870
2023/11/26 14:42
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サッカー国内





NO.7201210

デッツォーラ島根④
報告 閲覧数 3466 レス数 870

#3212019/12/22 05:45
■逸話
奥寺は何故ドイツであれだけ長くプレーできたのかと質問された際、「自分はスーパーな選手ではなかったけれども、例えて言うなら1+1を必ず2にできるような確実性は持っていたからだろう」と述べている。
ブレーメンに在籍していた1980年代に、ドイツでプレーしていることにかけて伊藤ハム「バイエルンソーセージ」のテレビCMに出演していた。
第22回(1986-87年)日本サッカーリーグの公式ポスターモデルとして出演し、その時「サラリーマンサッカーの時代は終わった」というキャッチコピーが登場し、日本サッカーがプロ化へ向かう事を象徴した。
サッカー漫画『キャプテン翼』37巻の77ページにて、経歴の説明と共に日本代表の監督として実名で登場している。自らの実力を試すために、翼は奥寺に対し一対一の勝負を挑んだが、奥寺を抜き去る事は出来なかった。架空の話ではあるが翼のドリブルを止めた数少ない登場人物となっている。
ドイツで行われた2006年FIFAワールドカップ予選抽選会においてドロワーアシスタントに選ばれた。アジア連盟からは釜本邦茂が推薦されていたが、ドイツとの関係が深い奥寺が選ばれた。


■獲得タイトル
日本サッカーリーグ 1回(1976年)
天皇杯 1回(1976年)
ブンデスリーガ 1回(1977-78)
DFBポカール 1回(1977-78)
アジアクラブ選手権 1回(1986-1987)
ムルデカ大会得点王 1回(1976)


■代表歴
アジアカップ(1976)予選
ワールドカップアルゼンチン大会予選
アジア競技大会(1986)
ソウルオリンピック予選

◇試合数
国際Aマッチ 32試合 9得点(1972-1987)

[匿名さん]

#3222019/12/25 07:45
古河電気工業サッカー部は、かつて存在した日本のサッカークラブ。古河電気工業のサッカー部として1946年に創部し、1991年から1992年までは「東日本JR古河サッカークラブ」と呼称していた。日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するジェフユナイテッド市原・千葉の前身となったクラブである。

■愛称
古河
■クラブカラー
青、 水色
■創設年
1946年

古河電気工業のサッカー部として1946年に創部。略称は「古河」で東日本旅客鉄道(JR東日本)と共同運営になってからは「JR古河」になった。1965年から始まった日本サッカーリーグ(JSL)に創設時から参加した8つのチームのうちの一つである。1992年にJSLが閉幕されるまで27シーズン連続でJSL1部に在籍し、JSL2部への降格経験の無い唯一のクラブであった。また、日本のクラブとしては初めてアジアの頂点に立ったクラブでもある。

■歴史
1900年代前半、栃木県日光市にある古河電気工業の事業所・工場では社員の娯楽としてアイスホッケーが盛んであったが、オフシーズンの時期のスポーツとしてサッカーが行われていたとされ、1914年時点で日光事業所内でサッカー部がすでに活動していた。

また、日光事業所とは別に日光で勤務してサッカーをプレーしていた社員が中心となって東京本社においてもサッカー部が創設された(創設時期は1933年や1935年とされる)。その後、関東実業団蹴球連盟(現:関東サッカー協会)に加盟し、1941年4月16日には同連盟の総会で創設が決定された「関東東実業団蹴球」(リーグ戦)の4部へ所属することが承認された(他に日立本社(現:柏レイソル)や日本勧業銀行、日本曹達など)が、同年12月に太平洋戦争が開戦し選手が兵士として徴兵されたこともありサッカー部の活動は停止を余儀なくされた。

[匿名さん]

#3232019/12/25 07:52
終戦後の1946年にサッカー部の活動が再開された。公式にはこの1946年がサッカー部の創設年と位置づけられている。当時の部員の多くがサッカーだけでなくアイスホッケーやラグビー、ボートの各部の部員と掛け持ちであったため、11人のメンバーが集まらないことも多々あった。実際に1949年の関東実業団リーグ4部は5試合の内で棄権が3試合(残りは2敗)あった。

なお、サッカー部は横浜市西区にある横浜研究所に本拠地を置くこととなった。

当時は大学サッカーの時代でもあり、当初は同好会レベルであったが1955年、「社員の志気を高めるために」と社長が号令をかけて、バレーボール部とサッカー部の『強化五か年計画』を打ち出し同年、長沼健が入団し、チーム強化を一任されると実力を伸ばすようになった。1958年から長沼は選手兼任監督となり、1960年および1961年と天皇杯を連覇した。古河電工の天皇杯制覇は実業団チームとして初めてであり、この制覇は学生優位の時代。にあった日本サッカー界の流れに終止符を打ち、社会人の時代へ移行させる足掛かりともなった。

1950年代から1960年代に掛けて全日本実業団選手権、全国都市対抗選手権を制するなど社会人サッカーをリードする存在であった。


1964年東京五輪終了後、長沼や西村章一は、日本サッカーの抜本的な強化策として恒常的な全国リーグの設置を主張した。この主張が認められて日本サッカーリーグ(JSL)が設置される事になった。これを背景にして同じくJSLの創設に尽力した事から三菱重工(現在の浦和レッドダイヤモンズ)、日立製作所(現在の柏レイソル)と併せて丸の内御三家と呼ばれるようになり、JSLの意思決定や日本サッカー協会に対し強い影響力を保ち続けた。

[匿名さん]

#3242019/12/25 08:00
1960年代中盤から1970年代初めの主力選手には長沼の他に川淵三郎、平木隆三、宮本征勝ら後に日本サッカー界の重鎮となる面々が在籍した。現在も多くのOBを日本サッカー協会内に送り込んでいる。しかし、リーグ戦においてこれらの選手達を擁し、常に上位を維持しながらもタイトルには縁が無かった。

1970年代に入って奥寺康彦、永井良和ら高卒の有望選手を育てる事に方針を転換。これが実を結び1976年に念願のリーグ制覇と天皇杯の二冠を達成した。この優勝の立役者となった奥寺は翌年にヘネス・バイスバイラーに認められドイツの1.FCケルンへ移籍した。以後、奥寺は9年間に渡って世界最高峰のリーグと言われたブンデスリーガで活躍し「東洋のコンピューター」の異名を得た。

一方、クラブは奥寺を放出した事で一時期低迷したが、80年代に入ると再び盛り返し、1985年には 岡田武史、宮内聡、吉田弘らを擁し2度目のリーグ制覇を果たした。1986年にはドイツから帰国した奥寺を迎えアジアクラブ選手権1986-87に参加。12月にサウジアラビア・リヤドで開催された決勝リーグにおいてアル・ヒラル(サウジアラビア)、アル・タラバ(イラク)、遼寧(中国)を下し、日本のクラブで初めてアジアの頂点に立った。

[匿名さん]

#3252019/12/25 08:02
1980年代末から1990年代初めにかけてプロリーグ化が具体的に検討され始めると、古河は古河単独での参加ではなく東日本旅客鉄道(JR東日本)との共同出資で新会社を設立する方針を採り東日本JR古河サッカークラブと名称を変更した。これは古河電工がBtoBを商業取引の専門とする会社であり、こうした会社の体質からサッカー部がプロ化するにしても対一般消費者向けの広告宣伝費という名目で資金を拠出するのが難しかったためである(三菱重工が三菱自工へチームを移管させた理由に類似している)。このため、古河電工と取引関係にあったJR東日本(古河が国鉄・JRへ鉄道の架線を納入)と共同でクラブをプロ化するという方策が示された。この当時は日本国有鉄道がJRに分割民営化直後に相当し、JR東日本は新鋭企業として積極的な宣伝広告活動を実施していた。この点で古河とJR東日本の利害が一致した。1990年代初めには、Jリーグ開幕に合わせ仙台市に移転することも検討されたが、仙台市がスタジアム建設案に難色を示したため、実現には至らなかった。

クラブがJR古河になってから、それまでの日本人選手のみの純血主義を転換し、チェコ出身のパベル・ジェハーク等を獲得。外国人選手の取り込みを図るようになった。古河が迎え入れる外国人は中東欧を中心としたヨーロッパの選手が多く、当時はマツダや三菱など他クラブでも同様に外国人はヨーロッパからという方針は幾つか見られた。古河はJリーグに移行してもこの方針を長い間維持し、この外国人の選択の傾向は古河-ジェフの「色」の一つになっている。

[匿名さん]

#3262019/12/25 08:12
1970年代当時は上下白のユニフォームを使用したが、1980年代は青と水色のストライプのシャツに青のパンツの物を使用した。胸の古河のロゴはアルファベットで「FURUKAWA」で、ジェフの胸スポンサーとして提示していた古河電工そのままのロゴとは違っていた。またJR古河となってからは「JR EAST FURUKAWA」に改めていた。

■略歴
1946年:創部。
1960年:実業団チームとして初めて天皇杯を制覇。
1965年:第1回日本サッカーリーグに参加。
1987年:アジアクラブ選手権を制覇し日本のチームとしては初めてのアジアタイトル獲得。
1991年:東日本JR古河サッカークラブに名称変更。


