870
2023/11/26 14:42
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サッカー国内





NO.7201210

デッツォーラ島根④
報告 閲覧数 3469 レス数 870

#1212019/03/30 04:25
>>117
15人か。それでも選手が集まったんだね。ギリギリ戦えるのかな。

[匿名さん]

#1222019/03/30 08:39
総監督がどのタイミングで登場してくるのか?

ちょっと期待!

[匿名さん]

#1232019/03/31 16:10
今日の試合、どうでしてたか?

[匿名さん]

#1242019/03/31 19:16
島根県サッカー選手権大会
1回戦
デッツォーラ島根3-0 紫逅倶楽部

4/7 2回戦vsSC松江

[匿名さん]

#1252019/03/31 19:32
>>122
あいつは、頭は丸いし、中学生レベルだけど
一応、日本リーグ経験者だからな。

しかもフィジカルも強い!

[匿名さん]

#1262019/04/01 08:29
>>120
新聞で見た。選手権出場各チームの名簿が載ってる。

[匿名さん]

#1272019/04/01 13:20
>>124
若い選手が多いですね。新メンバーの選手が点を決めてますね。県リーグ、戦えるのかな?

[匿名さん]

#1282019/04/01 15:04
完全違うチームに変わりましたね。昨日のスタメンは丸野選手ぐらいかな、知ってるの。背番号12の選手、急遽背番号を縫い直して出てますね。

[匿名さん]

#1292019/04/01 17:38
生まれ変われよ!デッツォーラ!
オロチーニョが見守ってくれてるよ!

[匿名さん]

#1302019/04/02 07:13
人気も戦力も落ちた
弱体化チーム

[匿名さん]

#1312019/04/03 09:08
内部分裂で、残留派と福山SSC派に分断されてしまいましたね。スタッフ、選手もろともが同じクラブにごっそり移るなんて聴いたことないな。福山SSCはJリーグ、JFL、中国リーグのクラブとも積極的にTMを行い、目標を高く持っているのがよく分かりますね。

[匿名さん]

#1322019/04/05 21:32
>>131
↑何も知らんような奴がw

残留派?福山派?

とんでもない雑魚が喚いてやがるなw

[匿名さん]

#1332019/04/05 22:34
李 國秀(り くにひで、朝鮮語: 이국수、イ・グッス1957年4月25日 - )は、神奈川県横浜市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。在日韓国人二世。

国籍
韓国
生年月日
1957年4月25日(61歳)
出身地
神奈川県横浜市
身長
173cm
体重
68kg
選手情報
ポジション
MF

現役時代は攻撃的MFとして読売クラブなどで活躍。在日韓国人だが「韓国のプレースタイルは自分に合わない、だから香港でプレーした」と語るように、指導者としてもショートパスを中心とした技術重視のサッカーを志向する。

横浜トライスター時代は選手だけでなく助監督として、技術指導とマネジメントにも関わった。横浜トライスター〜全日空は強化が始まった1979年から6年間で日本リーグ1部まで昇りつめた。これに関して李は自身のブログで「当時としては最短で、最小の予算で日本リーグ1部まで上げた」「日産自動車や松下電器がどのくらいの予算で、何年かかって日本リーグ1部へ上がったか、調べてみるといいでしょう」と語っている。

[匿名さん]

#1342019/04/05 22:34
桐蔭学園監督在任中の1990年、横浜ベイブリッジユースサッカー大会を創設。コンセプトは「子供たちが持ってる力を発揮して、良いプレーをしてくれればいいという人たちで大会をやろう」というものだった。横浜ベイブリッジユースサッカー大会を創設したきっかけとして、李は1990年6月にインターハイ準決勝で相手をシュート0本に抑えながらもPK負けしたことへの不愉快さを挙げている。第1回大会の参加チームは国見高校、清水商業、読売クラブ、桐蔭学園の4チームだった。
李が桐蔭学園の強化に携わった2期生からは、有力選手を駒澤大学へ進学させた。桐蔭学園〜駒澤大学ルートでプロになった選手には林健太郎、栗原圭介、渡邉晋、山田卓也、米山篤志、盛田剛平、小林慶行らがいる。桐蔭学園〜駒澤大学ルート開拓の理由として、李は「中央大学や明治大学に進学した桐蔭サッカー部1期生は、嫌な思いをしたんですよ。中央大学に行った長谷部君も頑張ったそうですよ。一年生時には丸坊主でやかん持って立っていたり……」「駒澤大学では「根性見せろ!」とか「特訓だ!」とか、そういうものがない中でやりましょう」と、大学サッカー部の体育会体質への反発を挙げている。

