870
2023/11/26 14:42
爆サイ.com 山陽版

サッカー国内





NO.7201210

デッツォーラ島根④
報告 閲覧数 3472 レス数 870

#4712020/03/18 03:12
周辺の病院や高層マンションなどの騒音対策や、防災機能を兼ね備えた公園整備などの選択肢も考えられていること、更に東静岡駅の南側に静岡県草薙総合運動場陸上競技場、同球技場もあることからなお難航が懸念されており、実際、田辺市長は2014年9月の静岡市第3次総合計画の骨子案を発表した時もこの8年間で予定している計画案に何を建設するかを盛り込まず、事実上結論を出すことを凍結した影響から静岡県の川勝平太知事もサッカー場を建設すべきであるとする私見を述べている。

ところが2016年3月になって、川勝知事が新たな移転先の候補地として清水駅周辺を選択肢の一つとして示したと静岡放送が報じた。田辺市長は上記の東静岡駅北口をローラースポーツの施設として一時的に作るための予算を計上したことに3月3日、川勝知事が抗議した。川勝知事はJリーグの舞台で戦うエスパルスと静岡市が中心となってサッカー専用スタジアムを建設すべきとしたうえで、県としてもスタジアムの建設には全面的に協力し、それをするために担当部局に検討するよう指示したという。


■出資会社

鈴与ホールディングス株式会社
静岡鉄道株式会社
静岡瓦斯株式会社
株式会社静岡新聞社
株式会社小糸製作所
中部電力株式会社
静岡ビルサービス株式会社
株式会社J-オイルミルズ
株式会社静岡朝日テレビ
株式会社ヤマシタコーポレーション
鈴与建設株式会社
株式会社清水銀行
清水綜合リース株式会社
清水信用保証株式会社
株式会社清水地域経済研究センター

[匿名さん]

#4722020/03/18 03:13
■関連施設

◇フットサル施設
エスパルスドリームフィールド (フットサル施設)
エスパルスドリームフィールド清水
エスパルスドリームフィールド静岡
エスパルスドリームフィールド富士
エスパルスドリームフィールド藤枝
エスパルスドリームフィールド駿東

◇店舗
エスパルスドリームハウス (オフィシャルショップ)
エスパルスドリームハウス清水
エスパルスドリームハウス静岡葵
エスパルスドリームハウス静岡駿河 (エスパルスドリームフィールド静岡併設)
エスパルスドリームハウス駿東 (エスパルスドリームフィールド駿東併設)
エスパルスドリームハウス藤枝 (エスパルスドリームフィールド藤枝併設)
エスパルスドリームハウス富士 (エスパルスドリームフィールド富士併設)

[匿名さん]

#4732020/03/22 00:32
□■【FOOTBALL CHANNEL】■□


■日の丸をつけるということ——。W杯に出られなかった時代の証言シティ

98年W杯フランス大会まで、日本はW杯本大会へ出場することはできなかった。しかし、これまで本大会の扉に手をかけたことは二度ある。85年のメキシコ大会予選、もう1つは93年アメリカ大会の予選である。本大会出場の目前まで戦った木村和司、都並敏史、そしてチームを率いた森孝慈の3名に、当時を振り返りながら日の丸をつけることとはどういうことかについて話を聞いた。(原稿執筆2010年2月)

Posted on 2014.07.03 / text by 海江田哲朗 / photo Tetsuro Kaieda



■木村和司がFKを決めた韓国戦

(原稿執筆2010年2月)

 1985年10月26日、国立競技場。W杯メキシコ大会のアジア最終予選、日本は韓国との第1戦に臨んだ。

 試合前、スタンドの光景を目の当たりにした木村和司は身体の震えが止まらなかった。6万人の大観衆。選手が入場する階段の下から覗くと、バックスタンドの最上部までぎっしり埋め尽くされている。横にいた都並敏史は目を丸くしていた。

「すげえ。こんなの見たことねえぞ」

 選手たちはロッカールームを出て入場口に着くまで、いつもとは違う気配を感じていたが、予想をはるかに超える眺めにただただ圧倒された。

 監督の森孝慈は、同年3月21日に行われた1次予選の北朝鮮戦との違いを思った。その時は国立に2万5000人を集めたが、スタンドでは北朝鮮の国旗が幅を利かせ、およそ6割が在日朝鮮人の観客と思われた。

 今日は完全にホームゲームの雰囲気だ。陰ながら日本を応援してくれていた人々が、大一番のゲームに駆けつけてくれたんだと感謝の思いを強くした。

[匿名さん]

#4742020/03/22 00:34
 日本は前半30分、41分と失点。43分、木村のFKが決まって1点差に詰めるが、反撃及ばず1-2のまま終了のホイッスルを聞いた。11月3日の第2戦、敵地に乗り込んだ日本は0-1で敗れた。こうして、森監督率いる日本のW杯初出場の夢は散った。



■国立が満員になった時は涙が出るほどうれしかった

「わしらの頃は上が見えんかった。弱かったもん。わざわざヨーロッパまで遠征に行っても代表とやらしてもらえん。クラブチームと対戦して、それでも勝てんかった。W杯なんて本当に雲の上。(ライバルの)韓国に勝ちたい。それだけよ」

 と語るのは、今季から横浜F・マリノスの監督に就任した木村和司だ。80年代から90年代初期の日本サッカーを彩ったスタープレーヤーの1人で、特に韓国戦で見せた40メートルのFKは伝説である。

 82年のW杯スペイン大会は、欧州遠征を兼ねて現地で観戦した。本当にこんな舞台でサッカーができるのだろうか。現実感はまるで湧かなかったという。

「いまの選手はいいなと思うよ。思い切り自分のサッカーを懸けて、もっと楽しんでやれよと思う。難しいけどね、楽しむというのは。メンバーに選ばれるのは限られた選手だけ。自分の持っているものを出し切らなくてどうするの。誇りや名誉を胸に秘め、全国の子どもたちに影響を与えることも頭に入れてやってもらいたい」

 75年、ユース代表に選出され、79年、明大2年時に日本代表入りを果たした。以降、攻撃の中心として国際Aマッチ54試合26得点の実績を残した。

[匿名さん]

#4752020/03/22 00:35
「ユース代表に選ばれてから、もっと上を目指したいと思うようになった。周りのレベルが上がって、サッカーがもっと面白くなって、それならA代表に選ばれればさらに楽しくやれるじゃろうと。そんなもんよ。たくさんの人に自分のプレーを見てほしい、知ってもらいたいという気持ちもあったね。だから、韓国戦で国立が満員になった時は、涙が出るほどうれしかった」

 W杯まであと一歩に迫った韓国戦を振り返って言う。



■ 日本代表は別。無条件に応援するし、勝ったら自分のことのようにうれしい

「86年のメキシコ大会に出とったら、どうなったかな。人生変わっとったかもしれん。経験するもの、体感するものはそれほど大きい。ただ、わしらの時は扉が動かんかったなァ。いいところまで行って、手を掛けたけども頑として動かんかった。その次のドーハの時は、少し動いてチラッと中が見えたかもしれん。でも、すぐに閉ざされた。まだ早いよって。

あの時は家族とテレビを見ながら、『おい、W杯行けるかもしれんど。何でもいいからわしも連れて行ってほしい。オフトに頼もう』と言いよったね(笑)。いま思えば……自分にはチャンスがなかったよ。ようわからんけど、たぶんそう」

 97年11月16日、マレーシアのジョホールバルで日本はイランを破り、悲願のワールドカップ初出場を決めた。木村はその時も家でテレビ観戦だった。岡野雅行のゴールが決まった瞬間の興奮は今も憶えている。隣近所からドッと声が上がり、それこそ日本中から歓声を聞いたような気がした。

「試合に勝つのはうれしいよ。自分が活躍して勝つ。もっとうれしい。逆に自分が試合に出ていなければ、そんなにうれしくない。そんなもんよ、人間。だけど、日本代表は別。無条件に応援するし、勝ったら自分のことのようにうれしい」