■主なタイトル
天皇杯全日本サッカー選手権大会
優勝 4回(1960, 1961, 1964, 1976)
準優勝 2回(1962, 1984)
日本サッカーリーグ1部
優勝 2回(1976, 1985)
準優勝 1回(1967)
JSLカップ
優勝 3回(1977, 1982, 1986-87)
準優勝 2回(1979, 1990)
スーパーカップ
優勝 1回(1977)
アジアクラブ選手権
優勝 1回 (1986-87)
全日本実業団サッカー選手権大会
優勝 3回(1959, 1961, 1962)
準優勝 1回(1958)
全国都市対抗サッカー選手権大会
優勝 4回(1960, 1961, 1962, 1964)


■歴代監督
青木圭太郎 (部長)
白柳景吉 1946-1954
西村章一 1955-1957
長沼健 1958-1961
平木隆三 1962-1965
内野正雄 1966
八重樫茂生 1967
桜井頼己 1968-1969
小川宏邦 1970-1971
川淵三郎 1972-1975
鎌田光夫 1976-1978
内野正雄 1979-1983
清雲栄純 1984-1990
川本治 1990-1992

[匿名さん]

#3272019/12/25 08:14
■古河電気工業サッカー部に所属した主な選手

長沼健
平木隆三
内野正雄
八重樫茂生
宮本征勝
川淵三郎
鎌田光夫
木之本興三
嶋谷征四郎
桑原隆
永井良和
清雲栄純
吉水法生
荒井公三
奥寺康彦
川本治
高橋武夫
前田秀樹
木口茂一
淀川隆博
鬼塚忠久
佐藤長栄
石井茂巳
岡田武史
吉田弘
金子久
宮内聡
菅野将晃
田嶋幸三
加藤好男
越後和男
小林寛
早稲田一男
宮部和弘
吉田暢
後藤義一
松山吉之
下川健一
小久保悟
渋谷洋樹

他にプレーヤーの経験は無いが、サッカー部の運営委員を務めた小倉純二がいる。

[匿名さん]

#3282019/12/28 20:56
日立製作所本社サッカー部は、かつて存在した日本のサッカークラブ。日立製作所のサッカー部として1940年に創部した。日本プロサッカーリーグに加盟する柏レイソルの前身となったクラブである。


■呼称
日立本社、日立

■クラブカラー


■創設年
1940年

■ホームタウン
東京都小平市(1940年 - 1985年)
千葉県柏市(1986年 - 1992年)

■ホームスタジアム
国立霞ヶ丘陸上競技場
国立西が丘サッカー場
日立柏総合グラウンド


1935年に開催された関東蹴球協会(現:関東サッカー協会)主催の第4回関東実業団蹴球大会の1回戦(対東京記者団、7-0で勝利)が文献から確認できる「日立製作所」の初めての公式戦であり、この大会で準優勝の成績を収めている。以降も関東実業団蹴球大会に出場し、第5回(1936年)および第6回(1937年)で準優勝。第7回大会(1938年)は決勝で千代田生命保険を破り優勝した。

なお、本サッカー部の創設年は一般に1940年であり、当初は「日立製作所本社サッカー部(日立本社サッカー部)」の名称であった。この「日立本社サッカー部」が創設された1940年以降で確認できる初の公式戦である第10回関東実業団蹴球大会の1回戦・明治製菓戦(1941年2月2日)は2-0で勝利。なお、同大会は決勝で第一生命保険に敗れ準優勝に終わった。1941年4月16日、関東実業団蹴球連盟の総会で創設が決定された「関東東実業団蹴球」(リーグ戦)の4部へ所属することが承認された(他に古河電工(現:ジェフユナイテッド市原・千葉)や日本勧業銀行、日本曹達など)が、同年12月からの太平洋戦争勃発によりサッカー部の活動は休止を余儀なくされた。

終戦後の1946年に活動を再開。1947年に高橋英辰が茨城日立から本社へ転属した。

[匿名さん]

#3292019/12/28 20:57
全日本実業団サッカー選手権大会は1951年の第4回大会から参加し決勝に進出したが田辺製薬に敗れて準優勝。1952年(第5回)、1953年(第6回)、1954年(第7回)も決勝に進出したがいずれも田辺製薬に敗れた。1958年の第11回大会は決勝で古河電工を破って実業団選手権初優勝を果たし、1963年には全国都市対抗サッカー選手権大会で初優勝した。1960年に天皇杯に初出場して3位に入った。

1965年に創設された日本サッカーリーグ(JSL)に初年度から参加したが、1960年代は低迷して1968年および1969年は入替戦に回った(いずれも勝利)。なお、リーグ創設の際には古河電工(現ジェフユナイテッド市原・千葉)、三菱重工(現浦和レッドダイヤモンズ)と中心的な役割を果たした事から「丸の内御三家」と称された。

1970年代には高橋英辰監督の厳しい指導により「走る日立」の異名をとり、1972年にはJSLおよび天皇杯で共に優勝して2冠を獲得した。なお、日立が獲得したタイトルは全て高橋の指揮下にあった1970年から76年に獲得したものであった。

一方で夜間にも練習が可能な専用のグラウンドを確保できたのは高橋が本格的なチーム強化を図るようになった70年代に入ってからであり、また、この時期でもなお選手は社業が終わってからの練習開始だった。この時点で三菱、古河は既に就業時間内に練習が可能になる体制を確保していたからこの遅れは顕著であった。80年代に入っても選手の給料体系にサッカーをすることで得られる付属分が組み込まれておらず、1980年代末にマネージャーとしてチームに復帰した久米一正は先ずこの点の改善から手をつけなければならなかった。

[匿名さん]

#3302019/12/28 20:59
これは古河や三菱重工に比べて日立が最もアマチュアリズムに対して保守的であったことを示している。高橋が定年によりチームを離れてから成績は徐々に下降線を辿り、プロリーグ化への移行が具体的に検討され始めた1980年代末から1990年代初めには日立はJSL1部と2部の間を行き来していた。日立は御三家の中で唯一Jリーグの開幕時参加を果たす事が出来なかった。

1992年から日立柏レイソルとしてJリーグ準会員となり、同年からジャパンフットボールリーグに参加した。


■主なタイトル・成績 編集
天皇杯全日本サッカー選手権大会
優勝 2回(1972, 1975)
準優勝 1回(1963)

・日本サッカーリーグ1部
優勝 1回(1972)
準優勝 2回(1973, 1982)

・JSLカップ
優勝 1回(1976)
準優勝 1回(1980)

・全日本実業団サッカー選手権大会
優勝 2回(1958, 1960)
準優勝 7回(1951, 1952, 1953, 1954, 1961, 1963, 1964)

・全国都市対抗サッカー選手権大会
優勝 1回(1963)
準優勝 1回(1964)

■歴代監督
鈴木徳衛 1965
宮崎正義 1966
服部幸太郎 1967-1969
高橋英辰 1970-1976
胡崇人 1977-1978
野村六彦 1979-1981
中村義喜 1982-1984
長岡義一 1985-1989
碓井博行 1989-1992

[匿名さん]

#3312019/12/28 21:00
■日立製作所サッカー部に所属した主な選手

野村六彦
山口芳忠
松永章
西野朗
池谷友良
下平隆宏
碓井博行
川上信夫
棚田伸
ロペス
ヘジス・アンジェリ
東海林毅
戸塚哲也
草野修治
郷司弘和
谷真一郎
佐々木雅尚
大橋昭好
星野晋吾
大倉智
飯田正吾
財前恵一
加藤望
沢田謙太郎
石川健太郎
大熊裕司
梶野智幸
田中信孝
加納大
ネルシーニョ
カレカ
横山雄次


■日本サッカーリーグ・日立製作所サッカー部の選手に関するカテゴリ。


飯田正吾
池谷友良

碓井博行

近江友介
大倉智
岡本久敬

加藤望
川上信夫
川俣則幸

北野誠 (サッカー選手)
清川浩行

久米一正

河野和久
小畑穣

下平隆宏
庄司孝

菅又哲男
鈴木徳衛
鈴木良三 (サッカー選手)
須藤茂光

瀬田竜彦

高橋英辰
高林敏夫
棚田伸
谷真一郎

チョウ貴裁

土肥洋一

内藤直樹

西野朗

野村六彦

平沢周策

ジョゼ・セルジオ・プレスティ

松永章
松永碩

水島武蔵

山口光國
山口芳忠

横谷政樹
横山雄次
吉川亨
ろ呂比須ワグナー

[匿名さん]

#3322019/12/28 21:02
■新たな日立製作所本社サッカー部の創立

1992年以降は、他のJリーグ所属クラブと同様に、アマチュアとして社内に残ったOBと新入社員などを中心として、新たに社内同好会としての日立製作所本社サッカー部を設立した。

東京都社会人サッカーリーグに所属している。

[匿名さん]