桐蔭学園監督を1996年に辞任し、1999年にヴェルディ川崎総監督に就任するまで、清水商業高校や帝京高校の特別コーチを務めた。この間、指導した選手には小野伸二、中田浩二、小林大悟らがいる。

横浜トライスター、桐蔭学園高校サッカー部での指導を経て1999年からはヴェルディ川崎の「総監督」に就く。V川崎では監督を松永英機、張外龍が務めたが、実質的な指揮は李が執っていた。これは李が日本サッカー協会のS級ライセンスを持っていないための措置だった。

[匿名さん]

#1352019/04/05 22:35
V川崎では林健太郎、米山篤志、山田卓也、小林慶行など桐蔭時代の教え子らを中心としてチームを組み立て、1999年1部1stステージには2位に入った。その年に行われた第79回・天皇杯全日本サッカー選手権大会ではベスト4に進んだが、準決勝のサンフレッチェ広島戦で敗れた後で主審を中傷する発言をしたとして、2000年のJ1の最初の数試合ベンチ入り禁止の処分を受けた。李は2000年シーズン終了と共にV川崎を退団した。

[匿名さん]

#1362019/04/06 17:30
>>131
名前間違えるとか恥ずかしい奴だな

[匿名さん]

#1372019/04/07 18:09
島根県サッカー選手権大会
2回戦
デッツォーラ島根1-1SC松江
PK戦(2-4)

SC松江とこれだけ戦えれば、良いんじゃない?

[匿名さん]

#1382019/04/08 06:34
【選手契約解除及び除名のお知らせ】
2017.6/18付けを持ちまして今季登録選手#15(18才)との契約を解除し、今後一切、弊クラブとの関わりの無い事と致します。
*選手名は、本人が未成年のため公表は差し控えさせて頂きます。
大変心苦しい更新となりました事、お詫び申し上げます。

[匿名さん]

#1392019/04/09 02:39
プロフェソール宮崎FC(プロフェソールみやざきエフシー、Profesor Miyazaki)は、かつて存在した日本のサッカークラブ。宮崎教員団のサッカー部として1970年に創部し、宮崎県を本拠地としていた。

クラブカラー
     赤
創設年
1970年
解散年
2010年
ホームタウン
宮崎県
ホームスタジアム
宮崎県総合運動公園陸上競技場他


1999年、宮崎教員団サッカー部を母体とし、将来の日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)入りを目指してクラブ組織に移行して、国富町を本拠としてプロフェソール宮崎FCとして創設。「プロフェソール」はスペイン語で教員を意味する。
2001年、宮崎教員団時代以来19年ぶりに昇格した九州サッカーリーグで優勝。全国社会人サッカー選手権大会で3位、全国地域リーグ決勝大会で準優勝。2002年、日本フットボールリーグ(JFL)に昇格。9月に柏田清光が監督を退任し、橋満士郎が選手兼任で監督に就任。リーグ戦で最下位となり、九州リーグに自動降格。第82回天皇杯全日本サッカー選手権大会の1回戦で天皇杯初勝利。
2003年、チーム名を「太陽とみどりの国 宮崎」のイメージからサン宮崎FCに改称して宮崎市に本拠を移転。一方で選手やスタッフなど19名が2003年2月に退団した。第83回天皇杯全日本サッカー選手権大会は1回戦で桃山学院大学に敗れた。
2005年、九州リーグで最下位。宮崎県サッカーリーグに自動降格。
2006年12月25日、ブルノス宮崎FCと合併し、エストレーラ宮崎として再出発の予定だったが、サン宮崎元オーナーとブルノス側の一方的な合併話だったため、合併を解消した。
2007年、エストレーラ宮崎(Estrela Miyazaki)に名称変更。「エストレーラ」はポルトガル語で星を意味する。宮崎県1部リーグで優勝、九州各県リーグ決勝大会で1回戦敗退。
2010年3月をもって解散。

[匿名さん]

#1402019/04/09 08:19
またアスペが関係無い事を連投してやがる。都合が悪くなるとすぐそれだな。

[匿名さん]

#1412019/04/11 00:48
◇Jリーグへの道◇

三菱自動車水島FCは現在、中国サッカーリーグに所属しています。

■Jリーグ参加条件

・クラブの法人化
・ホームタウンの確保
・選手および指導者のライセンス保有
・チームの保有
・スタジアムの確保

[匿名さん]

#1422019/04/13 07:06
躁鬱病

[匿名さん]

#1432019/04/13 15:12
県リーグを勝ち上がる力はあるぞ。

[匿名さん]