[匿名さん]

#4762020/03/22 00:36
■ プロ発足が早かった韓国。レベルの差を痛感

 都並は生粋の日の丸小僧だった。サッカーを始める前から日の丸に対する憧れがあり、文房具や自転車など身の回りの品々にマジックで日の丸を描き、アメ横にワッペンを買いに行ってはそこかしこに縫い付けていた。そんな少年が、やがて日本代表に思い焦がれるのはごく自然な成り行きだった。

 18歳の冬、憧れのユニフォームに初めて袖を通した。ユース地域選抜研修会に参加し、青地に白ラインの入ったシャツを貸与された。もちろん左胸には日の丸。どうにかしてこのまま持って帰る方法はないかと真剣に考えたほどだ。

 その時の模様は『サッカーマガジン』(ベースボール・マガジン社)で特集され、〈技術のしっかりとしたサイドバックで、安定性でもこの研修会でピカ一の逸材だった〉と写真入りで紹介されている。都並は有頂天となり、書店にあったその号の在庫を残らず買い占めた。

 19歳で日本代表に選出され、W杯スペイン大会のアジア予選に出場。デビュー2試合目のマカオ戦で退場処分を受けた。

「俺が国を守るんだという気持ちが強く出すぎて、相手と取っ組み合い。格闘技になっちゃってね(笑)」

 都並の繰り出すオーバーラップは日本の武器になった。そして、W杯メキシコ大会のアジア予選であの韓国戦を経験する。

「すでにプロリーグがあった韓国との差を痛感しましたね。フィジカル面をはじめ、戦術や駆け引きなど、あらゆる面で木端微塵に叩きのめされた。韓国は違うレベルに行ってしまったなと」

[匿名さん]

#4772020/03/22 00:37
■ どれだけ多くの人に夢や希望を与えられるかを知れば選手のプレーは変わる

 一方、個人としては十分な手応えがあった。都並にとって、日本代表で戦うことは世界との距離を測る物差しでもあった。韓国戦で都並が抑え込んだ相手の右ウイングは、本大会のベルギー戦で度々チャンスを作っていた。

「結果を出すチームというのは、すべての作業を隙なく行わなければならない。少しでも甘いところがあれば引導を渡される。ドーハの悲劇がそうでした。作戦の一部とはいえ、骨折して満足にプレーできない自分がメンバーに入っていた。チームのモチベーションアップには有効だったかもしれないけど、当然マイナス面もそこにはあります」

 その経緯については『狂気の左サイドバック』(一志治夫著/小学館)に詳しい。さて、現在の日本代表は都並の眼にどう映るのだろうか。

「選手が戦っていないとは思わない。ただ、素直に表現できていないとは感じます。監督ありき、戦術ありきになっている。規律があるのはいいが、過剰に縛られている印象です。だから、負けるにしてもスカッとした負け方ができない。こういう時は感覚的にはみだしてプレーする選手の存在が大事になります。

かといって、そういう選手ばかりを集めてもチームの秩序が保たれなくなる。2つの調和、バランスの取り方は難しいですね。いずれにせよ、相手を叩き潰してやるんだという思い切りの良さが必要なのでは」

 都並はガッツを前面に出し、攻撃的なプレースタイルに磨きをかけてきた。そのうち自分の持ち味を出せるのは、周りの助けがあってこそだと知るようになる。

[匿名さん]

#4782020/03/22 00:37
「自分がたくさんの人に支えられ、どれだけ多くの人に夢や希望を与えられるか。それを知ることによってプレーが変わるんです。本物のプロとして、責任感のある重いプレーができるようになる。若い頃は分からないんだな、これが。俺もそうだったもの。早めに気づいた方がいいよと言えるくらいかな」


■ 故・森孝慈が激昂した日

 森孝慈(11年7月17日死去)が選手に対し、日の丸の持つ意味について激昂したのは一度だけだ。81年2月、東南アジアに遠征した時のこと。当時の監督は川淵三郎。森は次期監督が内定しており、スタッフとして加わっていた。

 アバウトな試合運営により開始時間が遅れるなどの不手際が多く、チームには弛緩した空気が流れていた。

「お前たちは日本サッカー協会の登録者40万人の代表なんだぞ。みんながお金を出し合って、送り出してくれているんだ。胸に日の丸をつけて、こんな締まりのないゲームをするな。恥ずかしいと思わんのかッ」

 なお、09年4月時点の集計で、日本サッカー協会の登録者数(指導者や審判員などを含める)は131万4565人を数える。

「メキシコ大会の予選は、準備段階から試合を重ねながらだんだんチームが出来上がってきて、やりようによっては勝てる可能性が出てきたなと思えるほどに成長した」

 個々のプレーも少しずつ変化した。木村はディフェンスで身体を張り、それを見た日産のチームメイトは「和司さんがスライディングするのを初めて見ましたよ」と笑った。森は木村に守備をしろと言っていない。本人が必要に感じたことを実行し、自然とそうなっていったのだという。

 それでも韓国の壁は高かった。大会終了後、森はサッカー協会の幹部にプロ化を強く進言する。

[匿名さん]

#4792020/03/22 00:38
かつて日本代表チームの練習場といえば、千葉県の検見川グラウンドが定番だった。

 合宿や大会のたび、宿舎にはファンから果物などの差し入れがあったという。また、森は支援者から陣中見舞いを受け取っていた。中には毎回2、3万円ずつ包んでくれる人もいた。森は一切手をつけず、大事に貯めておいたそうだ。そのお金は、チームが解散する頃にはそこそこまとまった金額になっていた。


■ 当時の日本代表は無報酬。日の丸のために気持ちがある人しかできなかった

 森は何とか選手たちの労をねぎらいたいと考え、サッカー協会の専務理事だった長沼健(08年死去)に相談を持ち掛けた。

「頑張ってくれた選手たちを温泉に連れて行ってあげようと思います。お金の心配は要りません。つきましては、何か記念になるものを協会から出していただけませんか?」

 長沼は親分肌の人物として知られる。森の意図を汲み取り、「分かった。できる範囲でやってみよう」と約束した。

 長沼はサッカー協会の個人登録制度やオフィシャルサプライヤー制度を導入し、慢性的な赤字体質から脱却させつつあった。それでも資金は潤沢とは言えない。その中でどうにか工面しようとした。

 ところが、記念品となるとなかなか名案が浮かばなかった。「いまさら楯を作っても絵にならない。だいたいどんな文字を彫ればいいんだ」と困った挙句、結局、各選手たちに10万円の報奨金を出すことにした(出場数によって多少上積みがあった)。

[匿名さん]

#4802020/03/22 00:40
 森は準備を整え、選手たちに伝えた。

「みんなで熱海の温泉宿に集まろう。家族を連れてこいよ。彼女でもいいぞ。ただし、すまんが足代は自分で持ってくれ」

 現在も森ファミリーのOB会があり、年に何度か集まるそうだ。なお、この時に利用した西熱海ホテルは06年に営業を終了している。

「あの頃は日本代表の誰もが無報酬でやっていた。選手は休みの日に代表に引っ張られ、そこで一銭も稼げない。そういう時代だからさ、日本のために、日の丸のために、その気持ちがある奴しかできなかった。気持ちで1つになるしかないんです。そういった意味ではいまの方が難しいだろうね。個人と組織、それぞれに打算的な要素が絡んでくる」

 近年、森は病気を患い、声帯の大部分を手術で失った。声は小さく、絞り出すように日本代表への思いを語る。

「南アフリカに行くのは無理だな。ヨーロッパに行って、テレビで見ようか(笑)。少しでも代表の近くに行って、応援したいよ」

(文中敬称略。原稿執筆2010年2月)

【了】

[匿名さん]

