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2023/11/26 14:42
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サッカー国内





NO.7201210

デッツォーラ島根④
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#3712020/01/29 00:07
1987年に元ブラジル代表の主将ジョゼ・オスカー・ベルナルディを獲得。オスカーの加入は守備面の修正とプロ意識をもたらし、1988-89シーズンではJSL、天皇杯、JSLカップの三冠を達成。その後も、JSL末期の1980年代後半から1990年代初頭に数多くのタイトルを獲得した。

ライバルの読売サッカークラブ(現:東京ヴェルディ1969)との一戦は両者とも攻撃的なサッカーを志向した点や、将来のプロ化を見据えたクラブ同士という点もあって人気カードとしてサッカーファンの注目を集め、1991-92シーズンの第21節、1992年3月22日に国立競技場で行われた試合では6万人の観衆を集めた。


■略歴

◇タイトル
日本サッカーリーグ1部:2回
1988年/89年、1989年/90年
天皇杯:5回
1983年、1985年、1988年、1989年、1991年
JSLカップ:3回
1988年、1989年、1990年
アジアカップウィナーズカップ:1回
1991-92年


■歴代監督

安達二郎 1972-1973
加茂周 1974-1984
鈴木保 1985
加茂周 1985.12-1989
オスカー 1989-1991
清水秀彦 1991-1994

[匿名さん]

#3722020/01/29 00:08
■日産自動車出身の主な選手

GK
松永成立
DF
井原正巳
柱谷哲二
オスカー
田中真二
越田剛史
佐野達
杉山誠
平川弘
鈴木正治
永山邦夫
MF
金田喜稔
木村和司
早野宏史
清水秀彦
マリーニョ
フジネイ
エバートン
境田雅章
財前恵一
松橋力蔵
FW
水沼貴史
長谷川健太
柱谷幸一
木村浩吉
ロペス
レナト
神野卓哉

[匿名さん]

#3732020/01/29 00:09
■Category:日産自動車サッカー部の選手も参照


阿井達也

池田司信
石井肇
井原正巳

浦上壮史

大場健史

勝矢寿延
加藤正浩 (サッカー選手)
金田喜稔

木村和司
木村浩吉 (サッカー選手)

小泉淳嗣
越田剛史

財前恵一
境田雅章
佐野達

清水秀彦
下條佳明
神野卓哉

杉山誠
鈴木保
鈴木正治

高間武
田中真二

永山邦夫

エバートン・ノゲイラ
野田知

柱谷幸一
柱谷哲二
長谷川健太
早野宏史

樋口靖洋
平川弘
広間義則

カルロス・レナト・フェデリコ

ジョゼ・オスカー・ベルナルディ
アデマール・ペレイラ・マリーニョ

松永成立
松橋力蔵

水沼貴史
宮下幹生

山田隆裕

横川泉

呂比須ワグナー

[匿名さん]

#3742020/01/29 00:10
■横浜F・マリノスと異なる点

一時期、第1種の2軍選手を中心に構成する「日産FCファーム」を結成し、神奈川県サッカー協会に単独でチーム登録し、1990年から1991年関東サッカーリーグに参戦させた。当時、トップチームでの出場機会に恵まれない選手に対し、実践機会を提供することが目的(同趣旨はヤンマークラブ・読売サッカークラブ・ジュニオールも)とされ、1991年には関東リーグで優勝したが、1992年にJサテライトリーグが発足したことによりチームは関東リーグへの参加を取りやめた。
女子チームの日産FCレディースも所有し、日本女子サッカーリーグ(L・リーグ)にも創設時の1989年から参加していたが、Jリーグ発足に伴い男子チームのみを存続させる事を決め、1993年のシーズンをもって解散した。


■参考文献
・『モダンサッカーへの挑戦』(加茂周、講談社 1994年)

・『空っぽのスタジアムからの挑戦』(平塚晶人、小学館 2002年)

・『サッカー移民‐王国から来た伝道師たち』(加部究、双葉社 2003年)

[匿名さん]

#3752020/02/02 00:01
トヨタ自動車工業サッカー部は、かつて存在した日本のサッカーチーム。トヨタ自動車工業のサッカー部として1939年に創部され、1983年にトヨタ自動車工業がトヨタ自動車販売と合併しトヨタ自動車が誕生した事に伴い「トヨタ自動車サッカー部」に改称された。呼称はトヨタ。日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟する名古屋グランパスエイトの母体となったクラブである。


■呼称
トヨタ
■クラブカラー

■創設年
1939年
■ホームタウン
静岡県裾野市
■ホームスタジアム
名古屋市瑞穂公園球技場他


■概要
1939年に創部。1961年に国体に出場し、優勝を果たした。1966年に東海社会人サッカーリーグが創設されると同時に参加して無敗で優勝し、初代王者となった。また、全国社会人サッカー選手権大会(全社)に初出場し、初戦でマツダオート広島サッカー部を破って大会初勝利も飾った。全社は1971年の大会まで連続出場して1968年と1970年に優勝、1967年に準優勝の成績を残した。

1973年から1977年まで日本サッカーリーグ(JSL)1部に連続で在籍したが、1977年シーズンに81失点を喫している。

かつては、愛知県を本拠としていたが、最終的な所在地は静岡県裾野市に置いた。しかしながら、晩年にも愛知県内(瑞穂、豊田など)でもホームゲームを開催している。

1990年にJリーグ参加へのヒアリング調査が行われた際、他の自動車メーカーのクラブ(マツダ、三菱自工、日産自動車、本田技研)と比較しても2部から昇格したばかりであった事もあり、時期尚早として参加を見送る予定であった。

[匿名さん]

#3762020/02/02 00:02
そこで東京本社の総務部長で愛知県サッカー協会技術委員長であった西垣成美が奔走し、この決定を覆す事に成功した。これには県サッカー協会による署名活動や地元メディアと連携し運動を盛り上げた事も後押しとなった。

またトヨタが掲げた企業メセナ(企業が資金を提供して文化・芸術活動を支援する)の思想もあって、社長の豊田章一郎は、Jリーグの掲げた「設立5年以内を目処にクラブ名から企業名を外す」という考えに賛同。「どうせやるなら、トヨタのトの字も出すな」と決断し、これに追随する様に住金、マツダも外す事になった。そしてトヨタ単独の参加でなく中部圏の有力企業を結集させ名古屋グランパスエイトが誕生した。

この勢いもあって1990-1991シーズンのJSLではジョルジーニョらを擁し5位に躍進。翌1991-1992シーズンのコニカカップの決勝戦で本田技研を破り、初優勝を果たした。


■略歴と主なタイトル
1939年 創部
1943年 戦況の悪化に伴い一時休部
1946年 活動再開
1961年 国体で優勝。
1966年 東海リーグの創設により参加、初優勝。全国社会人サッカー選手権大会(全社)に初出場。
1968年 全社で初優勝。
1970年 全社で2度目の優勝。
1972年 JSL2部昇格、天皇杯に初出場(以降Jリーグ発足まで計15回出場)
1973年 JSL1部昇格
1978年 JSL2部降格
1983年 トヨタ自動車サッカー部に改称
1987年 JSL1部昇格
1988年 JSL2部降格
1990年 JSL1部昇格
1991年 第2回コニカカップで優勝。

[匿名さん]

#3772020/02/02 00:03
■エピソード
Jリーグに移行する前は静岡県裾野市の東富士研究所を拠点としていたが、1992年にプロ契約選手はトヨタをメインスポンサーとしたJリーグの名古屋グランパスエイトに、プロ契約をぜずに社業に残る選手についてはトヨタ自動車東富士FC(1993年に廃部)に振分けられた。

創設時のグランパスに所属した選手は前所属チームに「トヨタ」と表記されているため、チーム本体を移管したのではなく所属選手を新チーム(名古屋グランパスエイト)へ移籍という形式をとったとみられる[3]。また、名古屋グランパスエイトとなって以降、Jリーグオフィシャルの出版物でもトヨタ時代の沿革は記されていないが、天皇杯の出場回数はトヨタ時代からカウントされている。


■歴代監督
大谷恭一 1939-1949
神田新一 1950-1952
稲川達 1953-1956
松本闊 1957-1962
山口日出夫 1963-1964
志治達朗 1965-1974
小沢正弘 1975-1977
曾我見健二 1978-1986、1988
泉政伸 1987


■トヨタ自動車工業サッカー部に所属した主な選手
築舘範男 (1979-1988)
佐藤辰男 (1977-1992)
平沢政輝 (1988-1992)
東泰 (1986-1992)
行徳浩二 (1989-1992)
藤川久孝 (1987-1994)
江川重光 (1991-1994)
ジョルジーニョ (1990-1994)
浅野哲也 (1987-1994)
沢入重雄 (1986-1995)
小川誠一 (1989-2000)
クリシューマ (1991-1992)

[匿名さん]

#3782020/02/03 22:24
中国リーグ復活!頑張れ、デッツォーラ島根!