#1442019/04/14 00:52
都並 敏史(1961年8月14日 - )は、日本の元プロサッカー選手(元日本代表)、サッカー指導者(JFA 公認S級コーチ)、サッカー解説者。現役時代のポジションはディフェンダー(左サイドバック)。1980年代から90年代初頭を代表する名プレーヤー。彼を題材にしたノンフィクション作品(関連書籍参照)から、「狂気の左サイドバック」と呼ばれる。少年時代からの愛称は「びんじ」。東京都世田谷区出身。都立深沢高校卒。兄はトランペッター/音楽評論家で元ビブラストーンの都並清史。長男はサッカー選手の都並智也。次男はサッカー選手の都並優太。

生年月日
1961年8月14日(57歳)
出身地
東京都世田谷区
身長
173cm
体重
69kg
選手情報
ポジション
DF
利き足
両足

1980-1992
読売クラブ

1992-1995
ヴェルディ川崎

1996-1997
アビスパ福岡

1997-1998
ベルマーレ平塚

代表歴2
1980-1995
日本

監督歴
2001-2004
東京ヴェルディ ユース
2005
ベガルタ仙台
2007
セレッソ大阪
2008
横浜FC
2019-
ブリオベッカ浦安

[匿名さん]

#1452019/04/14 00:54
■選手時代
10歳の頃よりサッカーを始め、小学6年生から読売サッカークラブの下部組織で育ち(戸塚哲也は同期生)、東京都立深沢高等学校卒業後トップチームに昇格する。Jリーグ設立に伴いヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ)と改称した1990年代中盤まで、一貫して生え抜きとしてプレーを続けた。
ポジションはトップチーム昇格後にリベロから左サイドバックへ転向。当時守備中心だった日本のサイドバックにおいて、攻守のバランス感覚に優れた選手として台頭し、機を見たオーバーラップからのセンタリングや両足スライディングタックルを武器とした。読売クラブでは兄貴分と慕うラモス瑠偉や後輩の三浦知良と左サイドを構築し、明るいムードメーカーとしてもクラブ黄金期を支えた。
日本代表は19歳でA代表に初選出され、1980年のW杯スペイン大会アジア・オセアニア予選でデビュー。横山謙三監督時代に一時外れるが、1992年のハンス・オフト監督就任にともない復帰。同年のダイナスティカップやアジアカップ優勝に貢献した。しかし、1993年5月22日に行われたJリーグ第3節のサンフレッチェ広島戦でダニエル・カリッチマンと接触した際に左足首を負傷。欠場中はリハビリに励んだもののチームの選手事情により強行出場を続けた結果、7月18日に左足首の亀裂骨折が判明し、故障がさらに悪化してしまった。

[匿名さん]

#1462019/04/14 00:55
同年10月のアメリカW杯アジア最終予選メンバーには選出されたものの、試合出場は不可能な状態だった。都並は骨折箇所にボルトを埋め込み、痛み止めの注射を打つことで通常の練習メニューをこなしたが、最終予選での出場機会はなかった。選手生命を絶たれる恐れもあったが、当時は日本代表への思い入れだけでリスクなど全く考慮に無く、「あの時は、狂っていたのかも知れない」と後に回想している。オフト監督は左サイドバックの代役として三浦泰年、勝矢寿延、江尻篤彦(練習試合のみ)を起用したが彼の穴は埋まらず、再三再四左サイドを攻略され日本代表は惜しくもW杯出場権を逃した(ドーハの悲劇)。帰国後に手術を受けた足首の状態はひどく、翌1994年6月11日のサテライトリーグ出場までリハビリを続けた(Jリーグスタメン復帰は8月17日のジュビロ磐田戦)。

1995年には加茂周監督により代表に選出され、1995年2月のダイナスティカップ韓国戦が最後の出場試合となった。都並自身、何度も対戦を繰り広げた韓国代表に対する思い入れは深く、対韓国戦が実質的な代表引退試合になったことについて満足の意を示している。
1996年に長年在籍したヴェルディを離れ、アビスパ福岡へ移籍。1997年にベルマーレ平塚(現・湘南ベルマーレ)へ移籍し、1998年限りで現役を引退した。現役中は自分のプレースタイルに絶対的な自信を持っていたが、ガンバ大阪戦でユース上がりの若手選手にタックルを仕掛けて逆に吹っ飛ばされ、「これからはこんな奴が、どんどんJに入ってくる」と限界を自覚し、引退を決意した。ちなみにその時の若手選手は、後に日本代表としてワールドカップ3大会に出場し、イングランドやドイツなどの欧州でも活躍した稲本潤一である。

[匿名さん]

#1472019/04/14 01:04
VONDS市原FC(ボンズいちはらエフシー)は、千葉県市原市に本拠を置く日本のサッカークラブ。現在は関東サッカーリーグ1部に所属する。

