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2023/11/26 14:42
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サッカー国内





NO.7201210

デッツォーラ島根④
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#6712020/11/01 00:16
■所属クラブ

◇ユース経歴
三輪野江小学校
1990年 - 1992年 吉川東中学校
1993年 - 1995年 埼玉県立三郷工業技術高等学校
◇プロ経歴
1996年 - 1997年 アメリカFC
1998年 - 2001年 ヴェルディ川崎 / 東京ヴェルディ1969(1998年は練習生契約)
2002年 - 2018年 横浜F・マリノス


■個人成績
日本 J1 593試合出場 36得点

◇その他の公式戦
2004年
スーパーカップ 1試合0得点
Jリーグチャンピオンシップ 2試合0得点
2005年
スーパーカップ 1試合0得点
2014年
スーパーカップ 1試合0得点

◇国際大会個人成績
横浜FM
年度 クラブ 出場 得点
AFC ACL
2004 2 0
2005 4 0
2014 5 0
通算 AFC 11 0
背番号 22

◇個人タイトル

Jリーグ最優秀選手賞:1回(2004年)
Jリーグ新人王(1999年)
Jリーグベストイレブン:6回(1999年、2003年、2004年、2005年、2008年、2013年)
Jリーグ功労選手賞:1回(2019年)
AFC All Star Team:1回(1999年)
日本年間最優秀選手賞:1回(2004年)
AFCアジアカップベストイレブン:1回(2004年)
東アジアサッカー選手権最優秀DF:1回(2008年)
Jクロニクルベスト ベストイレブン(2013年)
Jリーグフェアプレー個人賞:2回(2015年、2017年)
J1リーグ・月間MVP:1回(2017年6月)

[匿名さん]

#6722020/11/01 00:17
■代表歴

◇出場大会
2000年 シドニーオリンピック
2000年 AFCアジアカップ2000
2004年 AFCアジアカップ2004
2006年 2006 FIFAワールドカップ
2007年 AFCアジアカップ2007
2010年 2010 FIFAワールドカップ

◇試合数
国際Aマッチ 110試合 17得点(1999年 -2010年)


■エピソード

中澤の代名詞とも言える「ボンバーヘッド」は、元々は若手時代の髪型であるアフロヘアーに由来するが、空中戦での強さ(特にヘディング)を示す意味もある。なお30代になってからは毛根を気にしてアフロをやめた。2009年からは自身のユニフォームの背中部分に入れる名前も「BOMBER」にしている。
週刊ヤングマガジンに『中澤佑二物語』(塀内夏子原作)という漫画が不定期連載され、2009年に講談社より単行本化された。中澤のブラジル時代からのエピソードが描かれている。単行本化に際し受けたインタビューでは「本屋で見つけたら目立つように並べ替えたいくらいです」と語り、喜びを表した。
2010年6月11日に放送されたアニメ「クレヨンしんちゃん」にサッカー仙人役で出演し、声優デビューを果たした。
雑誌Athlete Safariが主催する『Athlete Dresser Award』で第1回、第2回と2年連続で、お洒落なアスリートとして表彰されている。

[匿名さん]

#6732020/11/01 00:18
2017年4月には、ITベンチャーのCLIMB Factory(クライムファクトリー)のスーパーバイザーに就任。同社が運営するスポーツ選手の健康管理用クラウドサービスの開発に参画し、自身のサッカースクールでの実証実験などを行うとしている。
同学年でもある安室奈美恵の大ファン。ライブにも何度も足を運んだこともあり、まだ安室が『ポンキッキーズ』に出演していた1990年代からのファンで、ファン歴は20年を超える。2017年9月に安室が翌年限りの引退を発表した際には、非常にショックを受けた様子を自身のブログに投稿した。また、中澤は連続試合出場を特徴とした選手でもあるが、安室が精力的にライブ活動を行う姿勢を手本としていると語っている。


■関連情報

◇出演CM
明治乳業明治エッセルスーパーカップ(2000年)
コナミスポーツ(2001年)
興和 バンテリン(2000年)、バンテリンエアロゲル(2005年)
厚生労働省 労働契約法(2008年)
オークリー(2009年〜)
ゆうちょ銀行(2009年〜)
約束の2010
ウォルト・ディズニー・ジャパン トイストーリー3(2010年)
メットライフ生命保険 スマートナビ(2010年〜)
正友地所 THE WANGAN TOWER(2010年〜)
SEIKO SEIKOブライツアナンタ(2010年〜)
オークローンマーケティング スレンダートーンエボリューション(2011年〜)
JUCOLA クエン酸POWER&ナンコツPOWER(2013年〜)

◇著書
『自分を動かす言葉』ベストセラーズ、2013年。ISBN 9784584123928。
『下手くそ』ダイヤモンド社、2014年。ISBN 9784478026816。

◇関連書籍
佐藤岳『中澤佑二 不屈』文藝春秋、2010年。ISBN 9784163718804。

[匿名さん]

#6742020/11/08 00:22
川口 能活(1975年8月15日)は、静岡県富士市出身の元プロサッカー選手。ポジションはゴールキーパー(GK)。


■基本情報
◇国籍
日本
◇生年月日
1975年8月15日(45歳)
◇出身地
静岡県富士市
◇身長
180cm
◇体重
77kg

■選手情報
◇ポジション
GK
◇利き足
右足
◇ユース
-1987
天間小SS
1988-1990
東海大第一中学校
1991-1993
清水商業高校

■クラブ

クラブ
出場
(得点)
1994-2001
横浜F・マリノス
193
(0)
2001-2003
ポーツマスFC
12
(0)
2003-2004
FCノアシェラン
8
(0)
2005-2013
ジュビロ磐田
228
(0)
2014-2015
FC岐阜
43
(0)
2016-2018
SC相模原
43
(0)

◇代表歴
1995-1996
 日本 U-23
1997-2010
日本
116
(0)


日本代表としてFIFAコンフェデレーションズカップ2001ベストイレブン、AFCアジアカップ2004ベストイレブンなどの受賞歴を持つ。国際Aマッチ出場数は日本代表歴代3位、同ゴールキーパー歴代1位の116試合を記録。4大会連続でFIFAワールドカップメンバーに選出されている(1998年 W杯フランス大会、2002年 W杯日韓大会、2006年W杯 ドイツ大会、2010年W杯 南アフリカ大会)。オシムジャパン、岡田ジャパンでは主将を務めた。

[匿名さん]

#6752020/11/08 00:24
■来歴

◇プロ入り前
サッカー漫画『キャプテン翼』の影響や兄の薦めから9歳でサッカーを始め、富士市立天間小学校時代は富士市内のスポーツ少年団でプレーした。当初はポジションを転々としたが、小学校4年生から本格的にGKに専念する。

1988年に東海大学第一中学校に入学。在学中に3年連続で全国中学校サッカー大会出場を経験し、2年時・3年時の2度、大会優秀選手に選出された。

1991年に清水市立商業高等学校(現静岡市立清水桜が丘高等学校)に入学。 1年生時からレギュラーとして試合に出場した第70回全国高等学校サッカー選手権大会に望月重良や平野孝らと共に出場し、前園真聖を擁する鹿児島実業に1-2で敗れ3回戦で敗退した。

2年生時は出場はならなかったが、翌年の第72回全国高等学校サッカー選手権大会に出場。 田中誠、小川雅己、佐藤由紀彦、安永聡太郎、鈴木悟ら後のJリーガーを多く擁するチームを、キャプテンとして率いた。 予選から準々決勝まで11試合連続無失点を記録すると、準決勝で城彰二を擁する鹿児島実業高校と再び対戦。 試合は2-2でPK戦にもつれ込むが、鹿児島実業4人目の藤崎義孝を川口がセーブして5-4で制した。 決勝戦では前年度王者の長崎県立国見高等学校と対戦し、2-1で勝利。 5年ぶり3回目の選手権優勝を果たした。

[匿名さん]

#6762020/11/08 00:25
■クラブ歴

◇横浜マリノス/横浜F・マリノス時代
1994年、横浜マリノスに加入。当時、マリノスには日本代表GK松永成立が在籍していたが、松永の出場停止で浦上壮史が先発出場した試合で、初めてリザーブとして公式戦でベンチ入りした。2年目の1995年シーズン途中に、監督のホルヘ・ソラリとヘッドコーチの早野宏史が若手の川口を正GKに抜擢。これにより、4月26日第11節柏レイソル戦でJリーグ初出場を果たした。初出場で浮足立ったプレーもあったがゴールを守り、無失点で勝利した。この後もポジションを確保し、この年のNICOSシリーズは全試合出場。

7月19日に優勝が懸かったサントリーシリーズ第25節清水エスパルス戦で、1-2でリードされた後半ロスタイム、コーナーキックのチャンスでゴール前に上がりヘディングシュートをするもののゴールポストに当たり得点にはならなかった。この試合には敗れたもののチームは1stステージ優勝を経験し、1995年度のチャンピオンシップでヴェルディ川崎を下し年間優勝。自身も初タイトルとなる、Jリーグ新人王を獲得した。


◇ポーツマスFC時代

2001年10月21日、イングランドのフットボールリーグ・チャンピオンシップ(2部)に所属するポーツマスFCへ移籍し、日本人GKとして初の欧州移籍を果たした。移籍金180万ポンド(当時のレートで3億円)は、ポーツマス史上最高額(当時)であった。これにより10月20日の2ndステージ第10節セレッソ大阪戦がマリノスでのラストゲームになった。

