>>891
富士の方々には悪いが日興は几帳面で堅実な方でしたが、些か彼の言動には原理主義的なところが見受けられます。
南部実長は当初は日興の実直さを認めて、彼の行いから日蓮を認めていましたが、日蓮が身延に在住してからは日蓮その人に惚れたのです。
その意味で日蓮が身延に来てからは南部実長の信仰は日蓮に直結していたのですが、日興の意識は実長は自分の弟子であり 自分を通して日蓮を崇拝するのが筋目であると考えていたことは彼の確かな遺文に明らかです。
この南部公と日興の意識の違いは日蓮遷化の後に顕在化したようです。
日興は、たとえ日蓮を崇め法華経を信仰しようとも直接の師匠である自分を抜かせば、その信仰は無効であり無間地獄の業になるとまで考えていました。
そこに自ずと過剰な正嫡意識を特徴とする興門流の萌芽があったと言えるのではないでしょうか。
他の五老僧たちは当時の交通や通信事情を思えば次第に墓所の輪番制度を守れなくなるのは鎌倉時代末期の世相を思えば責められるべきものではありません。
また南部氏の幕府での立場からすれば源頼朝以来の幕府の祈祷所である三島明神に寄進することは信仰以前に公事すなわち幕府後家人としての公務です。
それを日興が論うことは当時の社会常識から言えば考えられないことなのです。
南部公と日興の間に確執が生まれ、その感情的な蟠りが離山の最大の原因であり、日向が南部公と親密になるにつれ日興は身延に居場所が無くなったと見た方が自然ではないでしょうか。
面子丸潰れの日興の弟子たちが早くから彼の事跡を擁護するためには南部公や日向は「師匠敵対の謗法の徒輩」に是非とも成っていただくしか方法がなかったのかもしれませんね。