1967年、古河電気工業千葉事業所サッカー部として創立。1972年、関東社会人サッカー大会で優勝し、入れ替え戦を経て翌年の関東サッカーリーグに昇格すると、早くもその年のリーグを制覇した。
1976年、創立10年目で全国リーグである日本サッカーリーグ2部に参戦を果たすものの、全国の壁に阻まれ2年で関東リーグに降格した。


◇VONDS市原 ジュニアユース 監督◇

ジョゼ アントニオ
 
1961年12月10日生(56歳) ブラジル出身

【選手歴】
コリンチャンス (72〜75年)
サント・アンドレ (76〜83年)
モジ・ダス・クルーゼス (84年)
アナポリス (85年)
イリアソウテリア (86年)
ヤンマー・ディーゼル (87〜89年)

【指導歴】
ヴェルディ川崎 ジュニアユースコーチ (94〜97年)
ジェフユナイテッド市原 トップチームコーチ (97〜99年)
川崎フロンターレ トップチームコーチ (00年)
ジェフユナイテッド市原 サッカーおとどけ隊コーチ (03年)
ジェフユナイテッド市原 トップチームコーチ (04〜06年)
明海大学サッカー部 監督 (06〜10年)
ジェフユナイテッド市原・千葉  アカデミーコーチ (11年)
東京ヴェルディ ジュニアユース監督/コーチ (15〜17年)

【保有資格】
(公財)日本サッカー協会公認 B級コーチ
ブラジルサンパウロサッカー協会公認 プロ監督ライセンス

[匿名さん]

#1482019/04/14 01:15
常名 秀則
 ・1993年中学校を卒業後ブラジルへサッカー留学
 ・1987年サン・パウロ州1部リーグE.C.サント・アンドレと日本人2番  目のプロ選手として契約
  ※E.C.キンゼ・デ・ジャウーでは三浦知良と共にプレー
 ・1992年帰国後、京都紫光クラブ(現京都サンガ)にてプレー
  古河電工千葉を最後に現役を引退
 ・千葉敬愛高校、三井千葉SCなどを指導し市原市でちはら台SCを設立
 ・現在エクサスグループ総監督を務めちはら台SCなどアカデミーを指導

               ・日本サッカー協会、アジアサッカー連盟公認A級コーチジェネラル
               ・日本体育協会上級コーチ
               ・日本サッカー協会こころのプロジェクト「ユメセン」講師
               ・日本サッカー協会公認3級審判員
               ・千葉市サッカー協会4種委員・花見川区サッカー協会理事長
               ・千葉県・千葉市4種技術委員


エクサス市原S.C.U−15
日本初の月会費無料(当クラブ調べ)。

登 録   日本サッカー協会・日本クラブユース連盟・関東クラブユース連盟・千葉県クラブユース連盟・
  千葉県サッカー協会・市原市サッカー協会
会 費   月会費無料です。年会費・登録料・スポーツ保険の年間¥10,800のみです。
ユニフォーム
その他   ユニフォームはクラブから貸し出しますので購入の必要はありません。
  クラブ指定の、ピステ、ジャージ、エナメルバックは購入していただきます。
事務局   
  〒262-0046 千葉市花見川区花見川9-12-501 
  (株)エクサス市原スポーツクラブ 043-286-1204/090-4025-7304(常名)

[匿名さん]

#1492019/04/15 01:50
長文連投のアスペ?

長文連投のアスペめ!

長文連投のアスペがw

[匿名さん]

#1502019/04/15 12:26
>>149
常名 秀則
 ・1993年中学校を卒業後ブラジルへサッカー留学
 ・1987年サン・パウロ州1部リーグE.C.サント・アンドレと日本人2番  目のプロ選手として契約
  ※E.C.キンゼ・デ・ジャウーでは三浦知良と共にプレー
 ・1992年帰国後、京都紫光クラブ(現京都サンガ)にてプレー
  古河電工千葉を最後に現役を引退
 ・千葉敬愛高校、三井千葉SCなどを指導し市原市でちはら台SCを設立
 ・現在 総監督を務め などアカデミーを指導

               ・日本サッカー協会、アジアサッカー連盟公認A級コーチジェネラル
               ・日本体育協会上級コーチ
               ・日本サッカー協会こころのプロジェクト「ユメセン」講師
               ・日本サッカー協会公認3級審判員
               ・千葉市サッカー協会4種委員・花見川区サッカー協会理事長
               ・千葉県・千葉市4種技術委員


U−15
日本初の月会費無料(当クラブ調べ)。

登 録   日本サッカー協会・日本クラブユース連盟・関東クラブユース連盟・千葉県クラブユース連盟・
  千葉県サッカー協会・市原市サッカー協会
会 費   月会費無料です。年会費・登録料・スポーツ保険の年間¥10,800のみです。
ユニフォーム
その他   ユニフォームはクラブから貸し出しますので購入の必要はありません。
  クラブ指定の、ピステ、ジャージ、エナメルバックは購入していただきます。
事務局   

  (株)
043-286-1204/090-4025-7304(常名)

[匿名さん]

#1512019/04/18 17:29
福山に
嫉妬心

[匿名さん]

#1522019/04/19 13:20
天皇杯より、
まずはリーグ戦だよね!