新天地でのデビューは11月3日のリーグ戦第8節シェフィールドW戦で、チームは3-2で勝利した。また、2002年1月4日に行われたレイトン・オリエントFC戦で日本人選手として初めてFAカップに出場した。

[匿名さん]

#6772020/11/08 00:27
2001-02シーズンはリーグ戦11試合に出場したが、レギュラー確保には至らなかった。2002年にはウェストハム・ユナイテッドFCからトリニダード・トバゴ代表のシャカ・ヒスロップが加入したこともあって、シーズンの大半をリザーブリーグで過ごす。イングランドでの2年目は1試合の出場にとどまり、プレミアリーグ(1部)に昇格した2003-04シーズンは出場機会を完全に失った。結局、2002-03シーズンに途中出場した2003年5月4日第44節ブラッドフォード・シティAFC戦がポーツマスでの最後の試合となり、プレミアリーグでは出場できなかった。


◇FCノアシェラン時代

試合の出場機会を求め、2003年9月4日、デンマークのFCノアシェランに移籍。10月5日SASリーガ第11節ヘアフュルエBK(英語版)戦にてスーペルリーガ公式戦に初出場した。しかし、後にデンマーク代表にも名を連ねたキム・クリステンセン(英語版)にポジションを奪われ、2004年4月12日第25節ヴィボーFF戦以降出場機会はなかった。


◇ジュビロ磐田時代

2005年にノアシェランから地元・静岡県のチームであるジュビロ磐田へ移籍。同年4月10日のJ1第4節FC東京戦で、約4年ぶりにJリーグ公式戦に出場した。

2006年は全34試合に出場し、Jリーグベストイレブンのタイトルを獲得した。

2008年5月10日の第12節アルビレックス新潟戦(東北電力スタジアム)で史上32人目、GKとしては史上3人目のJ1通算300試合出場を達成。しかしこの年チームは終始低迷し、残留のかかった最終節の大宮アルディージャ戦も敗れて16位でシーズンを終えた。12月13日、J2・3位のベガルタ仙台とのJ1・J2入れ替え戦第2戦では、後半24分の平瀬智行のループ気味のヘディングをセーブ、後半ロスタイムでの顔面でのセーブなどの働きを見せ、磐田のJ1残留に貢献した。

[匿名さん]

#6782020/11/08 00:27
2009年はバーレーン遠征中の1月24日に右脹脛を負傷。肉離れと診断され、Jリーグ開幕戦の出場は微妙と報道されていたが、開幕戦に間に合わせた。しかし守備の乱れなどもあり、モンテディオ山形戦(2-6@ヤマハ)、第2節ガンバ大阪戦(1-4@万博)の2試合で計10失点を喫し、更に第6節清水エスパルス戦まで5試合勝利がなく、その後失点は減ったものの波に乗り切れず低空飛行が続いた。9月19日、第26節京都サンガF.C.戦でFW金成勇と接触した際に右脛骨骨幹部骨折で負傷、右脛骨骨幹部骨折により全治6ヶ月と診断され離脱。残りのシーズンを棒に振ることとなった。

2010年序盤はリハビリのためベンチ入りすらなかったが、自身も代表に選出された南アフリカW杯後の8月7日、第17節山形戦(0-1)で約1年ぶりに公式戦に復帰した。この年はリーグ戦17試合に出場。リーグ戦こそ前年同様序盤の出遅れもあって2年連続で11位に留まったものの、第32節では敵地で鹿島アントラーズ相手に好セーブを連発して8年ぶりの勝利を挙げた。ナビスコカップでは決勝トーナメント4試合に出場し、9年ぶりの決勝進出。決勝のサンフレッチェ広島戦では槙野智章のPKを止めるなど好プレーを披露し、12年ぶりの優勝を達成した(なお、この優勝が磐田にとっては7年ぶりのタイトルだった)。

2011年8月3日に行われたスルガ銀行チャンピオンシップでは、2-2で迎えたPK戦で2人目と3人目を止めて優勝に導いた。また5年ぶりに全34試合にフル出場し、順位も4年ぶりに1桁(8位)を記録した。

[匿名さん]

#6792020/11/08 00:28
2012年3月10日のコンサドーレ札幌との開幕戦で史上3人目のJ1通算100完封を達成した。続く3月17日のサガン鳥栖戦では史上8人目のJ1通算400試合出場を達成した。しかし、3月22日の練習中に右アキレス腱を断裂。全治6ヶ月と診断され、長期離脱となってしまった。その後、12月15日の天皇杯4回戦・鹿島戦にて約9カ月ぶりに公式戦に復帰するも、チームは逆転負けを喫した。

2013年シーズンはチームの成績低迷の影響もあり徐々に出場機会を失い、8月10日第20節サンフレッチェ広島戦(1-2@Eスタ)以降はスターティングメンバーから外れるようになる。8月31日第24節ヴァンフォーレ甲府戦(1-1@ヤマハ)では5試合ぶりに復帰するが、その後のリーグ戦での出場はなく、以降は腰痛の影響もあり登録メンバーから外れることもあった。最終節となる12月7日の大分トリニータ戦(3-1@ヤマハ)で久々の出場を果たし、9試合ぶりの勝利に貢献するが、翌年のJ2降格が決定しているチームからの契約期間満了の通達により、この試合をもってジュビロ磐田での最終ゲームとなり、9年間在籍したチームを去ることになった。


◇FC岐阜時代

2014年1月17日、J2に所属するFC岐阜へ移籍。同年リーグ戦37試合に出場した。

2015年1月15日、FC岐阜が15年シーズンの契約を更新したことを発表。同年より背番号が22から1に変更される。2015年シーズンはプロ入り後初のひざの故障に悩まされ、第7節の東京ヴェルディ戦を最後に長期離脱。同年11月14日カマタマーレ讃岐戦で7か月ぶりにベンチ入り。リーグ最終節のアビスパ福岡戦で約7か月半ぶりにスタメン出場を果たした。

[匿名さん]

#6802020/11/08 00:29
同年11月27日、FC岐阜は契約満了により川口の契約更新を行わないことを発表し、退団することとなった。


◇SC相模原時代

2016年にJ3所属のSC相模原に完全移籍した。3月の開幕直前に左足首を負傷したが、同年5月8日の第8節ブラウブリッツ秋田戦に出場してJ3初出場。2017年11月19日、第32節のFC東京U-23戦で通算500試合に出場した。

2018年11月にシーズン終了と共に現役引退することをクラブが発表した。引退の理由は「日本サッカーに、自分が選手としてではなくて、違った形で貢献したいという思いが強くなって、それで引退する覚悟を決めました」と引退会見で話している。12月2日、現役最後の試合となったJ3最終節の鹿児島ユナイテッドFC戦では、キャプテンマークを巻いてスタメンで出場、無失点でチームの勝利に貢献した、試合後に行われた引退セレモニーでは、ライバルだった楢崎正剛が花束を持ってサプライズで登場した。楢崎も翌年1月に引退を発表し、3月2日に行われた楢崎の引退セレモニーでは、逆に川口がサプライズで花束を持って登場した。


■引退後

2019年2月、有望な若手選手を育成するナショナルトレーニングセンターのGKコーチに就任する事が発表された。5月29日には、6月に行われるU-18日本代表のポルトガル合宿に、GKコーチとして参加する事が発表された。

[匿名さん]

#6812020/11/08 00:30
2019年10月24日に開催されたJリーグ理事会において同年開催のJリーグアウォーズでJリーグ功労選手賞の授与が決定した。


■日本代表歴

1994年2月2日マレーシア国際トーナメント、U-23マレーシア代表戦に初出場を果たす。以降U-23サッカー日本代表としてアトランタオリンピック予選に正GKとして出場し、メキシコオリンピック以来となる28年ぶりのオリンピック出場に貢献する。その後、オリンピックのサッカー競技・日本代表選手のメンバーに選出される。

1996年7月22日、アトランタオリンピック1次リーグ第1戦、ロナウドやリバウドといった錚々たる面々を揃えたブラジル代表と対戦。防戦一方の展開の中、素早い飛び出しと堅い守備で相手の攻撃を凌ぎ、28本にも及ぶシュートを無失点に抑え込む。ブラジル相手に1-0の完封勝利を収めた大波乱の立役者として大きく賞賛された(マイアミの奇跡も参照)。ブラジルの代表監督マリオ・ザガロは「日本のGKは素晴らしかった」と語っている。チームはグループリーグを2勝1敗で終えるも3位となり決勝トーナメント進出を逃す。

1996年8月25日のウルグアイ戦に、当時監督の加茂周によりフル代表へ初招集される。1997年2月13日、キングスカップスウェーデン戦において国際Aマッチ初出場を果たし、以降はコンスタントに出場機会を増やしていく。フランスW杯・アジア最終予選の全試合に唯一出場し、特に苦戦を強いられたアウェー戦での活躍が光り、9月19日のアブダビでのUAE戦では劣勢の状況の中、相手を無失点に封じ込め勝ち点1をもたらした。日本のサッカーの歴史に深く刻まれる“ジョホールバルの歓喜”でも2失点はしたが、安定した守備を披露し歴史的な場面に立ち会った。

[匿名さん]

