>>50くん無神論は宗教と変わらないというのが
こちらの宗旨ですよ。さて、マルクスはカトリックを
信仰してようがしていまいが、無神論は下記コピペにあるとおり
宗教と対して変わりません。さて大壕院邪気こと
おてんば私立学院総長はなぜ、大本が鎮魂を取り入れたか
まだお答になっておりませんね。その件を代りに>>50は答えてください。
まあ、無理でしょうね。おてんばさんは神道の基本すら知りませんから。
日本共産党には32年テーゼというものがありましてね。
谷沢永一先生がこれを発見し、発表しその欺瞞性が高まりました。
さて、>>50くんは32年テーゼってなーんだ?知ったら共産党嫌いになるねぇ♪
<コピペ>
共産主義と無神論
「ハルマゲドン」の終末論は、多くのカルト集団が好んで取り上げたがる所だ。もともとは、「聖書」の黙示録から出て、中世ヨーロッパでは、いわゆる「至福千年」のユートピア待望と、いわばワンセットになって、さかんに言い立てられた。さまざまな「予言者」たちによって、くり返し「終末」の年月、日時までが指示され、不安と期待の念にみちて待望されながら、その都度失敗に終わっても、ほとんど性懲りもなく、同じような「終末」予言が相次いだといわれる。どうやら、怖いもの見たさの好奇心と、ユートピア待望の熱っぽい期待感とが、いわば背中合わせにはりついたヴィジョンまた言説には、奇妙なほど普遍的な魅力がひそんでいるらしいのだ。
いや、ふり返ってみると、あの戦闘的な無神論の共産主義イデオロギー自体、その基本構造においては、ほとんど全く同類と認めていい。つまりプロレタリア革命という名の終末の刻、審判の日の到来が、熱っぽく待ち望まれるばかりか、その悪しき権力、支配階級と資本家たちにとっての「終末」の日は、同時に虐げられし者、プロレタリアートにとっては、輝かしい解放の「至福」の時代の到来に他ならない。ユダヤ人マルクスの心の低層には、ユダヤ教以来の「終末論」がねっとりと染み込んでいたとしか思えない。
戦闘的な無神論の本家本元ともいうべきソ連が思いがけず瓦解してみると、忽ち「無神論」の方まで、足元が怪しくなってきた。古い教会、修道院の復活、再興が相次いで行われ始めたということは、伝統の復活ということで喜ばしいことである。
こちらの宗旨ですよ。さて、マルクスはカトリックを
信仰してようがしていまいが、無神論は下記コピペにあるとおり
宗教と対して変わりません。さて大壕院邪気こと
おてんば私立学院総長はなぜ、大本が鎮魂を取り入れたか
まだお答になっておりませんね。その件を代りに>>50は答えてください。
まあ、無理でしょうね。おてんばさんは神道の基本すら知りませんから。
日本共産党には32年テーゼというものがありましてね。
谷沢永一先生がこれを発見し、発表しその欺瞞性が高まりました。
さて、>>50くんは32年テーゼってなーんだ?知ったら共産党嫌いになるねぇ♪
<コピペ>
共産主義と無神論
「ハルマゲドン」の終末論は、多くのカルト集団が好んで取り上げたがる所だ。もともとは、「聖書」の黙示録から出て、中世ヨーロッパでは、いわゆる「至福千年」のユートピア待望と、いわばワンセットになって、さかんに言い立てられた。さまざまな「予言者」たちによって、くり返し「終末」の年月、日時までが指示され、不安と期待の念にみちて待望されながら、その都度失敗に終わっても、ほとんど性懲りもなく、同じような「終末」予言が相次いだといわれる。どうやら、怖いもの見たさの好奇心と、ユートピア待望の熱っぽい期待感とが、いわば背中合わせにはりついたヴィジョンまた言説には、奇妙なほど普遍的な魅力がひそんでいるらしいのだ。
いや、ふり返ってみると、あの戦闘的な無神論の共産主義イデオロギー自体、その基本構造においては、ほとんど全く同類と認めていい。つまりプロレタリア革命という名の終末の刻、審判の日の到来が、熱っぽく待ち望まれるばかりか、その悪しき権力、支配階級と資本家たちにとっての「終末」の日は、同時に虐げられし者、プロレタリアートにとっては、輝かしい解放の「至福」の時代の到来に他ならない。ユダヤ人マルクスの心の低層には、ユダヤ教以来の「終末論」がねっとりと染み込んでいたとしか思えない。
戦闘的な無神論の本家本元ともいうべきソ連が思いがけず瓦解してみると、忽ち「無神論」の方まで、足元が怪しくなってきた。古い教会、修道院の復活、再興が相次いで行われ始めたということは、伝統の復活ということで喜ばしいことである。