#4812020/03/22 00:41
□■【SAMURAI BLUE】■□

【FIFAワールドカップメキシコ'86 アジア地区最終予選】
[ 1985.10.26 ] 東京・国立競技場

日本代表 🆚 韓国代表

1 対  2

1 前半 2
0 後半 0

【GOAL】
■日本
木村和司 43´

■韓国
鄭龍煥 30´
李泰昊 41´


【日本代表メンバー】

GK 松井清隆
松木安太郎
加藤久 イエローカード
石神良訓
都並敏史
西村昭宏
宮内聡
木村和司 ▼82' OUT
水沼貴史
戸塚哲也 ▼77' OUT
原博実


与那城ジョージ ▲82' IN
平川弘 ▲77' IN
GK 森下申一
岡田武史
勝矢寿延

【監督】 森孝慈


■FIFAワールドカップメキシコ'86 アジア地区最終予選 結果

・1985/10/26 東京・国立競技場
日本代表 1-2 韓国代表
・1985/11/03 ソウル
韓国代表 1-0 日本代表

[匿名さん]

#4822020/03/25 06:34
ドーハの悲劇(Agony of Doha)は、1993年10月28日にカタールの首都・ドーハのアルアリ・スタジアムで行われたサッカーの国際試合、日本代表対イラク代表戦の日本における通称。


■1994年FIFAワールドカップ アジア地区最終予選

日本 🆚 イラク

2 対 2

■開催日
1993年10月28日
■会場
アル・アリ競技場(カタール ドーハ)
■最優秀選手
中山雅史
■主審
セルジュ・ムーメンターラー


1994年アメリカワールドカップ・アジア地区最終予選の最終節で行われたこの試合は、第4戦までで日本はグループ1位となり本戦出場が有力視されていた。しかし、試合終了間際まで日本優勢で進み2-1で勝っていたところ、ロスタイムにイラク代表の同点ゴールが入ってしまう。

この結果、勝点7のサウジアラビアが1位で、勝点6と日本と同数ではあったが得失点差により韓国が2位出場となり、FIFAワールドカップ初出場が期待されていた日本代表が一転して予選敗退する結末となった。

[匿名さん]

#4832020/03/25 06:36
■最終予選の経過

アジア地区最終予選は、ドーハでのセントラル方式にて行われた。1次予選A〜F組を1位通過した6か国が総当たりのリーグ戦で対戦し、上位2か国がワールドカップの出場権を得ることになっていた。日本は1次予選F組で7勝1分けとし、UAEを抑えて最終予選へ進出した。一方のイラクは1次予選A組で6勝1分1敗で勝点13、中国を勝点1差で抑えて進出した。

日本は初戦のサウジアラビア戦を0-0で引き分けたが、第2戦のイラン戦を1-2で落としこの時点で6か国中最下位に転落した。スタメンの入れ替えを敢行した第3戦の北朝鮮戦を3-0で快勝。続く第4戦ではそれまでW杯と五輪のアジア予選で一度も勝てなかった韓国に三浦知良のゴールで1-0で勝利し、韓国に代わり首位に立った。守備は6チーム中最少失点(4試合中3試合を完封)、スーパーサブからスタメンに起用された中山雅史が攻撃を活性化するなど、攻守のバランスは上向いていた。

イラクは初戦の北朝鮮戦で2点を先取しながら退場者を出し、2-3で逆転負け。イラクサッカー協会が監督を更迭し、1980年代に2度五輪チームを率いたエマヌエル・"ババ"・ダウド (Ammo Baba) が監督に就任した。第2戦韓国戦は86分に追いつき2-2で引き分け、第3戦イラン戦は2-1で初勝利を収め、第4戦サウジアラビア戦は1-1で引き分けた。6チーム中最多の7得点を挙げながら、失点も7失点という出入りの激しいサッカーをしていた。

[匿名さん]

#4842020/03/25 06:38
第4戦終了時点で首位の日本は勝てば他会場の試合結果にかかわらず出場決定となり、日本が引き分けてかつサウジアラビアと韓国がどちらも勝った場合であっても、韓国が北朝鮮に1点差で勝利した場合には(即ち得失点差で日本と同数となる場合)、日本の総得点が韓国と同数以上であれば日本が出場権を得られるという、かなり有利な条件で日本は最終戦に臨んだ。一方、イラクは日本戦での勝利がまず必要となり、加えてサウジアラビア−イラン戦が引き分けかイランの2点差以内勝利(3点差以上の場合は得失点・総得点でイランとの争い)または韓国が北朝鮮に対し引き分けか敗れた場合、1986年メキシコ大会に続く2度目のW杯本大会出場が実現する状況だった。3位の韓国も自力出場の可能性が消滅しており、最終戦で勝利しても日本とサウジアラビアが共に勝利した場合は本大会出場ができない状況にあった。

[匿名さん]

#4852020/03/25 06:38
■第5戦(最終戦)

◇試合経過
第4戦までは全試合がハリーファ国際スタジアムで行われてきたが、最終戦は3試合同時進行のため、日本-イラク戦はアル・アリ競技場で開催された。観客席はイラクのサポーターが多数を占めたが、遠来の日本サポーターも懸命に声援を送った。

両国の過去の対戦成績は日本の1引き分け3敗で、ロサンゼルス五輪アジア・オセアニア地区最終予選(1984年4月21日 日本 1-2 イラク)以来9年半ぶりの対戦となる。第4戦からイラクは中3日、日本は中2日を挟んで最終戦に臨む。

日本は、北朝鮮戦・韓国戦で成功した4-3-3システムを継続。前線には三浦知良・中山雅史・長谷川健太が変則3トップ気味に並ぶ。中盤のボランチのポジションには、韓国戦で活躍した北澤豪に替わり、出場停止明けの森保一が戻った。イラクは出場停止処分が重なり、主力数名を欠いた布陣で臨んだ。

◇前半戦
試合は開始5分に中山のポストプレーから長谷川がシュートを放ち、クロスバーに弾かれバウンドした所を三浦知がヘディングで押し込み、日本が早々と先制する。その後は勝利でしか望みをつなげないイラクが同点を狙い、日本が堅守からカウンターを仕掛ける展開となり、前半は1-0のまま終了した。
他会場の前半は『サウジアラビア 2-1 イラン』『韓国 0-0 北朝鮮』で、このスコアのままだと日本とサウジアラビアが勝ち抜けとなる。

[匿名さん]

#4862020/03/25 06:39
◇後半戦
後半に入るとイラクのサイド攻撃が活発になり、55分にアーメド・ラディがセンタリングをゴールへ流しこみ、1-1の同点に追いついた。日本は特に中盤の運動量が落ちてセカンドボール回収がままならなくなり、以降イラクが更にボール支配率を高めて攻勢を強めていく[2]。他会場ではサウジアラビアと韓国が得点を重ねており、日本は劣勢下で勝ち越すことができなければ予選敗退となる。
イラクは何度か決定的なチャンスを掴むが得点には結びつかず、64分には日本のDFとGKをドリブルで抜いたアラー・ジェベルが無人のゴールにシュートするも外す。逆に日本は69分にラモス瑠偉のスルーパスをオフサイドラインぎりぎりで抜け出した中山が受け、ゴール右角に決め2-1の勝ち越しに成功した。

◇ロスタイム
その後、イラクの運動量も落ちたことで、膠着状態のまま日本の勝利の時が近づく。89分50秒、ラモスのパスをカットしたイラクは自陣からカウンターアタックを仕掛け、日本の左サイド(バックスタンド側)からコーナーキックのチャンスを得た。このキック前に90分を経過してロスタイムに突入。ここでキッカーのライト・フセインはゴール前に直接センタリングを送らず、素早くショートコーナーを開始。意表を突かれた日本は三浦知が対応するが、フセイン・カディムに振り切られセンタリングを上げられる。これをニアポスト側にいたオムラム・サルマンがヘディングシュート。ボールは、見上げるGK松永成立の頭上を放物線を描いて越えゴールに吸い込まれ、同点となった(90分17秒)。

[匿名さん]