[匿名さん]

#3792020/02/05 03:56
東洋工業サッカー部は、かつて存在した日本のサッカークラブ。日本プロサッカーリーグに加盟するサンフレッチェ広島の前身となったクラブである。


■愛称
マツダSC
■クラブカラー
青、黄
■創設年
1938年
■ホームタウン
広島県
広島市/安芸郡府中町
■ホームスタジアム
広島スタジアム


■概要
1938年に東洋工業(現マツダ)のサッカー部として創部し、1981年から「マツダサッカークラブ」と名称を変更した。日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)所属のサンフレッチェ広島の前身となったクラブである。本拠地は広島県安芸郡府中町(マツダ本社所在地)。なお、現在マツダサッカークラブ(マツダSC)の名前で活動しているチームは、元々このクラブの2軍として活動していたチームである。

1949年、実業団チームとして初めて天皇杯全日本サッカー選手権大会出場。1965年から始まった日本サッカーリーグ(JSL)には初年度から参加し、1960年代に全盛期を極め、JSL最多優勝5回。天皇杯では、後身のマツダSC/サンフレッチェ広島を含め、2014年1月までに歴代最多62回の本大会出場回数を誇り、通算最多の127勝、決勝進出も歴代最多の14回と、日本サッカー史に残る名門クラブの一つ。

[匿名さん]

#3802020/02/05 04:00
■略歴
1938年 : 東洋工業蹴球部として創部
1943年 : 休部
1947年 : 活動再開
1949年 : 実業団チームとして初めて天皇杯全日本サッカー選手権大会出場
1954年 : 実業団チームとして初の天皇杯決勝進出
1956年 : 全日本実業団サッカー選手権大会初優勝
1957年 : 天皇杯準優勝
1962年 : 国民体育大会優勝、全国実業団優勝
1965年 : 第1回日本サッカーリーグ(JSL)に参加・初優勝、天皇杯初優勝
1966年 : JSL優勝、天皇杯準優勝
1967年 : JSL優勝、天皇杯優勝
1968年 : JSL優勝・4連覇(JSL最高記録、連続優勝回数)
1969年 : 天皇杯優勝、アジアクラブ選手権3位
1970年 : JSLで5度目の優勝(JSL最高優勝回数記録)、天皇杯準優勝
1971年 : 東洋工業サッカー部に名称変更
1978年 : 天皇杯準優勝
1981年 : マツダスポーツクラブ東洋工業サッカー部に名称変更
1983年 : JSL2部降格
1984年 : マツダスポーツクラブサッカー部に名称変更
1985年 : JSL1部昇格
1986年 : マツダサッカークラブに名称変更
1987年 : 天皇杯準優勝
1988年 : JSL2部降格
1991年 : JSL1部昇格

■ホームスタジアム
創部からJSL初期ごろまでは広島市内の高校グラウンドを使うことが多かった。主に使用していたのは交通の便のよさから中区国泰寺町の広島県立広島国泰寺高等学校グラウンド。また1965年JSL最終節で優勝を決めた試合は、南区翠の広島大学附属高等学校グラウンドで行われた。196年JSL2年目の開幕戦は広島皆実高校グラウンドだった。

1960年代海外クラブとの試合やJSL東西対抗戦を中区基町の広島市民球場で行った事がある。

1970年代以降、西区観音の県営競技場がホームスタジアムとなった。それに加えて1980年代には呉市の当時マツダ福利厚生施設であったマツダ健保グラウンド(現呉市総合スポーツセンター)を用いていたこともある。

[匿名さん]

#3812020/02/05 04:01
■ユニフォームカラー
初期は白や紺、1970年代は赤ベースの黒縦縞、1980年代はカンパニーカラーと同じ青と黄。

ちなみに、紺から赤への変更は東洋工業の関連チームである広島東洋カープと同じ移行である。青と黄の配色は現在マツダのシンボルチームであるマツダブルーズーマーズやマツダ陸上競技部でも採用されていたが、陸上競技部は2015年に赤と白の配色に変更された。後身のサンフレッチェ広島でも当初はチームカラーを青にする話もあった。


■歴史

◇創設期
戦前、広島は兵庫・東京と共に「サッカー御三家」と呼ばれ、日本サッカーの先進地であった。この環境の中で育った山崎芳樹が1938年(昭和13年)に東洋工業(現マツダ)へ入社し、同好会形式で創部したのが「東洋工業蹴球部」である。しかしこの時代、この地域のサッカーチームとしては呉海軍工廠が圧倒的に強く、東洋工業は全国大会には1度も出場出来なかった。この時期のタイトルとして、1941年(昭和16年)第8回中国実業団蹴球大会決勝対広島電気(現中国電力)戦において4-0で勝利し優勝したものがある。

1943年(昭和18年)、太平洋戦争の戦況が厳しくなったため休部する。1945年(昭和20年)8月6日、広島市への原子爆弾投下により市内は甚大な被害を受け、社員も被爆している。なお、このクラブに所属した選手の徴兵および被爆状況など戦中の選手の状況は不明であるが、後に東洋工業に入団した選手には被爆者が存在する。

[匿名さん]

#3822020/02/05 04:03
戦後復興の最中、蹴球部も1947年(昭和22年)に再開する。以降銭村健次・小畑実ら地元出身の有力選手の入団が相次ぎ、当時の主要タイトルである全日本選手権(天皇杯の前身)・全日本実業団・国体に常に優勝争いを繰り広げる実業団の強豪チームを作り上げた。

1949年(昭和24年)、第29回全日本サッカー選手権大会にて実業団チームとして初出場を果たした(準決勝敗退(1-7対東大LB))。

◇1950年代
1951年(昭和26年)、蹴球部が実業団サッカーのトップクラスとなり会社の看板となったことから、山崎は監督を退き部長兼総監督に就任し、小畑が選手兼任監督となった。小畑は自身の母校である慶応大のサッカースタイルである、「素早いパスサッカー」を東洋工業に導入した。

1954年(昭和29年)、第34回天皇杯にて実業団として初めて決勝に進出も準優勝(3-5対慶大BRB)。この決勝は、第4延長3時間にも及ぶ死闘となり、銭村が疲労のため意識不明となり倒れ、試合後は満足に歩ける選手がいない状況にまでなるほど、日本サッカー史に残る名勝負となった。この試合に於ける東洋工業の敢闘がその後の実業団チーム台頭の嚆矢となったもので、その意味でのエポックメーキングな試合であった。これ以降、他の実業団も強化に務め、天皇杯で台頭し始めた。

[匿名さん]

#3832020/02/05 04:04
1955年(昭和30年)、全日本実業団でまたも準優勝(0-2対田辺製薬)。1956年(昭和31年)、田辺製薬の7連覇を阻みついに全日本実業団で優勝して初の全国タイトルを獲得した(4-0)。1957年(昭和32年)も第37回天皇杯で決勝進出、広島国泰寺高校で決勝戦が行われたが準優勝(1-2対中大クラブ)に終わる。

大学リーグでの優秀選手を中心に選ばれていたこの時代の全日本(現在のサッカー日本代表)において、上記の活躍から東洋工業の選手も選出され始め、1956年のメルボルンオリンピック代表には小沢通宏と下村幸男の2人が選ばれた。

この頃になると地元から頼まれて市内の小中高校へ指導に出かけるようになる。この時指導された選手が1960年代後半の黄金期を支えることとなる。


◇1960年代
1962年(昭和37年)、国体で初優勝を飾り(延長2-1対全大阪)、全日本実業団で古河電工(現:ジェフユナイテッド市原・千葉)と両チーム優勝。この活躍から同年に小沢が日本年間最優秀選手賞を受賞した。

1965年(昭和40年)から始まった日本サッカーリーグ(JSL)にスタート時から8チームの一つとして参加。小畑を総監督(いわゆるゼネラルマネージャー)、下村を監督に登録メンバー25人中21人が広島県出身者で固められていた。厳しいトレーニングの結果、抜群のコンビネーションを生み出し縦横無尽のパスワークで攻撃的サッカーを展開、特に攻守の切り替えの早さは他チームと比べ、群を抜いていた。

[匿名さん]

#3842020/02/05 04:06
この1965年から1970年がこのクラブの黄金期である。JSL第1回大会を12勝2分け0敗と無敗で優勝。第1回大会第14節・対ヤンマー戦(現:セレッソ大阪)で記録した11-0(桑田:5・小城:4・松本:2)は、最多得点及び最多得失点差11点のJSL最高記録。第2回大会まで23連勝を記録するなど、第4回大会まで不滅のリーグ4連覇の金字塔を樹立し第6回大会も制覇したことによりJSL27回の歴史で最多の5回の優勝を飾った。更に天皇杯では第45回大会で初優勝すると、6年で決勝に5度進出し3度の優勝を飾った。また国際舞台では、アジアクラブ選手権1969に日本勢として初出場し3位入賞を果たした。

この時のメンバーの多くは全日本に選出され、1968年のメキシコオリンピックにも小城得達、桑原楽之、松本育夫の3人の代表選手を送り日本の銅メダル獲得に大きく貢献した。

