御父が主イエスの内におられるとは、どのようなことでしょうか。
それは主イエスの霊魂が御父だということです。
主イエスの霊魂は、御父である神エホバの霊なのです。
キリスト教会では、宇宙の創造主である神が、永遠のむかしから御子を生み、
その御子が、人間をあがない救うため、この世に下って人間性をとられたと
信じられていますが、それは誤りであり自己矛盾です。
御父なる神エホバご自身が、人間をあがない救われるため、この世に下られ
たのです。
エッサイの株からひとつの芽が萌えいで
その根からひとつの若枝が育ち
その上にエホバの霊がとどまる。
知恵と識別の霊
思慮と勇気の霊
エホバを知り、畏れ敬う霊。
彼はエホバを畏れ敬う霊に満たされる。イザヤ11.1-3
ここにはっきり、主イエスの霊魂が神エホバの霊であると記されています。
エホバはわたしに油を注ぎ
エホバなる神の霊がわたしをとらえた。
わたしを遣わして
貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。イザヤ61.1
エホバは、御自分の右の手にかけて
力ある御腕にかけて、誓われた。 イザヤ61.8
「右の手」とは、神の全能のこと、「御腕」とは、エホバの人間性のことです。
健全な理性と宗教があれば、今さら自由意志について、書く必要がないと思えます。
「霊的なことで、人に自由意志が可能なのは、だれもが知っている。
牧師が説教するのは他でもない。神を信じなさい、悔い改めなさい、
(みことば)の命令にしたがって生活しなさい、肉の欲に抵抗しなさい、
新しく造られた者になりなさいなど、みんな人に自由選択の能力があるからです。
救われるかどうかで、人に自由意志がないと言ったら、ナンセンスです。
自由を否定することは、社会通念にも反するから、机上の空論です。
ところが、現在の教会はその反対のことを言っているのです。
現代の教会の信仰は、一口で言うと、信仰義認です。
そしてそれは「責任転移(オカゲサマ)」信仰です。
全キリスト教会に伝えられた教えがありますが、それは、父なる神はその
おん子キリストの功績を転移させることによって、義をほどこし、人が救われる
ということ、またその責任転移は、神がお望みの時と所で、しかも神の思し召し
次第で、行われるということ、そして、キリストの功徳にあづかる者は、神の子の
中に、養子として加えられるということです。
現在の責任転移信仰(オカゲサマ)では、霊的なことがらで、人には何の自由選択もありません。
洋服に火がついても、それを消しとめて、自分の身を守ることもできません。
それにたいし、(みことば)では、初めからしまいまで、人はみな悪を避けるよう、善いことを
するよう教えられています。悪は、悪魔のもの、悪魔によるものですが、善は、神のもの、
神によるものです。そして、自分の力をつかって、主のみ働きに協力して、善をしなくてはなりません。
ところが、現在の責任転移信仰は、そのようにする能力を骨抜きにします。
つまり、責任転移の中に、人間的なものは何もはいってはいけない、キリストの功徳だけだと言って、
実行することを、信仰と救いの自殺行為であるとします。
これが固まってくると、霊的なことがらで、人間は完全に無能力だという、サタン的な教えが流れ入ります。
また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。
「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、
多くの人のために流される血、契約の血である。マタイ26.27、28
この主イエスの(みことば)を、主が、十字架の上で流される流血のこと
と思い、それで人類の罪が赦されるものとかん違いしたのでしょう。
聖餐式は、契約とよく似ています。約束は結ばれたあと、最後に印鑑を押します。
主のおん血は契約です。キリストご自身、杯をとったあと、それを与えて言われました。
「みんな、この杯から飲みなさい。これはわたしの血である。すなわち、新約の血である。」と。
マタイ26.27、28 ルカ22.20 マルコ14.24)