#4872020/03/25 06:40
イラクの同点ゴールが決まった瞬間、控えを含めた日本代表選手の多くが愕然としてその場に倒れ込んだ。その後、日本はキックオフからすぐ前線へロングパスを出すも、ボールがそのままタッチラインを割ったところで主審のセルジュ・ムーメンターラーの笛が鳴らされ、2-2の引き分けで試合終了となった。

◇試合終了後
終了後、ピッチ上の日本代表選手の多くはその場にへたり込んだまま動けず、控え選手やスタッフに声をかけられ、夢遊病者のようによろよろと立ち上がるという状態だった。キャプテンの柱谷哲二は両手で顔を覆って号泣し、ハンス・オフト監督と清雲栄純コーチに支えられながらピッチを後にした。左サイドバックの勝矢寿延は、これまで惨敗でのワールドカップ地区予選敗退のイメージがあったため、引き分けという結果で予選敗退という状況が呑み込めておらず、他の選手がピッチにへたりこむ様子を見て不思議に思ったという。

日本−イラク戦より数分早く終了した他会場の結果が、『サウジアラビア 4-3 イラン』『韓国 3-0 北朝鮮』だったため、サウジアラビアと韓国が本大会への出場権を獲得。得失点差で韓国に及ばず3位に転落した日本は出場権を逃した。「日本リード」を聞かされていた韓国の選手達は勝利後もうつむいていたが、「日本同点、試合終了」の結果を知ると一転して歓喜に包まれた。

[匿名さん]

#4882020/03/25 06:42
■放送

日本では、テレビ東京およびNHK BS1がテレビ中継を、ニッポン放送がラジオ中継を行った。

テレビ東京の放送では、現地実況を久保田光彦アナウンサー、解説を前田秀樹が務めた。東京のスタジオでは金子勝彦が司会を務め、ゲストとして釜本邦茂(当時:ガンバ大阪監督)、森孝慈(当時:浦和レッズ監督)、当時の日本代表主将・柱谷哲二の実兄である柱谷幸一(当時:浦和レッズ選手)がいた。ロスタイムの同点ゴール時には久保田が「決まった!」と叫んだあと久保田、前田ともに一言も発せず、日本の制作スタッフは放送事故かと慌てたという。沈黙が30秒近く続いたあと、ようやく久保田が「仕方ないですね」と発した。試合終了後、スタジオに画面が戻ってきても、金子、釜本、森、柱谷の四者とも呆然として何も言うことができず、特に柱谷は放送中にも関わらず頭を抱え込み泣いていた。森はロスタイムの同点劇について「これがサッカーなんですよ」とコメントし、金子は「サッカーの世界では、天国と地獄を見て初めて本当のサポーターになれる」との言葉を紹介した。柱谷は、金子から「お辛いでしょうけど」と促され、絞り出すように「1カ月、辛かっただろうけど、胸を張って帰ってこい」と弟の哲二ら選手にメッセージを送った。番組の視聴率は日本時間の深夜帯にもかかわらず、同局史上最高の48.1%を記録した。

[匿名さん]

#4892020/03/25 06:43
NHK BS1の放送では実況を山本浩アナウンサー、解説を田中孝司が務めた。スタジオでは友田幸岐が司会を務め、解説は岡田武史と田嶋幸三が担当した。試合終了後、岡田は言葉を詰まらせ、友田は「サッカーの怖さが出ました。何もこの試合じゃなくても良かったんじゃないかと…」とコメントした。岡田はこの4年後、1998年フランスワールドカップ最終予選中に急遽日本代表監督を引き継ぎ、ワールドカップ初出場を決めることになる(ジョホールバルの歓喜)。

ニッポン放送のラジオ中継は、実況が師岡正雄アナウンサー、解説は小谷泰介が務めた。イラクの2点目(同点ゴール)の直後に、小谷が「何ということだ……」とコメントしている。フジテレビでドーハの悲劇の映像が流れる際にはこのニッポン放送の実況音声が使われた。

[匿名さん]

#4902020/03/25 06:44
■エピソード

ロスタイムに突入する頃、日本サッカー協会の川淵三郎強化委員長は「(Jリーグ開幕に続いて)こんなにすべてが上手くいっていいのかな」と思っていたが、イラクの同点ゴールが決まった時には「ああ、やっぱりな。神様はそうさせるはずはないって、本当にそう思った」という。川淵は、この試合がテレビ放映で高視聴率を記録したというだけでなく、国民感情の振幅も大きく日本国民にサッカーの面白さを強烈に印象付けることとなり、オリンピックをも上回る最大のスポーツイベントであるFIFAワールドカップの人気を日本に定着させることになったと評価した。
最終予選のベストイレブンに、参加6か国では最多となる松永、柱谷、ラモス、三浦知の4名が選ばれており、表彰式に参加するよう日本サッカー協会に要請が来ていたが、当時オフト監督の通訳を担当していた日本サッカー協会強化委員会の鈴木徳昭総務担当が柱谷に確認したところ、みんなの判断で行けないとのことだったため、鈴木総務担当と川淵強化委員長、小倉純二だけで出席することとなった。鈴木総務担当は、「それはそれでそのときのどうしようもない判断だったけど、本来は結果にかかわらず、どんな悲惨なことがあったとしても、行かせなければいけなかったのかもしれない、とあの後すぐに思った」と回顧している。また鈴木は、FIFA関係者のドイツ人から「これがサッカーだよ」という言葉を投げかけられ「こういう経験を私たちサッカー界はあと100年の間に何十回も経験しないと、本当の意味で世界を知ることは、世界と伍することはできないんだなと思いました」と語っている。

[匿名さん]

#4912020/03/25 06:45
川淵は日本への帰国便に乗る前、「明日から我々に厳しい批判の声が飛んでくるけれど、それを受け止めて、前へと進んでいこう」と声をかけた。しかし、選手達を乗せたチャーター便が成田国際空港に到着すると、数百人のファンから温かく出迎えられた。多くのマスコミやファンは、ワールドカップ出場を直前で逃したにもかかわらず、この結果を好意的に受け止めた。しかし、こういった反応はワールドカップ出場をギリギリで逃した選手たちにとって複雑なものだったという。松永は、「日本はサッカー先進国に向かっている途中だからこうなんだ。これがドイツやブラジル、スペインだったらこういう歓迎のされ方はしないんだろうな。これから代表を背負って戦っていく選手たちに対して、ここでブーイングされるときこそが本当の日本のサッカーのスタートなんだな」と感じたという。また実際に現場で取材したベテラン記者の中には、こうした国内の反応を苦々しく思う者もいたらしい。

試合終了の数時間後に発行された読売新聞10月29日付朝刊では、すでに解説文中で「ドーハの悲劇」という言葉が使われていた。現地で取材した読売新聞記者は、1986年のUEFAチャンピオンズカップ決勝で優勝候補のFCバルセロナがステアウア・ブカレストにPK戦で敗れた「セビリアの悲劇」を思い浮かべながら記事を書いたという。その日以降、ほかの新聞や雑誌でも「ドーハの悲劇」というフレーズが用いられた。

[匿名さん]

#4922020/03/25 06:46
韓国の選手は本戦出場決定に大喜びし、試合後にホテルで祝勝パーティーを行った。しかし、部屋に戻りテレビで日本の選手・サポーターが泣く映像を見ると、誰もが声を失ったという。なお、日本と韓国はドーハの同じホテルに泊まっており、サンフレッチェ広島に所属していた盧廷潤の好意で焼肉とキムチをお裾分けしてもらったこともあった。
この試合の結果、自力での本大会出場の可能性がなかった韓国が本大会出場を決めたため、韓国国内では「ドーハの奇跡(도하의 기적)」と呼ばれている。その後、大韓サッカー協会は同点ゴールを決めたオムラムを韓国に招待して国賓級の待遇をもてなし、韓国のテレビ番組でも英雄扱いされた。協会国際部の部屋には、オムラムのサインボールが飾られた。なお、2006年アジア競技会カタール大会の野球競技で、大会3連覇を目指した韓国代表がチャイニーズタイペイと日本代表に連敗したショックを、韓国では「ドーハの悲劇」と表現することがある。

