート阻止率94.0%を記録した(サッカー解析システム「opta(オプタ)」より)。

FIFAコンフェデレーションズカップ2005は国内組として出場。初戦となるメキシコ戦は1-2で敗れるが、続くギリシャ戦は無失点に抑えて1-0で勝利する。第三戦のブラジル戦では2点を先取される展開となったが、その後は得点を許さず、後半にはフアンが放った至近距離のシュートを顔面で阻止する気迫のセーブを見せる。その影響で一時的に脳震盪を患うが、その後もプレーを続け、日本は2点ビハインドから2点を取り返し引き分けに持ち込んだが、グループリーグ1勝1敗1分の3位で終え決勝トーナメント進出を逃した。

[匿名さん]

#6842020/11/08 00:33
2006年、自身3度目となるワールドカップのメンバーに選ばれ全3試合に出場。初戦のオーストラリア戦は相手の再三の攻撃を凌ぐも、スローインへの飛び出しから同点にされ、終盤に3失点を喫して1-3で敗れた。第2戦のクロアチア戦では、キックに定評があるダリヨ・スルナのPKを止め勝ち点1を呼び込んだ(0-0)。このプレーによって、ワールドカップでPKを止めた史上20人目のGKとして名を残した。またドイツ紙は川口に対し「何度も止めた英雄」と絶賛した。第3戦のブラジル戦では、次々に放たれる21本のシュートを浴び4失点を喫するも孤軍奮闘の守りを見せたが、1-4で敗戦。しかし英メディアはブラジルの猛攻を再三好セーブで凌いだ川口を絶賛し、ブラジルメディアも好セーブを連発した川口を高く評価した。チームはグループリーグ2敗1分けで決勝トーナメント進出を逃したが、自身はFIFAが選定した「グループリーグ敗退国ベストイレブン」の控えGKに選ばれた。また、ブラジル戦で前半ジュニーニョ・ペルナンブカーノのミドルシュートを止めたセーブが「2006 FIFAワールドカップスーパーセーブベスト10」ランキングの6位に選ばれた。

[匿名さん]

#6852020/11/08 00:34
ドイツワールドカップ後にイビチャ・オシムが監督に就任して以降は、キャプテンに指名されると共に背番号1を与えられた。2007年3月24日のキリンチャレンジカップペルー戦で国際Aマッチ100試合出場を達成。自身3度目となるアジアカップには正GKとして全試合出場した。決勝トーナメント準々決勝のオーストラリア戦では、1-1で延長戦も終了し引き続き行われたPK戦では1番手のハリー・キューウェル、2番手のルーカス・ニールを連続で阻止する活躍を見せ4-3で勝利した。しかし、準決勝のサウジアラビア戦では2-3で敗戦。3位決定戦の韓国戦ではまたしてもPK戦にもつれたが5-6で敗戦し、3連覇は成らなかった。

2008年3月26日に行われた2010 FIFAワールドカップ・アジア3次予選のアウェーバーレーン戦で、相手のセンタリングのボールを捌ききれず失点し、この試合を最後に約4年守っていた正GKのポジションを剥奪されたが、11月13日のシリア戦では楢崎の負傷により国際Aマッチ11試合ぶりとなる出場を果たした(3-1で勝利)。その後の2010 FIFAワールドカップ・アジア最終予選のカタール戦では完封勝利を果たす(3-0)。2009年1月20日のAFCアジアカップ2011・最終予選のイエメンには欠場したが、1月28日のバーレーン戦では出場濃厚だったものの練習中に右脹脛を負傷。欠場となった。

3月19日にはコンディション不調と所属する磐田の不振により、3月28日の2010 FIFAワールドカップ・アジア最終予選のバーレーン戦での招集が見送られた。怪我以外で代表メンバーから外れたのは4年4か月ぶりだった。さらに9月19日の第26節京都戦で相手選手と接触し、右脛骨骨幹部骨折で全治6か月の大けがを負った。

[匿名さん]

#6862020/11/08 00:34
2010年5月10日の南アフリカワールドカップに向けた最終メンバー発表までJリーグの公式戦に出場していなかったが、代表監督の岡田武史からチームキャプテンとしての役割を求められ2010 FIFAワールドカップの代表メンバーに選出された。本大会で出場機会は無かったがまとめ役としてチームに貢献、岡田から賞賛を受けた。