[匿名さん]

#1532019/04/23 17:50
案外県リーグ勝ち上がれそうだね

[匿名さん]

#1542019/04/25 11:52
<福山SCCが持つ熱量とビジョン。地域一丸で「福山創生」を目指す>

4/25(木) 11:02配信
文 ジェイ(@RMJ_muga)

■異色の対決となった広島の天皇杯県代表決定戦

 4月21日(日)に中国地方各地で天皇杯県代表決定戦が行われ、各県の代表が下記のとおり決定した。

鳥取:ガイナーレ鳥取(J3)
島根:松江シティFC(JFL)
岡山:環太平洋大学(地域L)
広島:SRC広島(地域L)
山口:徳山大学

 いずれの県も有力候補が順当に勝ち上がった印象だが、今回はその中で異色の対決となった広島県代表決定戦についてリポートする。

 決勝に駒を進めた一方は中国地方の雄、SRC広島。2016年には中国地域リーグ優勝を飾っており、昨年、一昨年も3位の好成績を残している強豪だ。3年連続で天皇杯本戦にも出場しており大本命といえる。

 そしてもう一方のブロックから勝ち上がったのが、県リーグ2部所属の福山SCC(福山スポーツコミュニティクラブ)である。

 県2部ということは【J1>J2>J3≧JFL>地域リーグ>都道府県リーグ】というピラミッドからすると7部相当となる。そんなチームが格上の廿日市FC(地域リーグ)や福山大学といった強豪を破り堂々の決勝進出を果たしたことが、下部リーグファンの間で密かな話題となっていた。

 どんなチームなのかと気になって現地に足を運んでみたが、ウォーミングアップの時点ですでに、ただならぬ雰囲気が感じられた。

[匿名さん]

#1552019/04/25 11:54
まず選手の姿勢が良い。ジャンプも素軽く、ヘディングなど空中での姿勢制御も安定しているように見える。プロフィールの身長/体重や実際の体格が、県リーグとは思えない体つきをしている。ロングキックやロンド(鳥かご)の精度にしても、およそ県リーグのレベルとは思えなかった。予備知識なしで「いま練習しているのはJ2のチームです」と紹介されたら、疑いも無く信じてしまったかもしれない

■県2部の福山SCCが醸し出す不思議な魅力

試合開始からSRC広島が激しくプレッシャーをかける。SRC広島は質実剛健ないわゆる「社会人の強豪」チームで、並みのチームであればプレスに圧倒されそのまま飲み込まれてしまうところなのだがその広島が思うようにボールを奪えない。福山SCCは個々のキープ力が異様に高く、複数に囲まれても何とかしてしまう。特に14番の平山諒、10番の若宮健人などは2、3人を剥がして展開する体の使い方と技術を発揮し、8番の藤田啓介は時折セルヒオ・ブスケッツと見紛うようなプレーを披露していた

下部リーグからの快進撃ということで、試合前に想像していたのは強固な組織力だったり、尖った戦術を持ち合わせているチームだった。しかし実際は真逆というか、いびつではあるが強烈な「個」を持った集団だった。県3部から県2部に昇格した今季は選手全員が入れ替わっているらしく、チーム始動からわずか3カ月弱。そのため組織力というものはあまり感じられずに脆さも見せるが、選手一人一人のインパクトは大きかった。チャンスの数では完全にSRC広島のペースといっていい試合展開なのだが、福山SCCはとにかくファーストサード・ミドルサードでなかなかボールを失わない。プレスがまったくはまらないため、優勢なはずのSRC広島の選手が終始イライラしているという、不思議な試合展開が続いた

[匿名さん]

#1562019/04/25 11:55
 攻守にまだまだ組織整備がなされてないため、高いテクニックを誇りつつもファイナルサードでは「各人のとんちの噛み合い具合」頼みとなり決定機は少なめ。中盤の要である高田健吾を累積停止で欠いていたこともあり、守備ではカウンターで一気にゴール前まで迫られるなどチャンスと被チャンス数が割に合っていない感じではあったが、各選手のキープやターン、サイドチェンジなどの技術は十分に見応えがある。自陣でプレッシャーがある状況でも躊躇なくつなぐ姿勢はボラ・ミルティノビッチ時代の中国代表を彷彿させた。(例えが古くて申し訳ない。。。)