日本のフジテレビもオムラムらイラク代表選手数名を日本に招待し、ニュース番組でドーハの悲劇の感想を聞いたり、バラエティ番組「明石家さんまのスポーツするぞ!大放送」で芸能人らとのリベンジマッチを行わせたりもした(1994年4月8日放送分)。

[匿名さん]

#4932020/03/25 06:47
■分析

◇オフト采配
日本サッカー協会強化委員会は同年11月5日に定例会議を開き、「修羅場での経験不足」を理由に翌1994年5月まで契約が残っていたオフト監督の解任を決定した。10日に川淵三郎強化委員長とオフト監督との間で会談が開かれ、翌11日に退任が正式発表された。

サッカー専門誌では、ハンス・オフト監督の作り上げた組織的サッカーが、この予選中でアジアトップレベルのサッカーを披露したとし、その功績を認めながらも、オフト監督自身の指導力の限界を指摘した。

オフトは1992年3月に代表監督に就任すると、前任の横山謙三監督時代の選手を継続起用しながら、「アイコンタクト」「トライアングル」などの規律を浸透させ、同年8月のダイナスティカップと同年10月のアジアカップで初優勝するなど短期間でチーム力を向上させた。しかし、ワールドカップ・アジア1次予選(1993年5月)まで1年しかない状況でレギュラーをほぼ固定してチームを強化したため、新戦力の導入は進まなかった。1993年1月のカールスバーグカップ(香港)に参加した日本選抜チームの若手や、開幕したJリーグで好調な選手をサブメンバーに補強してみたものの、主力選手の故障・不調が重なると選手層の薄さが深刻な問題になった。

[匿名さん]

#4942020/03/25 06:49
特に左サイドバック (SB) の都並敏史が左足を亀裂骨折した影響は大きく、左サイドで三浦知・ラモス・都並のヴェルディトリオが絡みながら、都並の攻撃参加を引き出すという武器が失われた。オフト監督と清雲コーチは70試合のスカウティングを重ねたが、都並の代役になりうる攻守のバランスがとれたバックアップは見つからなかった。悩んだオフト監督は「街で『あなたサッカーやってませんか?左サイドバック、できませんか?』と聞いて回りたいくらいだ」と清雲コーチに真顔で話したという。スペイン合宿でのレアル・ベティスとの練習試合では江尻篤彦をテストするも満足できず、最終予選の壮行試合を兼ねたアジア・アフリカ選手権(10月4日)ではボランチの三浦泰年を左SBに起用し[注 2]、一応の目途がついたと思われたが、最終予選第2戦でイランに三浦泰のいる左サイドを執拗に狙われ、第3戦以降はセンターバック(もしくは右SB)が本職の勝矢を左SBにコンバートした。勝矢は北朝鮮のキーマンであるキム・グァンミンを完封するなど守備面で貢献したが、攻撃面とのバランスは解決しなかった。

[匿名さん]

#4952020/03/25 06:50
イラク戦の後半、日本は中盤の運動量が落ちてボールを回収できず、ディフェンスラインが下がりっぱなしになりイラクの波状攻撃を浴びる状態だった。ピッチ上の選手は中盤のカンフル剤となる北澤豪の投入を望んでおり、ラモスはベンチに向かって「キタザワー」とリクエストしていた。しかし、オフト監督は韓国戦と同じく「長谷川→福田正博」「中山→武田修宏」という前線2人の交代を行い、結果的に劣勢を挽回する事が出来なかった。清雲コーチは「中盤の選手を入れると、イラクのディフェンダーが上がってきてプレッシャーがきつくなる。それが嫌だったんです」と交代策の意図を説明する。結果論にすぎないが、北澤は後に「やはり(あの交代は)間違いだったと思う」と述べている。

[匿名さん]

#4962020/03/25 06:51
◇チームの内情
オフトジャパン人気との相乗効果で、同年5月のJリーグ開幕は社会現象的な注目を集め、選手たちは期待と関心に応えるため、アマチュア時代とは全く異なるプレッシャーの中でプレーしていた。さらに、延長・PK戦にもつれることもある試合が週2回ペースで続き、厳しいスケジュールでコンディションを崩す選手が続出した。北澤と都並は足を疲労骨折し、柱谷は風邪が治りきらないまま出場し続けたためウイルス感染で肝機能を低下させ8月上旬から入院した。福田は所属する浦和レッズの成績低迷で自信を失っていた。代表のキャンプは野戦病院のようで、オフトはそこで鍛える事よりも、コンディションを普通の状態に回復させることに苦労していた。最終予選1カ月前のスペイン合宿は戦術の最終チェックを行う目的だったが、レギュラーに怪我や病気が相次ぎ、この時期にメンバーの再選考をしなければならないという誤算が生じた。合宿中、チーム状態が上向かないことに苛立ったラモスが「ああ、つまんねえ!帰りたいよ、日本に」と癇癪を起したこともあった。

イラン戦の敗戦で崖っぷちに立たされた日本は、オフト監督の「3WIN(残り3試合を全勝する)」というメッセージで気持ちを切り替え、活気を取り戻した。北朝鮮戦で圧勝し、次の韓国戦ではカズのスタンドプレーによる先制点を守り切って勝利し、最下位から一転首位に躍り出た。都並によると、本当はあと1つ勝たなければならないにも関わらず宿敵韓国に勝利した事で日本の選手達の間ではワールドカップ行きが決まったような雰囲気が生まれ、ラモスが選手たちに「まだ終わっていない」としつこく言っていた。

[匿名さん]

#4972020/03/25 06:51
イラク戦のハーフタイム中、ロッカールームに引き上げてきた選手たちは、オフト監督が3度も「Shut Up(黙れ)!」と怒鳴らなければならない程の興奮状態にあり、オフト監督の戦術説明を聞かず勝手に修正点を話し合っていた。清雲コーチによれば「選手たちの会話がどこで起こっているのかわからない異様な状況」で、「そんな混乱が続く中でオフトが『U.S.A. 45min』とホワイトボード上の模造紙に書いて説明しようとしたら、後半のブザーが鳴ってしまった」という。

後半ロスタイム突入間際、日本はカウンターから敵陣深くへ侵入したが、途中出場の武田はボールをキープせず、味方が詰め切れていないゴール前へセンタリングを上げた。そのルーズボールを回収したラモスも、最終ラインの裏へ浮き球のスルーパスを通そうとしてカットされた。そこからイラクの同点ゴールにつながるカウンターが始まった。オフト監督は後に「ゲームの作り方(組織戦術)は教えたが、ゲームの壊し方(試合を逃げ切る方法)は教えることが出来なかった」と語っている。また、吉田光範によれば、前の韓国戦も1-0でリードした残り10分間の内容が不安定で、オフト監督は「キープ・ザ・ボール!」と声を嗄らして叫んでいたという。

[匿名さん]

#4982020/03/25 06:52
◇イラクの健闘
最終予選の対戦国ではサウジアラビアと韓国が難敵になると予想されていたが、オフト監督はイラクを「危険なチーム」として一番マークしていた。井原は「試合が始まってみて、こいつら、まだこんなに走れるのかよと驚いた」、堀池は「運動量もテクニックもあるモダンなサッカーに走らされて、身体も心も追いつめられていった」と述べている。イラクの選手は後半ロスタイムに同点とすると、センターサークルにボールを戻して日本のキックオフを待ち、最後まで勝利を目指す姿勢を見せた。奮闘の理由として、イラクオリンピック委員長ウダイ・フセイン(サダム・フセインの長男)から「日本に敗れたら鞭打ちの刑に処す」と脅されていたという。