新約とは新しい契約のことです。主の到来以前、預言者たちによって記された(みことば)は、
「旧約」すなわち「古い契約」と言われ、主の到来のあと、福音書記者や使徒たちによって
記された(みことば)は、「新約」すなわち「新しい契約」と言われます。
聖餐式のなかでは、「キリストの血」といわれ、また「ぶどう酒」をとおして、(みことば)の(神の真理)を
表わしています。(みことば)とは、その契約それ自身です。主が人と結ばれ、人が主と結んだ契約です。主は、(みことば)として、すなわち(神の真理)として、この世に来られました。というのは、主ご自身の
おん血は(神の真理)ですから、キリスト教会の表象であるイスラエルの教会では、血について、次の
ようにあります。
「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である」出エジプト記24.8
「あなたと結んだ契約の血のゆえにわたしはあなたの捕らわれ人を水のない穴から解き放そう。」
ゼカリア9.11
「ただし、主は、民の契約である」イザヤ42.6 49.8エレミヤ31.31-34 詩編111.9
聖餐は、主イエスによって制定されました。
イエスは、弟子たちとともに過越し(パスカ)をなさいました。夕方が来て、
かれと食を共になさいました。
「かれらが食事をしているとき、イエスはパンをとり、祝福し、裂いて、弟子たち
に与えられ、言われた。『とって食べなさい。これはわたしの体です』と。
それから杯をとって、感謝して、かれらに与えていわれた、『みんなこの杯から
飲みなさい。これはわたしの血です。これは、罪のゆるしのために、多くの人の
ために流される新しい契約の血です』と」(マタイ26.26-28 マルコ14.22-24
ルカ22.19、20)
ここで、「肉」と言われても、人肉のことではありませんし、「血」と言っても
血液のことではありません。「肉」とは(仁愛の善)のこと、「血」というと、
(信仰の真理)のことです。つまり、主ご自身あるいは(みことば)そのもの
にある(神の善)と(神の真理)のことです。
しかし、この主イエスの(みことば)を、キリストが十字架の上で流される血のこと
と思い、それで流血によって人類の罪が清められ赦されるものとかん違いしたのでしょう。
牧師が説教するのは他でもない。神を信じなさい、悔い改めなさい、
(みことば)の命令にしたがって生活しなさい、肉の欲に抵抗しなさい、
新しく造られた者になりなさいなど、みんな人に自由選択の能力があるからです。
救われるかどうかで、人に自由意志がないと言ったら、ナンセンスです。
自由を否定することは、社会通念にも反するから、机上の空論です。
ところが、現在の教会はその反対のことを言っているのです。
現代の教会の信仰は、一口で言うと、信仰義認です。
そしてそれは「責任転移(オカゲサマ)」信仰です。
全キリスト教会に伝えられた教えがありますが、それは、父なる神はその
おん子キリストの功績を転移させることによって、義をほどこし、人が救われる
ということ、またその責任転移は、神がお望みの時と所で、しかも神の思し召し
次第で、行われるということ、そして、キリストの功徳にあづかる者は、神の子の
中に、養子として加えられるということです。
確かにパウロの作文にはこう書かれてある。
「それは律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした」ガラテヤ4.5
ヘブライ人への手紙は、パウロの作文からの引用が多いからあてにならない。
クリスチャンが神の実子というのは、あたまのおかしなクリスチャンだけです。
神の実子は、イエス・キリストだけ。だから、神の独り子と記されている。
主は全宇宙の神であり、創造されない方、無限な方です。それにたいし、人も天使も、
創造されたもの、有限なものです。主は創造されず、限定もされない方で、「エホバ(ヤハウェ)」と
呼ばれる存在そのものです。
(いのち)そのもの、すなわちご自身の中にある(いのち)です。このように、創造もされず、
限定もされず、存在そのもの、(いのち)そのものである方から、人が直接つくられることはありません。