 後半6分にはディフェンスラインのギャップを埋められずに、クロスからついに失点。その後も何度もとどめを刺されそうになるが奇跡的に持ちこたえ、最後はあわや同点という場面を何度も作ってみせた。最後まで不思議な、しかし魅力のあるチームだった。


■目指すは2022年のJリーグ参入

試合前には、サポーターとクラブスタッフの打ち合わせの様子も見学させていただいた。事前に集まったユニフォームサポはわずか5名(県2部でユニフォームを持ったサポーターがいるのにも驚きだが)。しかしながら、入念な打ち合わせからは人数とは関係ない熱意が感じられ、最後は「世界一カッコいい応援を目指しましょう!」と気勢を上げた。

 試合開始時刻が近づくにつれ観客席も続々と埋まり始め、気が付けば福山側の応援席には約200名が詰めかけていた。決勝の晴れ舞台とはいえ、福山市から会場である広島広域公園までは高速道路を使っても車で1時間以上かかる距離だ。県2部のクラブにこれだけの応援が駆けつけるというのは異例と言ってよく、福山SCCが地域に確かな根を張っていることの証左だろう。

[匿名さん]

#1572019/04/25 11:56
 試合後に岡本佳大GMに話を聞くことができたが、その言葉からは確かなビジョンが感じられた。取り組み事例を挙げると、Jリーグを目指す社会人クラブはスポンサー企業に選手を受け入れてもらって給料を肩代わりしてもらう形が一般的だが、これはスポンサー企業にとっては負担であり、リスクも存在する。そこで福山の場合は、自前で事業を起こして選手にそこでの働き口を斡旋する、というスキームを構築しているという。

 練習についても、社会人チームに多く見られる夜間練習ではなく、あくまで「選手」として午前に練習を行い、午後に仕事をするというサイクルを取っている。県2部というカテゴリーに不似合いな技量の選手たちも、「独自のコネクションで志のある選手、戦える選手をスカウトしている」という辣腕ぶりだ。

 戦力値が高すぎるゆえに通常のリーグ戦では強化につながらないのではないか? という疑問も湧いたが「それについてはリーグ戦での1試合ごとの意識を高く持つとともに、上位カテゴリーとのトレーニングマッチを多く組んでいくことを計画しています。県1部、地域リーグに上がり、そして地域決勝という過酷な舞台を勝ち抜けるチームを作り上げるところまで長期的に考えています」と、先の展開までしっかりと見据えられている。

 岡本GMはさらに「将来的にはJ1まで上がれなくても、J2・J3で毎週数千人が集まる盛り上がりを福山に作りたい。福山市とともに成長していきたいんです」と語ってくれた。福山SCCは1年毎にカテゴリーを駆け上がっての2022年Jリーグ参入を目標に掲げているが、今日の熱量ならば本当にそのとおりに行くかもしれない、そう思わせるものがあった。

[匿名さん]

#1582019/04/25 11:56
 福山市は人口46万人を抱える中核都市ながら、地理的要因と独自の文化性からカープ、サンフレッチェ、ファジアーノのいずれもが取り込みきれていないプロスポーツ空白地だ。内から発展するほうが可能性が高いかもしれない。実際にはまだ県2部リーグの1クラブに過ぎないが、今後の動向に注目していきたい。

【一般社団法人福山スポーツコミュニティクラブ】

2015年の「福山にプロサッカークラブをつくろう会」発足からわずか1年で法人化。2017年にはサッカートップチームを立ち上げ県リーグに昇格。2018年は県3部リーグを優勝して2部に昇格した。2022年のJリーグ参入と「スポーツを通じたまちづくり運動を広め、福山を活性化させること」を目標に掲げている。

[匿名さん]

#1592019/04/26 18:26
>>157
岡本氏、下村キャプテンがディフェンダーやってたデッツォーラ島根時代、強かったよね。

[匿名さん]

#1602019/04/26 18:29
岡本氏がデッツォーラ島根最強時代を越えられるか?

[匿名さん]

#1612019/04/27 07:05
過去の栄光より現在だろう。そうだ!現在戦ってみたらどっちが勝つだろうか?やってみたら?

[匿名さん]

#1622019/04/28 22:01
>>161
ブタ家族サッカーじゃ勝てないだろ!