イラクは最終予選を通して不利な判定を受けており、イラクが湾岸戦争の「敵国」アメリカで開催されるW杯へ出場することを阻止する配慮があったのではないかとまことしやかに囁かれた。日本戦では出場停止中だった主力選手2名が復帰するはずだったが、試合当日朝にペナルティーの延長が決まった。ラモスは主審の笛が日本寄りな雰囲気を感じ取り、オフサイドかどうか微妙な場面ではそのまま流すことも想定していた。69分の勝ち越しゴールの場面では、中山が確実にゴールを決められるよう、中山がオフサイトポジションに出た瞬間を狙ってスルーパスを出した。ゴールシーンをベンチ正面から見ていた都並は「こりゃオフサイドだ、これ、くれるか」と呟いたという。

[匿名さん]

#4992020/03/25 06:53
ロスタイムに入り主審がいつ試合終了の笛を吹くか分からない状況では、コーナーキックを直接ゴール前へ蹴るのが常識だった。イラクの選手がコーナーにボールをセットする間、柱谷はゴール前の人数と配置を確認して、これなら大丈夫と思ったという。しかし、日本選手の予想を裏切り、イラクのフセインはショートコーナーを選択した。松永は「もしゴールが逆だったら、イラクは電光掲示板を見ていたはず。そうしたら、イラクはショートコーナーなんて絶対やらなかったと思う。あいつらはロスタイムだってことを知らなかったんだ」と述べている。同年12月22日放送のNHKクローズアップ現代「空白の17秒 〜日本がW杯にもっとも近づいた日〜」でフセインはインタビュー答え、「試合に夢中で、時計を見る余裕がなかったので、時間が残っているのかいないのか分かりませんでした」と語った。

柱谷哲二はのちに最後のコーナーキックの守備について、「マークについていなかった。ゴール前に密集していればクリアできるものだと思った」と語った。
イラクがコーナーキックを始める前、ラモスがレフェリーにポルトガル語で「アカボウ(これで終わり)?」と尋ねると、「スィ(イエス)」と答えたという。ラモスはコーナーキックを蹴った時点で試合終了になると思ったが、イラクがショートコーナーを繋いでも終了の笛は鳴らなかった。のちに、川淵が主審になぜ前半はロスタイムを取らなかったのに後半は取ったのかと尋ねると、後半途中にイラクの観客がピッチへ投げ込んだコカ・コーラの瓶を拾って副審へ渡しに行った時間を加えたと教えられた。

[匿名さん]

#5002020/03/25 06:55
イラク代表は最終予選を通じて全チーム中1位の得点数を叩き出していた。また日本戦までの星どりは1勝2分け1敗だったが、ワールドカップ本戦出場国の韓国・サウジアラビアを苦しめた上での2分け、唯一の黒星となった北朝鮮戦も後半途中退場者を出すまで2-0でリードしており、日本戦においても主力を多く欠く中での引き分けであった。ラモスも最終予選を振り返った時に強かったチームはとインタビューで聞かれると「間違いなく韓国とイラク。イラクは特にサッカーをよく知っているなと思った」と述懐している。


■その他

アジア最終予選に関しては、イラク戦の結果のみがクローズアップされがちだが、それまでの経過に敗退の原因があるという意見もある。

中山は快勝した北朝鮮戦・韓国戦でも決定的なチャンスが2・3本あり、そこで決めていれば得失点差で大きなアドバンテージになっていたはず、と語っている。
柱谷は「W杯に行けなかったのはイラク戦の引き分けよりもイラン戦の負けが要因だったと思う」「固定メンバーで熟成されていた半面、イランに分析され対応されたときに変化を出せなかった」と語っている。

解説者のセルジオ越後は「時間を稼ぐべきところで稼がなかった」と指摘し、「あの1試合だけじゃなくて、最終予選を通じて取るべきところで取らなかったり、そういうチャンスロストはたくさんあった」とチーム全体の経験不足を指摘している。

[匿名さん]

#5012020/03/25 06:56
最終予選はセントラル方式(中立地開催)だったが、中東の地で開催された点で日本はアウェイの立場だった。福田は「東アジアの2か国に勝ったけど、中東の3か国には勝てていない。ホームとアウェイはそれくらい違うということを、改めて理解すべきだと思う」と述べている。


■参考文献

一志治夫『狂気の左サイドバック 日の丸サッカーはなぜ敗れたか』、小学館、1994年

潮智史『日本代表監督論』、講談社、2002年

大住良之『アジア最終予選』、双葉社、2005年

後藤健生『日本サッカー史・日本代表の90年』、双葉社、2007年

後藤健生『日本サッカー史・日本代表の90年 資料編』、双葉社、2007年

鈴木洋史『天国と地獄 ラモス瑠偉のサッカー戦記』、文藝春秋、1994年

戸塚啓『青の群像 サッカー日本代表クロニクル 1992-2007』、ソニーマガジンズ、2007年

杉山茂樹『「ドーハ以後」ふたたび 世界から見た日本サッカー20年史』、PHP研究所、2012年

西部謙司 『サッカー日本代表システム進化論』、学習研究社<学研新書070>、2010年

『1945-2015 サッカー「戦後70年史」』、ベースボールマガジン社<分冊百貨シリーズ12 永久保存版 全7巻シリーズ③>、2015年

「週刊サッカーマガジン」1993年11月17日号、ベースボールマガジン社

「Sports Graphic Number No.839 ドーハの悲劇 20年目の真実」2013年10月31日号、文藝春秋社

[匿名さん]

#5022020/03/25 06:57
□■【SAMURAI BLUE】■□

【FIFAワールドカップアメリカ'94 アジア地区最終予選】
[ 1993.10.28 ] ドーハ

日本代表 🆚 イラク代表

2 対  2

1 前半 0
1 後半 2

【GOAL】
■日本代表
三浦知良 5´
中山雅史 69´

■イラク代表
アーメド・ラディ 54´
オムラム・サムラン 89´


【メンバー】
■日本代表
GK 松永成立 イエローカード
堀池巧
柱谷哲二 (Cap.)
井原正巳
勝矢寿延 イエローカード
森保一
ラモス瑠偉
吉田光範
長谷川健太 ▼59' OUT
中山雅史 ▼80' OUT
三浦知良

【SUB】
福田正博 ▲59' IN
武田修宏 ▲80' IN
GK 前川和也
都並敏史
大野俊三
三浦泰年
高木琢也
黒崎比差支
北澤豪
大嶽直人
澤登正朗

【監督】
ハンス・オフト(オランダ)


■FIFAワールドカップアメリカ'94 アジア地区最終予選 結果

・1993/10/15 ドーハ
日本代表 0-0 サウジアラビア代表
・1993/10/18 ドーハ
日本代表 1-2 イラン代表
・1993/10/21 ドーハ
日本代表 3-0 朝鮮民主主義人民共和国代表
・1993/10/25 ドーハ
日本代表 1-0 韓国代表
・1993/10/28 ドーハ
日本代表 2-2 イラク代表

[匿名さん]

#5032020/03/29 00:37
中田 英寿(1977年1月22日 - )は、山梨県甲府市出身の元サッカー選手。元日本代表。愛称は「ヒデ」。国際サッカー評議会(IFAB)諮問委員。株式会社東ハト執行役員。一般財団法人「TAKE ACTION FOUNDATION」代表理事。観光庁「アドバイザリー・ボード」メンバー。

■愛称
ヒデ
■生年月日
1977年1月22日(43歳)
■出身地
山梨県甲府市
■身長
175cm
■体重
72kg

■選手情報
◇ポジション
MF
◇利き足
右足

■ユース
1985–1988
北新サッカースポーツ少年団
1989–1991
甲府北中学校
1992–1994
韮崎高校


■クラブ
出場
(得点)
1995–1998
ベルマーレ平塚
85
(16)

1998–2000
ペルージャ
48
(12)

2000–2001
ASローマ
30
(5)

2001–2004
パルマ
67
(5)

2004
ボローニャ (loan)
17
(2)

2004–2006
フィオレンティーナ
20
(0)

2005–2006
→ボルトン (loan)
21
(1)

■通算
289
(41)

■代表歴
1991–1993
日本 U-17
6
(2)

1994–1995
日本 U-20
12
(6)