神は一つで、分割されない方です。ただし、神がその中に内在されることは可能となります。
人間や天使は、そんなふうに創られたものですから、(いのち)の器であるわけです。
福音主義の人たちは、人間の自由意志を礼拝堂の外に投げ捨てています。
それは、福音主義の人たちが信奉している「和協信条」という名の書物から明らかです。
これは1756年、オランダのライプチヒで出版された「和協信条」からの抜粋です。
「アウグスブルグ信仰告白を作成した学識者たちは、次のように主張します。
人間は、人祖の堕落以来、徹底的に腐敗し、改心とか救いに関する霊的ことがら
で、本来盲目です。説教で神の(みことば)が語られても、分かりませんし、
理解もできません。それが無意味だと判断し、自分の力で神に近づくことも
ありません。人は神に敵対したままの状態です。ただし説教で耳にした(みことば)
を通し、聖霊のおん力と、ただ恵みだけで、人の協力が全然ないまま、改心し、
信仰が与えられ、再生し、新しくされます」(656ページ)
リンゴクリスチャンの信仰から、かれが福音主義の人であることは明白です。
キリストの血とは、キリストのおん身体に流れていた、血液のことではありません。
キリストはご自分の血を、新しい契約の血と言われました。
食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたの
ために流される、わたしの血による新しい契約である。」と。ルカ22.20
「新しい契約の血」つまり新約の血とは、(みことば)以外の何ものでも
ありません。つまり(みことば)に内在する神の真理のことです。
主イエスの「血」とは、主イエスご自身のこと、(みことば)にある(神の真理)
のことなのです。
(いのちの器)ではなく、自分が(いのち)だと思ってしまえば、自分が神である
という考えから抜け出ることはできません。自分が(いのち)であるかにように感じたり、
そう信じ込んだりすれば、それこそ幻想です。道具因でありながら、主動因と一体だと感じ、
そんな考えに落ち入ります。主こそ、みずからの中にある(いのち)です。
それは、ヨハネによる福音書で主がおしえられておられます。
「父が、ご自分のうちに(いのち)をもっておられるように、子にも、自分のうちに(いのち)をもつ
ことをおゆるしになった」(ヨハネ5.26)と。
また、ご自身が(いのちそのもの)だと言われています(ヨハネ11.25、14-6)。
そして(いのち)も愛も、前述したように一つです(1.2節)
したがって、主は(いのち)そのものである以上、愛そのものです。
パウロという人は、イエスの直弟子ではなかった。彼はユダヤ教の側で将来を
嘱目されていたエリートで、最初は逆にイエスを従う者たちを迫害していた者
であった。その彼が何かの理由によって、突如として回心しキリスト教徒になった
のである。彼が生前のイエスに会ったことがあるかどうかは定かではない。
おおかたの学者の意見では、おそらく会ったことがないであろうとされている。
そのパウロが、直弟子たちに対して、自ら「使徒」であると主張したので、
いろいろ問題が生じた。しかし、このパウロこそが、初代教会において最大の
働きをした人であり、この人がいなかったなたば、後のキリスト教なる宗教は
消滅してしまったかも知れない。(イエスとは誰か)
キリストの弟子だと言っているのは、パウロだけ。
自称キリストの使徒だからと、その言葉・実も見極められずに騙される
バカ林檎、クリスチャン。彼の手紙には色々コピペもありましたが
矛盾と滑稽に満ちた信じがたいことが書かれていました。
12デシと違って一部分で謝った考えが起きているのではありません。
パウロは間違いなくニセ予言者でサタンで騙される林檎クリスチャンも
サタンです。
十字架の苦難が(あがない)そのものであったとする考え方は、教会の土台をゆるがす偽りでした。
それはまた、永遠のむかしから、神が三つの位格(ペルソナ)であるとする誤りといっしょになって、
霊的なものは名残もとどめないほどに、教会全体をゆがめてしまいました。
わたしは、たとえ取るに足りない者だとしても、あの大使徒たちに比べて少しも引けは取らなかった