なお1950年代から1960年代にかけては"広島サッカーの時代"と言ってもよく、多くの広島出身者が、関西・関東のサッカー強豪大学や全国の実業団に進みチームの中核となった。1960年代の日本蹴球協会会長野津謙および全日本監督長沼健の2人とも広島出身、全日本には東京五輪・メキシコ五輪といずれも最多の5人の選手を送り込み、日本代表は「広島弁が共通語」とまで言われ、デットマール・クラマーは広島弁で怒鳴ったといわれる。更に1965年JSLスタート時の8チーム中4チームの監督も広島出身(東洋下村・八幡寺西忠成・ヤンマー古川能章・三菱岡野良定)、例えば1968年のJSL登録選手も2位の埼玉県出身(22人)を超える43人もの広島県出身選手が占め、その中で東洋工業蹴球部は広島サッカーの象徴的な存在であった。

この時代の東洋工業を止めようと、他チームのほとんどがスウィーパーを置くようになり、そこから1970年代JSLはスウィーパーシステム流行へと向かった。

[匿名さん]

#3852020/02/05 04:07
◇1970年代

しかし1970年代に入ると、環境面を整備した他チームの台頭により成績が徐々に低下していった。またJSL初期に抜群のコンビネーションを誇りリーグ随一の攻撃力だったFW陣が1970年前後に相次いで退団・引退したことや、世界的な戦術流行の流れに沿って、3トップから2トップに戦術変更するものの、得点力は伸びなかった。

1973年(昭和48年)オイルショックが発生。親会社である東洋工業の経営状態が悪化、サッカー部の運営にも影響が及び、数年間新人を全く採用出来なかった。このオイルショックは東洋工業のみならず広島経済界に大打撃を与え、広島サッカー界にも影響を及ぼしこれ以降低迷を続けていく。

1977年(昭和52年)、黄金期の中心選手だった小城が監督に就任。古田篤良・渡辺由一・安原真一らの活躍で、同年のリーグ戦では一時優勝争いに加わるものの最終的にリーグ戦4位、翌1978年(昭和53年)第58階天皇杯準優勝(0-1対三菱重工(現:浦和レッドダイヤモンズ))など一時的に建て直しに成功した。

しかし大卒の即戦力選手獲得には、地方である広島ということや東洋工業の経営不振から後手に回り世代交代が進まず、また同時期に初の外国人選手である宗像マルコス望を加入させたもののチームに馴染めなかったこともあり、これ以降外国人選手補強に消極的な姿勢を続けたため、チームの強化は思うように進まなかった。

これらの要因により、1980年代に入るとチームの弱体化は深刻なものになる。

[匿名さん]

#3862020/02/05 04:08
◇1980年代

1981年(昭和56年)、マツダスポーツクラブ(マツダSC)に名称変更。同年、黄金期の選手の一人であった二村昭雄が監督に就任するが低迷を阻止する事は出来ず、翌1983年(昭和57年)一度目のJSL2部降格をする事になった。

そこで1984年(昭和58年)、今西和男が監督に就任し、古豪を復活させるべく改革に乗り出す。それまで日本人選手や日系人選手のみで構成された純血主義の伝統を打ち破り、オランダからハンス・オフトをコーチに、ディド・ハーフナーをGKコーチ(選手兼任)に招聘、オフトが実質的な監督として現場の全権を掌握し、今西は名目上の監督であるが実際はゼネラルマネージャー業務を行うことになった。オフトは伝統あるチームの再建に興味を持ちオファーを受けたが、チーム状況は最悪であった。選手達には技術、体力以前にメンタルに問題があるとし、意識改革を促す事から始めた。そして2年目から「シンキング・フットボール」を合言葉に戦術的な役割を事細かく教育し始めた。

また、大卒の即戦力選手の獲得が思うように成らなかった過去の経験から、2軍であるマツダSC東洋を強化し、高卒選手育成に努めた。

オフトの下で組織的に訓練されたチームは1985年(昭和60年)JSL1部昇格、同年度の天皇杯ベスト4進出。1986年(昭和61年)、マツダサッカー部に名称変更、昇格初年度のJSL1部で7位と健闘。1987年(昭和62年)オフトが正式に監督となり、信藤克義(信藤健仁)・猿沢茂・高橋真一郎ら地元選手の奮闘もあり、同年度の天皇杯準優勝(0-2読売クラブ、現:東京ヴェルディ)するが、同年度のJSLでは不振が続き二度目の2部降格となった。この責任を取りオフトは辞任した。

[匿名さん]

#3872020/02/05 04:10
1988年(昭和63年)、今西はビル・フォルケスをコーチとして招聘し、オフトの役割だった実質的な監督として置いた。フォルケスは母国の戦術で古い戦術でもあるキック・アンド・ラッシュ戦術を用いたが、オフト時代のアプローチと変わったこともあり一部選手には不評だった。1989年(平成元年)、当時2. ブンデスリーガでプレーしていた元日本代表の風間八宏を獲得する。マツダSC東洋で育成した選手達の成長もあって1991年(平成3年)にJSL1部復帰。日本リーグ最後の年となった1991-92シーズン、フジタ(現:湘南ベルマーレ)から移籍加入した高木琢也の活躍もあり、6位で面目を保った。


◇その後

1992年日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)創設に伴い、このチームを母体としてサンフレッチェ広島が誕生する。これに伴い、2軍(サテライト)扱いだったマツダSC東洋は新生「マツダSC」として中国社会人サッカーリーグに登録、サンフレッチェとプロ契約できなかった選手などが同チームに所属した。

OBの多くは現在もサッカー指導者・ゼネラルマネージャー・アドバイザー等として日本サッカー界に貢献している。

[匿名さん]

#3882020/02/05 04:11
2013年現在Jリーグ最高齢監督記録保持者である松本育夫は元東洋工業監督である。
2012年のJリーグでは、高橋真一郎(東京V)、松田浩(栃木)、小林伸二(徳島)、風間八宏(川崎)、上野展裕(新潟・暫定)、高木琢也(熊本)、森保一(広島)と、7人のOBがJリーグ監督を務めた。
過去に東洋工業から日本代表監督を輩出しているが、サンフレ以降では森山佳郎(U-17日本代表)のみ。
日本代表GKコーチとして、ハーフナー・ディド(オフト監督時代)、望月一頼(トルシエ監督時代)を輩出している。
サッカークラブ球団社長経験者としては、丹羽洋介(長野)、今西和男(岐阜)、松本育夫(川崎)、織田秀和(広島)、河村孝(山口)、などがいる。
また2012年のJ1ではサンフレッチェが優勝したことにより東洋工業が最後にJSLで優勝した1970年から42年ぶりのトップカテゴリでのリーグ優勝、さらに2013年のJ1では1968年以来45年ぶりに連覇を達成した。


■主なタイトル

◇チーム
全日本実業団サッカー選手権大会
1956年、1962年
国民体育大会
1962年
天皇杯全日本サッカー選手権大会
1965年、1967年、1969年
日本サッカーリーグ
1965年、1966年、1967年、1968年、1970年
NHK杯元日サッカー
1967年
アジアクラブ選手権
3位(1968/69年)

◇個人
日本年間最優秀選手賞
1962年 小沢通宏
1965年 小城得達
1970年 小城得達
JSL得点王
1966年 小城得達
JSLアシスト王
1966年 桑田隆幸
1977年 安原真一
新人王
1966年 松本育夫
1982年 猿沢茂
1991/92年 高木琢也
ベスト11
1966年 今西和男、小城得達、桑田隆幸、松本育夫
1967年 小城得達
1968年 小城得達
1969年 小城得達
1970年 船本幸路、小城得達
1971年 小城得達
1972年 小城得達
1986/87年 ディド・ハーフナー

[匿名さん]

#3892020/02/05 04:12
■歴代監督

・山崎芳樹:1938 - 1950
(1943年から1946年まで休部)
・小畑実:1951 - 1963
・下村幸男:1964 - 1970
・大橋謙三:1971 - 1975
・松本育夫:1976
・小城得達:1977 - 1980
・二村昭雄:1981 - 1983
・今西和男:1984 - 1987
・ハンス・オフト:1987 - 1988
・今西和男:1988 - 1992


初期の山崎と小畑は選手兼任で監督を行っていたが、小畑は途中から監督専業となっている。
1970年代の大橋と松本は年代別代表監督と兼務で行っており、その後大橋は東洋工業、松本は年代別代表の監督専任となった。
初めての外国籍スタッフは、1983年夏の中断時期に短期来日したクラウツン。以降も外国籍スタッフが入っていたが、そのうち正式に監督職となったのはオフトのみ。
1984年以降、名目上は今西が監督として登録されていたが、実際は外国人コーチが監督として現場で指導および指揮をしていた。なお、1991-92シーズンはフォルケスが日本を離れたこともあり今西が総監督名義で現場を指揮している。

[匿名さん]