1995–2000
日本 U-23
12
(3)

1997–2006
日本
77
(11)

[匿名さん]

#5042020/03/29 00:39
日本代表のFIFAワールドカップ(以下W杯)3大会連続出場に貢献。FIFA100選。アジア年間最優秀選手賞2回。イタリア政府よりイタリア共和国功労勲章(カヴァリエーレ)受章。U-17世界選手権(現在のU-17W杯)、ワールドユース(現在のU-20W杯)、U-23オリンピック、コンフェデレーションズカップ、W杯、以上のナショナルチーム主要世界大会すべてでゴールをあげた唯一の日本人選手である。


■来歴

◇ユース時代 - Jリーグ(-1997年)
小学3年生、8歳のときに兄の影響で北新サッカースポーツ少年団に入団してサッカーを始めた。甲府市立北中学校3年生のとき、U-15(15歳以下日本代表)に選抜された。このとき指導していた中学校の監督は、関東選抜の一員であったがレギュラーではなかったため、落選するだろうと思っていたので、スタッフに選考理由を尋ねると「世界で戦うには、少しばかりのテクニックよりもフィジカル面の強さの方が大切。技術面では中田君より上の選手はたくさんいるが、フィジカル面の強さでは、彼はいいものを持っている。そこを評価した」と言われたという。当時はFWとして登録されていた。U-16アジアユースで世界への第一歩を踏み出して以後は、全ての年代別日本代表に選出され、年代別の世界大会であるU-17世界選手権、U-19アジアユース、ワールドユース、オリンピック(23歳以下)には全て「飛び級」で出場した。オリンピックには19歳でアトランタオリンピック、23歳でシドニーオリンピックと、2回出場している。韮崎高校2年の時には第72回全国高等学校サッカー選手権大会に出場している。

[匿名さん]

#5052020/03/29 00:40
Jリーグに加盟する全12クラブ(当時)のうち11クラブからオファーを受け、その中から横浜マリノス、横浜フリューゲルス、ベルマーレ平塚の練習に参加した上で、1995年ベルマーレ平塚に加入。翌年、ゲームメイクの能力を買われトップ下にコンバートされた。

1996年アトランタ五輪に出場し、後に「マイアミの奇跡」といわれるブラジル五輪代表戦勝利に貢献した。次戦のナイジェリア五輪代表とは、強化試合やU-17世界選手権(現U-17W杯)で対戦していた中田は、勝てない相手ではないと判断。ハーフタイムには日本のDF陣に対して「もっとラインを押し上げてくれないと攻撃できない」と意見するが、前半、日本のDF陣は身体能力に物を言わせて攻めまくるナイジェリアに圧倒されており、中田英寿の意見は受け入れ難いものだった。それを見咎めた西野朗監督に叱責され、信頼を失って最終戦は外された。同じく下の世代から選出されたDF松田直樹も、実は中田と同じ意見であったが、世界を知らない上の世代には言ってもわかってもらえないと思い黙って見ていたという。同年のシーズンオフに、イタリア・セリエAの名門ユヴェントスへ短期留学。期待したトップチームではなく下部での練習であったが、海外に目を向けていることを窺わせた。「平塚に行って良かったと思っています。平塚でプロを始めたから今がある。ペルージャに行くときにも、本当に気持ちよく送り出してくれた。」と語っている。韮崎高校時代には「サッカーしか知らない人間にはなりたくない」と、資格取得にも挑戦した。

[匿名さん]

#5062020/03/29 00:41
1997年に韓国との親善試合でフル代表に初招集され、先発デビューを飾る。以後、レギュラーに定着し、W杯アジア最終予選で苦しむフル代表をW杯初出場へと導く原動力となった。アジア予選の成績不振により加茂代表監督が更迭され、岡田ヘッドコーチが監督に就任すると、アウェイのウズベキスタン戦でスターティングメンバーから外されて後半から出場することになったが、これ以後、監督の構想から外れるという理由で代表から外された事は一度もない。アジア第3代表決定戦となったプレーオフ・イラン戦では、中山雅史、城彰二、岡野雅行の上げた全てのゴールの決定機を作る活躍で勝利に貢献、『ジョホールバルの歓喜』と称して語られている。中田自身も、この試合の結果があったから国内外でメディアに注目され、同年12月に各国のスタープレーヤーを招いて行われた「フランスW杯組み合わせ抽選会記念試合 世界選抜対欧州選抜」に出場することになり(後半途中からはキャプテンマークを巻いてプレーした)、日本代表の責任を負っていくような立場になっていく、ターニングポイントになった試合だったことを語っている。その後引退までに計8回にわたって世界選抜試合に招かれ、引退後も世界選抜試合や親善試合に出場している。

[匿名さん]

#5072020/03/29 00:42
◇ペルージャ - ローマ時代・1998年W杯(1998年-2001年)

2001年ローマは18年振りにスクデットを獲得した。
日本の初出場となった1998年フランスW杯では、チームの核としてグループリーグ全3試合にフル出場。中田のプレーは海外のクラブに認められ、W杯後獲得に名乗りをあげたクラブは12にのぼった。アーセナル、ユヴェントスFCというビッグクラブは、レンタルに出される危険性があったために選択せず、同年7月、21歳でイタリアのセリエA・ペルージャへ移籍金470万ドルで完全移籍した。

1998-1999シーズン開幕戦で、ジネディーヌ・ジダンを擁する強豪ユヴェントスFCから2ゴールを奪うセンセーショナルなデビューを飾ると、年間10得点(うちPK4得点)をあげるというミッドフィールダーとしての当時の日本人海外リーグ最多得点記録を打ち立て、イタリアの有力スポーツ誌グエリン・スポリティーボが選出するセリエA初年度の外国人選手を対象にしたセリエAサプライズ賞に選ばれた。

1999-2000シーズン開幕前には中田に興味を示す欧州のクラブが続出したが、ペルージャが移籍金を釣り上げたため契約には至らなかった。この時点で最も獲得に熱心だったクラブはリーグ・アンのASモナコといわれる。シーズン途中に1600万ドルで名門ASローマへ移籍。これは監督だったファビオ・カペッロの強い希望により実現したものとされる。当初はボランチで起用されることが多く、フランチェスコ・トッティが欠場した時などに従来のポジションであるトップ下で出場した。しかし、トッティが復帰すると再びボランチで起用され、外国人枠の問題もあり、徐々に途中出場が多くなっていった。

[匿名さん]

#5082020/03/29 00:42
2000-2001シーズンは大型補強でローマの選手層が厚くなったため、開幕から首位を独走するローマではベンチを温める日々が続いた。スタメン出場も僅か5試合に留まったが、シーズン終盤の敗戦濃厚だったユベントス戦を途中出場から引き分けに持ち込み存在感を示し、日本人で初めてセリエA優勝メンバーとなった。

2000年シドニーオリンピックではU-23代表の一員として決勝トーナメント進出に貢献したが、アメリカ戦でPK戦の4本目を失敗し、チームはベスト8で大会を去ることになった。この頃から「海外組」の先駆者として、日本での代表活動と欧州リーグ戦のスケジュール調整が厳しくなる。2001年のコンフェデレーションズカップでは、セリエAの首位を走っていたASローマと日本代表監督フィリップ・トルシエとの間で、中田の招集を巡って軋轢が起こった。「グループリーグ3試合のみ」という条件で日本に帰国して戦ったが、日本代表がグループリーグを突破すると、トルシエは中田に準決勝以降も出場するよう要請した。日本サッカー協会とASローマとの話し合いの結果、準決勝まで参加を延長し、その後イタリアに戻ることになった。中田自身も「日本人初のセリエA優勝」の瞬間に立ち会うことを望んでいた。準決勝では豪雨の中、強いグラウンダー(ゴロ)のフリーキックで直接ゴールをあげ、このゴールが決勝点となって日本をフル代表初の国際大会決勝に導き、チームを離れた。

[匿名さん]