#6822020/11/08 00:31
1998 FIFAワールドカップのメンバーに選出され、初戦のアルゼンチン戦では相手の23本のシュートを1失点のみで抑え、敗れたものの善戦した。その後のクロアチア戦(0-1)、ジャマイカ戦(1-2)でも奮闘するが敗れグループリーグ敗退となった。

フランスワールドカップ後に監督に就任したフィリップ・トルシエの下では、楢崎正剛の台頭もあり徐々に出場機会が減り、2000年シドニーオリンピックの代表からも外れた。しかし、出番が回ってきたAFCアジアカップ2000ではグループリーグの1試合を除く全試合に出場。決勝のサウジアラビア戦では完封勝利し優勝に貢献した。

FIFAコンフェデレーションズカップ2001には正GKとして出場。グループリーグではカナダ戦とカメルーン戦の2試合に出場し、何れも完封勝利を収める。カメルーン代表監督のルシャントルは試合後「GKの並外れた実力を前に、我々はチャンスを阻まれてしまった」と語った。準決勝のオーストラリア戦では、豪雨に見舞われる難しい環境下での一戦となったが、大会を通じての4試合連続完封を成し遂げる。フランスとの決勝戦ではパトリック・ヴィエラに決勝点となる1点を許し、敗戦を喫した。日本代表は準優勝を収め、自身は同大会のベストイレブンに選出された。その後は海外移籍による出場機会の激減で試合勘など不満の残る状況が続き、コンディションが整わない日々が続いた。自国開催の2002 FIFAワールドカップでは代表に選ばれたものの出場機会は無かった。

[匿名さん]

#6832020/11/08 00:32
日韓W杯後にジーコが監督に就任してからも控えの立場が続き、FIFAコンフェデレーションズカップ2003のメンバーに選出されるが出場機会は無かったが、AFCアジアカップ2004では全6試合に出場。決勝トーナメント準々決勝のヨルダン戦、1-1のまま縺れ込んだPK戦ではいずれも入れられたら敗退が決まる状況で2本のシュート(3回終了時1-3)を阻止する。結果的にヨルダンは3人成功後4人連続で失敗し、日本の逆転勝利となった。ホスト国中国との決勝戦でも大会で披露した好調ぶりを発揮し、チームは2大会連続3度目優勝を果たす。自身もアジアカップ2004 ベストイレブンのタイトルを獲得。同大会ではシュート阻止率94.0%を記録した(サッカー解析システム「opta(オプタ)」より)。

FIFAコンフェデレーションズカップ2005は国内組として出場。初戦となるメキシコ戦は1-2で敗れるが、続くギリシャ戦は無失点に抑えて1-0で勝利する。第三戦のブラジル戦では2点を先取される展開となったが、その後は得点を許さず、後半にはフアンが放った至近距離のシュートを顔面で阻止する気迫のセーブを見せる。その影響で一時的に脳震盪を患うが、その後もプレーを続け、日本は2点ビハインドから2点を取り返し引き分けに持ち込んだが、グループリーグ1勝1敗1分の3位で終え決勝トーナメント進出を逃した。

[匿名さん]

#6842020/11/08 00:33
2006年、自身3度目となるワールドカップのメンバーに選ばれ全3試合に出場。初戦のオーストラリア戦は相手の再三の攻撃を凌ぐも、スローインへの飛び出しから同点にされ、終盤に3失点を喫して1-3で敗れた。第2戦のクロアチア戦では、キックに定評があるダリヨ・スルナのPKを止め勝ち点1を呼び込んだ(0-0)。このプレーによって、ワールドカップでPKを止めた史上20人目のGKとして名を残した。またドイツ紙は川口に対し「何度も止めた英雄」と絶賛した。第3戦のブラジル戦では、次々に放たれる21本のシュートを浴び4失点を喫するも孤軍奮闘の守りを見せたが、1-4で敗戦。しかし英メディアはブラジルの猛攻を再三好セーブで凌いだ川口を絶賛し、ブラジルメディアも好セーブを連発した川口を高く評価した。チームはグループリーグ2敗1分けで決勝トーナメント進出を逃したが、自身はFIFAが選定した「グループリーグ敗退国ベストイレブン」の控えGKに選ばれた。また、ブラジル戦で前半ジュニーニョ・ペルナンブカーノのミドルシュートを止めたセーブが「2006 FIFAワールドカップスーパーセーブベスト10」ランキングの6位に選ばれた。

[匿名さん]

#6852020/11/08 00:34
ドイツワールドカップ後にイビチャ・オシムが監督に就任して以降は、キャプテンに指名されると共に背番号1を与えられた。2007年3月24日のキリンチャレンジカップペルー戦で国際Aマッチ100試合出場を達成。自身3度目となるアジアカップには正GKとして全試合出場した。決勝トーナメント準々決勝のオーストラリア戦では、1-1で延長戦も終了し引き続き行われたPK戦では1番手のハリー・キューウェル、2番手のルーカス・ニールを連続で阻止する活躍を見せ4-3で勝利した。しかし、準決勝のサウジアラビア戦では2-3で敗戦。3位決定戦の韓国戦ではまたしてもPK戦にもつれたが5-6で敗戦し、3連覇は成らなかった。

2008年3月26日に行われた2010 FIFAワールドカップ・アジア3次予選のアウェーバーレーン戦で、相手のセンタリングのボールを捌ききれず失点し、この試合を最後に約4年守っていた正GKのポジションを剥奪されたが、11月13日のシリア戦では楢崎の負傷により国際Aマッチ11試合ぶりとなる出場を果たした(3-1で勝利)。その後の2010 FIFAワールドカップ・アジア最終予選のカタール戦では完封勝利を果たす(3-0)。2009年1月20日のAFCアジアカップ2011・最終予選のイエメンには欠場したが、1月28日のバーレーン戦では出場濃厚だったものの練習中に右脹脛を負傷。欠場となった。

3月19日にはコンディション不調と所属する磐田の不振により、3月28日の2010 FIFAワールドカップ・アジア最終予選のバーレーン戦での招集が見送られた。怪我以外で代表メンバーから外れたのは4年4か月ぶりだった。さらに9月19日の第26節京都戦で相手選手と接触し、右脛骨骨幹部骨折で全治6か月の大けがを負った。

[匿名さん]

#6862020/11/08 00:34
2010年5月10日の南アフリカワールドカップに向けた最終メンバー発表までJリーグの公式戦に出場していなかったが、代表監督の岡田武史からチームキャプテンとしての役割を求められ2010 FIFAワールドカップの代表メンバーに選出された。本大会で出場機会は無かったがまとめ役としてチームに貢献、岡田から賞賛を受けた。


■プレースタイル

キャプテンシーに優れ、逆境に立たされた際に存在感を発揮するプレイヤー。しばしば「炎の守護神」、「魂の守護神」と表現される。

ゴールキーパーとしては小柄な体格であるが、飛び抜けた瞬発力と集中力、判断力の良さを持ち、ゴール前での飛び出しと俊敏な反応を武器としている。大舞台に強いメンタルの強さも長所と言われており、実際に重要な国際試合では何度も神懸かり的な活躍を見せてきた。特にペナルティーキックでの勝負強さには定評があり、川口がPKを行うときの周りの雰囲気・キッカーの動きを予測するここ一番の集中力は奇跡と称される。中村俊輔は「能活さんとのPK戦は、どこに蹴っても届きそうな気がするし、読まれている気がする」「蹴る前から『あ、ここだと反応されそう』という画が、頭によぎってしまう。その時点で、こっちはゾーンに入れない。もし決まったとしても、それは“たまたま”に過ぎなくて、勝負は負けているんです。能活さんはキーパーなのにゲームを勝たせる力がある。これって絶対に抜きんでた力がないとできない。0-2、0-3で負けてもおかしくないゲームを1-0で勝ったとしたら、絶対にキーパーの力。能活さんには、そういう試合がありすぎる」と述べている。

[匿名さん]

#6872020/11/08 00:35
重心を低く保ち、コンパクトな前傾姿勢が特徴的である。

ロングキックを得意とする。マリノス時代から得意としていたが、ノアシェランで更に磨きをかけた。カウンターでも狙う相手によっては球種を変えており、スピードを持つ選手には速いボール、高さ、強さのある選手には受けやすいボールを蹴り分けている。


■評価

ラモス瑠偉は川口について「日本の宝。キーパーとしてNO.1だと思っている。プロフェッショナル意識を持っているし、他の選手たちからも尊敬されている」と語っている。


■人物

地元である富士市と富士山には深い思い入れがある。
横浜F・マリノス時代にチームメイトであった中村俊輔のフリーキック練習に遅くまで付き合うことも少なくなく、中村からは度々感謝されている。
楢崎正剛とはライバル関係にあり、メディアからは新人の頃から比較され続けた。日本代表の練習中に2人が話していると、報道陣がざわつくこともあり、代表合宿でのハイボール処理の特訓においての川口と楢崎の対決では、チームメイトも足を止めるほど白熱した(結果は12戦中9勝2敗1分)。川口自身は楢崎との関係について「普通」と語っており、楢崎も「全然普通」と賛同している。
マリノス時代やオリンピックや日韓W杯でチームメイトだった松田直樹とは、シーズンオフに一緒に練習していた。川口は松田の事を“戦友”と言っている。また、松田が心筋梗塞で亡くなる日の前日(2011年8月3日)に行われたスルガ銀行チャンピオンシップ2011で、PK戦で2本止めて優勝した。試合後のインタビューでは「マツが力を貸してくれた。あいつも今、闘っている最中。僕も負けられないと思いました。」と答えていた。