#3332020/01/01 18:45
川崎製鉄水島サッカー部は、かつて存在した日本のサッカークラブ。川崎製鉄(現・JFEスチール)のサッカー部として1966年に創部し、1987年からチーム名を「川崎製鉄サッカー部」に改めた。通称は川鉄(かわてつ)もしくは水島(みずしま)ないしは双方を合わせた川鉄水島(かわてつみずしま)。また、川崎製鉄水島サッカー部の傍系クラブとしてリバー・フリー・キッカーズ(RFK)が存在する。


◇愛称
川鉄、水島
◇クラブカラー

◇創設年
1966年
◇ホームタウン
岡山県倉敷市および岡山市
◇ホームスタジアム
岡山県総合グラウンド陸上競技場


日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するヴィッセル神戸の前身となったクラブである。また川鉄水島OBチームである「リバー・フリー・キッカーズ」を前身としたファジアーノ岡山FCにとっても母体(源流・発祥)としているクラブである。


◇概要
川崎製鉄水島製鉄所(現JFEスチール西日本水島製鉄所)のサッカー部として1966年に創部。1978年に中国サッカーリーグに昇格。1980年に中国リーグで初優勝し、全国地域サッカーリーグ決勝大会に初めて出場したが、グループリーグで敗退した。

1981年は全国社会人サッカー選手権大会に初めて出場して大会初勝利も挙げたが、2回戦で電電関東(現:大宮アルディージャ)に敗れた。同年の地決は三菱化成黒崎(現:ギラヴァンツ北九州)などを破って決勝ラウンドに進んだが、決勝ラウンドは最下位に終わった。1982年および1983年に岡山県サッカー選手権大会で優勝した。

[匿名さん]

#3342020/01/01 18:48
1985年、中国リーグで5度目の優勝。地決はグループDを2戦2勝の成績で決勝ラウンドに進出。決勝ラウンドは2勝1敗の2位の成績で規定により1986年からの日本サッカーリーグ(JSL)2部への昇格が決まった。

1986年からJSLが廃止される1992年までJSL2部に在籍し、最高順位は1990年-91年シーズンの7位。JSLカップは初出場初勝利(1回戦:TDK(現:ブラウブリッツ秋田))を挙げた1986年と1989年以外はいずれも初戦で敗退した。

1992年以降はジャパンフットボールリーグ(JFL)に参加。1995年1月1日より兵庫県神戸市に本拠地を移し、親会社となる川崎製鉄からも離れてヴィッセル神戸となり、企業クラブとしての歴史に幕を下ろした。


◇歴史
1966年: 川崎製鉄水島サッカー部として創立。
1980年: 中国サッカーリーグで初優勝。
1986年: 日本サッカーリーグ(JSL)2部に昇格。
1987年: 川崎製鉄サッカー部に改称。
1992年: ジャパンフットボールリーグ(JFL)2部に参加。
1995年: 兵庫県神戸市に本拠地を移転してヴィッセル神戸に改称。


■川崎製鉄水島サッカー部の選手

兼本正光

北堀尚幸
木下桂

酒井靖雄

高木功 (サッカー選手)
田村裕二

中尾幸太郎

福原喜和

丸野勝一郎

エルシオ・ミネリ・デ・アビラ

[匿名さん]

#3352020/01/01 18:49
■傍系クラブ

リバー・フリー・キッカーズ

◇創設年
1975年
◇ホームタウン
岡山県倉敷市
◇ホームスタジアム
玉島の森陸上競技場、福田公園、岡山県総合グラウンド陸上競技場

◇概要(RFK)
故障などにより川崎製鉄水島サッカー部より通知を受けて離脱した後も水島でサッカーを継続していきたい(本クラブである川鉄水島への復帰を含む)と望む人員および、逆に同部への移籍を望みながらも実力等の面からそれが果たせない人員の受け皿として、川崎製鉄水島サッカー部のOB有志によって1975年に結成された。通称は英略称となるRFK。

その後、川崎製鉄水島サッカー部にて引退や故障を理由に戦力外となった選手を受け入れる実質的な下位チームとして機能した(そのため水島2軍とも称された)がチームそのものの設立理由を要因とした目的と方針により、長らく岡山県リーグに留まった。

1995年のヴィッセル成立においては、有志チームである(川鉄本体の経営から外れていた)事を理由に倉敷市水島にとどまる事となるが、その後もヴィッセルよりの退団選手や調整者を受け入れ続けた。また川鉄水島がヴィッセルに改組するために水島に残さざるを得なかった、市民支援や地域に根付いていた年少者の育成システムなどを守るために、RFK側がこれらを受け継いでいる。この歴史の流れから岡山県周辺域においてはヴィッセルと並び、川鉄水島の流れを受け継ぐチームのひとつと見なされている。

2003年に同チームを中核としてファジアーノ岡山FCが発足し、これに伴い川鉄水島から続いたヴィッセルのOBチームおよび調整チームとしての役割を終える。

[匿名さん]

#3362020/01/01 18:50
◇概要
1989年、川崎製鉄水島製鉄所が地元倉敷市水島地区への社会還元(メセナ事業)として、子会社である水島ゼネラルサービス(のちJFE西日本GS)を介して立ち上げた、川鉄サッカースクールを源流とするスポーツ少年団であり、川鉄水島のヴィッセル転換前においてはジュニア・ユースチームとしても機能していたクラブ。もともとが地元である水島地区への社会還元事業としての意味合いが強く、子会社運営であったことなどから、川鉄のヴィッセル転換後も水島に残留した。

水島残留後も、川崎製鉄水島サッカー部(ヴィッセル神戸)やリバー・フリー・キッカーズ(ファジアーノ岡山)の出身者がコーチとして選手児童らを指導している。積極的にかかわっている指導者としては高木功など。

2002年、企業主体である川崎製鉄の合併によりJFE倉敷フットボールクラブに名称変更。2013年、運営主体であるJFEホールディングスが本クラブの運営から手を引くことを発表し、本クラブの指導者らが新団体を立ち上げてJFE西日本GSから事業を引き継ぐ形でピナクル倉敷フットボールクラブへと転換する。


■JFEスチール西日本サッカー部
JFEスチール(川崎製鉄の後身)の会社合併によって誕生した企業クラブ。JFEの企業フットボールクラブとしては川鉄水島の後身と言えるが、元は合併相手であった日本鋼管のクラブであるため、上記の傍系2クラブとは異なり人員や来歴における直接の繋がりは無い。

◇概要(JFE福山)
NKK福山サッカー部として創設。親会社の日本鋼管(NKK)と川崎製鉄の合併に伴って2003年にJFEスチール西日本サッカー部へ名称変更。また、これとは別にNKK本体のサッカー部が神奈川県で活動していた(日本鋼管サッカー部、1993年に廃部)。

[匿名さん]

#3372020/01/01 18:52
■各チームが継承したもの

◇共通
赤系列のチーム・ユニフォームカラー
ユニフォームカラーは川崎製鉄が赤、ヴィッセルはJリーグ参入時は黒・白の縦縞だったが後にクリムゾンレッド、ファジアーノはワインレッド。神戸の場合は現在のメインスポンサーである楽天の影響もあるものの、3チームともに色調にほとんど差がない。


■ヴィッセル神戸

◇人員と運営
発足当時に水島サッカー部にいた選手・運営人員は、ほぼヴィッセルに移管された。ただしRFKに移行した人員は除く。またヴィッセルへの移管後もRFKとのOBチームとしての人員交流はしばらく続き、ヴィッセル移管後にヴィッセルOBとしてRFKに転属し、そのままRFKの改組およびJリーグ昇格によってファジアーノに所属した選手・運営者も存在する。

◇ヴィッセル神戸側の練習場および試合場
ヴィッセルとなる前の1994年に、神戸市中央球技場と神戸総合運動公園ユニバー記念競技場で各1試合の主管試合を行った。


■ファジアーノ岡山FC

◇本拠地
川崎製鉄サッカー部は岡山県倉敷市を本拠地としていたが、JFL時代はキャパシティーの関係で岡山県総合グラウンド陸上競技場(現在のシティライトスタジアム)を主本拠としていた。ファジアーノは、この流れを受け継ぎ岡山県全域をホームタウン(本拠地)と定め、岡山県倉敷市を発祥上の本拠地、岡山県岡山市のkankoスタジアムを活動上の本拠地とした。また津山市や新見市、美作市などの県北主要グランドも拠点と定めている。

[匿名さん]

#3382020/01/01 18:54
◇本拠地市民による支援母体
水島サッカー部の本拠の位置により倉敷市地元住民による支援が存在した。ファジアーノとなった後も「市民と一緒に作っていくチーム」として同様の支援を県域住民より貰っており、岡山県内の一部自動販売機などでは売上の何割かがファジアーノの運営費に充てられるシステムが存在している。


■川鉄ダービー

川鉄ダービーは日本のサッカークラブであるヴィッセル神戸とファジアーノ岡山FCの対戦に対して一部にて使われる呼称。

◇概説(川鉄ダービー)
1995年にヴィッセルができてから18年、2003年にファジアーノができてから10年、時が経過した2013年に、それぞれ上記の各理由によって川崎製鉄水島サッカー部の流れを汲むとされている、ヴィッセル神戸とファジアーノ岡山がJリーグ ディビジョン2にて顔合わせする事となり、両チームの対決が実現した。