#3902020/02/05 04:13
■歴代選手

山崎芳樹
銭村健次
小畑実
芳野統男
下村幸男
樽谷恵三
重松良典
小沢通宏
北島秀夫
田中雍和
大橋謙三
沼野博
石井義信
小原勝
大島治男
桑原弘之
川西武彦
船本幸路
中村勤
丹羽洋介
今西和男
岡光龍三
松本育夫
桑田隆幸
小城得達
桑原楽之
上橋 徹
吉田浩
大野毅
国枝強
谷本圀之
川野淳次
佐伯一彦
小滝強
小原秀男
小滝春男
高田豊治
堀口照幸
安原真一
宮崎輝比古
古田篤良
野曽原芳彦
渡辺由一
山出実
中野重富
河内勝幸
宗像マルコス望
高橋真一郎
中村重和
猿沢茂
小林伸二
今川正浩
木村孝洋
信藤健仁
上原洋史
山田隆
松田浩
望月一頼
佐藤康之
織田秀和
ディド・ハーフナー
島卓視
横内昭展
前川和也
山西博文
クレック・ノーリー
ロン・ヤンス
崔景植
森保一
河村孝
幸田将和
和泉茂徳
イアン・グリフィス
デヴィッド・ホジソン
アラン・アーバイン
トニー・ヘンリー
風間八宏
平田英治
河野和正
片野坂知宏
月岡利明
ダニエル・カリッチマン
ユリウス・ベーリック
ユーリー・カビル
上野展裕
吉田安孝
亀田明広
高木琢也
森山佳郎
柳本啓成
笛真人
森秀昭

[匿名さん]

#3912020/02/05 04:14
■参考資料

書籍
『日本サッカーリーグ全史』日本サッカーリーグ刊
『広島スポーツ史』(財)広島県体育協会 1984年5月刊
『栄光の足跡 広島サッカー85年史』(財)広島県サッカー協会 2010年6月刊
『イレブンよ 熱き大地を駆けろ』勝沢要 テレハウス 1986年1月刊 ISBN 492474803X
『ぽいち 森保一自伝—雑草魂を胸に』(森保一・西岡明彦共著)フロムワン 2004年2月刊 ISBN 4757210159

[匿名さん]

#3922020/02/09 00:02
三菱重工業サッカー部は、かつて存在した日本のサッカークラブ。中日本重工業のサッカー部として創部した。呼称は三菱。Jリーグに加盟する浦和レッズの前身となったクラブである。


■呼称
三菱
■クラブカラー
青(19??年 - 1977年)
赤(1978年 - 1992年)
■創設年
1950年
■ホームタウン
東京都
■ホームスタジアム
国立霞ヶ丘陸上競技場
国立西が丘サッカー場


これとは別に女子チームの三菱重工業女子サッカー部も存在していた。


■概要
創部は1950年だが、三菱重工は当時GHQの指令に従って、東日本重工業・中日本重工業・西日本重工業の3社に分割されており、そのうちの「中日本重工業サッカー部」としての創部である。当初は同好会であったが1952年に社名変更に伴い「新三菱重工業神戸サッカー部」となった。当時のチームの中心選手は岡野良定で、やがて岡野が選手兼任監督となり、生駒友彦、井上健、村田忠男ら関西学院大学体育会サッカー部出身者が次々と加入し強化が進んだ。岡野はサッカー部監督退任後も三菱自動車工業内で出世し、三菱グループ全体のスポーツを強力にバックアップし、後のサッカー部の重工から自動車移管や、Jリーグ参加にも関わった。1956年の全国都市対抗選手権では、当時95連勝と無敵を誇っていた田辺製薬を関西予選で下し、本大会でも快進撃。決勝では長沼健を中心とし岡野俊一郎らを補強した東京キッカーズに延長で敗れたが準優勝し、全国リーグ創設前の強豪クラブの一つとしての地位を確保した。

[匿名さん]

#3932020/02/09 00:03
1958年、新三菱重工が本社を東京に移転したため、サッカー部選手の大半も東京に転勤して、三菱は東京のチームとなる。1964年、3社の再統合により社名が「三菱重工業」に変わり、チームも「三菱重工業サッカー部」となった。日本サッカーリーグ(JSL)では、1965年の創設時から参加しており、JSL通算最多勝利・通算最多勝ち点を記録する。また、古河(現ジェフユナイテッド市原・千葉)、日立(現柏レイソル)と並んで、丸の内御三家の一角を成し、リーグ運営の中心にあった。

1964年に行われた東京オリンピックでは片山洋、継谷昌三を日本代表へ輩出[1]。1966年に、杉山隆一、横山謙三。翌年森孝慈らメキシコオリンピックで活躍する事となる選手達が加入した。これらの選手達は中心選手として後の栄光の時代を支えた。

日本サッカーリーグには1965年の創設時から参加したが、練習場所や練習時間の確保が難航。また当時は社業を最優先し選手達も様々な部署に所属していた為、合同練習する機会が少なく他のクラブの後塵を拝した。そこで監督の二宮寛、コーチの森健兒の計らいにより1967年に三菱重工川崎工場内に照明設備付きの専用グランドを確保するなど環境改善や選手の待遇改善(選手達を総務部に転属させた)に取り組み、それが功を奏し1970年代には多くのタイトルを獲得した。

[匿名さん]

#3942020/02/09 00:04
1975年には三菱グループ創業100周年の記念事業の一環として東京都豊島区巣鴨に総合スポーツクラブ「三菱養和クラブ」が設立されたが、森健兒はこの事業に尽力している。また、同クラブのサッカースクールには三菱サッカー部OBが指導者として迎えられ、ユース年代の各大会で好成績を収めると共に多くの選手を輩出した。

1980年代以降はアマチュアからプロへと変化しようとする時代の流れに乗り遅れ、1986年に日本サッカー協会が導入したスペシャル・ライセンス・プレーヤー(ノンアマ)制度にも消極的で、アマチュアリズムの牙城を頑なに守る保守派の代表的存在、読売クラブや日産自動車等のプロ志向のクラブに対し、「サラリーマン・サッカー」と揶揄される存在であった。

1980年代中盤には原博実や名取篤ら代表クラスの選手を擁し、1986-87、1987-88シーズンのJSLにおいて連続3位に入る健闘を見せながらも前述の様な保守的姿勢が災いし、遂に1988-89シーズンに2部に降格した。翌1989/90シーズンでは新人の福田正博(得点王:2部記録)や広瀬治(アシスト王:2部記録)などの活躍で1シーズンで1部復帰を果たした。

[匿名さん]

#3952020/02/09 00:06
Jリーグ創設前の通算成績は、JSL優勝4回、天皇杯優勝4回。JSLは全27シーズン中26シーズンを1部で過ごし、その通算成績は460戦211勝117分け132敗、総得点682、総失点507。JSL1部を経験した全22チーム中最高の数字だった。

JSL1部への復帰直後の1990年に子会社の三菱自動車工業にチームを移管して「三菱自動車工業サッカー部」へと名称を変更した。そして従来のアマチュア至上主義を転換して、名門としてのプライドもあってプロリーグ参加へ名乗りを挙げる事になった。当初は江戸川区をフランチャイズに、江戸川区陸上競技場をホームスタジアムとして検討していたがスタジアムの改修(収容能力を1万5000人に改修)で交渉が難航し、紆余曲折の末、浦和市(現在のさいたま市)となった。

ユニフォームは当初は青を基調とした物を着用していたが、1970年代後半の横山監督時代に三菱グループのコーポレートカラーでもある赤を基調とした物へ変更された。 赤いシャツ、白いパンツ、黒いソックスのユニフォームは1991-92シーズン後半に登場し、浦和レッズとなった現在も受け継がれている。

なおレッズの経営はこれまで三菱自工が中心となっていたが、2016年11月に三菱自工保有の運営法人の株式を、新たに三菱重工・三菱自工の共同出資により設立された持株会社「ダイヤモンドF.C.パートナーズ(株)」に譲渡。この持株会社を介する形で、三菱重工が実質的に30.8%(これとは別で、直接出資として1.25%相当・200万円相当の資本関係あり)を保有する大株主となった。2017年からは三菱重工がレッズのユニホームスポンサー(Jリーグ公式戦は背中上、AFCチャンピオンズリーグでは胸)を務めている。

[匿名さん]

#3962020/02/09 00:06
■略歴

1950年 兵庫県神戸市にて、中日本重工業サッカー部として創部
1952年 社名変更に伴い新三菱重工業神戸サッカー部へ名称変更
1958年 サッカー部を東京本社に移転。新三菱重工業サッカー部に名称変更
1964年 GHQにより分割されていた3社が合併し三菱重工業サッカー部へ名称変更
1965年 第1回日本サッカーリーグに参加
1978年 JSL、天皇杯、JSLカップの3冠を達成
1989年 JSL2部降格
1990年 JSL1部昇格、三菱自動車工業サッカー部へ名称変更


■タイトル

◇国内タイトル
JSL1部:4回
1969, 1973, 1978, 1982
JSL2部:1回
1989-90
JSLカップ:2回
1978, 1981
天皇杯全日本サッカー選手権大会:4回
1971, 1973, 1978, 1980
スーパーカップ:3回
1979, 1980, 1983