からです。わたしは使徒であることを、しるしや、不思議な業や、奇跡によって、忍耐強くあなたがたの
間で実証しています。 コリントⅡ12.12
「見よ、ここにメシアがいる。」「いや、ここだ」と言う者がいても、信じてはならない。
偽預言者が現われて、大きな徴や不思議な業を行い、できれば選ばれた人たちをも
惑わそうとするからである。あなたがたには前もって言っておく。だから、人が
「見よ、メシアは荒れ野にいる」と言っても、行ってはならない。マタイ24.23-26
偽預言者や偽メシアのサタンの教えには惑わされないようにしましょう^^+
924 :神も仏も名無しさん:2012/07/31(火) 21:26:45.21 ID:GCP4/vGb
ボクは宗教団体には属していないし、本間門だから分かるんですが
名無しで解説されてる方もまた、まともな方と言えると思いますが、
こういう人はなかなか珍しいのではないでしょうか。
で、ボクが本当に聖書を真理と理解し解釈を得るに至ったので
若るンですがこの林檎クリスチャンの忌々しい言動は、
忌々しいものがあります、非常に。
神やイエスよりパウロのことをのべつ耐えること自体が内容はどうあれ
あらぬことでして、「イエスの皆により」って言うじゃないですか、
イエスを通してしか福音、真理は人に教えられない。
パウロがこう言った、では明らかにサタンのすり替えでして、
パウロも、サタンでした。は
そして林檎も、サタンなのです。地獄行きです。
[匿名さん]
わたしは、たとえ取るに足りない者だとしても、あの大使徒たちに比べて少しも引けは取らなかった
からです。わたしは使徒であることを、しるしや、不思議な業や、奇跡によって、忍耐強くあなたがた
の間で実証しています。 コリントⅡ12.12
「見よ、ここにメジアがいる。」「いや、ここだ」と言う者がいても、信じてはならない。
偽預言者が現われて、大きな徴や不思議な業を行い、できれば選ばれた人たちをも
惑わそうとするからである。あなたがたには前もって言っておく。だから、人が
「見よ、メシアは荒れ野にいる」と言っても、言ってはならない。マタイ24.23-26
「その時。もし、だれかがあなた方に、見よ、ここにキリストがいる、あそこにいる、と言っても
信じるな」とは、かれらの教義を警戒するようにという勧めです。「キリスト」とは、神の真理の
面から見た主をさします。つまり、(みことば)の面から、また(みことば)由来の教義の面から
見た主です。ここではその逆で、虚偽化された神の真理、すなわち偽りの教義を意味します。
「イエス」とは、神の善です。
コリント1・11・1
わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。
「偽キリストや偽預言者が起こって」とは、その教義にある偽りを指します。「偽キリスト」とは、
(みことば)由来の教義が虚偽化したもので、神的でない諸真理を指していることは、
その偽りを教える人を指します。偽りを教える人、とくにキリスト教世界では、自分の優越感や
この世の富を目的にしている人々です。かれらは、(みことば)の諸真理を自分の気に入るように
倒錯させます。かれらは自己愛と世間愛を目的にしており、それ以外は考えません。
「偽キリスト」また「偽預言者」とは、このような人です。
キリストの十字架と復活はパウロの教義なんかじゃありません。
パウロが語っているのは全て旧約聖書の引用です。
なおかつパウロが語っているのは旧約聖書の一部を語っているに過ぎません。
キリストの十字架と復活は、神がモーセに語った律法の成就であり、
その後の真の預言者達が語った全ての預言の成就です。
ある訳の解説にはこうありました。
「もし、ある人がキリストに倣う者であるなら、私たちはその人に
倣う者となるべき」だと。これはキリストを学ぶにあたっては極当然、
極自然なことではないでしょうか? とくに初期段階の信徒にとっては
不可欠でしょう。
逆を言えばこれは、
「キリストを手本としてないような兄弟の真似をするな」ということだ
とも言えます。「コリント教会に当てた手紙」ということから考えても
それは推測できるでしょう?