ホセ・ルイス・チラベルトを尊敬する。

[匿名さん]

#6882020/11/08 00:36
現役時代はベスト体重の維持の為1日5度体重計に乗り、100グラム単位まで気を使っていた。この他食事はもちろん、睡眠時間の確保にも気を使っていたため、現役時代を「常に張り詰めた生活」と述べている。引退後の2018年12月13日に「プロサッカークラブをつくろう!ロード・トゥ・ワールド」のメディア発表会に登場した際には前日にレモンケーキを食べたということを明かし、「甘い物っておいしいですね」とコメントしている。


■所属クラブ

◇ユース経歴
1988年 - 1991年 東海大学第一中学校 (現・東海大学付属翔洋高等学校・中等部)
1991年 - 1994年 清水市立商業高等学校 (現・静岡市立清水桜が丘高等学校)

◇プロ経歴
1994年 - 2001年10月 横浜マリノス / 横浜F・マリノス
2001年11月 - 2003年8月 ポーツマスFC
2003年8月 - 2005年 FCノアシェラン
2005年 - 2013年 ジュビロ磐田
2014年 - 2015年 FC岐阜
2016年 - 2018年 SC相模原


■代表歴

◇主な出場大会
1996年 - アトランタオリンピック
1998年 - FIFAワールドカップ・フランス大会
2000年 - AFCアジアカップ2000 : 優勝
2001年 - FIFAコンフェデレーションズカップ2001 : 準優勝
2002年 - FIFAワールドカップ・日韓大会
2004年 - AFCアジアカップ2004 : 優勝
2005年 - FIFAコンフェデレーションズカップ2005
2006年 - FIFAワールドカップ・ドイツ大会
2007年 - AFCアジアカップ2007 : 4位
2010年 - FIFAワールドカップ・南アフリカ大会

◇試合数
国際Aマッチ 116試合 0得点 (1997年-2008年)

◇日本代表 国際Aマッチ
年 出場 得点
1997 21 0
1998 9 0
1999 3 0
2000 8 0
2001 9 0
2002 2 0
2003 2 0
2004 11 0
2005 14 0
2006 19 0
2007 12 0
2008 6 0
2010 0 0
通算 116 0

[匿名さん]

#6892020/11/08 00:37
◇U-23サッカー日本代表 36試合 0得点(1994年-1996年)

◇サッカー五輪代表
年 出場 得点
1994 8 0
1995 15 0
1996 13 0
通算 36 0


■タイトル

◇チーム
Jリーグ 優勝 : 1995
AFCアジアカップ 優勝 : 2000、2004
フットボールリーグ・ディヴィジョン1 優勝 : 2002-03
Jリーグカップ 優勝 : 2010


■個人

◇サッカー
1995年 - 新人王
1996年 - 日本年間最優秀選手賞
2001年 - FIFAコンフェデレーションズカップ2001 ベストイレブン
2001年 - AFC月間最優秀選手賞 (6月)
2004年 - アジアカップ2004 ベストイレブン
2006年 - Jリーグベストイレブン
2008年 - Jリーグフェアプレー個人賞 (ジュビロ磐田選手では初受賞)
2013年 - Jクロニクルベスト ベストイレブン

◇その他
1995年 - ベストスマイル・オブ・ザ・イヤー (著名人部門)
1996年 - 報知プロスポーツ大賞 (Jリーグ部門)
1998年 - ベストドレッサー賞 (スポーツ・芸能部門)
2002年 - 日本プロスポーツ大賞 (2002 FIFAワールドカップ日本代表として)
2019年 - Jリーグ功労選手賞


■出版

◇書籍
ゴールはオレにまかせろ!「川口能活」—アトランタ若き守護神 (1996年7月発売、著・大貫哲義 主婦と生活社) ISBN 4391119129
川口能活〈PERSONAL BOOK〉YOSHIKATSU (1996年12月発売、小学館) ISBN 4091023266
魂のゴールキーパー 川口能活 (2006年3月発売、著・西川昭策 アールズ出版) ISBN 4862040128
川口能活 証 (2006年5月発売、著・山中忍 文藝春秋) ISBN 4163680101
『月刊コロコロコミック』 (1998年5-6月号でドキュメント漫画「川口能活物語」を掲載、作画はかとうひろし)
壁を超える (2017年10月10日発売、著・川口能活 角川新書) ISBN 9784040821665

[匿名さん]

#6902020/11/08 00:38
◇ビデオ
川口能活 /横浜マリノス・オフィシャル・ビデオ (1996年11月21日発売、ポニーキャニオン)


■出演

◇メディア出演
第47回NHK紅白歌合戦 (NHK総合テレビジョン)
関口宏の東京フレンドパークII (TBSテレビ)
情熱大陸(毎日放送)
SmaSTATION-3(テレビ朝日) - 香取慎吾と対談など
GET SPORTS (テレビ朝日) - 中西哲生とも対談
やべっちFC〜日本サッカー応援宣言〜 (テレビ朝日)
すぽると! (フジテレビ) - 試合後コメントなど
金子達仁のSports Press (ニッポン放送)
FIFAフットボール・ムンディアル (IMG)
メヂカラ (TBSテレビ)
みらいのつくりかた (テレビ東京)
ヒーローたちの名勝負 (NHK総合テレビジョン)
Crossroad (テレビ東京)


◇CM
サンスター トニックシャンプー
明治製菓アメリカンチップス イメージキャラクター (1996年)
日産自動車 (1998年)
日産火災海上保険 (2000年〜2001年)
大塚製薬 「エネルゲン」
参天製薬 「サンテエフエックス」
参天製薬 「サンテコンタクト」(吉川ひなのと共演)
総務省「第44回衆議院議員総選挙・最高裁判所裁判官国民審査」投票啓発活動(加藤あいと共演、2005年)
東海漬物 「きゅうりのキューちゃん」 (2006年)
NEC 「VALUESTAR W」(2006年) (山本太郎、玉木宏が出演している)
キリンビール「企業」(2017年8月)
ソニー・インタラクティブエンタテインメント「PlayStation®4『がんばった2人』篇」(2019年3月8日 - )- 楢崎正剛との共演
ピップ株式会社「プロ・フィッツ サポーター ひざ用」(2019年5月3日 - )

◇イメージキャラクター
セキュリティハウス・センター (契約会社)

[匿名さん]

#6912020/11/08 00:39
>>688
川口何の関係ある?デッツオーラ島根で現役復帰するのか?関係ないこと書くわけないから復帰するのか?それとも指導者?

[匿名さん]

#6922020/11/08 00:41
Jリーグの監督かと思ってたらカテゴリー下過ぎるな!指導者勉強には良いかもしれんが

[匿名さん]

#6932020/11/09 12:57
川口が来るのか?たいした物だな!デッツも有名だな

[匿名さん]

#6942020/11/15 00:08
☆★関東Rookie League U-16★☆

□■市立船橋高校 Aリーグチーム2019■□

April 26, 2019、April 28, 2019


□■サッカー部紹介■□

■関東ルーキーリーグU-16への意気込み!

貴重な強化の場として真剣に毎試合を戦います。

■指導方針

真面目に 謙虚に 直向きに


□基本情報一覧□

■監督:波多秀吾   

■ユニフォーム情報(正:上下ソックス色、副:上下ソックス色)
FP正 青/青/青  副 白/白/白  GK正 黄/黒/黒  副 オレンジ/黒/黒

■部員数
1,2年
57名(内1名マネージャー)

■平日の活動時間
火曜日〜日曜日 16:30〜18:30

■練習内容
1月中旬〜3月中旬(オフシーズン)持久力・筋パワーの向上等、体つくり、チームコンセプトの徹底
3月中旬〜4月上旬(プレシーズン)チーム戦術およびゲーム戦術の徹底
4月上旬〜1月中旬(インシーズン)各試合における課題克服練習、対戦相手に応じた戦い方


■輩出OB(Jリーガー、日本代表等)

【現役】
◇J1
中村充孝(鹿島アントラーズ)、椎橋慧也(ベガルタ仙台)、志村滉(ジュビロ磐田)、高 宇洋(ガンバ大阪)、中林洋次(サンフレッチェ広島)、馬渡和彰(川崎フロンターレ)、和泉竜司(名古屋グランパスエイト)、杉岡大暉(湘南ベルマーレ)、柴戸 海(浦和レッズ)、金子大毅(湘南ベルマーレ)、原輝綺(サガン鳥栖)、村山智彦(松本山雅FC)

[匿名さん]

#6952020/11/15 00:09
◇J2
小川佳純(アルビレックス新潟)、小出悠太(ヴァンフォーレ甲府)、石井秀典(徳島ヴォルティス)、佐藤優也(ジェフ千葉)、増嶋竜也(ジェフ千葉;期限付き移籍)、笠原昂史(大宮アルディージャ)、磐瀬剛(京都サンガF.C.)、山田拓巳(モンテディオ山形)、永藤 歩(モンテディオ山形)、上福元直人(東京ヴェルディ)、福元友哉 (ファジアーノ岡山)、長谷川凌(水戸ホーリーホック)、積田景介(FC琉球)、矢村健(アルビレックス新潟)