■歴代監督
岡野良定 1950-1965
生駒友彦 1966
二宮寛  1967-1975
横山謙三 1976-1983
大仁邦彌 1984-1989
斉藤和夫 1989-1992

[匿名さん]

#3972020/02/09 00:07
■三菱重工業サッカー部に所属した主な選手

大仁邦彌
犬飼基昭
横山謙三
森健兒
森孝慈
杉山隆一
山田(落合)弘
藤口光紀
原博実
斉藤和夫
福田正博
尾崎加寿夫
信藤健仁(克義)
川添孝一
広瀬治
名取篤
松本安司
田口光久
関口久雄
オスバルド・サルバドル・エスクデロ

[匿名さん]

#3982020/02/09 00:08
■「Category:三菱重工業サッカー部の選手」も参照


足利道夫

生駒友彦
伊藤庸夫
犬飼基昭
井上健 (サッカー選手)

オスバルド・サルバドル・エスクデロ

大西忠生
岡野良定
尾崎加寿夫
落合弘

片山洋
加藤光雄
加茂肇
川添孝一

菊川凱夫
岸野靖之
北口晃
木野強

小林伸樹

斉藤和夫
佐藤英二
佐藤敦 (サッカー選手)
佐藤宏道
三分一剛

島田秀夫
信藤健仁

杉山隆一

関口久雄

園部晃久

大仁邦彌
高田一美
高原郁夫
田口光久

継谷昌三
津田幸男
土田尚史

永尾昇
中嶋晋一郎
名取篤

二宮寛

畠山啓
原博実

広瀬治

福田正博
藤口光紀

細谷一郎

三上明紀
水内猛

村松浩

本吉剛
森健兒
森孝慈

山口悟
山本富士雄

横山謙三
吉田靖

[匿名さん]

#3992020/02/09 00:09
■三菱重工と浦和レッズで異なる点

試合は、国立霞ヶ丘陸上競技場、国立西が丘サッカー場など東京周辺で開催されていた。
本社は東京都千代田区丸の内、練習場は東京都調布市の三菱重工調布グラウンド(現・三菱養和会調布グラウンド)を使用していた。


■参考文献

『日本サッカーリーグ全史』 (日本サッカーリーグ、1993年)
『浦和レッズの幸福』 (大住良之、アスペクト 1998年)
『レッズと浦和−純愛サッカー物語』 (山岡淳一郎著、浦和レッドダイヤモンズ後援会、1998年)
『空っぽのスタジアムからの挑戦』 (平塚晶人、小学館 2002年)
『浦和レッズ10年史』 (ベースボール・マガジン社、2004年) ISBN 458303685X
『「Jリーグ」のマネジメント』 (広瀬一郎、東洋経済新報社 2004年)

[匿名さん]

#4002020/02/12 04:10
本田技研工業株式会社フットボールクラブは、日本の浜松市北区を本拠地とする日本フットボールリーグ(JFL)に所属する社会人サッカークラブ(実業団)。呼称は「Honda FC」(ホンダ エフシー)であり、以下の文章からは基本的に呼称で表記していく。


■原語表記
本田技研工業株式会社
フットボールクラブ
■呼称
Honda FC
■クラブカラー

■創設年
1971年
■所属リーグ
日本フットボールリーグ
■クラブライセンス
(未承認)
■ホームタウン
浜松市
■ホームスタジアム
MIYAKODA.jpg
ホンダ都田サッカー場
■収容人数
2,500
■代表者
本田技研工業㈱ トランスミッション製造部 浜松工場工場長
■監督
井幡博康


■概要
1971年、本田技研工業(以下「ホンダ」)の創業地でもある浜松製作所(現・トランスミッション製造部)に置かれた浜友会サッカー部(後述)を母体として本田技研工業サッカー部(以下「ホンダサッカー部」)として創部[1]。トップチーム所属の選手・指導者はプロ契約の者を除き、試合の無い日は、午前中はホンダの正社員としてトランスミッション製造部に勤務、午後からはフットボーラーという生活を送っている。ホンダ本社のサッカー部という位置づけであるが、直接的な運営にはトランスミッション製造部内に設立された「Honda FC 事務局」のスタッフが関わっており、チーム代表もトランスミッション製造部長が務めている。実業団ながら地域密着型クラブを標榜し、下部組織も有している。

[匿名さん]

#4012020/02/12 04:11
ホームスタジアムは同市北区都田町にあるホンダ都田サッカー場で、JFL以外のクラブも含め日本国内で数少ない「クラブ自身が所有する自前の」スタジアムである。

過去に2度Jリーグクラブ化の構想があったが、いずれも実現していない。1999年のJFL参入以来、優勝7回・2位4回の成績を残する。

チームのシンボルマークは、浜松の「H」とHondaの「H」が重なり合い、当時の浜松市鳥であるツバメと雄大な遠州灘の波を型どったデザイン。マスコットキャラクターはチームのシンボルマークでもあるツバメをモチーフとした「パッサーロ(Passaro)」。


■歴史

◇創設の経緯
ホンダの各事業所にはそれまでも同好の士を集めたサッカー部は活動していた。社員に共通の話題を提供し、社員の意識を強化を図り、士気を高めるという目的でいえば、埼玉製作所の野球部(現Honda硬式野球部)や、鈴鹿製作所の野球部(現Honda鈴鹿硬式野球部)が既に実績を挙げており、浜松製作所でも当初、野球部をという声も出たが、既に埼玉と鈴鹿に野球部があること、そして何よりも静岡という土壌を考え、サッカー部創設が決定した。まず監督・保崎昌訓、主将・望月修司の浜友会のメンバーを中心に、1971年春新入社の関東大学リーグ経験者を大量に加え、それまで浜友会が所属していた静岡県リーグ2部西部リーグからスタートを切った。翌1972年には、名相銀の中心選手だった桑原勝義が、日本サッカー協会の幹部・長沼健に口説かれ、銀行職を捨てて郷里のチームに加入。桑原は翌1973年にプレイングマネージャーとなり、桑原を中心にチームは強化された。

[匿名さん]

#4022020/02/12 04:12
■本田技研工業サッカー部 (1971年-2001年)
◇創設 - JSL時代
1971年に創部。1972年に静岡県リーグに加盟。1973年には東海社会人サッカーリーグ、1975年には日本サッカーリーグ(JSL)2部に昇格。1981年には同1部に昇格し、以降1992年に終了するまで、トップカテゴリに居続けた。なお1989年に開催された第1回フットサル世界選手権(現:FIFAフットサルワールドカップ)に出場した日本代表は、ホンダサッカー部の選手で構成されていた。
90年代初頭、国内のトップカテゴリがJSLからJリーグへ移行する際、本拠地である浜松市内に第一種の競技場がなく、行政の協力も期待できなかったことから、誘致要請のあった埼玉県浦和市(現・さいたま市)に本拠地を移転し、本田技研工業狭山サッカー部と統合して浦和ホンダウィンズとしてJリーグ(オリジナル10)へ参加することが検討された。しかし、チーム関係者の間には「浜松を本拠にJリーグへ参戦したい」とする意向が根強く、結論が出ないまま91年にJリーグへの初年度参加見送りを発表した。当時は国内経済の悪化からホンダ本社はカーレースF1からの撤退を表明していたため、サッカー部のプロ化見送りに関しても、F1同様に「本業主義のため」という論理付けがされた。
鹿島アントラーズへ監督の宮本征勝(1990年にホンダサッカー部監督退任)、ヘッドコーチの関塚隆(1991年に現役引退→早稲田大学ア式蹴球部監督)、黒崎久志・長谷川祥之・本田泰人・内藤就行・入井和久・千葉修が移籍し、読売サッカークラブへ同ジュニアユース出身北澤豪や同クラブを前身としたヴェルディ川崎へは石川康などが移籍した

[匿名さん]

#4032020/02/12 04:13
■ジャパンフットボールリーグ時代

1992年からジャパンフットボールリーグ1部に参加した。しかし、先述の通り、レギュラーの大半を失ったチームは10チーム中9位に低迷し、翌1993年は同2部に降格したが、同年では2部優勝を果たす。翌1994年には、旧JFLが16チームによる1部制に再編され、それを機に現場サイドでJリーグ参戦へ向けた3年構想が始動した。これにより、前年にJリーグへ参戦したジュビロ磐田から戦力外通告を受けたバウテルや東川昌典らを補強し、翌1995年には柏レイソルから戦力外通告された呂比須ワグナー、大橋昭好らを補強した。
1996年には日本サッカー界に精通したエスピノーザをヘッドコーチとして招聘し、ヴィッセル神戸・鳥栖フューチャーズ・コンサドーレ札幌などのJリーグ参加構想チームと、東京ガスサッカー部を加えた熾烈な上位争いを制し、優勝を飾った。
これを受け、翌97年にはホンダ本社所有のスタジアム(Honda都田サッカー場)に50億円を投じ、改築することで懸案だったスタジアム問題を解決する見込みを立て、浜松F.CとしてJリーグ準会員となった。この時、ホンダ本社は浜松F.Cの株式約6割を引き受けて筆頭株主となった他、ダイドードリンコなどが大口スポンサーとして名を連ねた。
しかし当時は史上最悪の製造不況および通貨危機前夜の時期であったため、産業都市である地元・浜松市内では地元紙などの影響から本田技研工業サッカー部のJリーグ参戦に対し否定的な見方が支配的であった。故に浜松F.Cの経営陣は大きく動揺し、最終的に「時期が悪い」との判断に達したことから一連の構想を白紙撤回した。その後、ホンダ本社の方針もあり、プロ契約選手を減らし、選手全員がホンダの社員として社業にも従事する、いわゆる「完全なアマチュアチーム」へと、徐々に移行し始めた。