[匿名さん]

#1632019/04/29 22:08
岡田武史(おかだ たけし、1956年8月25日 - )は日本の元サッカー選手、サッカー指導者。現在はFC今治運営会社「株式会社今治.夢スポーツ」代表取締役、日本エンタープライズの社外取締役、城西国際大学特任教授、日本サッカー協会参与(名誉役員)。


■所属クラブ
1972年 - 1974年 天王寺高校
1976年 - 1979年 早稲田大学
1980年 - 1990年 古河電工

■代表歴
・国際Aマッチ 24試合 1得点(1980-1985)[2]
・アジア競技大会(1982)
・ロサンゼルスオリンピック予選
・ワールドカップメキシコ大会予選

選手時代のポジションはディフェンダー(センターバック)。古河電気工業サッカー部(現・ジェフユナイテッド千葉)でプレーし、サッカー日本代表として国際Aマッチ24試合に出場

現役引退後は指導者の道に進み、サッカー日本代表のコーチを務めていた1997年、加茂周の更迭に伴って監督に昇格。日本代表を初のFIFAワールドカップ出場に導き、1998 FIFAワールドカップ本大会でも指揮を執った。2007年から再び日本代表の監督を務め、2010 FIFAワールドカップでベスト16。クラブチームではコンサドーレ札幌、横浜F・マリノス、中国の杭州緑城の監督を歴任した。横浜FMでは2003年、2004年とJ1リーグ連続優勝を果たした。

「岡ちゃん」の愛称で知られる。眼鏡がトレードマークで、現役時代には眼鏡を外さずプレーしていたこともある(但し、現在一般に公開されている現役時代の写真等では眼鏡を外しているものも少なくない)。

[匿名さん]

#1642019/04/29 22:12
■幼年期〜大学時代

大阪市生まれ。帝塚山学院小学校時代は、大阪球場を本拠としていた南海ホークスが運営する「南海ホークス子供の会」に入会して野球に明け暮れ、ホークス応援のために大阪球場へと通う野球少年だった。ホークスではファースト、学校のクラブではピッチャーであった

中学に進学すると、野球部の上下関係の厳しさを目の当たりにして自分には向いていないと考え、当時1968年メキシコシティーオリンピックでの代表チームの活躍で脚光を浴びたサッカーに熱中するようになる。中学時代には「ドイツに行ってプロになる」と言って両親を困らせ、両親から相談を持ちかけられた産経新聞運動部長賀川浩に諭されて思いとどまる。

大阪府立天王寺高等学校入学後もサッカーを続ける。同校は進学校でありサッカーではまったく実績がない高校だったが、岡田は3年時にユース代表に抜擢され(高校生で選出された者は岡田を含め3名のみ)、クウェートで開催されたアジアユース選手権に出場した。天王寺高では監督は試合の時しかいなかったため、日々の練習メニューは主将である岡田が考え実践していた。

一年間の浪人生活を経て、早稲田大学の政治経済学部に入学。サッカー部(ア式蹴球部)の部長である堀江忠男からは「おそらく一年間浪人して勉強したとしても、合格するのは無理だろう。私が推薦するから、体育専攻を受験するようにしなさい」という手紙を受け取ったが、それがかえって自身のやる気に火をつけたと振り返る。浪人生活のあいだに10キロ以上太り、大学では当初、サッカー部には所属せずサッカー同好会の「稲穂キッカーズ」に在籍していたが、それを知った日本サッカー協会の関係者たちに説得され、6月になってからサッカー部に入部する。早稲田大学時代にはユニバーシアード日本代表に選ばれた

[匿名さん]

#1652019/04/29 22:14
■古河電工時代

大学卒業時、岡田はマスコミ業界への就職を志望していたが叶わず、1980年に古河電工に入社。社員として働く傍ら、古河電気工業サッカー部(ジェフユナイテッド千葉の前身)に入団。大学時代と変わらず頭脳派のディフェンダーとして日本リーグで活躍。1985年に9年ぶり2度目のリーグ優勝、1986年に日本のチームとして初となるアジアクラブ選手権優勝に貢献した。JSL1部での通算成績は189試合9得点。

1985年にリーグ優勝した際に監督だった清雲栄純は「当時の選手には珍しく理論を持っていた。身体能力や技術は高くなかったが、予測能力が高くて声で周りを動かせた。そのコーチングが非常に的確で」「声を出す選手というのはおうおうにして自分は逃げ回るタイプが多い。汚れ仕事は人にさせて、おいしいところだけ持っていくような。岡田は最後は自分の身体を張れた」と岡田を評する。同年の古河が採用していたゾーンのラインディフェンスについても「岡田がいたからやれた守り方だった。戦いの意図を後ろから的確に伝えることができたから」と語る。