◇J3
加藤弘堅(ギラヴァンツ北九州)、渡辺広大(ザスパクサツ群馬;期限付き移籍)、今瀬淳也(カターレ富山)、杉山弾斗(カターレ富山;育成型期限付き移籍)、原一樹(ロアッソ熊本)、打越大樹(ギラヴァンツ北九州)、田中悠也(ギラヴァンツ北九州)

◇JFL
藤本 心(MIOびわこ滋賀)、石原幸治(東京武蔵野シティFC)、森建太(MIOびわこ滋賀)、鈴木潤(奈良クラブ)

◇海外
水野輝(カンボジア:スヴァイリエンFC)、室伏航(カナダ:York9FC)、杉山丈一郎(カンボジア:カンボジアンタイガー)、石田雅俊(韓国:ANSAN GREENERS FOOTBALL CLUB)

【市船サッカー部OB指導者】
安達亮(J3 カターレ富山監督)、鬼木達(J1川崎フロンターレ監督)、秋葉忠宏(U-23日本代表コーチ)、伊藤竜一(ブリオベッカ浦安GKコーチ)、羽田憲司(J1 鹿島アントラーズコーチ)、高木理己(J3 ガイナーレ鳥取監督)、永井俊太(柏レイソルU-18監督)、本橋卓巳(松本山雅FCU-18コーチ)、松田正俊(栃木SCコーチ)、小川亮(Fリーグ ペスカドーラ町田コーチ)、小原一典(カンボジアサッカー代表コーチ)

[匿名さん]

#6962020/11/15 00:10
【市船サッカー部OBサッカー選手】
安達亮(元横浜フリューゲルス)、遠藤大志(元ソニー仙台FC)、高橋憲司(元フジタサッカークラブ)、羽田憲司(元ヴィッセル神戸)、新井二郎(元日立製作所サッカー部)、本橋卓巳(元栃木サッカークラブ)、野口幸司(元名古屋グランパスエイト)、秋田政輝(元ツエーゲン金沢)、小川誠一(元名古屋グランパスエイト)、西望実(元Honda FC)、境秋範(元川崎フロンターレ)、高安亮介(元栃木ウーヴァFC)、水内俊博(元富士通サッカー部)、渋澤 大介(元グバルディア・コリシャン:ポーランド)、曽我豊明(元水戸ホーリーホック)、石川航平(元松本山雅FC)、井尻明(元京都サンガF.C.)、若月翔太(元ジェフユナイテッド市原・千葉リザーブズ)、永田崇(元京都サンガF.C.)、高橋直也(元MIOびわこ滋賀)、高田昌明(元横浜フリューゲルス)、高橋昌大(元MIOびわこ滋賀)、和田潤(元FC東京)、中村直志(元名古屋グランパスエイト、元日本代表)、鬼木達(元川崎フロンターレ)、鈴木修人(元ギラヴァンツ北九州)、水野淳(元ジェフユナイテッド市原)、松田正俊(元ブラウブリッツ秋田)、渡辺敦夫(元浦和レッズ)、森川 龍誠(元グルージャ盛岡 )

[匿名さん]

#6972020/11/15 00:10
秋葉忠宏(元S.C.相模原)、砂川誠(元コンサドーレ札幌)、森崎嘉之(元横河電機サッカー部)、川口大起(元ソニー仙台FC)、鈴木和裕(元水戸ホーリーホック)、西紀寛(元タイ:ポリス・ユナイテッド、元日本代表)、茶野隆行(元ジェフユナイテッド市原・千葉)、青木良太(元ザスパ草津)、式田高義 (元アルビレックス新潟)、若狭友佑(元横河武蔵野FC)、松森亮 (元ジュビロ磐田)、黒河貴矢(元アルビレックス新潟)、城定信次(元湘南ベルマーレ)、中澤聡太(元セレッソ大阪)、鈴木正人(元セレッソ大阪)、松ヶ枝泰介(元シロン・ラジョンFC:インド)、佐藤陽彦(元京都パープルサンガ)、カレン・ロバート(元インド・ノースイースト・ユナイテッド)、吉川京輔(元コンサドーレ札幌)、小宮山尊信(元横浜FC)、原竜太(元湘南ベルマーレ)、大久保裕樹(元ジェフ千葉)、永井俊太(元柏レイソル)、鹿野崇史(元東京武蔵野シティFC)、森野徹(元SC相模原)、竹谷英之(元VONDS市原FC)、軽部雅也(元アルビレックス新潟)、植草裕樹(元清水エスパルス)、小山泰志(元東京23FC)、庄司孝(元デッツォーラ島根)、佐藤大基(元ザスパ草津)、阿部翔平(元ヴァンフォーレ甲府)、濱田雄也(元ザスパ草津)、加藤忠章(元VONDS市原FC)、北嶋秀朗(元ロアッソ熊本、元日本代表)、種岡岐将(元藤枝MYFC)

[匿名さん]

#6982020/11/22 00:07
名波 浩(1972年11月28日 - )は、静岡県藤枝市出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者、解説者。現役時代のポジションはミッドフィールダー。元日本代表。

■愛称
ナナ、名波くん、なっちゃん、773


□基本情報□

■国籍
日本
■生年月日
1972年11月28日(47歳)
■出身地
静岡県藤枝市
■身長
177cm
■体重
70kg

□選手情報□

■ポジション
MF
■利き足
左足
■クラブ

クラブ
出場
(得点)
1995-2008
ジュビロ磐田
301
(32)
1999-2000
→ヴェネツィア (loan)
24
(1)
2006
→セレッソ大阪 (loan)
13
(2)
2007
→東京ヴェルディ (loan)
17
(0)
通算
355
(35)

■代表歴
1995-2001
日本
67
(9)

■監督歴
2014-2019
ジュビロ磐田

Jリーグのジュビロ磐田、セレッソ大阪、東京ヴェルディ1969、イタリア・セリエAのACヴェネツィアでプレーした。Jリーグベストイレブンを4度受賞。日本代表では背番号10を着用し、1998年のフランスワールドカップに出場した経歴を持つ。

[匿名さん]

#6992020/11/22 00:08
■来歴

◇プロ入り前
静岡県藤枝市にて名波家4人兄弟の末子として出生。女児出生を期待していた両親は4連続男児の誕生に肩を落とす。役所への届出期限が迫り慌てて「名波浩」と母が命名。藤枝市という環境と兄らの影響もあり物心つくうちからサッカーに熱中。この頃の名波家は家計が逼迫しており夫婦共働きで、四男は放ったらかし、その浩少年も家族行事よりボールを蹴ることばかり優先。時間があれば電話で友人を執拗に呼び出してサッカーに明け暮れていた。やや肥満気味でゲーム中あれこれ指図することから付けられたあだ名は「ジャイアン」。外でサッカーが出来ない時は兄らと自宅でボール蹴りに興じ、部屋の調度品を破壊していた。

西益津小学校入学、休み時間はサッカー、放課後は空き地、田圃、大手公園(通称チビッコ広場)で日が暮れるまでボールを蹴り、ディエゴ・マラドーナのプレーに衝撃を受け左足の技術を磨く。小学2年生時に実兄・豊の後に付き、どさくさに紛れて西益津サッカー団のセレクションに年長と参加、当時のコーチ山田晃はその(左足の)センスに驚嘆するも入団の加入条件が小学3年生以上だったため、1年後に受けるよう伝えて落選。小学3年生時の再挑戦時には、更に技術に磨きがかかっていた。小学校4年生時、既に同世代での試合では手に負えなくなっていた浩少年を年長チームへと飛び級させる。この頃のポジションは左ウイング。

西益津中学校入学、中学2年生時でレギュラー獲得。「フィーバーした」と回想するほど対抗試合で勝ちまくり、3年生で県予選優勝。

[匿名さん]

#7002020/11/22 00:09
サッカー熱で藤枝市と清水市の対立が激しかったこの当時、県選抜の仲間の大半が清水市立商業高校へ進学することを知りった浩少年は「俺もキヨショーに行けば、さらに強いチームになる」と清水市立商業高校へ進学を希望するも担任は藤枝市内にある全ての高校が入学を待ち望んでいると助言し進路を保留する。この選択に藤枝市中のサッカー父兄から名波家へ批判と落胆の声が挙がる中、清商へ進学。

清水商業高校時代は大岩剛、山田隆裕、薩川了洋、望月重良らと共に高校総体、ユース選手権を制覇した。

順天堂大学入学、同大学サッカー部入団。在学中に五輪代表(U-23)に選ばれ、バルセロナ五輪アジア最終予選では3試合で途中出場した。サッカーの技術が上達しようとも、それだけでは生計が立てられない状況を諦観する中、水面下でプロリーグ化のあったJSLが1993年にJリーグと名を変え発足。次々と同世代がプロになっている事に焦り、親から200万円を借りてサッカーの海外留学を頼むも「卒業する事が絶対条件」と却下。同部では1部残留を辛うじて決め卒業し、教員免許取得。


■ジュビロ磐田

1995年にジュビロ磐田に加入。加入直後からレギュラーとして活躍、4月12日の柏レイソル戦でJリーグ初ゴールを決めた。ここでは後に訪れるジュビロ黄金時代を築き上げ、牽引した一人となった。

