で・六番、神仏に抱き抱えられて、あるいは乗って、ですが、これらの中には正解はありません。
最後に、その時の状態ですが、三番、死んだらいた、も正解ではありません。
以上の判断から、一番から八番までの答えの中には正解は無いと判断いたします。
判断の理由について以下に、申し上げます。
ゴ-タマ・ブツダ本来の仏教は行くべき主体すなわち霊魂等の実在は認めていません。したがって、行くべき主体がないのだから、行くべき処も無く、その手段も無く、その行き方も無く、その時の状態(死んだらいた)も無しです。ブツダは人の死後に就いての質問には、常に寂黙していたそうです。つまり、いくら考えても答えが出無いことについては黙っておられたわけですね。寂黙の主は釈迦牟尼世尊と申します。元のものが無いのだから「有り」「無し」も無いのです。般若心経の言葉によれば、「さかしまな妄想は遠く離れて涅槃が極まる」です。要するに「無記」です。「死後がどうのこうの」と言うような形而上学的論議(戯論)については思考や論議は止滅しています。以上が私の拙い仏教理解のよる回答です。
何卒、補足で正解示してください。宜しくお願い申しあげます。
正解をご教示くださいまして、ありがとうございました。『弘誓の船』で御浄土に行く。勉強になりました。私の浅はかな佛教理解が解かって感謝しています。補足の内容は全てメモさせていただきました。心よりお礼申しあげます。
等覚寺雅道 合掌
質問した人からのコメント 2009/8/29 17:10:34 皆様回答ありがとうございました。
雅道様はなんと心が綺麗な方なのでしょう。
大抵の人は他宗派の見解は聞き入れないものですが…
こちらが心洗われました。
『弘誓の船』は方便でも仮想でもなく、実在になります。
最後に、その時の状態ですが、三番、死んだらいた、も正解ではありません。
以上の判断から、一番から八番までの答えの中には正解は無いと判断いたします。
判断の理由について以下に、申し上げます。
ゴ-タマ・ブツダ本来の仏教は行くべき主体すなわち霊魂等の実在は認めていません。したがって、行くべき主体がないのだから、行くべき処も無く、その手段も無く、その行き方も無く、その時の状態(死んだらいた)も無しです。ブツダは人の死後に就いての質問には、常に寂黙していたそうです。つまり、いくら考えても答えが出無いことについては黙っておられたわけですね。寂黙の主は釈迦牟尼世尊と申します。元のものが無いのだから「有り」「無し」も無いのです。般若心経の言葉によれば、「さかしまな妄想は遠く離れて涅槃が極まる」です。要するに「無記」です。「死後がどうのこうの」と言うような形而上学的論議(戯論)については思考や論議は止滅しています。以上が私の拙い仏教理解のよる回答です。
何卒、補足で正解示してください。宜しくお願い申しあげます。
正解をご教示くださいまして、ありがとうございました。『弘誓の船』で御浄土に行く。勉強になりました。私の浅はかな佛教理解が解かって感謝しています。補足の内容は全てメモさせていただきました。心よりお礼申しあげます。
等覚寺雅道 合掌
質問した人からのコメント 2009/8/29 17:10:34 皆様回答ありがとうございました。
雅道様はなんと心が綺麗な方なのでしょう。
大抵の人は他宗派の見解は聞き入れないものですが…
こちらが心洗われました。
『弘誓の船』は方便でも仮想でもなく、実在になります。