■プレースタイル

キャプテンシーに優れ、逆境に立たされた際に存在感を発揮するプレイヤー。しばしば「炎の守護神」、「魂の守護神」と表現される。

ゴールキーパーとしては小柄な体格であるが、飛び抜けた瞬発力と集中力、判断力の良さを持ち、ゴール前での飛び出しと俊敏な反応を武器としている。大舞台に強いメンタルの強さも長所と言われており、実際に重要な国際試合では何度も神懸かり的な活躍を見せてきた。特にペナルティーキックでの勝負強さには定評があり、川口がPKを行うときの周りの雰囲気・キッカーの動きを予測するここ一番の集中力は奇跡と称される。中村俊輔は「能活さんとのPK戦は、どこに蹴っても届きそうな気がするし、読まれている気がする」「蹴る前から『あ、ここだと反応されそう』という画が、頭によぎってしまう。その時点で、こっちはゾーンに入れない。もし決まったとしても、それは“たまたま”に過ぎなくて、勝負は負けているんです。能活さんはキーパーなのにゲームを勝たせる力がある。これって絶対に抜きんでた力がないとできない。0-2、0-3で負けてもおかしくないゲームを1-0で勝ったとしたら、絶対にキーパーの力。能活さんには、そういう試合がありすぎる」と述べている。

[匿名さん]

#6872020/11/08 00:35
重心を低く保ち、コンパクトな前傾姿勢が特徴的である。

ロングキックを得意とする。マリノス時代から得意としていたが、ノアシェランで更に磨きをかけた。カウンターでも狙う相手によっては球種を変えており、スピードを持つ選手には速いボール、高さ、強さのある選手には受けやすいボールを蹴り分けている。


■評価

ラモス瑠偉は川口について「日本の宝。キーパーとしてNO.1だと思っている。プロフェッショナル意識を持っているし、他の選手たちからも尊敬されている」と語っている。


■人物

地元である富士市と富士山には深い思い入れがある。
横浜F・マリノス時代にチームメイトであった中村俊輔のフリーキック練習に遅くまで付き合うことも少なくなく、中村からは度々感謝されている。
楢崎正剛とはライバル関係にあり、メディアからは新人の頃から比較され続けた。日本代表の練習中に2人が話していると、報道陣がざわつくこともあり、代表合宿でのハイボール処理の特訓においての川口と楢崎の対決では、チームメイトも足を止めるほど白熱した(結果は12戦中9勝2敗1分)。川口自身は楢崎との関係について「普通」と語っており、楢崎も「全然普通」と賛同している。
マリノス時代やオリンピックや日韓W杯でチームメイトだった松田直樹とは、シーズンオフに一緒に練習していた。川口は松田の事を“戦友”と言っている。また、松田が心筋梗塞で亡くなる日の前日(2011年8月3日)に行われたスルガ銀行チャンピオンシップ2011で、PK戦で2本止めて優勝した。試合後のインタビューでは「マツが力を貸してくれた。あいつも今、闘っている最中。僕も負けられないと思いました。」と答えていた。

ホセ・ルイス・チラベルトを尊敬する。

[匿名さん]

#6882020/11/08 00:36
現役時代はベスト体重の維持の為1日5度体重計に乗り、100グラム単位まで気を使っていた。この他食事はもちろん、睡眠時間の確保にも気を使っていたため、現役時代を「常に張り詰めた生活」と述べている。引退後の2018年12月13日に「プロサッカークラブをつくろう!ロード・トゥ・ワールド」のメディア発表会に登場した際には前日にレモンケーキを食べたということを明かし、「甘い物っておいしいですね」とコメントしている。


■所属クラブ

◇ユース経歴
1988年 - 1991年 東海大学第一中学校 (現・東海大学付属翔洋高等学校・中等部)
1991年 - 1994年 清水市立商業高等学校 (現・静岡市立清水桜が丘高等学校)

◇プロ経歴
1994年 - 2001年10月 横浜マリノス / 横浜F・マリノス
2001年11月 - 2003年8月 ポーツマスFC
2003年8月 - 2005年 FCノアシェラン
2005年 - 2013年 ジュビロ磐田
2014年 - 2015年 FC岐阜
2016年 - 2018年 SC相模原