同年から加茂周監督率いる日本代表に招集。当初はクラブと同じ攻撃的MFで起用されていたが、アトランタ五輪後に前園真聖が日本代表に合流するタイミングでボランチにコンバートされた。その後中田英寿の台頭もあり日本代表では主にボランチで起用された。

[匿名さん]

#7012020/11/22 00:10
1998年フランスW杯では、アジア地区予選から日本代表の一員として出場。背番号10を付け、中盤の中心選手として本大会にも全試合に先発出場した。その後、右膝の怪我をするまでの約6年間、日本代表の10番として君臨した。 名波本人は7番の着用を希望していたが、代表のスターティングメンバー選出時に10番を任され困惑したというエピソードが存在する。ラモス瑠偉の後継となる10番だったが勝ち点が伸びずにメディアに叩かれ、更に国立競技場での対韓国戦では柳想鐵の執拗なマークに遭い、マークを外すだけで手一杯となり体力を消耗、疲労したところで韓国に逆転負けを喫し「名波はスタミナ不足、10番の器ではない」と評価される。しかし走力、体力共に優っていた上、背番号で叩かれる理不尽さに業を煮やしていた名波は「ジョホールバルの歓喜」と呼ばれるW杯出場を決めた試合直後に背番号10番のユニフォームをラルキン・スタジアムの観客の少年に投げ渡した。

フランスW杯後、フィリップ・トルシエ就任後も召集される。1999年のコパ・アメリカでは中田英寿が不在であったためトップ下を任されるも惨敗し、トルシエから「名波は一生リーダーにはなれない選手」と酷評された。

[匿名さん]

#7022020/11/22 00:11
■ACヴェネツィア

同年、ジュビロで全てのサッカーをやり尽くした感があった名波は、新天地を求め、同年夏にイタリア・セリエAのACヴェネツィアに移籍。ヴェネツィアは前年まで中心選手であったアルバロ・レコバが移籍し、その穴を埋めるべく左利きの攻撃的選手を求めていた。10月28日のコッパ・イタリア、ペスカーラ戦での決勝ゴールが移籍後初ゴールとなった。1月23日、第18節のウディネーゼ戦でリーグ戦初ゴールにして唯一のゴールを決めた。24試合に出場したが、監督交代などの影響もあり、フル出場は少なく、ベンチ入りしても出場機会の無い試合や、僅かな出場時間しか得られない試合もあった。コッパ・イタリアでは準決勝まで勝ち進むも、クラブはセリエBに降格。契約上、クラブが降格すれば退団することが決まっていたため、翌年帰国し、磐田に復帰した。

帰国後アジアカップのメンバーに召集され、「イタリア挑戦に失敗した自分を呼んで貰えて感謝している」とコメント。大会では名波を中心にした攻撃が機能し圧倒的な強さで優勝、名波自身もMVPを獲得する。コパアメリカで名波を酷評したトルシエ監督も称賛を惜しまなかった。しかし2001年に右膝半月板を痛め代表から長期離脱。トルシエ監督や国民からW杯までの復帰が待ち望まれる中、10月の欧州遠征(セネガル及びナイジェリアと対戦)のメンバーに召集され同行するも、怪我の再発が確認され試合に出場しないまま再び離脱。2002年日韓W杯の日本代表からも外れる。本人は「怪我をして外れたのではなく、実力がなかったから外された」と自分を戒めたが、実際は怪我からの復調が芳しくなかったためである。

[匿名さん]

#7032020/11/22 00:12
ジーコ監督就任後、初の試合となったジャマイカ戦に招集された(背番号は8番。10番は中村俊輔が着用。)が出場は無く、その後は召集される事はなかった。 一方、クラブでは、その後もジュビロの中心選手として活躍。2002年のJリーグ完全優勝(1st、2nd両ステージ制覇)にも大きく貢献した。


■セレッソ大阪

2006年はチームの若返りを進める山本昌邦監督の下で次第に出場機会を減らし、山本昌邦の監督辞任によって就任したアジウソン監督でも状況は変わらなかった。出場機会を求め、8月15日付で、当時最下位で降格の危機に瀕していたセレッソ大阪へチーム立て直しのために、2007年1月31日までの期限付き移籍を決断。名波加入前はシーズンでわずか1勝だったが、加入後は入れ替え戦出場を争うまでに調子を上げていったが、最終的に降格してしまう。11月26日の大宮戦で、史上23人目のJリーグ通算300試合出場を達成した。


■東京ヴェルディ

2007年1月16日、磐田から東京ヴェルディ1969へ、2007年2月1日から2008年1月31日までの期限付き移籍をすることが発表された。サッカーダイジェストのインタビューなどでは、2007年シーズンをもって引退する事を匂わすコメントをしていたが、出場機会にあまり恵まれず不完全燃焼であったことや、磐田側からも復帰の要請があったことから2007年12月8日に「2008年シーズンは磐田に現役選手として復帰する」ことが発表された。

[匿名さん]

#7042020/11/22 00:13
■ジュビロ磐田復帰

2008年11月12日、2008年シーズン限りでの引退を表明。2009年シーズンのコーチ就任は断ったが、「40歳過ぎぐらいに監督になりたい」と、語っている。


■引退後

現役引退後はジュビロ磐田のアドバイザーを務め、2009年4月5日より、テレビ朝日のサッカー情報番組『やべっちF.C.』のレギュラーになった。また、BS朝日やスカパー!などのサッカー中継での解説も務めている。テレビ朝日での中継時にはピッチ上から解説を行う。2011年のAFCアジアカップの決勝に代表されるように放送席で解説を務める松木安太郎・セルジオ越後は興奮すると我を忘れてしまうことが非常に多くなるため(居酒屋中継と言われる)、ピッチから冷静かつ的確に解説を行う名波の存在が欠かせないものとなっていた。2012年3月11日、東京ヴェルディ1969時代のチームメイトで栃木SCドリームアンバサダーを務める佐藤悠介が主催した「3.11悠介ドリームズメモリアルゲーム」に選手兼監督として出場した。

[匿名さん]

#7052020/11/22 00:14
■監督就任

2014年9月25日、ペリクレス・シャムスカの後任としてジュビロ磐田の監督に就任した。9月28日に行われ初陣となった愛媛FC戦では、前田遼一と8試合ぶりの先発に起用した松浦拓弥の得点で2-0で勝利を収め、同日に2009年よりレギュラー出演していた『やべっちF.C.』に出演し、同番組を卒業した。初戦には勝利したが就任後の9試合を2勝5分2敗の4位で終えたためJ1自動昇格圏には届かず、J1昇格プレーオフ準決勝ではモンテディオ山形に対して後半アディショナルタイムで失点を喫し敗れ、磐田の1年でのJ1復帰を逃した。名波自身の目から見た監督就任時のチーム状況については「個々のレベル・サッカーの質は想定の範囲内だったが、選手たちの勝ちに対する飢えと負けたくないという気持ちがこんなに希薄だとは思わなかった」と就任初年度の感想を述べた。

2015年シーズンは前田、山崎亮平といった攻撃的なポジションを務める選手が移籍し、苦しい流出が続いたが、新加入のジェイやアダイウトン、GKのカミンスキーといった外国人選手の活躍や若手の小林祐希、川辺駿の飛躍もあり、11月24日に行われたJ2最終節大分トリニータ戦に勝利し、アビスパ福岡と勝ち点82と並んだが得失点差で2位となり3年ぶりのJ1復帰が決定した。前述の通り加入した外国人3人全員がチームにフィットしたが、名波は3選手の人柄を3人を知る関係者に聞き、プレーに関しても良いプレーを編集した動画だけでは無く、その選手が出場している試合をフルで観て獲得に動いているとインターネット番組『footi』で話している。

[匿名さん]

#7062020/11/22 00:15
2016年シーズンは、最終節まで残留争いをして13位でシーズンを終えたが、チームの最低目標でもあったJ1残留を達成。

2017年シーズンは、昨季のチーム得点王だったジェイが退団に対して、中村俊輔と川又堅碁が加入するも、中村が39歳という大ベテランという点や川又が前年名古屋グランパスで5得点しか挙げてない事など、シーズン前は批判的な声もあったが、1年目にしてチームの中心となった中村や川又のシーズン14得点など新加入選手が活躍。11年ぶりの5連勝や16年ぶりのリーグ最少失点を更新などオフェンスとディフェンスが躍動し、最終的にはACL出場圏内を争った。結局ACL出場圏内には入れなかったものの、リーグ6位でシーズンを終了。開幕前に「得失点プラマイ0」を目標と公言していた中で、それを大きく上回るシーズンとなった。

[匿名さん]

#7072020/11/22 00:16
2018年シーズンは、前年の結果以上の「トップ5」を目標にスタートしたが、アダイウトンやムサエフの長期離脱や前年セットプレーからの得点に多く貢献した中村俊輔の怪我などが影響し、昨シーズン総得点50点だったものが、35点とリーグワースト2位の得点力となった。シーズン途中には得点力を上げるため得点王の経験もある大久保嘉人が加入したが、調子は上がらず最終節を前にしてJ1残留圏内の13位に付けていた。しかし、最終節で川崎に引き分ければ残留が決まったが、ロスタイムにオウンゴールで逆転負けとなり、どちらかが勝てば磐田の残留が決まる14位湘南と16位名古屋の試合が引き分け、この結果により13位から16位に転落し、5チームが勝ち点「41」を取りながらも得失点差でJ1参入プレーオフにまわる結果となった。プレーオフでは東京ヴェルディと戦い、2-0で勝利を収めJ1残留を決めた。12月8日、J1参入プレーオフ終了後の記者会見で「このゲームに至った責任は全て僕にある」と語り、来季の続投に関して明言しなかったが、磐田社長の木村と強化本部長の服部の慰留を受け、続投することが複数のメディアから報じられた。2019年1月12日、磐田の公式ホームページ上にて、2019年シーズンも監督を務めることが発表された。

