>>268
そうです 如来の悟りが頂点で有り究極の幸せ
涅槃です。
悟りには段階が有り
悟りの52位と言います。
1段目から10段目を「十信」、
(1段目を初信、2段目を二信、3段目を三信……10段目を十信)
11段目から20段目を「十住」、
(11段目を初住、12段目を二住、13段目を三住……20段目を十住)
21段目から30段目を「十行」、
(21段目を初行、22段目を二行、23段目を三行……30段目を十行)
31段目から40段目を「十回向」
(31段目を初回向、32段目を二回向、33段目を三回向……40段目を十回向)
41段目から50段目を「十地」、
(41段目を初地、42段目を二地、43段目を三地……50段目を十地)
といいます。
51段目は、ほとんど仏の悟りと等しいということで、「等覚」と言われます。
52段目の悟りが
「仏覚(ぶっかく)」と言われ、仏の悟りです。
これ以上、上が無いので「無上覚(むじょうかく)」とも
妙なるさとり、「妙覚(みょうかく)」とか、
「阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)」
とも言われ、仏の悟りには色々な名前があります。
この悟りの52位の中で、
40段目までを「退転位(たいてんい)」といい、
41段目以上を「不退転位(ふたいてんい)」といいます。
「退転(たいてん)」とは、
油断するとさとりが崩れることをいいます。
ですから、2段目、3段目と悟っても、気を抜くと、がらっと崩れて
元の木阿弥になってしまいます。
そして41段目以上の「不退転位」まで行くと、
どんなことがあっても崩れない悟りの位となります。
悟りは1段違えば、人間と虫けらほど境涯が違うと言われます。
悟りは、ちょっと気付くとか、何々が分かったとか、そんな生易しいものではなく
境涯が変わってしまうのです。
因みに手足が腐るほど修行した禅宗の祖、達磨大師が30段と言われております。
有名な高僧でも10段もいかないぐらいです。