■代表歴

◇主な出場大会
1996年 - アトランタオリンピック
1998年 - FIFAワールドカップ・フランス大会
2000年 - AFCアジアカップ2000 : 優勝
2001年 - FIFAコンフェデレーションズカップ2001 : 準優勝
2002年 - FIFAワールドカップ・日韓大会
2004年 - AFCアジアカップ2004 : 優勝
2005年 - FIFAコンフェデレーションズカップ2005
2006年 - FIFAワールドカップ・ドイツ大会
2007年 - AFCアジアカップ2007 : 4位
2010年 - FIFAワールドカップ・南アフリカ大会

◇試合数
国際Aマッチ 116試合 0得点 (1997年-2008年)

◇日本代表 国際Aマッチ
年 出場 得点
1997 21 0
1998 9 0
1999 3 0
2000 8 0
2001 9 0
2002 2 0
2003 2 0
2004 11 0
2005 14 0
2006 19 0
2007 12 0
2008 6 0
2010 0 0
通算 116 0

[匿名さん]

#6892020/11/08 00:37
◇U-23サッカー日本代表 36試合 0得点(1994年-1996年)

◇サッカー五輪代表
年 出場 得点
1994 8 0
1995 15 0
1996 13 0
通算 36 0


■タイトル

◇チーム
Jリーグ 優勝 : 1995
AFCアジアカップ 優勝 : 2000、2004
フットボールリーグ・ディヴィジョン1 優勝 : 2002-03
Jリーグカップ 優勝 : 2010


■個人

◇サッカー
1995年 - 新人王
1996年 - 日本年間最優秀選手賞
2001年 - FIFAコンフェデレーションズカップ2001 ベストイレブン
2001年 - AFC月間最優秀選手賞 (6月)
2004年 - アジアカップ2004 ベストイレブン
2006年 - Jリーグベストイレブン
2008年 - Jリーグフェアプレー個人賞 (ジュビロ磐田選手では初受賞)
2013年 - Jクロニクルベスト ベストイレブン

◇その他
1995年 - ベストスマイル・オブ・ザ・イヤー (著名人部門)
1996年 - 報知プロスポーツ大賞 (Jリーグ部門)
1998年 - ベストドレッサー賞 (スポーツ・芸能部門)
2002年 - 日本プロスポーツ大賞 (2002 FIFAワールドカップ日本代表として)
2019年 - Jリーグ功労選手賞


■出版

◇書籍
ゴールはオレにまかせろ!「川口能活」—アトランタ若き守護神 (1996年7月発売、著・大貫哲義 主婦と生活社) ISBN 4391119129
川口能活〈PERSONAL BOOK〉YOSHIKATSU (1996年12月発売、小学館) ISBN 4091023266
魂のゴールキーパー 川口能活 (2006年3月発売、著・西川昭策 アールズ出版) ISBN 4862040128
川口能活 証 (2006年5月発売、著・山中忍 文藝春秋) ISBN 4163680101
『月刊コロコロコミック』 (1998年5-6月号でドキュメント漫画「川口能活物語」を掲載、作画はかとうひろし)
壁を超える (2017年10月10日発売、著・川口能活 角川新書) ISBN 9784040821665

[匿名さん]

#6902020/11/08 00:38
◇ビデオ
川口能活 /横浜マリノス・オフィシャル・ビデオ (1996年11月21日発売、ポニーキャニオン)


■出演

◇メディア出演
第47回NHK紅白歌合戦 (NHK総合テレビジョン)
関口宏の東京フレンドパークII (TBSテレビ)
情熱大陸(毎日放送)
SmaSTATION-3(テレビ朝日) - 香取慎吾と対談など
GET SPORTS (テレビ朝日) - 中西哲生とも対談
やべっちFC〜日本サッカー応援宣言〜 (テレビ朝日)
すぽると! (フジテレビ) - 試合後コメントなど
金子達仁のSports Press (ニッポン放送)
FIFAフットボール・ムンディアル (IMG)
メヂカラ (TBSテレビ)
みらいのつくりかた (テレビ東京)
ヒーローたちの名勝負 (NHK総合テレビジョン)
Crossroad (テレビ東京)