[匿名さん]

#7082020/11/22 00:17
2019年シーズンも第16節終了時点でチームはリーグ17位と低迷。6月30日に行われた第17節の川崎フロンターレ戦で敗れた後、自らけじめをつけるためサポーターのもとへ行き、磐田のコールリーダーに辞任する旨を伝え、試合後の会見で監督を辞任することを発表した。同日付で磐田と監督契約の解除で合意し、退任することが発表された。この会見の前日、あるJリーグクラブの監督に辞任することを伝えた際に「まだやるよな」と言われ、「やります、前向きですよ」と伝え、退任後もサッカー人生を続けていくことを明かしている。

退任後には、他チームから監督オファーがあったもののオファーを蹴った。


■プレースタイル

ボランチのポジションから長短の繊細なパスを繰り出すゲームメーカー。高校、大学、ジュビロ入団当初まではトップ下でプレーしていたが、日本代表で加茂周監督に展開力と守備への適性を買われ、ボランチへコンバートされる。以後、代表やドゥンガ退団後の磐田では中盤の底に位置して、ゲームの流れをコントロールする役割を果たした。

[匿名さん]

#7092020/11/22 00:18
ボールタッチやキックのほとんどを左足で行うレフティ。右足でボールを扱うことはほとんどせず、右サイドに流れた時にでも無理やり左足でセンタリングを上げたこともあった。自ら「右足はつっかえ棒」「右足でパスを出すときはむしろゲーム運びがうまくいっていないと見たほうがいい」とも発言している。ジュビロへの入団会見では「自分の左足の下にボールがあるときは注目してほしい」と宣言し、引退会見では「『左の名波』『名波の左足』という自分の最も好きなフレーズが14年間で浸透できたのが自信になる」と振り返った。ちなみにJリーグ公式戦において「右足で決めたゴール」はわずかに「1」であった。

2001年に負った膝の怪我の影響で連戦に耐えられないという噂については「自分のコンディションよりも、むしろピッチコンディションが問題。それさえ整えばできなくはない」とコメントしている。しかし、引退発表後には膝の状態が悪いところをチームメイトに見せないよう、ホテルの宿泊部屋でも配慮していたことを明かしている。

[匿名さん]

#7102020/11/22 00:18
■N-BOX

2001年にジュビロの鈴木政一監督が採用した中盤の陣形を、『週刊サッカーマガジン』は名波のイニシャルから「N-BOX」と命名した。フォーメーションとしては3-5-2だがウイングバックを置かず、名波を中心として前方に藤田俊哉と奥大介、後方に服部年宏と福西崇史が箱型に並ぶ。名波は流動的なパス交換の中継点となり、守備でも堅実にカバーリングをこなすなど、システムの中核として活躍した。2002年は奥が横浜F・マリノスへ移籍したため、当時若手であった西紀寛やジヴコヴィッチなどが奥のポジションに代わって入っていた。

ジュビロはFIFAクラブ世界選手権2001への出場を想定してこの布陣を準備したが、大会は開催中止となった。しかし、Jリーグでは翌2002年にかけて強く華麗なパスサッカーを展開した。


■エピソード

同じ高校の一学年先輩である藤田俊哉を尊敬し、自他共に彼のプレーを一番理解していた人物であると評する。「入団時は3クラブからオファーがあった。金銭面では磐田は一番下だったけれど、俊哉がいるから磐田に入った」とのコメントを残している。しかし、藤田との個人的な付き合いは高校時代から今に至るまでほとんど無く、「俺が個人的に一番仲がいいのは同級の大岩剛」とのコメントもある。

[匿名さん]

#7112020/11/22 00:19
「試合を見る眼」については自信があると述べ、「現役を辞めたらサッカー誌で採点の仕事でもさせてもらおうかと思うことがある」「サッカーマガジンの採点よりは公平に見られる」という発言をしたことがある。
イタリア挑戦の際の記者会見で、「自分に足りないものがイタリアにあると思っているので、それを見つけに行きたい。」とコメント。しかしこれは、コメントを求められた時に咄嗟に出た心にもない言葉であり、挑戦を終えて帰国時に記者に「足りないものは見つかりましたか?」と質問され困った。この話をバラエティ番組で「見つかるわけねぇって。」と笑い話として語った。
監督就任後は試合中に大声を出し過ぎて喉を潰さないよう、頻繁に給水し飴をなめている。この行動がサポーターを中心に話題となり、TV番組の企画で専用の「名波飴」まで作られた。

[匿名さん]

#7122020/11/22 02:06
◇引退試合(ミスターレフティ メモリアルマッチ )

2010年1月10日
ステッレ・ジュビロ 5 - 4 アズーリ・ジャポーネ

◇ステッレ・ジュビロ
川口信男  18分
名波浩  58分
中山雅史  68分
高原直泰  85分
名波浩  89分

◇ アズーリ・ジャポーネ
三浦知良  19分
秋田豊  25分
三浦知良  42分
前園真聖  52分


エコパスタジアム
観客数: 43,077人
主審: 上川徹


■ステッレ・ジュビロ(STELLE JUBILO)

ジュビロ磐田が完全優勝を果たした黄金時代(2002年)のメンバーを中心にメンバー編成されている、ステッレ・ジュビロの意味はジュビロの星達という意味。
1.大神友明、2.鈴木秀人、3.大岩剛、4.河村崇大、5.田中誠、6.服部年宏、7.名波浩、8.成岡翔、9.中山雅史、10.藤田俊哉、11.松原良香、12.山本浩正、13.川口信男、14.山西尊裕、15.森下仁志、16.脇田寧人(ペナルティ)、17.桜井和寿(Mr.Children)、18.清水範久、19.三浦文丈、20.大井健太郎、23.福西崇史、29.奥大介、32.高原直泰

■アズーリ・ジャポーネ(AZZURRI GIAPPONE)

名波が背番号10を背負って出場したフランスワールドカップのメンバーを中心にメンバー編成されている、アズーリ・ジャポーネの意味は青の日本という意味。
1.佐藤洋平、2.名良橋晃、3.相馬直樹、4.井原正巳、5.柱谷哲二、6.山口素弘、7.中田英寿、8.北澤豪、9.中山雅史、10.名波浩、11.三浦知良、12.澤登正朗、13.望月重良、14.岡野雅行、15.森島寛晃、16.本田泰人、17.秋田豊、18.城彰二、19.中西永輔、20.西澤明訓、21.小村徳男、22.平野孝、23.前園真聖、24.土田晃之、99.矢部浩之(ナインティナイン)

[匿名さん]

#7132020/11/22 02:07
■エピソード

この試合の開催スポンサー、メンバー交渉、スタメン、出場時間など名波のメイキングによって行われている。名波は前半はジャポーネ、後半はジュビロで出場。試合前の国歌斉唱はMr.Childrenの桜井和寿が行った。4-4の終了間際には自ら左足で華麗なボレーシュートを決めジュビロが逆転、その瞬間、両軍から胴上げされ試合終了となった。なおMIPに選ばれた三浦知良はMIP表彰時には既に完璧なスーツ姿に着替えていた。MVPには同時に引退を表明した鈴木秀人が選ばれた。会場にはセレッソ大阪のサポーターも駆けつけ「セレッソに居たこと、それも真実」と名波に声援を送っていた。


■所属クラブ

◇ユース経歴
1985年 - 1987年 藤枝市立西益津中学校
1988年 - 1990年 清水市立商業高等学校
1991年 - 1994年 順天堂大学

◇プロ経歴
1995年 - 2008年 ジュビロ磐田
1999年7月 - 2000年6月 ACヴェネツィア(期限付き移籍)
2006年8月 - 同年12月 セレッソ大阪(期限付き移籍)
2007年 東京ヴェルディ1969(期限付き移籍)

[匿名さん]

#7142020/11/22 02:08
■個人成績

◇国内大会個人成績

通算 試合 得点 リーグ杯 オープン杯
日本 J1 314 34 48 1 22 2 384 37
日本 J2 17 0 - 1 0 18 0

◇イタリア
セリエA 24 1 7 1 - 31 2

総通算 355 35 55 2 23 2 433 39



■その他の公式戦

1997年
Jリーグチャンピオンシップ 2試合0得点
1998年
スーパーカップ 1試合0得点
Jリーグチャンピオンシップ 2試合0得点
2003年
スーパーカップ 1試合0得点
2004年
スーパーカップ 1試合0得点

■国際大会個人成績
年度 クラブ 背番号 出場 得点
AFC ACL 磐田 7
2004 3 1
2005 3 0
通算 AFC 6 1


■その他の国際公式戦

2003年
A3チャンピオンズカップ 2試合0得点
Jリーグ初出場:1995年3月18日 - ジェフユナイテッド市原戦(市原臨海競技場)
Jリーグ初得点:1995年4月12日 - 柏レイソル戦(日立柏サッカー場)