特に岡山側ホームゲームにおいては、かつて川崎製鉄水島サッカー部がホームグラウンドとしていたシティライトスタジアム(現在はファジアーノのホームグラウンド)で行われる。そのため同地でのゲームはヴィッセル神戸およびファジアーノ岡山の両チームともに、そのルーツとなる地で行われる新旧ホームクラブ対決という意味合いをも持つ。

この「川鉄ダービー」という名称は、スカパー!ハイライトなどのメディアでも使用される事がある。

記念すべき最初の試合で、ヴィッセルからファジアーノに向かって「ようこそ。川鉄に縁を持つ友よ! 万感の思い胸に今日を戦おう!」という激励のメッセージが贈られた事に対し、次の試合では逆にファジアーノからヴィッセルに「おかえり神戸!! 街は違えど我らは兄弟 歴史を共に刻み行こう」というお返しのメッセージが贈られた。

[匿名さん]

#3392020/01/05 05:29
日本鋼管サッカー部は、かつて存在した日本のサッカーチーム。日本鋼管(現:JFEエンジニアリング)のサッカー部として創設され、同社の事業所があった(現JFE東日本工場京浜地区)神奈川県川崎市を拠点として活動していた。略称は日本鋼管、鋼管、NKK。ユニフォームは当初は水色を基調としていたが、1986年からは白と黒の縦縞。1988年にNKKと改称された際には赤を基調とした物へ変更された。


JFEエンジニアリング株式会社(英文社名 JFE Engineering Corporation)は、エネルギーシステムや環境システム、水処理システム、鋼製構造物、産業機械などの設計、建設を行う、JFEホールディングス傘下の会社である。日本鋼管と川崎製鉄の統合により、日本鋼管の鉄鋼事業をJFEスチール(旧川崎製鉄)に移管し、法人としての日本鋼管と同社のエンジニアリング事業を継承した会社である。


日本鋼管サッカー部(1932年-87年)
NKKサッカー部(1988年-93年)

■呼称
鋼管
■クラブカラー
スカイブルー
■創設年
1932年
■ホームタウン
神奈川県川崎市
■ホームスタジアム
三ツ沢公園球技場
等々力陸上競技場

[匿名さん]

#3402020/01/05 05:31
1932年に日本鋼管サッカー部として創設。1965年の第1回全国社会人サッカー選手権大会で優勝。1966年の第2回全国社会人サッカー選手権大会で準優勝。1967年より日本サッカーリーグ(JSL)に加入した。Jリーグには参加せず、ジャパンフットボールリーグ(JFL)に参加したが1993年シーズンをもって廃部した。

■歴史
1932年に同好会として発足したのが日本鋼管サッカー部の始まりである。1933年には対外試合を行うようになり、1935年に会社から部として認められた。1935年に関東実業団リーグに加盟、1938年に同1部に昇格した。1948年、系列の清水造船から数人を補強したチームで第1回全国実業団選手権大会に参加した。1955年、明治神宮外苑競技場で行われた第1回府県対抗選手権(この大会は第1回のみで終わった)にて日立を決勝で3-2で下し、初めて全国規模の大会に優勝した。同じ年には都市対抗選手権でも決勝に進んだが、東京クラブに2-5で敗れた。

1965年の日本サッカーリーグ(JSL)発足にあたっては鋼管にも加盟の話があったが、会社の経営状況が芳しくないこと、既に他のスポーツの部活動に注力しているといった事情から発足メンバー入りは見送られた。1965年の第1回全国社会人サッカー選手権大会で優勝し、入れ替え戦でJSL最下位の名古屋相互銀行と対戦したが敗北。1966年の第2回全国社会人サッカー選手権大会では浦和クラブに次ぐ準優勝となり、再び入れ替え戦で対戦することになった名相銀に勝利をおさめ(第1戦3-2、第2戦2-1)、JSL入りを決めた。

[匿名さん]

#3412020/01/05 05:32
JSL加入後は毎年のように下位に沈み、1967年、1968年、1970年、1971年、1973年、1975年に入れ替え戦に進んだが、いずれも残留を決めた。1969年度には、のちに4度のベストイレブンに選出された藤島信雄が加入。1972年度の天皇杯では準決勝に進んだ。1979年、入れ替え戦でヤマハに敗れて(第1戦:0-0、第2戦:1-2)初のJSL2部降格が決まった。

1980年、JSL2部では4位に終わったもののJSLカップに優勝した。1981年、JSL2部に優勝して1部復帰を決め、同年度の天皇杯では決勝で読売クラブを2-0で破り初優勝を果たした。1982年のJSL1部では最下位となり降格したが、1983年のJSL2部では独走状態で優勝して1部に復帰した。

1985年のJSL1部ではクラブ史上最高成績の2位をマークし、以降3シーズン連続で2位につけた。この時期のチームにはGK松井清隆、DF田中孝司、FW松浦敏夫といった日本代表クラスの選手が揃っていた。しかしその後は再び下位に沈み、1990-91シーズンに最下位となってJSL2部に降格した。すでに他クラブには多くのプロ選手がいる時代だったが、NKKではいまだに選手全員が午後2時まで一般業務をこなしてからサッカー部の活動を行うという環境だった。

[匿名さん]

#3422020/01/05 05:34
Jリーグには参加せず、1992年からはジャパンフットボールリーグ(旧JFL)に参加。主力選手がJリーグのクラブに流出したこともあり、1992年のJFL1部では最下位(10位)となり、2部に降格した。1993年はJFL2部で3位。すでに翌年の体制や新人選手の加入も決まっていたが、シーズン終了後の12月末になって選手およびスタッフに休部が告げられた。休部当時にコーチだった倉又寿雄によれば、宮城県仙台市に移転してJリーグクラブを目指すという話もあったが、会社側はそれを拒否したという。


■主な成績・タイトル

日本サッカーリーグ1部
準優勝:3回(1985年、1986-87年、1987-88年)
日本サッカーリーグ2部
優勝:2回(1981年、1983年)
天皇杯全日本サッカー選手権大会
優勝:1回(1981年)
JSLカップ
優勝:2回(1980年、1987年)
全国社会人サッカー選手権大会
優勝:1回(1965年)
準優勝:1回(1966年)
府県対抗選手権
優勝:1回(1955年)
全国都市対抗サッカー選手権大会
準優勝:1回(1955年)


■表彰

◇JSL1部
ベストイレブン
1971 藤島信雄
1976 藤島信雄(2)
1977 藤島信雄(3)
1978 藤島信雄(4)
1984 松井清隆
1985 松井清隆(2)、浅岡朝泰
1986-87 松浦敏夫
1987-88 松浦敏夫(2)
◇得点王
1986-87 松浦敏夫
1987-88 松浦敏夫(2)
◇アシスト王
1985 浅岡朝泰
JSL2部

◇ベストイレブン
1991-92 望月聡
◇得点王
1983 松浦敏夫
◇アシスト王
1983 山本欣也、松浦敏夫

[匿名さん]

#3432020/01/05 05:35
■歴代監督
1949年- 片岡次夫
1953年- 津村信正
1955年- 酒井繁雄
1956年- 竹尾正
1958年- 早川純生
1962年-1966年 高森泰男
1967年-1971年 千田進
1971年-1976年 田中孝
1976年-1979年 上田稔
1980年-1982年 千田進
1983年-1989年 福村吉正
1989年-1992年 岡村新太郎
1992年-1993年 松浦敏夫


■日本鋼管サッカー部出身の主な選手

松井清隆
井沢千秋
岡村新太郎
田中孝司
木寺浩一
梅山修
伊藤哲也
神田勝夫
神田勝利
チェローナ
藤島信雄
松浦敏夫
藤本貢壽
倉又寿雄
浅岡朝泰
望月聡
山崎慎治
中本邦治
マルシオ
佐藤昌吉
左近充辰治
藤代伸世


日本サッカーリーグ、ジャパンフットボールリーグ・日本鋼管サッカー部の選手に関するカテゴリ。NKKサッカー部も含める。


浅岡朝泰

礒田由和
伊藤哲也
井原康秀

梅山修

岡村新太郎

加藤慎一郎
神田勝夫

木寺浩一

倉又寿雄

佐藤昌吉
佐野友昭

千疋美徳

高森泰男
竹元義幸
田中孝司

ハイメ・アルベルト・ロドリゲス

中本邦治

藤島信雄
藤代伸世
藤本貢壽

松井清隆
松浦敏夫

望月聡

山崎慎治
山本富士雄

吉田謙
米倉誠

[匿名さん]

#3442020/01/08 06:48
東京ガスサッカー部はかつて存在した日本のサッカークラブ。東京ガスのサッカー部として1935年に創部し、1997年および1998年は「東京ガスフットボールクラブ」と呼称していた。


■東京ガスサッカー部(1935年 - 1998年)

創設年
1935年
解散年
1998年


■東京ガスサッカー部(1999年創部)