◇CM
サンスター トニックシャンプー
明治製菓アメリカンチップス イメージキャラクター (1996年)
日産自動車 (1998年)
日産火災海上保険 (2000年〜2001年)
大塚製薬 「エネルゲン」
参天製薬 「サンテエフエックス」
参天製薬 「サンテコンタクト」(吉川ひなのと共演)
総務省「第44回衆議院議員総選挙・最高裁判所裁判官国民審査」投票啓発活動(加藤あいと共演、2005年)
東海漬物 「きゅうりのキューちゃん」 (2006年)
NEC 「VALUESTAR W」(2006年) (山本太郎、玉木宏が出演している)
キリンビール「企業」(2017年8月)
ソニー・インタラクティブエンタテインメント「PlayStation®4『がんばった2人』篇」(2019年3月8日 - )- 楢崎正剛との共演
ピップ株式会社「プロ・フィッツ サポーター ひざ用」(2019年5月3日 - )

◇イメージキャラクター
セキュリティハウス・センター (契約会社)

[匿名さん]

#6912020/11/08 00:39
>>688
川口何の関係ある?デッツオーラ島根で現役復帰するのか?関係ないこと書くわけないから復帰するのか?それとも指導者?

[匿名さん]

#6922020/11/08 00:41
Jリーグの監督かと思ってたらカテゴリー下過ぎるな!指導者勉強には良いかもしれんが

[匿名さん]

#6932020/11/09 12:57
川口が来るのか?たいした物だな!デッツも有名だな

[匿名さん]

#6942020/11/15 00:08
☆★関東Rookie League U-16★☆

□■市立船橋高校 Aリーグチーム2019■□

April 26, 2019、April 28, 2019


□■サッカー部紹介■□

■関東ルーキーリーグU-16への意気込み!

貴重な強化の場として真剣に毎試合を戦います。

■指導方針

真面目に 謙虚に 直向きに


□基本情報一覧□

■監督:波多秀吾   

■ユニフォーム情報(正:上下ソックス色、副:上下ソックス色)
FP正 青/青/青  副 白/白/白  GK正 黄/黒/黒  副 オレンジ/黒/黒

■部員数
1,2年
57名(内1名マネージャー)

■平日の活動時間
火曜日〜日曜日 16:30〜18:30

■練習内容
1月中旬〜3月中旬(オフシーズン)持久力・筋パワーの向上等、体つくり、チームコンセプトの徹底
3月中旬〜4月上旬(プレシーズン)チーム戦術およびゲーム戦術の徹底
4月上旬〜1月中旬(インシーズン)各試合における課題克服練習、対戦相手に応じた戦い方


■輩出OB(Jリーガー、日本代表等)

【現役】
◇J1
中村充孝(鹿島アントラーズ)、椎橋慧也(ベガルタ仙台)、志村滉(ジュビロ磐田)、高 宇洋(ガンバ大阪)、中林洋次(サンフレッチェ広島)、馬渡和彰(川崎フロンターレ)、和泉竜司(名古屋グランパスエイト)、杉岡大暉(湘南ベルマーレ)、柴戸 海(浦和レッズ)、金子大毅(湘南ベルマーレ)、原輝綺(サガン鳥栖)、村山智彦(松本山雅FC)

[匿名さん]

#6952020/11/15 00:09
◇J2
小川佳純(アルビレックス新潟)、小出悠太(ヴァンフォーレ甲府)、石井秀典(徳島ヴォルティス)、佐藤優也(ジェフ千葉)、増嶋竜也(ジェフ千葉;期限付き移籍)、笠原昂史(大宮アルディージャ)、磐瀬剛(京都サンガF.C.)、山田拓巳(モンテディオ山形)、永藤 歩(モンテディオ山形)、上福元直人(東京ヴェルディ)、福元友哉 (ファジアーノ岡山)、長谷川凌(水戸ホーリーホック)、積田景介(FC琉球)、矢村健(アルビレックス新潟)

◇J3
加藤弘堅(ギラヴァンツ北九州)、渡辺広大(ザスパクサツ群馬;期限付き移籍)、今瀬淳也(カターレ富山)、杉山弾斗(カターレ富山;育成型期限付き移籍)、原一樹(ロアッソ熊本)、打越大樹(ギラヴァンツ北九州)、田中悠也(ギラヴァンツ北九州)

◇JFL
藤本 心(MIOびわこ滋賀)、石原幸治(東京武蔵野シティFC)、森建太(MIOびわこ滋賀)、鈴木潤(奈良クラブ)

◇海外
水野輝(カンボジア:スヴァイリエンFC)、室伏航(カナダ:York9FC)、杉山丈一郎(カンボジア:カンボジアンタイガー)、石田雅俊(韓国:ANSAN GREENERS FOOTBALL CLUB)