[匿名さん]

#4042020/02/12 04:14
■日本フットボールリーグ時代

1999年、旧JFLに所属するチームの多くは新たに創設されたJ2に参戦したが、プロ化を断念して「完全なアマチュアチーム」へ移行し始めてから間もないホンダサッカー部はJ2には参加せず、創設された日本フットボールリーグに所属した。1999年の第35回全国社会人サッカー選手権大会で優勝し、2001年にJFLリーグで優勝した。同年、ホンダ本社は、2002年から選手とのプロ契約を行なわず、2013年まで社員選手のみでチームを存続させることとなった。


■本田技研工業フットボールクラブ (2002年-)

2002年、「本田技研工業サッカー部」から「本田技研工業フットボールクラブ」に改称(呼称は「Honda FC」)。この年から12年間、選手は社員のみであること、毎年の補強が高校卒業(ユースからの昇格も含む)か大学卒業の新卒選手のみとなるが、現役でない新卒選手の加入するという例もある。ただ、大学校や専門学校、専修学校や各種学校からの新卒選手加入実績は未だ無い。

並行して、所属選手がプロ選手としてJリーグに挑戦する際には快く送り出すこれまでの方針は変わりなく維持されることとなる。その主な例として、2004年には前年のJFL得点王だったFWの古橋達弥がシーズン途中でセレッソ大阪に移籍したことが挙げられる。また、ヴァンフォーレ甲府へは2005年に監督だった安間貴義がコーチとして移籍し、2006年にはMFの宇留野純も同チームへ移籍した。2008年のシーズンオフにはU-19日本代表に選ばれた村松大輔も湘南ベルマーレに移籍し、2009年シーズンオフにはFW早坂良太がサガン鳥栖に移籍している。

[匿名さん]

#4052020/02/12 04:16
■2002年 - 2008年

チーム名改称年となった2002年も優勝し、前身時代から含めての連覇を決めている。これは、横浜FC(1999・2000)に続いて、JFL史上2チーム目。JFL5回優勝(初代1回、2代目4回 2010年現在)は1992年のリーグ再編後では最多となる。
以後、12年間社員選手だけで構成されてきたものの、毎年上位につける実力を有する他、年末の天皇杯では、たびたびJリーグチームを脅かし、時には勝利することもある。また、Jリーグの関係者からも“Jリーグチームにも匹敵する”などと言わしめられたこともあり、いつしか「Jへの門番」という新たな異名で呼ばれることとなる。
2006年、向島満が引退し、これ以降、7年間は元Jリーガーの在籍選手は居なくなることになった。


■2009年 - 2012年

2008年にJFLで優勝すると、チームは過渡期を迎える。前年王者として迎えた2009年は1999年以降過去最悪の7位でシーズンを終えると石橋眞和が監督を退任。代わって大久保貴広が監督に就任するも2010年、2011年と2年連続で優勝を逃した。
2011年、天皇杯予選決勝で静岡産業大学サッカー部に敗れて18年ぶりに天皇杯本戦への出場を逃した。
この頃からチームのJFL時代の全盛期を支えた新田純也、鈴木弘大、石井雅之らベテランらがチームを離れ、チームの世代交代が進む傾向となる。

[匿名さん]

#4062020/02/12 04:17
■2013年

鈴木雄也、栗本広輝、砂森和也の3名が入団。JFLが事実上の3部として最終年となった2013年は18チーム中5位であった。内、2014年度からのJ3に参戦する10チーム中6チームよりも順位が上であった。この年の天皇杯では予選決勝で藤枝MYFCに0-1で負け、3年連続予選敗退となった。シーズン最終節終了後、計7名の選手が退団することが発表され、DF浅田はFC琉球へ移籍、FW河野・MF西・DF小栗・DF牧野・GK石川の5名が社業専念となった。また、FW齋藤はシーズン途中で諸事情により退団しているが、2014年からMIOびわこ滋賀へ移籍したことが同クラブから公表される。
また、この年を以ってU-18チームの活動が終了した。

[匿名さん]

#4072020/02/12 04:18
■2014年

2002年から12年間「選手は全員アマチュア(正社員)」という体制を貫いたが、この年から再びプロ・アマ混成の体制へと一新した。
吉澤英生以来8年ぶりのプロ契約監督として、2013年まで金沢U-18を監督して率いていた井幡博康が新監督に就任。井幡は選手として在籍していた1999年以来15年ぶりの古巣復帰ともなった。新入団選手は10年ぶりに復帰する形でベテラン古橋達弥と宇留野純をプロ契約で獲得し、また正社員選手として順天堂大学からMF原田開・日本体育大学からDF宮内啓汰・磐田U-18からGK高村弘尚の3名を獲得した。原田は現役卒業ではない新卒選手としては河野大星以来となるが、「元Jリーガーの新卒選手」としてはクラブ初の選手となる。併せて、クラブとして元Jリーガー選手の在籍は向島満以来8年ぶりとなった。
同年7月には富山から村松知輝、金沢から本田真吾をそれぞれ期限付き移籍で獲得。現行のJFLが開幕して以降、Honda FCが期限付き移籍制度を駆使すること及びシーズン中に選手補強を行うことは初となる。
2ステージ制となったこのシーズン、1stステージは鹿児島ユナイテッドFCを得失点差で交わしてステージ優勝。2ndステージは6位にとどまり年間の勝ち点では3番目となるものの、チャンピオンシップで2ndステージ優勝の佐川印刷京都SCを1勝1分で下し、6年振りのJFL王者となった。

[匿名さん]

#4082020/02/12 04:19
■2015年

GK中村元が引退(社業専念)、MF宇留野純が退団し、FW村松知輝は期限付き移籍期間満了で富山に復帰。新卒で三浦誠史、松本和樹、富田湧也が加入。金沢よりMF小野寺建人、福島よりFW久野純弥を期限付き移籍で獲得、MF本田真吾の金沢からの期限付き移籍期間を延長した。
シーズン途中にて、GKの清水谷侑樹が試合中に、高村弘尚が練習中に、それぞれ全治半年の大けがを負い、残ったGKは急遽選手登録を行ったGKコーチの川口剛史のみという緊急事態に陥ったことから、札幌から阿波加俊太を育成型期限付き移籍で、静岡産業大学3年の羽田野将史を期限付き移籍で獲得した。
天皇杯静岡県代表戦はJ3の藤枝MYFCに4-3で敗れて、5年連続で天皇杯出場を逃した。リーグ戦は1stステージは1位と勝ち点差1の3位。2ndステージは1位と勝ち点差2の2位で惜しくもJFLチャンピオンシップの出場を逃し、JFL連覇はならなかった。特に2ndステージ第12節のソニー仙台FCとの首位攻防戦は勝てばソニー仙台との勝ち点を1差に迫る最大のチャンスだった試合で試合終了間際にPKで先制し、このまま逃げ切ると思われたアディショナルタイムに失点・引き分けとなり、結果2ndステージ優勝を逃す結果となった。
一方、2013年度で終了したU-18チームを翌2016年度から復活させることが発表された。

[匿名さん]

#4092020/02/12 04:21
■2016年

GK阿波加俊太、羽田野将史、MF小野寺建人が期限付き移籍期間満了(小野寺は現役引退)。FW伊賀貴一と深谷泰介が引退(社業専念)。DF砂森和也がカマタマーレ讃岐に移籍した。新たに加入したのは新卒で九州産業大学からGK楠本祐規、高知大学からMF曽根友祐、鹿児島実業高校からMF渡邊大地の3選手と、ツエーゲン金沢から期限付き移籍で加入した大町将梧の計4選手。一方、本田真吾と久野純弥は期限付き延長となった。
リーグ戦は1stステージで16チーム中6位となったが、2ndステージで16チーム中1位でチャンピオンシップに進出。年間勝点では1位であった。チャンピオンシップでは1stステージ王者の流通経済大学ドラゴンズ龍ケ崎(流経大D)と対戦し、流経大Dのホームである千葉県立柏の葉公園総合競技場で行われた1stレグは2-0で前半を折り返すものの後半は追いつかれてしまい結局2-2で終えるが、Hondaのホームであるホンダ都田サッカー場で行われた2ndレグは、前半を0-0で折り返すも、後半にこのシーズンで引退を決めた香川大樹の決勝ゴールで1-0としこのまま試合終了。2戦合計3-2で、2年振り6回目のJFL年間王者となった。
天皇杯静岡県代表戦は4年連続の相手となったJ3の藤枝MYFCに3-2で勝利し、6年振りに天皇杯出場を決めた。本選では1回戦でシードのFC岐阜(J2)に2-1と延長を制して9年ぶりにJリーグチームからの勝利を収めると、続く2回戦はシードの松本山雅FC(J2)を相手に先制されながらも2-1の逆転勝ちを収め、3回戦はベガルタ仙台(J1)に5-2と大勝して駒を進めてきた岩手県代表のグルージャ盛岡(J3)に2-1と勝ちを収めて今回大会の台風の目となる。