1999年に設立された東京ガス社員によるサッカー同好会チームであり、東京都社会人サッカーリーグに所属する。

◇愛称
ガス
◇クラブカラー
青、赤
◇創設年
1999年
◇所属リーグ
東京都社会人サッカーリーグ
◇所属ディビジョン
2部
◇ホームスタジアム
FC東京深川グランド


■概要
1999年よりFC東京の名称でプロクラブ化した東京ガスフットボールクラブは、Jリーグ仕様のチームを作るべく更なる体制の強化を図ることとなった。

これにより、社員選手の何名かは「社業復帰」を余儀なくされたため、彼らを中心としてサッカー部を創部し、「東京ガスサッカー部」の名称で東京都社会人サッカーリーグへ参加している。


■歴代所属選手
東郷太樹 (2012)

[匿名さん]

#3452020/01/11 08:33
NTT関東サッカー部は、かつて存在した日本のサッカークラブ。日本電信電話公社のサッカー部として1969年に創部した。日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)加盟の大宮アルディージャの前身となったクラブである。


■呼称
NTT関東、電電関東
■クラブカラー

■創設年
1969年


■歴史

◇埼玉県リーグ、関東リーグ時代
1968年9月に日本電信電話公社の埼玉管内にて電電埼玉蹴球連盟に加盟する9チームによるリーグ戦が行われ。その参加チームから選手を選び1969年1月に電電埼玉サッカーチームが結成された。さらにそのチームに関東管内の選手を加える形で電電関東サッカー部が結成された。

電電関東サッカー部は1970年に埼玉県サッカー協会に登録し、1971年より新たに始まった埼玉県サッカーリーグに参加した。1973年の関東社会人サッカー大会で準優勝し、その後の関東社会人リーグ7位のFC青山との入れ替え戦に勝利して、1974年より関東リーグに昇格した。1975年の関東リーグでは8位に沈み、入れ替え戦にも敗れ、埼玉県リーグに降格。1979年の関東社会人サッカー大会で優勝して、関東リーグに復帰。1982年、1983年と2年連続で関東リーグで2位となり、日本サッカーリーグ2部(JSL2部)への昇格が懸かった全国地域リーグ決勝大会に進出したが、両年とも敗退。

1985年、電電公社が民営化により日本電信電話株式会社(NTT)となったことに伴い、NTT関東サッカー部へと改名。1986年、関東リーグ2位となって地域リーグ決勝大会に進出、予選、決勝の計5試合すべてに勝利してJSL2部に初昇格を決めた。

[匿名さん]

#3462020/01/11 08:34
◇JSL2部時代
日本サッカーリーグ2部(JSL2部)には、1987シーズンから最終年の1991-92シーズンまで5シーズン参加。最高成績は1987-88シーズンの5位だった。1987年度には天皇杯に初出場(第67回大会)、1回戦で三菱重工に敗れた。

Jリーグの創設メンバーにも立候補していたが、準備不足もあり外された。NTTの料金誤請求問題が起きて、このタイミングでプロ化はまずいと立ち消えになった。1991年より監督を務めた清水隆は、当初はJリーグ発足までの2年間のみということで監督を引き受けたが、就任から間もなく会社はJリーグ参入を断念した。プロ化を口説き文句にして獲得した選手たちは次々に他クラブへと移籍し、チーム力は低下した。


◇旧JFL時代
Jリーグへ参加しなかったため、1992年からはジャパンフットボールリーグ(旧JFL)に所属(2部制だった1992年と1993年シーズンは2部に参加)。

1997年、佐々木則夫が監督に就任。同年7月のNTT東日本再編へ向けて、NTTは野球部をシンボルスポーツにすることを決めていて、社内の士気を高めるのは野球にして、サッカーはJリーグに任せておけばいいと、NTTは1998年末にサッカー部を廃部にすることを決めた。佐々木はそれまでに選手一人ひとりの意思を確認し、プロ入りを希望するものは移籍させ、それ以外の選手は社業に専念させるよう会社と調整していた。ところが監督就任直後に埼玉支店長に赴任した中村維夫が「サッカー部は廃部なのに頑張っているな。チームをプロ化にすれば母体になる」と、本社の役員を説得して一転、廃部決定がプロ化へ変わる。佐々木は普及強化部長として側面からチームを支えることとなり、 佐々木の前の監督・清水はプロ化に向けた準備室に移った。

[匿名さん]

#3472020/01/11 08:35
川越市からの誘いもあったが、1999年からのJリーグの2部制移行を前にして、大宮市では1997年1月に大宮市サッカー連盟の有志が「大宮にJリーグを呼ぼう会」を発足し、Jリーグクラブの招致に向けた署名活動を始めた。同年8月にはNTT関東サッカー部が大宮市を本拠地としてJリーグ参入を目指すことが決まり、同年12月の日本サッカー協会理事会にてJリーグ2部(Jリーグ ディビジョン2)参入が決まった。

NTT関東がプロ化する際、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)からはレッズとの競合回避のため川越市を本拠地にするように薦められたが、NTT関東は長年本拠地にしてきた大宮公園サッカー場の使用にこだわり、1998年のプロ化と大宮アルディージャとして1999年のJリーグ ディビジョン2(J2)参入は大宮市(2001年にさいたま市へ合併)で行った事を、後に川淵三郎チェアマン(当時)がサッカー雑誌のインタビューで明かしている。

1998年3月に新クラブ名が「大宮アルディージャ」に決まった。1998年12月に運営会社となる「NTTスポーツコミュニティー株式会社」が東日本電信電話(1999年7月以後[14])が中心となりNTTドコモ、NTTデータ、NTTファシリティーズ、NTTコムウェア、日本コムシスなどのNTTグループ関連企業18社が出資して設立され、プロクラブ化し、1999年からJリーグ ディビジョン2(J2)へ参加した。

なお、旧JFLの各チームでは多かった社員選手は、チームのJリーグ参加と共に引退・移籍、あるいはプロ契約への切り替えなどで減少し、2009年引退の斉藤雅人が最後の社員選手となった。

[匿名さん]

#3482020/01/11 08:36
■略歴
1969年 : 創部。当時の名称は電電関東サッカー部。
1971年 : 埼玉県社会人サッカーリーグに参加。
1975年 : 関東サッカーリーグへ昇格。1年で降格。
1978年 : 埼玉県リーグで3連覇。
1980年 : 関東リーグへ再昇格。
1987年 : 日本サッカーリーグ(JSL)へ昇格。
1992年 : ジャパンフットボールリーグ(JFL)へ参加。
1998年 : 3月、大宮アルディージャに改名。12月、運営法人となるNTTスポーツコミュニティ株式会社が設立。


■獲得タイトル

関東サッカーリーグ
準優勝 : 3回 (1982年、1983年、1986年)
埼玉県社会人サッカーリーグ1部
優勝 : 3回 (1976年、1977年、1978年)
準優勝 : 2回 (1973年、1979年)
全国社会人サッカー選手権大会
優勝 : 1回 (1981年)
全国地域リーグ決勝大会
優勝 : 1回 (1986年)
関東社会人サッカー大会
優勝:1回(1979年)
準優勝:1回(1973年)
埼玉県サッカー選手権
優勝:3回(1975年、1978年、1984年)
埼玉県サッカー選手権大会
優勝:2回(1996年、1997年)
全国電電サッカー大会
優勝 : 1回 (1972年)
本社、関東、東京三社対抗サッカー大会
優勝 : 2回 (1971年、1972年)


■主な使用グラウンド
企業チーム「電電関東→NTT関東」時代(1997年まで)は、所在地の埼玉県浦和市(駒場競技場)も使用していたが、試合はむしろ川越市(川越運動公園陸上競技場)や鴻巣市(鴻巣市立陸上競技場)、大宮市(県営大宮サッカー場)、熊谷市(熊谷運動公園)、東松山市(東松山サッカー場)、深谷市(仙元山公園陸上競技場)、さらに隣県の栃木県宇都宮市(栃木県グリーンスタジアム)、千葉県(NTT千葉総合運動場)、群馬県太田市(太田市運動公園陸上競技場)などに分散して数試合ずつ行われていた。またJ2開始当初数年も同様に鴻巣市や栃木県で開催したことがある。

[匿名さん]

#3492020/01/13 08:37
デッツォーラ島根は、県1部だと全然強いね。中国リーグと島根県1部のレベルの差をとても感じます。さあ、来季、中国リーグで戦えるかどうか?浜田ダービーも楽しみですね。

[匿名さん]

#3502020/01/13 17:18
連投やめろ青面獣

[匿名さん]

#3512020/01/15 08:15
杉山 隆一は、静岡県清水市 (現:静岡市) 出身の元サッカー選手、サッカー指導者。

■生年月日
1941年7月4日(78歳)
■出身地
静岡県清水市
■身長
169cm
■体重
67kg

■選手情報
◇ポジション
FW MF
◇利き足


■ユース
1957-1960
静岡県立清水東高校
1962-1965
明治大学

■クラブ
出場
(得点)
1966-1973
三菱重工業
115
(41)

■代表歴
1961-1971
日本
56
(15)