「大きな徴と奇跡を行い」とは、外観や錯覚を使って立証し、説得することです。無学
単純な人々は、それによって騙されます。
「できれば選民を惑わそうとする」とは、善と真理の(いのち)のうちにあり、このため
主のもとにある人々を指しています。(みことば)では、かれらを指して、選ばれた人
(選民)と言います。かれらは、聖なる装いの下、冒涜的信心を隠しもつ者らの集まりには、
めったに現われません。現われたとしても、見分けがつきません。なぜなら主がかれらを、
守られているからです。
今ここでは最初に、マタイによる福音書を調べてみます。
「弟子たちはイエスのもとに来て言った。それがいつ起こるか教えてください。
あなたの到来と代の終わりには、どんな印がありますか、と。イエスは、かれらに
答えて言われた。人に騙されないように気をつけなさい。多くの者がわたしの名を
使って、自分がキリストだと言い、多くの者をだますだろう。
また、戦争や戦争のうわさを耳にするだろう。あわててはいけない。万事は起こらねば
ならないが、まだ終わりではない。民族は民族に、国は国に、敵対する。
またあちこち飢饉と、疫病と、地震がある。しかし万事は苦しみの始まりである」マタイ24.3-8
使徒を名乗るパウロは、生前の主イエスの教えを聞いたことがあったのでしょうか?
あまりにも、主イエスの教えと違います。
パウロは、紀元30年ごろのキリストの磔刑のあと、3年後に回心し、47年にはもう第一回の
伝道旅行に出かけています。
最初の共観福音書である、マルコ伝の書かれた年代はよく分かっていませんが、65-70年ごろが
有力な説のようです。ルカによる福音書は80年ごろ、マタイによる福音書は85年ごろです。
ちなみに「旧約聖書」の成立は90年だそうです。
異端グノーシスの説とは何か?
それは、この世は駄目だからさっさと死んでおさらばしましょう、というひどい代物だ。
ご存じの通り、この世には欠点が多い。
これは全能の神という発想にとって困ったものだ。
神様がそんなにえらいなら、なぜこの世はこんなにもダメダメなのか?
なぜ正義は破れ、善人が苦しみ悪人がのさばるのか?
神様がコマンド一発でそういうのを削除すればいいじゃないか!
コシノ三姉妹が信者。
プロテスタントの新興宗教。
キリスト教のどんつくどんつくおたぬき様〜〜。
[匿名さん]
東の方へ向いて、南無妙法蓮華経とお題目をあげてください。でした。先程は間違った事を書いて申し訳ございませんでした。
カトリック系の教会で南無妙法蓮華経とお題目をあげてます。
霊讃歌の後に言う主の祈りの時、何て言葉を言っているのですか?分かる方教えて下さい。
いわゆる、国産のキリスト教モドキですね。
[匿名さん]
かなり前の話になるが俺小学生の時に学校の近くの公園で遊んでいたらいきなり知らないおばさんに声を掛けられて家にも電話をして家族にも説明するから一緒に協会に来てくれないかといわれた。
どうやら電話を掛けて説明も終わったらしくてっきりキリスト教なのかなと子供心に思ってついていったらいきなり工事中で建て掛けの教会につれていかれて池・・・と言うか風呂?のような所に入水させられて意味不明なことを復唱させられたんだが・・・
おそらく覚えている場所や内容からするとここだと思うんだがこれって怪しい宗教とかなんでしょうか?
それとひょっとして俺既に信者になってたりする?
[匿名さん]
古代ギリシアの思想・正教要理
【 税吏の祈祷 】
【 天主経(てんしゅけい) 】
【 真福九端 】マトフェイ福音 第五章
【 ニケヤ・コンスタンチノープル信経(しんけい) 】
【 主イイススの復活の次第 】マトフェイ福音 第二十八章
【 至聖(しせい)生神女(しょうしんじょ)賛歌 】
【 食前の祝文 】詩篇145篇15−16
【 食後の祝文 】
【 わが名のよるところの聖人を呼びて祈る文 】
【 十字架賛詞 】
【 次に 】
【 付記(後半部・抜粋) 】
[匿名さん]
若い頃、ベルジャーエフに傾倒しましたが、彼の思想は
ロシヤ正教に近いものでしょうか?