【市船サッカー部OB指導者】
安達亮(J3 カターレ富山監督)、鬼木達(J1川崎フロンターレ監督)、秋葉忠宏(U-23日本代表コーチ)、伊藤竜一(ブリオベッカ浦安GKコーチ)、羽田憲司(J1 鹿島アントラーズコーチ)、高木理己(J3 ガイナーレ鳥取監督)、永井俊太(柏レイソルU-18監督)、本橋卓巳(松本山雅FCU-18コーチ)、松田正俊(栃木SCコーチ)、小川亮(Fリーグ ペスカドーラ町田コーチ)、小原一典(カンボジアサッカー代表コーチ)

[匿名さん]

#6962020/11/15 00:10
【市船サッカー部OBサッカー選手】
安達亮(元横浜フリューゲルス)、遠藤大志(元ソニー仙台FC)、高橋憲司(元フジタサッカークラブ)、羽田憲司(元ヴィッセル神戸)、新井二郎(元日立製作所サッカー部)、本橋卓巳(元栃木サッカークラブ)、野口幸司(元名古屋グランパスエイト)、秋田政輝(元ツエーゲン金沢)、小川誠一(元名古屋グランパスエイト)、西望実(元Honda FC)、境秋範(元川崎フロンターレ)、高安亮介(元栃木ウーヴァFC)、水内俊博(元富士通サッカー部)、渋澤 大介(元グバルディア・コリシャン:ポーランド)、曽我豊明(元水戸ホーリーホック)、石川航平(元松本山雅FC)、井尻明(元京都サンガF.C.)、若月翔太(元ジェフユナイテッド市原・千葉リザーブズ)、永田崇(元京都サンガF.C.)、高橋直也(元MIOびわこ滋賀)、高田昌明(元横浜フリューゲルス)、高橋昌大(元MIOびわこ滋賀)、和田潤(元FC東京)、中村直志(元名古屋グランパスエイト、元日本代表)、鬼木達(元川崎フロンターレ)、鈴木修人(元ギラヴァンツ北九州)、水野淳(元ジェフユナイテッド市原)、松田正俊(元ブラウブリッツ秋田)、渡辺敦夫(元浦和レッズ)、森川 龍誠(元グルージャ盛岡 )

[匿名さん]

#6972020/11/15 00:10
秋葉忠宏(元S.C.相模原)、砂川誠(元コンサドーレ札幌)、森崎嘉之(元横河電機サッカー部)、川口大起(元ソニー仙台FC)、鈴木和裕(元水戸ホーリーホック)、西紀寛(元タイ:ポリス・ユナイテッド、元日本代表)、茶野隆行(元ジェフユナイテッド市原・千葉)、青木良太(元ザスパ草津)、式田高義 (元アルビレックス新潟)、若狭友佑(元横河武蔵野FC)、松森亮 (元ジュビロ磐田)、黒河貴矢(元アルビレックス新潟)、城定信次(元湘南ベルマーレ)、中澤聡太(元セレッソ大阪)、鈴木正人(元セレッソ大阪)、松ヶ枝泰介(元シロン・ラジョンFC:インド)、佐藤陽彦(元京都パープルサンガ)、カレン・ロバート(元インド・ノースイースト・ユナイテッド)、吉川京輔(元コンサドーレ札幌)、小宮山尊信(元横浜FC)、原竜太(元湘南ベルマーレ)、大久保裕樹(元ジェフ千葉)、永井俊太(元柏レイソル)、鹿野崇史(元東京武蔵野シティFC)、森野徹(元SC相模原)、竹谷英之(元VONDS市原FC)、軽部雅也(元アルビレックス新潟)、植草裕樹(元清水エスパルス)、小山泰志(元東京23FC)、庄司孝(元デッツォーラ島根)、佐藤大基(元ザスパ草津)、阿部翔平(元ヴァンフォーレ甲府)、濱田雄也(元ザスパ草津)、加藤忠章(元VONDS市原FC)、北嶋秀朗(元ロアッソ熊本、元日本代表)、種岡岐将(元藤枝MYFC)

[匿名さん]

#6982020/11/22 00:07
名波 浩(1972年11月28日 - )は、静岡県藤枝市出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者、解説者。現役時代のポジションはミッドフィールダー。元日本代表。