■監督歴
1974-1983
ヤマハ発動機

■獲得メダル
男子 サッカー
オリンピック
銅 1968 サッカー



現役時代は強烈な左足のシュート、クロスを武器とする俊足の左ウイングとして活躍。キャリア終盤はトップ下としてプレーすることが多かった。日本代表では釜本邦茂との名コンビで知られた。

[匿名さん]

#3522020/01/15 08:17
■来歴
袖師中学校時代からサッカーを始め、清水東高校時代に第13回国民体育大会 (富山国体) で優勝、一躍有名になる。また高校1年から3年連続で日本ユース代表に選ばれAFCユース選手権に参加、国際的にも活躍した。

大学浪人中の1961年、19歳で国際Aマッチ初出場。明治大学在学中の1964年に東京オリンピックで活躍。日本代表チームをベスト8へと導いた。この活躍により南米のクラブからは20万ドルの移籍金を提示され「20万ドルの左足」と賞された。同年大学生ながら第4回日本年間最優秀選手賞を受賞している(1969年と1973年にも同賞を受賞)。

1966年、明治大学卒業後は八幡製鉄に入団する予定だったが破談。しかしそれを知った三菱重工に誘われ入団。ここでも主力として活躍、1969年、1973年と2度の日本リーグ優勝、1971年、1973年と2度の天皇杯優勝など、躍進の立役者となる。

1968年メキシコシティーオリンピックに出場。5アシストを記録するなど銅メダル(3位)獲得に貢献する。

2大スターとして釜本邦茂とよく比較されたが、俊足ドリブルを主体とするプレースタイルのためか故障が多く、トッププレーヤーとしての選手寿命は釜本よりも短かった。

1974年の現役引退後、請われてヤマハ発動機(ジュビロ磐田の前身)の監督に就任。1975年には現役復帰し監督兼選手として2年間プレーし1976年に現役を引退する。その卓越した技術とサッカーに対する情熱により、チームを7年で静岡県2部リーグから日本サッカーリーグ1部に押し上げ、1982年度の第62回天皇杯全日本サッカー選手権大会で優勝した。

2005年、日本サッカー殿堂に選出された。

[匿名さん]

#3532020/01/15 08:18
■エピソード

左ウイングとして活躍し、「黄金の左足」、「20万ドルの左足」といわれたが、実は右利きである。メキシコ五輪3位決定戦での2つのアシストも右足からである。
三菱重工での引退試合は第53回天皇杯全日本サッカー選手権大会の決勝。見事優勝で現役引退を飾っている。
メキシコオリンピックの日本代表時代、合宿での練習後にパチンコに勤しむ事があり、よく松本育夫が呼び戻しに行かされていたという逸話もある。


■引退後経歴

1974年 - 1987年 ヤマハ発動機 監督
1987年 - 1992年 ヤマハ発動機 副部長兼総監督
ジュビロ磐田スーパーバイザー
静岡県サッカー協会副会長


■代表歴

◇出場大会
日本ユース代表
日本代表 1961-1971
1962 FIFAワールドカップ・アジア予選
1964 東京五輪(ベスト8、4試合2得点)
1968 メキシコシティ五輪(3位、6試合)
1970 FIFAワールドカップ・アジア・オセアニア予選

◇試合数
国際Aマッチ 56試合 15得点(1961-1971)


■関連書籍

『男は勝負 ゼロからの出発(スタート)』(杉山隆一著、講談社)1983

『杉山隆一 黄金の左足の伝説-ジュビロ磐田をつくった男』(丸山一昭著、角川書店)2002

[匿名さん]

#3542020/01/19 00:36
ヤマハ発動機サッカー部は、かつて存在した日本のサッカークラブ。ヤマハ発動機のサッカー部として1972年に創部。呼称はヤマハ。日本プロサッカーリーグに加盟するジュビロ磐田の前身となったクラブであり、ジュビロと同じく静岡県磐田市を中心に活動していた。


■呼称
ヤマハ
■クラブカラー

■創設年
1972年
■所属リーグ
日本サッカーリーグ他
■ホームタウン
静岡県磐田市他
■ホームスタジアム
ヤマハ発動機東山総合グラウンド
■収容人数
5.000人


■概要
前身のヤマハ発動機磐田工場サッカー同好会が発足したのは1970年。一般的にはサッカー部となった1972年が創立年とされている。 1974年に当時日本リーグ1部の三菱重工でプレーしていた元日本代表の杉山隆一を監督兼選手として迎え本格的な強化が始まる。荒田忠典(株式会社ヤマハフットボールクラブ元社長)を中心に環境整備や静岡県内の有望な高卒選手の補強を進めた。杉山に率いられた同サッカー部は着実に力を付け、1978年には自前のヤマハ発動機東山総合グラウンド(現:ヤマハスタジアム)が開設。1979年に日本サッカーリーグ(JSL)1部へ初昇格した。

1982年にオランダ人のハンス・オフトをコーチに迎え第62回天皇杯全日本サッカー選手権大会で優勝。1987年にはブラジルのキンゼ・デ・ジャウーからアンドレとアディウソンが加入。森下申一、石神良訓ら日本代表選手を擁した堅守とブラジル人コンビの攻撃で同シーズンにJSL初優勝を成し遂げた。

[匿名さん]

#3552020/01/19 00:37
その後はタイトル獲得は成らなかったものの、読売クラブや日産自動車に継ぐ3番手のクラブとして1980年代中盤から1990年代初頭のJSLを盛り上げる存在であった。 また隣接する浜松市を本拠地とした本田技研とはライバル関係にあり、その一戦は「天竜川ダービー」、「天竜川決戦」と呼ばれリーグ屈指の好カードとなった。

1990年のプロリーグ参加へのヒアリング調査の際には名乗りを挙げ、最終選考まで残ったが、スタジアムの問題だけは解決できず、浜北市に新スタジアムを建設する案や遠州灘海浜公園球技場を改修する案は自治体の合意を得られず断念。また、磐田市から遠く離れた静岡市の草薙球技場を使用する案も認められず、また清水フットボールクラブ(エスパルス)との統合案も検討されたが、結局は初年度のJリーグ参加は見送られることになった。スタジアムはヤマハ磐田サッカー場を改築してJリーグ規格にすることで対応することになった。

1992年にジャパンフットボールリーグへ参加し優勝。同年に運営会社の株式会社ヤマハフットボールクラブが設立。1993年にはJFL2位となり昇格決定。名称も「ジュビロ磐田」と改称して、1994年にJリーグに参加することとなった。

[匿名さん]

#3562020/01/19 00:38
■略歴
1970年 前身のヤマハ発動機磐田工場サッカー同好会発足
1972年 ヤマハ発動機サッカー部創部
1976年 静岡県社会人サッカーリーグ1部優勝
1977年 東海社会人サッカーリーグ昇格
1979年 日本サッカーリーグ(JSL)2部昇格
1980年 JSL1部昇格
1981年 JSL2部降格
1983年 JSL1部昇格


■タイトル

◇リーグ戦
日本サッカーリーグ1部
優勝(1回):1987-88年
日本サッカーリーグ2部
優勝(1回):1982年
ジャパンフットボールリーグ1部
優勝(1回):1992年
東海社会人サッカーリーグ
優勝(2回):第12回(1977年)、第13回(1978年)
静岡県社会人サッカーリーグ1部
優勝(2回):1975年、1976年
静岡県社会人サッカーリーグ2部
優勝(1回):1974年

◇カップ戦他
天皇杯全日本サッカー選手権大会
優勝(1回):第62回(1982年)
全国地域サッカーリーグ決勝大会
優勝(2回):第1回(1977年)、第2回(1978年)


■歴代監督
荒田忠典 1972-1973
杉山隆一 1974-1987
小長谷喜久男 1987-1991
長澤和明 1991-1993


■ヤマハ発動機サッカー部に所属していた主な選手

山本昌邦
柳下正明
長澤和明
沖野隆幸
上永吉英文
石神良訓
中山雅史
大榎克己
内山勝
内山篤
アンドレ
アディウソン
サントス
吉田光範
森下申一
鈴木政一
望月一仁
石井知幸

[匿名さん]

#3572020/01/19 00:39
「Category:ヤマハ発動機サッカー部の選手」も参照


青嶋文明
アディウソン・ルイス・アナスタシオ
有田一矢
アントニオ・カルロス・アンドレ

石井知幸
石神良訓

内山篤
内山勝 (サッカー選手)

大石隆夫
大榎克己
大橋昭好
沖野隆幸
尾崎勇史

上永吉英文

菊池直喜

古賀琢磨
小長谷喜久男
古俣健次
カルロス・アルベルト・ゴメス・ダ・コスタ

三渡洲アデミール

杉本雅央
鈴木政一

伊達倫央

長澤和明
長澤徹
中山雅史

浜野征哉
半場康好

東川昌典

望月一仁
望月達也
森下申一

柳下正明
山本昌邦

吉田裕幸
吉田光範
吉村寿洋
米澤剛志

[匿名さん]

#3582020/01/22 03:52
渡邉 恒雄(わたなべ つねお、1926年〈大正15年〉5月30日 -)は、日本の新聞記者、実業家。株式会社読売新聞グループ本社代表取締役主筆。勲等は旭日大綬章。「ナベツネ」の通称で知られる。