最近ドストエフスキーの著が流行っていますが、
彼の著作の底流にあるものはロシア正教思想と
言えるのでしょうか?
カラマーゾフの兄弟の大審問官の場面の戯作
でカトリックを皮肉っていて、まことに的を射て
いると思いますが、正教としても同様なカトリック
批判が、現在もあるのでしょうか?
[匿名さん]
私はカトリック、プロテスタント、正教、無教会主義、すべてに拘わって
きましたが、それぞれに不満を持っています。端的に言えば、
カトリックでは、伝統に縛られ、霊的活性に鈍いこと。
プロテスタントでは、信仰義認の強調によって、多くの異端を生じていること。
正教では、イコンを聖所とし、偶像崇拝の疑いのあること。
無教会主義では、教義が確立されていないで、迷妄に陥る危険のあること。
いずれも大きな欠陥を抱えていて、「イエスがかしらの教会」が存在
しない。組織が弊害につながることを思えば、イエスの仰る「二人、三人
居るところに私も居る」に従うのが最もイエスの思いに叶うことかも知れ
ないと思っている。
[匿名さん]
正教会も色々と変な日本語で呪文を唱えて、罪で膨らんだパンを聖体として食べてます!
また、「聖体機密」では、ワインにひたしたパンを食べさせられます。
もっと言えば、「聖体機密」はワインにひたしたパンを食べるのではなくて、
尊血と聖体を領するのです。
[匿名さん]
紅白歌合戦というのはロシアではギャグに映るだろうな、紅とかアカつまり共産革命はであり
白とは白系ロシアのほうなんだな
共産勢力に辛酸をなめてきたロシア正教つながりの日本正教だが
ロシア自体が日本に、坂の上の雲的に辛酸をなめてきたので
天皇には複雑な気持ちがあるんだろうか?しかし白系ロシア人を受け入れたのも日本だし
愛媛のマツヤマ!で捕虜を厚遇したことも評価していいんじゃないかな
ttp:\/\/www.wel-shikoku.gr.jp/welcome/shikoku/look/kumomus/kumomus2.html [ソースチェック]
よく戦いあった互いを尊敬し合うべきであろう。ロシアもプーチン王朝になっていくはずだ。プーチン王朝と天皇家が仲良く
日本とロシアがウィンウィンになればいいじゃないか
[匿名さん]
聖なる母」は1人ではない(例は多数あるが、例えば生神女の母アンナも聖人であり、「神の祖母」と正教会では呼ばれる)。
イエス・キリストの母マリヤの称号「Θεοτκο?」:「神の母」はエフェソ公会議での確認事項であり、これを尊重して精確な訳語を用いるべきである。
海外正教会でも「Θεοτκο?」(セオトコス:生神女)・「the Virgin Mary」(童女マリヤ)・「Царица」(ツァリーツァ:女王)等と呼ばれており、
「Holy Mother」(聖母)とはまず呼ばれておらず、全正教会の標準的呼称に則るべきである。
[匿名さん]
・・・旧約聖書にも新約聖書にも、じつは輪廻転生のことが書かれていた。
紀元325年時のローマ皇帝コンスタンチン大帝はその母ヘレナと共に新約聖書の輪廻転生の記述を削除しました。
紀元553年コンスタンチノープルで開催された第二回宗教会議においてその削除が正式に認められました。
以後、輪廻転生の概念は異端であると宣言されました。
この考えは教会の力を弱めるものだと考えたのでです。
しかしグノーシス派の人々、アレキサンドリアのクレメンス(150〜215)やオリゲネス(185〜254)、聖ジェローム(340〜420)らは輪廻転生を信じていました。
[匿名さん]
4:出エジプト記 / 20章 4節
あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。
5:出エジプト記 / 20章 5節
あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、
6:出エジプト記 / 20章 6節
わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。
[匿名さん]
イエス・キリストの処刑と復活の舞台となった聖墳墓教会でトリエント・ミサに与ろう!