[匿名さん]

#4102020/02/12 04:22
その後4回戦(ラウンド16)ではリーグ戦からの中2日を経て、ラウンド16からのシードであるFC東京(J1)を相手に挑み、前半に先制してそのまま折り返すも、後半に逆転され1-2で敗退を喫した。


■2017年

中川裕平、糸数昌太、香川大樹、桶田龍の4選手が社業専念のため引退。本田真吾が期限付き移籍期間満了に伴い退団。池松大騎、日高大、佐々木俊輝、鈴木理久、遠野大弥の5選手が入団した。
リーグ戦の1stステージでは11勝3分1敗とソニー仙台FCと同成績だったが、得失点差で上回り優勝を飾った。2ndステージでは10勝4分1敗で1位となり優勝。JFL連覇と、2ステージ制に移行してから初の完全優勝を達成した。
天皇杯ではベストアマチュアチームとしてシードで参戦し、1回戦・びわこ成蹊スポーツ大学戦を3-1で勝利し、2回戦に進出。2回戦ではジュビロ磐田(J1)と対戦し、1992年以来25年ぶりとなる天竜川決戦となった。この試合には約1300人の応援団が10台以上のバスでヤマハスタジアムへ駆けつけた。試合は接戦を極め、後半12分に磐田MF松本昌也に先制弾を許すも、同28分に古橋達弥が同点弾を挙げて1-1とした。試合は延長戦へと突入し、延長後半12分に途中出場の磐田FW川又堅碁に勝ち越し弾を決められるが、同15分に遠野大弥が同点弾を挙げ、120分間で決着がつかずにPK戦へと突入。清水谷侑樹が磐田のキッカーを務めたアダイウトン、松浦拓弥、中村太亮のPKをファインセーブしたが、最終的に4-5で敗れ2回戦敗退となった。

[匿名さん]

#4112020/02/12 04:24
■2018年

須藤壮史、柴田潤一郎、曽根友祐の3選手が社業に専念するため引退。久野純弥が期限付き移籍期間満了に伴い、退団。児玉怜音、八戸雄太、石田和希、清水航輔の4選手が入団した。前年までツエーゲン金沢より期限付き移籍中だった大町将梧と新たに選手契約を締結した。
リーグ戦の1stステージでは12勝2分1敗で1位となり、4ステージ連続制覇を達成した。2ndステージでは10月20日のJFL2nd-S第11節・ホンダロックSC戦に2-1で勝利したことで、JFL新記録となる17連勝を達成。10月29日のJFL 2nd-S第12節・東京武蔵野シティFC戦に2-1で勝利し、2位のMIOびわこ滋賀が翌日に開催された試合に敗れ、首位になる可能性が消滅したため、2年連続の完全優勝とJFL史上初の3連覇を達成した。2ndステージの成績は13勝2分で、無敗のまま2ndステージを終えた。また、大町将梧がシーズンを通して18得点を挙げ、初の得点王に輝いた。
天皇杯静岡県代表戦では準決勝で藤枝MYFC(J3)、決勝でアスルクラロ沼津(J3)を破り、3年連続で天皇杯出場を決めた。天皇杯1回戦ではアルテリーヴォ和歌山と対戦し、延長戦の末3-2で勝利した。2回戦では鹿島アントラーズ(J1)と対戦し、前半15分に栗本広輝が先制点を挙げるも、前後半にそれぞれ3失点し1-6で敗れ、2回戦敗退となった。

[匿名さん]

#4122020/02/12 04:26
■2019年

土屋貴啓、清水谷侑樹、宮内啓汰の3選手が社業に専念するため引退。白坂楓馬、堀内颯人、Honda FC U-18より小野寺倖志の3選手が入団した。
リーグ戦ではJFL史上初の4連覇を達成した。
天皇杯静岡県代表戦では準決勝で藤枝MYFC(J3)、決勝でアスルクラロ沼津(J3)を破り、4年連続で天皇杯出場を決めた。天皇杯1回戦では福井ユナイテッドFCと対戦し、4-2で勝利した。2回戦ではコンサドーレ札幌(J1)と対戦し4-2で勝利。3回戦では徳島ヴォルティス(J2)に2-0で勝利し、2016年以来のベスト16入り。ラウンド16では前回大会優勝チームとなる浦和レッズ(J1)と対戦し、2-0で勝利。準々決勝では前回大会 1-6で敗れた鹿島アントラーズ(J1)と対戦し0-1で敗れ、今大会の成績はベスト8入りとなった。


■下部組織

小学生を対象にしたスクールと、U-10、U-12、U-15、U-18の各カテゴリのチームを持っている。

◇主な下部組織出身の選手を以下に挙げる。

太田圭輔 - Honda FC U-12 → Honda FC U-15 → 清水エスパルスユース → 清水エスパルス 他
松浦拓弥 - Honda FC U-12 → Honda FC U-15 → 浜名高等学校 → ジュビロ磐田
小栗巧 - Honda FC U-15 → Honda FC U-18 → Honda FC
深谷泰介 - Honda FC U-18 → Honda FC
高村弘尚 - Honda FC U-12 → Honda FC U-15 → ジュビロ磐田U-18 → Honda FC
岩﨑雄大 - Honda FC U-18 → ブラジルへサッカー留学 → 名古屋オーシャンズサテライト(フットサル転向) → アグレミーナ浜松
松岡ジョナタン - Honda FC U-15 → 名古屋グランパスU-18 → 名古屋グランパス 他

[匿名さん]

#4132020/02/12 04:27
U-18チームは、2004年度・2007年度の日本クラブユースサッカー選手権 (U-18)大会、2009年度のJリーグユース選手権大会等の全国大会に出場した実績を持つ。なお、2016年現在の所属リーグはU-18静岡県西部リーグ(カテゴリは3部B)である。

かつては女子チーム「ホンダFCレディース」も保有していた。女子チームは1991年に設立して以降、静岡県西部支部女子リーグ、静岡県女子リーグ、東海女子リーグ(トップチーム、セカンドチームは引き続き県リーグ所属)と昇格し、2004年に廃止されるまでの間に、数多くのタイトルを獲得した。またU-19日本代表としてAFC U-19女子選手権に出場した佐藤シェンネン、所属当時は中学生で後にアルビレックス新潟レディースに所属した口木未来などを始め、数多くの選手を輩出した。廃止後、所属選手の多くはジュビロ磐田のホームタウン推進部が受け入れ、同クラブ下部組織チーム「ヤマハジュビロレディース」が設立されている。


■本田浜松サッカー部

1954年に本田技研工業浜松製作所浜友会サッカー部として創部された浜松製作所のサッカー部である。このクラブが本社側のクラブであるHonda FCの母体となっている。同じ所内に本社チームが創設されて以降も長らく東海リーグに所属し、その後静岡県リーグに所属していたが、2012年、県1部で年間成績最下位となったのを最後にリーグを脱退し活動休止。なお、このチームには、Honda FCのOBも選手や指導者として活躍していた。

[匿名さん]

#4142020/02/12 04:28
■タイトル

◇リーグ戦
東海社会人サッカーリーグ1部:2回(1973年、1974年)
日本サッカーリーグ2部:2回(1978年、1980年 1980年優勝で自動的に1部昇格)
ジャパンフットボールリーグ2部(旧J2):1回(1993年 1994年に1・2部統合のため、旧J2最後の優勝クラブとなる)
ジャパンフットボールリーグ(旧JFL):1回(1996年)
日本フットボールリーグ(JFL):9回(2001年、2002年=旧JFLを含めリーグ再編後初の連覇、2006年、2008年、2014年、2016年‐2019年=旧JFLを含めリーグ再編後最多の4連覇)
※旧JFLを含めたJFLとしての通算優勝回数:10回
◇カップ戦
全国社会人サッカー選手権大会:2回(1974年、1999年)


■ホームゲーム開催実績

(1999年の日本フットボールリーグ=現JFL発足以後)

年度 都田 その他
1999 11
2000 10
2001 15
2002 9
2003 15
2004 15
2005 15
2006 17
2007 17
2008 17
2009 17
2010 17
2011 17
2012 16
2013 17
2014 13 三重・鈴鹿1
2015 14 三重・鈴鹿1
2016 15 栃木グリスタ1
2017 15
2018 15
2019 15