■生誕
1926年5月30日(93歳)
東京府豊多摩郡
(現:東京都杉並区)
■教育
東京大学文学部
■職業
読売新聞グループ本社主筆
■活動期間
1950年 -

株式会社読売新聞社社長、球団オーナー、株式会社読売ジャイアンツ取締役最高顧問、社団法人日本新聞協会会長などを歴任した。

日本プロ野球界に関連する彼の伝説は数知れず、自ら「俺は最後の独裁者だ」と語ったとされ、マスメディアにおいて「球界の独裁者」または単に「独裁者」と呼ばれていることについては、渡邉自身が認めている。他に「メディア界のドン」「政界フィクサー」とも呼ばれる。


■Jリーグとの関係

読売グループでは、1968年のメキシコオリンピックで日本代表が銅メダルを獲得したことによるサッカー人気の高まりに乗る形で、1969年に読売サッカークラブを創設。1977年からは当時のトップリーグである日本サッカーリーグ (JSL) 1部に昇格し、1980年代にはJSLや天皇杯を何度も制する強豪チームに育て上げていた。

1992年、読売サッカークラブを母体に「ヴェルディ川崎(現「東京ヴェルディ」)」を設立、翌1993年に正式スタートした日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に参加。三浦知良・ラモス瑠偉などの人気選手を擁して優勝し、初代チャンピオンの栄誉を獲得した。なお、1993年8月1日に目黒区内のサレジオ教会で行われた三浦と日テレの歌番組出演していた設楽りさ子の結婚式では、媒酌人も務めた。

[匿名さん]

#3592020/01/22 03:53
その後、地域に根差したクラブの運営により裾野からのサッカー人気向上を図るJリーグや日本サッカー協会と、「読売ヴェルディ」の巨人化を目論む読売グループ間の対立が表面化した。グループ放送局のテレビ中継で使用していた「読売ヴェルディ」の呼称を「ヴェルディ川崎」に改めるようJリーグ執行部から指摘を受け、1994年からJリーグの勧告を受け入れ、「読売」を外して「ヴェルディ川崎」とアナウンス・表記されるようになった。

元々ヴェルディは東京都内に本拠地を予定していたが、ホームスタジアムとして使えるスタジアムがなかったため川崎市を本拠地としていた。程無く後々に発生する「本拠地:東京移転を巡るヴェルディと川崎市の確執」は、本拠地移転を経験しながらも地域密着に成功した浦和レッズおよびコンサドーレ札幌と対比される事が多い。また、川崎市との確執がサッカーファンにも渡邊の印象を悪くしている面は否めない。その後1998年に読売新聞はヴェルディの株式を全て日本テレビに売却し、日本テレビ100%出資の状態が続いたが、2001年から本拠を東京都(東京スタジアム(味の素スタジアム))に移し、稲城市や地元企業などの共同出資による「東京ヴェルディ1969」になり2005年のJ2降格と2007年のJ1再昇格を経て、2008年に現名称の「東京ヴェルディ」となった。

[匿名さん]

#3602020/01/23 07:49
ファンにしてみたらこれらの無関係な長文の連投は本当に迷惑だよ。これ以上続けるならバクサイ運営に利用規約違反として通報するからね。

[匿名さん]

#3612020/01/26 00:03
読売サッカークラブは、かつて存在した日本のサッカークラブ。読売新聞社、株式会社よみうりランドが主体となって1969年に創設された。呼称は「読売」もしくは「読売クラブ」。日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟する東京ヴェルディ1969の前身となったクラブである。


■呼称
読売クラブ
■愛称
ウイングス, 読売
■クラブカラー

■創設年
1969年
■ホームタウン
東京都
■ホームスタジアム
国立霞ヶ丘陸上競技場
国立西が丘サッカー場
駒沢オリンピック公園総合運動場陸上競技場


■概要
読売サッカークラブの創設は、サッカー日本代表がメキシコオリンピックで三位入賞・銅メダルを獲得した1968年10月の1ヶ月後、当時の日本蹴球協会(日本サッカー協会)会長・野津謙が将来のプロ化導入を目指して読売新聞社を訪れ、読売会長の正力松太郎にプロサッカーチームの創設を依頼したことに始まる。

[匿名さん]

#3622020/01/26 00:05
1968年秋に全日本大学サッカー選手権大会で優勝した東京教育大学蹴球部(現:筑波大学蹴球部)監督の成田十次郎に野津から電話があり、「読売の正力さんが、いずれ野球の次はサッカーのプロ化の時代が来るといっている。君はヨーロッパのサッカーに通じているので、一つ協力してやってくれないか。読売新聞と日本テレビが協力して、読売ランドの中に芝生一面を含む四面のサッカー場とクラブハウスを設置して、ヨーロッパのようなクラブ組織を作る。それをプロへつなげるという仕事をして下さい」という説明があった。成田は野津の要請をただちに承諾、間もなく日本テレビの笹浪永光(笹浪昭平)が成田の自宅を訪れ、「経済的には、読売新聞社、日本テレビ、よみうりランドが支援し、折衝には私が責任を持つので監督に」という要請があり、笹浪から「できるだけ早く上のリーグへ昇格することと、クラブが募集する少年たちの指導のために、東京教育大学の選手を連れてきてもらいたい」との依頼を受け、当時監督を務めていた東京教育大学の選手を連れて成田が読売クラブの初代監督に就任した。

正力逝去の8日前1969年10月1日、読売新聞社を中心に日本テレビ放送網、株式会社よみうりランド、報知新聞社の協力で「プロ野球に次ぐプロスポーツ」を視野に入れて任意団体として、「読売サッカークラブ」は発足した。

[匿名さん]

#3632020/01/26 00:06
クラブの実質的責任者は日本テレビの笹浪永光(笹浪昭平)で、チーム作りは監督の成田が行った。結成前に日本テレビ放送網の実業団サッカー部(日本テレビ・サッカー部)があり、東京教育大学全日本大学サッカー選手権優勝時の主将・柴田宗宏が1969年春、同大学を卒業しコーチとしてこのチームに加わり、東京都社会人サッカーリーグ2部(B)に加盟。正式に「読売サッカークラブ」と正式にチーム名を改めたのは1970年2月。柴田が首都圏の学校に就職していた仲間を加え、その後はとんとん拍子に昇格した。「読売サッカークラブ」は先の「日本テレビ・サッカー部」を発展解消させたとも言われる。ただ成田十次郎は「日本テレビ・サッカー部」のメンバーは1969年3月31日に卒業したと話している。

クラブの運営資金は読売新聞、日本テレビ、よみうりランドが4・4・2の割合で負担し、サッカースクールや少年サッカー大会の収入なども貴重な財源であった。

日本サッカーリーグ(JSL)では他の参加クラブが有力企業に属し、社員の福利厚生や宣伝を目的とした企業アマ(企業チーム・実業団チーム)と呼ばれる形態を採用していたのに対し、同クラブは欧米型のクラブチームの形態を採用し、様々な職種の人々によって構成された。またクラブから給料を貰い、試合の結果によって報奨金を得ることができる事実上のプロであった。

[匿名さん]

#3642020/01/26 00:07
当初は柴田宗宏を選手兼指導者として迎え、柴田、高田静夫、野地照樹ら東京教育大学出身者を選手強化の中核とすると共に、少年指導にも当らせた。「練習グランドを作り、少年達を育てる」ことに重点が置かれ、欧州型のサッカークラブに倣い下部組織からトップまで使用できる練習グラウンドをよみうりランド内に建設、東京ヴェルディとなった現在もここを練習場として使用している。

1972年にJSL2部に昇格し、監督に成田、コーチに宇野勝やオランダ人のフランス・ファン・バルコム、選手にジョージ与那城らを迎え戦力の充実を図る。成田や宇野らは数年でクラブを去り、クラブの黎明期を支えた柴田ら東教大出身者達も教員や審判員へと転じた。そしてクラブに残ったバルコムの勝負に対する厳しさと与那城のブラジル・スタイルのサッカーがそのままクラブの特徴となっていった。

バルコムは小見幸隆、岡島俊樹、松木安太郎ら高卒の無名選手を鍛え上げ、後に日本代表に選出されるまでに成長させた。しかしJSL2部では圧倒的な強さを誇りながら入替戦の壁は厚く1974年、1975年の2度挑戦を挑むがいずれも果たすことはできなかった。

[匿名さん]

#3652020/01/26 00:09
この後、西邑昌一監督、相川亮一コーチに移行し、1977年にジャイロ・マトスらを迎え4度目の挑戦で初のJSL1部昇格を果たした。
また同年にはルイ・ゴンサゥヴェス・ラモス・ソブリニョが来日したが、1978年1月の日産自動車サッカー部戦での行為により1年間の出場停止処分を受けた。

1部へ昇格すると1978年は4位、1979年は2位に入り優勝争いを繰り広げた。ラモスも出場停止が明けると中心選手としてクラブを牽引した。また、戸塚哲也、都並敏史ら下部組織で育成された選手達がトップデビューを果たし、「練習グランドを作り、少年達を育てる」事が実を結ぶようになった。