ttp:\/\/www.youtube.com/watch?v=JLFye1nyD-k [ソースチェック]
ttp:\/\/www.youtube.com/watch?v=YbdCHlZPP2M [ソースチェック]
ttp:\/\/www.youtube.com/watch?v=wdeVJb_z5mw [ソースチェック]
ttp:\/\/www.youtube.com/watch?v=yPQLvoHY0ug [ソースチェック]
[匿名さん]
イスラエル エルサレムの復活祭の様子
聖墳墓教会の典礼
ttp:\/\/www.youtube.com/watch?v=laEWk4UV8q8
[匿名さん]
:ベトナム サイゴン聖母大聖堂の鐘:
ttp:\/\/www.youtube.com/watch?v=ELy2Q47Icos
[匿名さん]
古い曲だけどレベッカで目白聖公会とカトリックの清泉女子大学で撮影されたプロモーション映像
ttp:\/\/www.youtube.com/watch?v=y1lgWQy1sUE
[匿名さん]
ローマ帝国とは、ローマ市民権を得たものが特権を得る引き換えに貢献する事の
効率性の面と周囲の優位性から地中海を制覇できたんだよ
言語とか発祥の地に限定されたものじゃないよ
その優位性を引き継いだのはギリシャ側だったね コプト地域も長らく東ローマ帝国側だったな
もっとも、その割にはユスティニアヌスは国庫を傾けてまで必死にイタリア半島を取り返そうと頑張ったりしているのだが。
その法典もラテン語で書かれたし。
これにしてもローマの後継者なんで当たり前
南イタリアはギリシャ人が長らく住んだし、ローマ市街地は廃墟で使い物にならんから放置していたが。
[匿名さん]
ローマ帝国とは地中海帝国でもあり
ラテン語連中の関わりが一時的にあろうが
ローマ市民とはローマ帝国全域にいたのであり
サウロもローマ市民権があった。
千年帝国は東地中海側であるし
西が滅んだあとイタリア半島も含めて回復したのもギリシャ側
その時ローマ市は廃墟だったので使い物にならなくて
半島の行政担当は北イタリアの都市に変えた。ローマ市は一度消えたわけよね
その後ゲルマン勢力をパトロンにして異端化が進み
マリア無ゲンザイまで言い出す鬼子母神信仰異端なのがカトリック
>笑わせる。
>発祥の地であるローマ市とその民族の言語であるラテン語を捨てて何がローマ帝国だよ。
残り滓のカトリックが正統なローマ帝国だってか?
カトリックがマリア信仰に傾斜したのは
人間の潜在的マインドマップにある
母親への情景があるのだろう
しかしマリア無ゲンザイとか言い出したら異端
[匿名さん]
エルサレムの聖墳墓教会 復活大祭の聖火の奇跡
キリストが磔刑後に埋葬された場所であるエルサレムの聖墳墓教会では、
復活祭(復活大祭)になると、毎年聖火の奇跡が起こります。
キリストが埋葬された墓の中にある岩から、神秘的な火がおこるのです。
この火は熱くなく、触ってもやけどをしません。
この聖火は司祭からそこにいる皆に受け渡され、
ほかの教会へも受け渡されます。
キリストの復活が真実であることを示すこのような大きなしるしが、
毎年必ず見られるということには驚かされます。
またこの奇跡についての最古の記述は4世紀のもので、
それによるとこれは1世紀から続いているとあります。
つまり、キリストが昇天されてからこの2000年のあいだ、
毎年必ず起きているということになります。
東方正教では良く知られているこの出来事が、
西方教会(カトリックやプロテスタント)の人々には
あまり知られていないことにも驚かされます。
ttp:\/\/tligblog.tenshikan.jp/?eid=1107021
[匿名さん]
日本正教会
ttp:\/\/www.orthodoxjapan.jp/
ギリシャ正教、東方正教会とも呼ばれる正教会に関するカテゴリ。
ttp:\/\/ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E6%9D%B1%E6%96%B9%E6%AD%A3%E6%95%99%E4%BC%9A
[匿名さん]