1990年1月20日に行われたゼロックス・スーパーサッカーの日本リーグ選抜対バイエルン・ミュンヘンの試合が、キャリアの晩年に差し掛かっていた岡田の転機となった。この試合で日本リーグ選抜は善戦の末1-2で破れる。日本リーグ選抜の主将を務めた。 岡田は、海外トップチームとの対戦を通じてその埋めがたい差を身を以て実感して現役引退を決意。自分がバイエルンの選手たちに追い付くのではなく、どう指導すれば彼らに勝てるような選手を育てられるかに関心は移っていった。

[匿名さん]

#1662019/04/29 22:15
■日本代表として

1980年6月1日のジャパンカップのエスパニョール戦で日本代表にデビュー。

1982年、インド・ニューデリーで開催されたアジア大会に出場。当初発表された代表メンバーに岡田の名は無かったが、当時の代表主将・前田秀樹の負傷・参加辞退により岡田が追加招集された。背番号は前田の9をそのまま背負った。この大会で準々決勝にまで駒を進めた日本代表は0-1でイラク代表に破れたものの、岡田自身は2試合に起用され、1982年11月25日の1次リーグ・韓国戦では代表初にして代表時代唯一のゴールまで決めている。

1984年のロサンゼルス五輪最終予選では加藤久と並んでセンターバックのレギュラーとなるはずだったが、初戦の3日前に肉離れで離脱した。1986 FIFAワールドカップ地区予選では加藤の控えとしてベンチを温めた。

その後、代表監督に就任した石井義信は、チームの軸として加藤、岡田、木村和司を念頭に置いていたが、すでに代表チームでプレーするモチベーションを失っていた岡田は誘いを断り古河でのプレーに専念するようになった。最終的に国際Aマッチのキャップは24を数えた。

[匿名さん]

#1672019/04/29 22:34
□■SAMURAI BLUE■□

第9回アジア競技大会(ニューデリー)
[ 1982.11.25 ]

日本代表 🆚 韓国代表

0 前半 1
2 後半 0

[GOAL]
■日本
原博実 58´
岡田武史 80´

■韓国
姜信寓 22´


[日本代表 メンバー]

GK 田口光久 (Cap.)
越田剛史
菅又哲男
加藤久
都並敏史
田中孝司
岡田武史
金田喜稔
木村和司
原博実
風間八宏

[SUB]
GK 坪田和美
野村貢
吉田弘
西村昭宏
尾崎加寿夫
柱谷幸一
戸塚哲也


■監督:森孝慈


◇第9回アジア競技大会(ニューデリー) 結果◇

1982/11/21 ニューデリー
日本代表 1-0 イラン代表
1982/11/23 ニューデリー
日本代表 3-1 南イエメン代表
1982/11/25 ニューデリー
日本代表 2-1 韓国代表
1982/11/28 ニューデリー
日本代表 0-1 イラク代表


■JFA.jp

[匿名さん]

#1682019/04/30 17:10
飲酒運転

[匿名さん]

#1692019/05/01 02:40
□■SAMURAI BLUE■□

ジャパンカップキリンワールドサッカー1983
[ 1983.06.02 ] 横浜・三ツ沢球技場


日本代表 🆚 ヤマハ発動機

0 前半 0
0 後半 0


■メンバー

[日本代表]
GK 田口光久
西村昭宏
田中真二
加藤久
都並敏史 イエローカード
田中孝司
岡田武史
金田喜稔
木村和司 イエローカード
原博実
松浦敏夫

[SUB]
GK 松井清隆
横山正文
神崎幹也
越田剛史
柱谷幸一


■監督:森孝慈


■JFA.jp

[匿名さん]

#1702019/05/03 12:48
福山スポーツコミュニティクラブ【福山SCC】


◇法人概要

■理事長
小林 政嗣

■住所
〒721-0952
広島県福山市曙町6丁目11‐8

■電話番号
TEL 084-983-1225
(備福運送株式会社内)

■FAX番号
TEL 084-983-1226

■活動地域
福山全域

■対象
幼稚園児から一般市民まで

■設立・沿革
2016年4月
「一般社団法人福山スポーツコミュニティクラブ」設立
2016年8月
 福山SCCフットサルトップチーム設立
2017年2月
 福山SCCサッカートップチーム設立
2017年4月
 福山SCCチアダンススクール開校
主な活動
●スポーツを通じたひとづくり事業
●スポーツを通じたまちづくり事業
●福山にプロサッカークラブをつくるための活動
●地域コミュニティを形成する事業


◇役員紹介

■理事長
小林 政嗣

■副理事長
岩本 徹
佐々木 功

■専務理事
木村 圭介

■理事
門田 治己
塩出 喬史
黒瀬 貴之
村上 恭久
吉本 武史
大塚 智弘
山本 弘明

■監事
外野 浩志
萩田 啓祐



加藤賢士

[匿名さん]


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