また、早稲田大学から日本代表DFの加藤久が加入し、1980年代の黄金時代で中心的な役割を果たした。

1983年に念願のJSL1部制覇(クラブチームとしては全チームを通して日本リーグ初優勝)を達成すると翌年はJSLリーグ、天皇杯の二冠を達成。この当時は与那城、ラモス、戸塚らが絡むパスワークが大きな魅力であったが、同時に反則も厭わない激しいプレーから「野武士軍団」「アウトロー」と評された。

また日産自動車サッカー部との熾烈なライバル関係で知られていた。日産は世界的に著名な選手を獲得して戦力向上を図った。これに対して読売は著名な指導者を招聘することで戦力向上を図った。1983年にはドイツのルディ・グーテンドルフ、1990年にはブラジルのカルロス・アルベルト・ダ・シルバを監督として迎えた。この試みは時にはクラブ内に混乱を招いたが、同時にプロとしての厳しい規律をもたらし、1980年代中盤以降の全盛期を呼び込む一つの要因となった。

[匿名さん]

#3662020/01/26 00:10
かつては「アウトロー」とも評されたクラブも、1986年の武田修宏、1990年の三浦知良、1991年の北澤豪らの加入により都会的なイメージの集団へと変化していった。そのイメージはJリーグ開幕以降もしばらく引き継がれていった。

1991年10月1日、Jリーグ加盟に際しての運営会社「読売日本サッカークラブ株式会社」(1999年「日本テレビ・フットボールクラブ株式会社」、2009年10月「東京ヴェルディ1969フットボールクラブ株式会社」)を設立する。


■略歴
1969年 創設
1970年 関東サッカーリーグ昇格
1972年 JSL2部昇格
1977年 JSL1部昇格

■タイトル

◇リーグ戦
日本サッカーリーグ
1983年、1984年、1986年/87年、1990年/91年、1991年/92年。
◇カップ戦他
JSLカップ
1979年、1985年、1991年
天皇杯全日本サッカー選手権大会
1984年、1986年、1987年
コニカカップ
1990年
ゼロックスチャンピオンズ杯(1991/92年度に開催されたJSL/天皇杯/JSL杯/コニカ杯の優勝4チームによるトーナメント)
1992年
アジアクラブ選手権
1987/88年度


■スタジアム
東京都にある国立霞ヶ丘陸上競技場、国立西が丘サッカー場、駒沢オリンピック公園総合運動場陸上競技場を中心に、等々力陸上競技場(川崎市)でも一部の主催試合が開催された。

[匿名さん]

#3672020/01/26 00:11
■読売クラブ出身の主な選手

GK
藤川孝幸
中村和哉
ヴィエラン・シィムニッチ(英語版)
菊池新吉
ディド・ハーフナー

DF
野地照樹
松木安太郎
田口孝広(恭裕)
都並敏史
加藤久
ジョージ・トレド(イタリア語版)
岸野靖之
加藤善之
千疋美徳
堀池巧
坂下博之
中村忠
倉田安治

MF
高田静夫
小見幸隆
与那城ジョージ
鈴木武一
大渕龍介
戸塚哲也
ジャイール
川勝良一
菊原志郎
三浦泰年
エジソン
バウテル
北澤豪

FW
岡島俊樹
濱口和明
ラモス瑠偉
大友正人
上島康夫
ファイサル
スティーブン・パターソン
武田修宏
ガウショ
ミルトン
浅岡朝泰
鋤柄昌宏
藤吉信次
三浦知良
阿部良則
トニーニョ



■Category:読売サッカークラブの選手も参照


浅岡朝泰
エジソン・アパレシード・デ・ソウザ
阿部良則

上島康夫
祖母井秀隆

大友正人
大渕龍介
岡島俊樹
岡本賢二
小見幸隆

加藤久
加藤善之
川勝良一

菊池新吉
菊池洋二
菊原志郎
岸野靖之
北澤豪

楠瀬直木
倉田安治

坂下博之

篠原統

鋤柄昌宏
鈴木武一

関浩二
千疋美徳

高田静夫
田口貴寛
ミルトン・ダ・クルス武田修宏つ都並敏史と冨樫剛一戸塚哲也ルイス・カルロス・トッフォリな中村和哉中村忠 (サッカー選手)の野地照樹はハーフナー・ディド蓮見知弘スティーブン・パターソン濱口和明ふバウテル・フェレイラ・ルスアルシデス・フォンセカ・ジュニオール藤川孝幸藤吉信次へアントニオ・ベネディット・ダ・シルバほ保坂信之堀池巧ま正岡ジャイル松木安太郎み三浦知良三浦泰年宮村正志む村田達哉も森栄次よ吉田謙与那城ジョージ米山隆一 (サッカー選手)らラモス瑠偉り李国秀

[匿名さん]

#3682020/01/26 00:13
■下部組織
1979年4月に「読売サッカークラブ・ジュニア(1990年に読売サッカークラブ・ジュニオールへ名称変更)」を結成し、1990/91年から1991/92年シーズンには日本サッカーリーグ2部に在籍した。また、読売クラブの女子チームとして、読売サッカークラブ女子ベレーザ(現在の日テレ・ベレーザ)が1981年に創設されている。

■参考文献

・『クラブサッカーの始祖鳥 読売クラブ〜ヴェルディの40年』読売サッカークラブ〜東京ヴェルディ40周年記念誌発行委員会、東京ヴェルディ1969フットボールクラブ、2010年。

・成田十次郎『サッカーと郷愁と 戦後少年のスポーツと学問の軌跡』不昧堂出版、2010年。ISBN 978-4-8293-0481-5。

[匿名さん]

#3692020/01/29 00:05
日産自動車サッカー部は、かつて存在した日本のサッカークラブ。日産自動車のサッカー部として1972年に創部した。呼称は「日産」。日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)所属の横浜F・マリノスの前身となったクラブである。


■呼称
日産
■クラブカラー
青と白と赤
■創設年
1972年
■所属リーグ
日本サッカーリーグ他
■ホームタウン
神奈川県横浜市
■ホームスタジアム
国立霞ヶ丘陸上競技場
三ツ沢公園球技場


■概要
1970年代当時の日産自動車は野球部が都市対抗野球大会で活躍する強豪として知られていたが、野球のオフシーズンに全社を挙げて応援出来るスポーツが必要として1972年にサッカー部が創部された。

2年後の1974年にヤンマーディーゼルサッカー部(現:セレッソ大阪)から加茂周を監督に迎え本格的な強化に取り掛かる。日産自動車ではテストドライバーや医師が一年契約の嘱託契約として仕事をしており、比較的簡単に契約出来たことから、加茂は初のプロ指導者となった。2年連続で神奈川県社会人サッカーリーグ優勝の後、1976年関東サッカーリーグでは昇格初年に優勝、その年の全国社会人サッカー選手権大会で優勝し、1977年度から日本サッカーリーグ(JSL)2部に昇格、昇格初年から2位となるもののその年は入替戦で富士通サッカー部(現:川崎フロンターレ)に2戦とも敗れ1部昇格を逃す。しかし加茂の就任5年目となる1978年シーズンに再び2位となり、前年と同じ対戦相手となった富士通との入替戦を今度は連勝で制し、翌シーズンからの1部昇格を果たした。

[匿名さん]

#3702020/01/29 00:06
しかし、1部昇格初年度となる1979年シーズン、1部最下位の10位に終わる。同年は最下位も2部1位との入替戦により昇降格を決定する方式であったため、2部優勝の東芝堀川町サッカー部(現:北海道コンサドーレ札幌)と対戦、連勝し1年での2部降格は免れたが、翌1980年シーズンも2年連続で最下位となり、この年は最下位が2部強制降格となるレギュレーションであったため、3シーズンぶりの2部所属となった。

1981年シーズン、2部2位に終わり、1部自動昇格の権利は逃したが、新日鐵との入替戦で勝利し、1部再昇格を果たす。なお、1982年シーズン以来、Jリーグ発足まで、2部に降格することはなかった。

最初の1部昇格後、加茂は守備的なサッカーから攻撃的サッカーへ転換を図る。1980年に中大の金田喜稔、翌1981年には明治大学の木村和司、1982年に元フジタのマリーニョを獲得し、1983年には水沼貴史を筆頭に6人の代表クラスの新卒選手が大量加入。これらの大型補強が実り1983年、1984年とJSLで2位、1983年と1985年の天皇杯を制覇した。

また環境改善も積極的に推し進め、当初は新子安のグラウンドを使用していたが、1980年に獅子ヶ谷に新しいグラウンドとクラブハウスを建設。

長年、会社と交渉した結果、1985年に木村和司、マリーニョが契約選手として認められ、翌1986年に木村はスペシャル・ライセンス・プレーヤーとして国産プロ第1号となった。また同年に厚生課が主体となり「日産フットボールクラブ」が設立。長期的な視野に立った自前の選手育成を目指しファーム、ユース、などの下部組織や女子チームの日産FCレディースを新設。後のプロリーグ参加への足掛かりを作った。

[匿名さん]


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