■愛称
ナナ、名波くん、なっちゃん、773


□基本情報□

■国籍
日本
■生年月日
1972年11月28日(47歳)
■出身地
静岡県藤枝市
■身長
177cm
■体重
70kg

□選手情報□

■ポジション
MF
■利き足
左足
■クラブ

クラブ
出場
(得点)
1995-2008
ジュビロ磐田
301
(32)
1999-2000
→ヴェネツィア (loan)
24
(1)
2006
→セレッソ大阪 (loan)
13
(2)
2007
→東京ヴェルディ (loan)
17
(0)
通算
355
(35)

■代表歴
1995-2001
日本
67
(9)

■監督歴
2014-2019
ジュビロ磐田

Jリーグのジュビロ磐田、セレッソ大阪、東京ヴェルディ1969、イタリア・セリエAのACヴェネツィアでプレーした。Jリーグベストイレブンを4度受賞。日本代表では背番号10を着用し、1998年のフランスワールドカップに出場した経歴を持つ。

[匿名さん]

#6992020/11/22 00:08
■来歴

◇プロ入り前
静岡県藤枝市にて名波家4人兄弟の末子として出生。女児出生を期待していた両親は4連続男児の誕生に肩を落とす。役所への届出期限が迫り慌てて「名波浩」と母が命名。藤枝市という環境と兄らの影響もあり物心つくうちからサッカーに熱中。この頃の名波家は家計が逼迫しており夫婦共働きで、四男は放ったらかし、その浩少年も家族行事よりボールを蹴ることばかり優先。時間があれば電話で友人を執拗に呼び出してサッカーに明け暮れていた。やや肥満気味でゲーム中あれこれ指図することから付けられたあだ名は「ジャイアン」。外でサッカーが出来ない時は兄らと自宅でボール蹴りに興じ、部屋の調度品を破壊していた。

西益津小学校入学、休み時間はサッカー、放課後は空き地、田圃、大手公園(通称チビッコ広場)で日が暮れるまでボールを蹴り、ディエゴ・マラドーナのプレーに衝撃を受け左足の技術を磨く。小学2年生時に実兄・豊の後に付き、どさくさに紛れて西益津サッカー団のセレクションに年長と参加、当時のコーチ山田晃はその(左足の)センスに驚嘆するも入団の加入条件が小学3年生以上だったため、1年後に受けるよう伝えて落選。小学3年生時の再挑戦時には、更に技術に磨きがかかっていた。小学校4年生時、既に同世代での試合では手に負えなくなっていた浩少年を年長チームへと飛び級させる。この頃のポジションは左ウイング。

西益津中学校入学、中学2年生時でレギュラー獲得。「フィーバーした」と回想するほど対抗試合で勝ちまくり、3年生で県予選優勝。

[匿名さん]

#7002020/11/22 00:09
サッカー熱で藤枝市と清水市の対立が激しかったこの当時、県選抜の仲間の大半が清水市立商業高校へ進学することを知りった浩少年は「俺もキヨショーに行けば、さらに強いチームになる」と清水市立商業高校へ進学を希望するも担任は藤枝市内にある全ての高校が入学を待ち望んでいると助言し進路を保留する。この選択に藤枝市中のサッカー父兄から名波家へ批判と落胆の声が挙がる中、清商へ進学。

清水商業高校時代は大岩剛、山田隆裕、薩川了洋、望月重良らと共に高校総体、ユース選手権を制覇した。

順天堂大学入学、同大学サッカー部入団。在学中に五輪代表(U-23)に選ばれ、バルセロナ五輪アジア最終予選では3試合で途中出場した。サッカーの技術が上達しようとも、それだけでは生計が立てられない状況を諦観する中、水面下でプロリーグ化のあったJSLが1993年にJリーグと名を変え発足。次々と同世代がプロになっている事に焦り、親から200万円を借りてサッカーの海外留学を頼むも「卒業する事が絶対条件」と却下。同部では1部残留を辛うじて決め卒業し、教員免許取得。


■ジュビロ磐田

1995年にジュビロ磐田に加入。加入直後からレギュラーとして活躍、4月12日の柏レイソル戦でJリーグ初ゴールを決めた。ここでは後に訪れるジュビロ黄金時代を築き上げ、牽引した一人となった。

同年から加茂周監督率いる日本代表に招集。当初はクラブと同じ攻撃的MFで起用されていたが、アトランタ五輪後に前園真聖が日本代表に合流するタイミングでボランチにコンバートされた。その後中田英寿の台頭もあり日本代表では主にボランチで起用された。

[匿名さん]


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