■代表歴

◇出場大会など
1996年 AFCアジアカップ UAE大会
1998年 FIFAワールドカップ フランス大会
1999年 コパ・アメリカ パラグアイ大会
2000年 ハッサン2世国王杯
2000年 AFCアジアカップ レバノン大会

[匿名さん]

#7152020/11/22 02:08
◇試合数
国際Aマッチ 67試合 9得点(1995年 - 2001年)

日本代表 国際Aマッチ
年 出場 得点
1995 2 2
1996 13 1
1997 21 3
1998 11 0
1999 6 0
2000 12 3
2001 2 0
2002 0 0
通算 67 9


■個人タイトル

1996年 - アジアカップベストイレブン・ナビスコカップニューヒーロー賞・Jリーグベストイレブン
1997年 - Jリーグベストイレブン
1998年 - AFC All Star Team・Jリーグベストイレブン
2000年 - アジアカップMVP・アジアカップベストイレブン・AFC All Star Team
2002年 - Jリーグベストイレブン
2013年 - Jクロニクルベスト ベストイレブン


■指導歴
2014年9月 - 2019年6月 ジュビロ磐田 監督


■関連情報

◇単著
『NANAMI 終わりなき旅』幻冬舎、2001年。ISBN 978-4344001282。
『名波浩対談集 日本サッカーが勝つためにすべきこと』集英社、2010年。ISBN 978-4087805697。

◇共著
名波浩、増島みどり『夢の中まで左足』ベースボール・マガジン社、2009年。ISBN 978-4583101477。
名波浩、北條聡『正しいバルサの目指し方』ベースボール・マガジン社、2013年。ISBN 978-4583105369。

◇関連書籍
平山譲『名波浩 泥まみれのナンバー10』TOKYO FM出版、1998年。ISBN 978-4887450196。
永井透『名波浩セリエA進化論』フットワーク出版、1999年。ISBN 978-4876893430。
粂田孝明『名波浩 栄光への道のり』学習研究社、2008年。ISBN 978-4052029707。

[匿名さん]

#7162020/11/22 12:55
どこの雑魚クラブだよwww

[匿名さん]

#7172020/11/25 00:01
金田 喜稔(かねだ のぶとし、1958年2月16日 - )は、日本の元サッカー選手。元サッカー日本代表で、「19歳119日」という日本代表最年少得点記録を保持している(2017年時点)。広島県安芸郡府中町出身。現在はTBSなどでサッカー解説者として活躍している。尊敬するサッカー選手はジョージ・ベスト。フチューマ所属。日本サッカー名蹴会会長。いわきFC シニアアドバイザー。一般財団法人日本スポーツ振興会 理事。


■愛称
キンタ、キンさん

■基本情報

◇国籍
日本
◇生年月日
1958年2月16日(62歳)
◇出身地
広島県安芸郡府中町
◇身長
168cm
◇体重
62kg

■選手情報

◇ポジション
MF
◇ユース
1973-1975
広島県立広島工業高等学校
1976-1979
中央大学

◇クラブ1

クラブ
出場
(得点)
1980-1991
日産自動車
157
(21)

◇代表歴
1976-1977
日本 ユース
9
(1)
1977-1984
日本
58
(6)


■来歴

◇幼少期
サッカーを始めたのは中学に入ってから。小学生のときはソフトボールを主にやっていた。坊主頭になるのが嫌で野球を諦め、中学からサッカー部に入った。週1回の『三菱ダイヤモンド・サッカー』を観て、世界のトップ選手たちのプレイに憧れビデオの無い時代、テレビ放送に目を凝らし、翌朝近くのグラウンドで想像してボールを蹴った。育った府中町は東洋工業(マツダ)の本社があり、中学の校庭にナイター施設があったため、船本幸路や大野毅らがよく来てサッカーを教えてくれた。大野が日本代表と知らず「俺のドリブル、あんたには止められんぜ」と実際に抜いていた。これについて金田は、「まともにタックルを受けたら骨が折れてたろうが」と話している。

[匿名さん]

#7182020/11/25 00:02
◇選手時代
当時、広島で1番強かった県立広島工業(通称・県工)に進学。同校監督は第1回FIFAコーチングスクール(1969年)で実技でトップになり後にJFAの専任コーチも務めた松田輝幸で、さすがに松田からはボールは取れず、徹底した指導を受けドリブルに磨きをかけた。広島工業時代は1年からレギュラーに抜擢され、楚輪博、石崎信弘、木村和司、猿沢茂らとスペクタクルなサッカーを展開。1975年、関西で開催された最後の高校選手権では優勝候補に挙げられたがベスト4(0-3静岡工)。しかし初戦の新潟巻高校戦10-0は、戦後3度しかない10得点(以上)、2度しかない10点差以上の記録で得点のほとんどが金田からの好配球によるものであった。大会優秀選手に選ばれ、日本高校選抜を飛び越え、ユース代表に選ばれた。高校の同級生には広島カープなどで活躍した小林誠二もいる。現にカープファンでもある。

高校卒業後は小城得達の世話で、中央大学に進み、2年生で日本代表に選出されると1977年6月15日日韓定期戦(ソウル運動場)、日本代表ラストゲームとなった釜本邦茂のアシストで新旧交代を象徴するような代表初ゴールを決めた。新時代の旗手が19歳119日で記録したこのゴールは、40年以上たった現在も破られていない日本代表国際Aマッチ最年少ゴールである。変幻自在のドリブルの名手として知られ、世界の強豪チームを相手にしても、切れ味鋭いドリブルは充分通用した。大学3年時にはブンデスリーガ・1.FCケルンからオファーが届いた。

[匿名さん]

#7192020/11/25 00:03
大学卒業後は郷里広島の東洋工業に入る予定だったが、単位を落としてしまい、大学に通いながらプレーできる在京チームを希望。多くのトップチームに声を掛けられたが1980年、加茂周監督に強く勧誘され日産自動車(横浜F・マリノスの母体)に入団。日産入社の理由は、源氏鶏太のサラリーマン小説が大好きで、一企業として良い会社、また本社が銀座にあるし女子社員も美人が多いと評判だったからなどと話している。中大サッカー部からは、日立か、古河電工と流れが決まっていて、監督に「日産に行きたい」と言うと問題になったが、有力OBの家を回り「こういうサッカーで日産を5年以内に日本一にさせたい、だから僕は日産に行きたい」と力説し、ようやく日産への入社許可を得た。当時の日産は代表選手もおらず、日本サッカーリーグ (JSL) で2年連続の最下位という結果に終わり再び2部へ降格した時期であった。しかし、翌年県工の後輩、木村和司が入部。日本屈指の才能と技術を持つ2人の加入により、以後、水沼貴史、柱谷幸一、松永成立、長谷川健太、井原正巳ら有力選手が毎年の様に集まり日産黄金時代を形成した。また銀座の本社勤務を入社の条件として出し、地方工場等の勤務を一切拒否し、サラリーマン生活を謳歌したという。

1983年の日本サッカーリーグ(JSL)後期から、それまで中盤でプレーしていた金田と右ウイングの木村を入れ替えた。この試みは大成功しリーグ優勝は読売に逃げ切られるが、第63回天皇杯ではその威力を存分に発揮しチームに初の全国タイトルをもたらした。木村からのパスを金田が受けて決めるパターンがはまり、準決勝の1点目、決勝の2点目はこのパターンだった。この初優勝を切っ掛け日産は強豪クラブに成長していった。

[匿名さん]

#7202020/11/25 00:05
愛称は名字から「キンタ」。がに股気味の独特のフェイントの足さばきは「キンタダンス」と呼ばれた。木村和司は「20メートル、30メートルは一番速い。あんなに速い人はいなかった。今の選手でもかなわんだろうね。うまくて速くて、スパッと抜いていってしまう」などと評している。週刊サッカーダイジェストは、<日本人ドリブラー列伝 名手の系譜>という企画に於いて、「日本人ドリブラーの系譜を辿るには、金田喜稔を出発点とするのがふさわしい」と論じている。スピードと緩急を自在に使い分けて相手を抜き去るキレ味抜群のドリブルで、日本サッカー史上最高のテクニシャンと評価する声も多い。

日本代表では1977年、二宮寛監督下で初選出されると、5月30日にドイツカップ再試合を戦い、そのまま飛行機を乗り継ぎ、6月1日昼前に来日し、その日の夜に試合という強行日程で最悪のコンディションの1.FCケルン相手に1アシストを決め、ブンデスリーガ相手の日本代表初勝利 (1-0) に貢献。当時の1.FCケルンは名将ヘネス・バイスバイラーが率いるブンデスリーガで常に優勝争いする強豪であり、コンディションが悪く、親善試合だったとはいえ、信じられない大番狂わせに興奮した観衆が一斉にグラウンドに雪崩込み大騒ぎになった。デビュー戦での歴史的な勝利を演出したことで金田の名前は全国的に知れ渡った。この試合は西ドイツの当時のスーパースター・オベラートの引退試合でもあった。以降は代表に定着。1977年6月15日、ソウルで開催された第6回日韓定期戦で、釜本邦茂(同年9月14日ニューヨーク・コスモス戦を最後に日本代表引退発表)のアシストで、後半11分得点を決めた。「19歳119日」で決めたこの得点は、今もなお(2013年時点)、日本代表最年少得点記録である。

[匿名さん]


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