※ジャパンフットボールリーグ時代も基本の本拠地は本田技研都田サッカー場だったが、年数回、遠州灘海浜公園球技場でも主管試合を開催したほか、1994年には柏レイソル戦のホームゲームをレイソルの本拠地である日立柏サッカー場で行った事例もある。

[匿名さん]

#4152020/02/12 04:30
■歴代キャッチフレーズ

年度 キャッチフレーズ
2006 Aggressive action
2007 Fighting for team
2008 The Next Challenge.
2009 THE UNITED POWER
2010 前へ
2011 絆
2012 意志
2013 体現
2014 矜持
2015 考撃
2016 一意専心
2017 歩
2018 新たなカタチの創出
2019 挑戦〜Beginning of a new legend〜


■エピソード


◇浦和市への移転撤回に関するその他の理由

前述の通り、役員会議、関係者は“浜松を本拠にJリーグへ参入したい”という意向があった。サッカー部発足時から現在に至るまで浜松を本拠地にしていたこともあり、“Jリーグ発足のために浦和に移転することは、今までチームを応援してくれた地元・浜松の「お客様を裏切る」ことになり、企業イメージのマイナスになる”との判断があった。


◇2度目のJリーグ参入を目指して表面化した行政との溝

浜松F.C発足を仕掛けたのはホンダ側であったが、同社はチームを浜松F.Cに移管する際はいちスポンサーとしてやっていけばいいという考えであったため、あくまで浜松F.Cを「地域のクラブ」であることをアピールしていた。しかし、Jリーグ参入には行政の協力や理解が必要不可欠であるものの、当時の浜松市側は「ホンダ」というブランドが担保になるなら協力してもいいというスタンスであったという。また浜松市側からJリーグ参入について積極的に動いた形跡はなく、やがて“ホンダがやるのであれば応援する”という市長の言葉を耳にした、当時のホンダ社長であった川本信彦は“おい、話が違うぞ”とJリーグ参入に対する浜松市の態度に相当なギャップを感じていたという。

[匿名さん]

#4162020/02/12 04:31
◇「静岡県代表」として出場した第87回の天皇杯での活躍

2007年に行われた第87回天皇杯全日本サッカー選手権大会では、リーグの前期で1位になれずにシード権を獲得できなかったため、天皇杯が現在の形式になってから初めて県代表を決めるための予選に参加し、天皇杯への出場を獲得。その後、大会ではJリーグチームを3つ破って前身時代以来16年振りの準々決勝(ベスト8)進出を果たし、当大会よりHonda FCが各都道府県代表として初の準々決勝進出を果たしたチームとなった。また、監督も含めて全員がアマチュア登録ということもあって話題となった。それまでHonda FCは、1998年の第78回大会でプロ契約選手を抱えていた本田技研時代に3回戦でジェフユナイテッド市原を破って以降、Jリーグチームに勝利したことはなかった。第87回大会以前における以前の回の試合では、第83回大会(2003年)の3回戦のFC東京戦で、第85回大会(2005年)の4回戦のセレッソ大阪戦で、それぞれ追い詰めるものの、いずれもPK戦で涙を呑んでいる。しかし、この大会以降Honda FCは天皇杯での低迷が続き、天皇杯のシード権を獲得できない状況が続くこととなった。そして2011年での天皇杯予選決勝で静岡産業大学サッカー部に1-3で敗れ、再び本選出場を果たせなくなり、16年続いた天皇杯の連続出場記録も途切れた。なお、2012年以降も予選敗退が続き、再びの本選出場は2016年の第96回まで待つことになる。

[匿名さん]

#4172020/02/12 04:32
◇16年ぶりの年代別代表選手の選出

1993年にJリーグが開幕して以降、本田技研時代も含めて各年代別共に長らくHonda FCから代表選手は選出されなかったが、2008年10月20日当時、AFCユース選手権の日本代表に(先述通り、後にJリーグ所属の湘南ベルマーレへ移籍した)村松大輔が選出された。Honda FCからの年代別代表選出は、本田技研時代の1992年、バルセロナオリンピック出場予選での日本代表に選出された石川康以来、実に16年ぶりとなった。また、当時の日本フットボールリーグに所属する選手から選出されたのは彼のみであると同時に、同リーグからの年代別日本代表選手の輩出は、リーグが1999年に開催されて以降初ともなった。


◇「Honda FC」としての実力評価

各シーズンにおける周囲の評価をここで述べる。

・2007年、第87回の天皇杯において東京ヴェルディの当時の監督であるラモス瑠偉は“J2クラブ並みの力があるチーム”と評しており、同じく第87回の天皇杯において名古屋グランパスの当時の監督であるセフ・フェルホーセンは“JFLのレベルではない。”、“非常にレベルが高いチーム。多くのチャンスを作れるとは思えないが、組織や規律がしっかりしている。”と評している。


・2009年度におけるJFLの各チームの関係者
は“実力はJリーグ2部の下位クラブより上”と評している一方、V・ファーレン長崎の監督であった東川昌典は、自身が指揮したチームと比較してみた場合に限り“(Honda FCとの)レベルの差があるとは思わない。”と述べている。

[匿名さん]

#4182020/02/12 04:33
・2013年では対戦相手のFC琉球に所属する元Jリーガーの永井秀樹が、自身のブログでHonda FCのサッカーについて語っている。ブログ内では「個の質が数年前より若干下がったが故に、勝ち点3を確実に奪う力は多少弱まった」と指摘しながらも“JFLというカテゴリーにおいて、この数年間で最も質の高いサッカーを展開してるのはHondaだ。”と述べている。また、自身が所属するFC琉球についてHonda FCと比較した上で“これからJを目指し、JFL優勝を真剣に考えるならば、最低限Honda以上のサッカーをしなければならない。”と言及している。


・2017年の6月21日に第97回天皇杯の2回戦で対戦したジュビロ磐田とは1-1で延長戦に突入し、延長後半12分に磐田の川又堅碁に勝ち越し点を許したが、同15分に遠野大弥が同点弾を決め、2-2でPK戦まで縺れ込む接戦となった。その後、PK戦を5-4で制した磐田が勝利した。試合後に磐田の名波浩監督は「ある人からホンダが勝ってもジャイアントキリングではないという言葉を聞いた」「ホンダの技術の高さ、それから穴を突く戦術眼は素晴らしいものがありましたし、どちらに転んでもおかしくないような、2対2でPK決着という結果通りのゲームだった」とコメントした。

[匿名さん]

#4192020/02/15 00:33
筑波大学蹴球部は、茨城県つくば市にある筑波大学のサッカー部。日本サッカー協会(JFA) の公式ホームページの「歴史・沿革」にも記載される、最も歴史を有するサッカーチームの一つである。


■原語表記
筑波大学蹴球部
■クラブカラー
紫、青
■創設年
1896年
■所属リーグ
関東大学サッカーリーグ戦
■所属ディビジョン
1部
■ホームタウン
茨城県つくば市
■ホームスタジアム
筑波大学第1サッカー場他


■歴史
体操伝習所における教材としてサッカーが取り入れられた1878年が現在の筑波大学とサッカーとの始まりとなる。1886年に高等師範学校に体操伝習所が統合されて、高等師範学校の「体操専修科」となった。

1896年3月、高等師範学校の「フートボール部」として創設され、同校教授の坪井玄道が部長に就任した。なお、当時はラグビーと未分化であったと伝えられている。1902年に高等師範学校から「東京高等師範学校」(東京高師)に改名した。

[匿名さん]

#4202020/02/15 00:34
1902年4月、フートボール部の理事であった中村覚之助らが日本で最初のサッカー指導書の「アッソシェーション・フットボール」を翻訳。また、同年中に中村によってア式蹴球部が創設された。1903年秋に「東京高等師範学校蹴球部」の名前で日本で最初のフットボールの書物となる「アッソシェーション.フットボール」が出版された。

1904年にイングランド人のウォルター・オーガスタス・デ・ハヴィランド(英語版)が東京高師に教員として赴任。この時にデ・ハヴィランドがアソシエーション・フットボール(ア式フットボール。現在のサッカー)を指導したことでサッカーが行われるようになったと伝わっている(なお、デ・ハヴィランドは1906年に東京高師の教員を退任)。

1904年2月、横浜カントリー・アンド・アスレティック・クラブ(YC&AC)と対戦して0-9で敗北。なお、この試合が日本で初めて開催された外国のチームとの対戦とされている。

1907年11月、日本のクラブ同士で行われた初めての対抗試合とされる東京府青山師範学校との試合が開催された。

1917年5月、東京高師が日本代表チームとして第3回極東選手権競技大会に出場。5月9日に初めての日本代表としての国際試合で中華民国代表と対戦した(0-5で敗北)。また、5月10日には元FCバルセロナのパウリノ・アルカンタラを擁するフィリピン代表と対戦し、2-15で敗れたが、この試合で東京高師在学中だった藤井春吉が日本代表初得点を記録した。なお、この試合は現在でも日本代表の最大差敗戦試合となっている。

1921年、東京高師の関係者が中心となり「大日本蹴球協会」(現在の日本サッカー協会)が創設された。

[匿名さん]


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