#5092020/03/29 00:43
◇パルマ時代・2002年W杯(2001年-2003年)
2001年、パルマは獲得を目指していたルイ・コスタがACミランに移籍した事もあり中田を獲得。移籍金は当時アジア人選手最高額の約33億円にのぼった。レンツォ・ウリヴィエリ監督の下、トップ下でプレーしたが、高額な移籍金に見合うパフォーマンスを発揮したとは言いがたく、チームの成績も振るわなかった。ウリヴィエリの更迭後は監督が次々と交代し、レギュラー争いの日々となっていった。一方、イタリア杯では準決勝のブレシア戦で1ゴール1アシスト、決勝のホームアンドアウェイ方式で行われたユヴェントスFCとの第1戦で1ゴールをあげた。チームは1-2で第1戦を落としたが続く第2戦でパルマが1ゴールをあげ合計2-2となり、結果的にアウエーゴール方式によりパルマの優勝が決まった。これがパルマ最後のタイトルとなっている。

25歳で記念すべき地元開催となった2002年日韓W杯に出場。精神的にもチームを牽引する中心選手として、グループリーグ3試合、決勝トーナメント1試合の全試合に出場した。グループリーグのチュニジア戦では、ヘディングで自身のW杯初ゴールを記録した。

2002-03シーズンから指揮をとったチェーザレ・プランデッリ監督には右サイドハーフでレギュラーとして起用される。アドリアーノ、アドリアン・ムトゥと共に構成された攻撃陣はイタリアメディアから『トリアイナ(三叉の槍)』と称される高い攻撃力を発揮し、中田は敵地でのユヴェントス戦で先制点を決めるなどユヴェントス・キラーとしても賞賛された。しかしシーズン後半になると、手数をかけずFWに預ける守備的なチーム戦術へ変更された影響を受け、中田は攻撃よりも右サイドでの守備に奔走することを求められていった。

[匿名さん]

#5102020/03/29 00:44
◇ボローニャ-フィオレンティーナ時代 (2004年-2005年)
2003-04シーズン冬の移籍市場で、中田に信頼を寄せるマッツォーネ監督率いるボローニャへ半年間のレンタル移籍を決断する。センターハーフを任された中田は、移籍初戦と次節の2試合連続のアシストによってチームメイトの信頼を得た。以後、セリエAと日本代表の全試合にフル出場する過密日程をこなし、サッカー選手の職業病ともいえるグロインペイン症候群(鼠径部痛症候群)を発症するが、ボローニャのセリエA残留に貢献して恩師の期待に応えた。シーズン末、マッツォーネは中田の完全移籍を熱望し、中田側もパルマの給料未払いを相殺することで資金のないボローニャを援助する形で移籍する計画を遂行しようとしていた矢先、パルマが子会社の粉飾決算により破産。ボローニャはレンタル元であるパルマ側の破産管財人が要求した金額と年俸を工面できず頓挫した。

2004-05シーズン直前にACFフィオレンティーナへ完全移籍。シーズン前の合宿までの2か月あまり、日本でグロインペインの治療に専念した。しかし、低調なプレーに終始して現地ファンに酷評され、クラブと日本代表の両方の出場機会を失った。2005年3月にサテライトの試合で結果を出すと、すぐにドイツW杯アジア最終予選に招集され、予選を突破した。クラブにおいても翌シーズンに向けての決意を新たにしたところ、2005-06シーズンから、パルマ時代に確執があったプランデッリが監督に就任することを知り、急転直下、移籍することにした。

[匿名さん]

#5112020/03/29 00:45
◇ボルトン時代・2006年W杯(2005年-2006年)

2006年W杯でウォーミングアップをする中田
2005年、7年間過ごしたイタリアを離れ、28歳でイングランド・プレミアリーグのボルトン・ワンダラーズにレンタル移籍。加入後すぐにレギュラーを掴んだ。ウェスト・ブロムウィッチ・アルビオン戦で、フリーキックからプレミアリーグの初ゴールを記録する。まもなく日本代表の親善試合に招集されたが、サム・アラダイス監督はコンディションを憂慮して難色を示したのに対して中田は招集された代表戦に全て出場し、やがてアラダイス監督の信頼を失い、主にリーグ戦の途中出場とカップ戦の出場になっていった。しかし、リーグ戦終盤には5試合連続で先発出場。チームの勝利に貢献し、ドイツW杯を前に懸念されていた試合勘の問題も払拭した。ただし、ボルトンはロングボール戦術を中心とするチームだったため、その能力をフルに発揮出来たとは言い難い。

2006年6月、29歳で自身3大会連続3度目となるドイツW杯のグループリーグ全3試合にフル出場。1分2敗で決勝トーナメントには進出できなかった。ブラジル戦では力の差を見せつけられ、疲弊させられて手も足も出ない状況に陥るが、試合終了の笛が鳴るまで走り抜き、ピッチに倒れた。そこから立ち上がってセンターサークルへ行くと仰向けに倒れ込んだ。

[匿名さん]

#5122020/03/29 00:46
◇引退 - フリーランス(2006年-2016年)

ドイツW杯をもって日本代表から引退する事は以前から決まっていたが、2005年11月、中田は代表引退と同時に引退の意向を所属事務所社長の次原悦子に初めて話した。その後の話し合いで次原は中田の引退の意思が固い事を確認し、引退プロジェクトが始動。2、3月には守秘義務契約を交わした上で各スポンサーに報告を行った。また、現役最後の試合となったW杯のブラジル戦の前に監督のジーコには、この試合が引退の試合になるという事を伝えている。

2006年7月3日、自身の公式HP 上で引退を表明。「あらゆる人に、できるだけ同時にニュースが伝わるタイミングを狙った(次原談)」との理由で日本時間21時の発表となった。チームとの契約は残っていたが、「もうお金はいらないから契約を切ってほしい」とチームと話し合い契約を解除してもらった。

引退の記者会見を開かなかった理由については、ヨーロッパでは開く人はいないからと答えており、引退の理由にケガは関係なく、引退したのはサッカーを好きな部分が長きに渡って楽しめなくなったからと後のインタビューで答えている。

[匿名さん]

#5132020/03/29 00:47
以後は世界各地を旅しており、見聞を広めながら自分にできることを探したいという趣旨の発言をしている。また、サッカーの恩恵に感謝しており、「今後の発展を願っているし、貢献もしたい」と繰り返し語っている。同年12月、2007年7月に開催される第14回アジアカップの組み合わせ抽選会にドロワーとして出席した。

2007年7月モナコ居住権取得。

2007年12月、日本で開催されたクラブW杯の記者会見に出席、引退後初めての公式会見となった。その席でFIFAのブラッター会長は、中田が世界50カ国、150都市以上を旅し、国連のプログラムに協力しながら、サッカーを通じた社会貢献活動を続けていることを高く評価し、世界で16人目となるFIFA親善大使への就任を要請したことを発表。中田は今後FIFAと共にさまざまな活動をしていく考えを述べ、要請を受諾した。

[匿名さん]

#5142020/03/29 00:48
2008年6月、『TAKE ACTION! 2008 実行委員会』を立ち上げ、地球環境に「なにかできること、ひとつ。」をテーマにキャンペーンを行った。その中の企画の一つとして、海外スター選手を招いてのサッカー親善マッチ『+1 FOOTBOOL MATCH』を開催。海外では選手や元選手が世界のスター選手をオーガナイズしてチャリティーマッチや親善試合を行っているが、日本人では初の試みとなるもので、横浜国際総合競技場に約6万3000人の観衆を集めた。この試合は啓発を目的としておりチャリティーマッチではなかったが、来場者に出場選手の直筆サイン入りユニフォームが当たるラッフル(くじ)を購入するという方式で寄付を募り、寄付金はミャンマー・サイクロン食糧支援と、中国・西部大地震復興支援に全額寄付された。また、中田の主旨に賛同したルイ・ヴィトン主催によるチャリティー・ガラにおいて、「中田チームと試合できる」権利が800万円で落札されるなど約2900万円の収益をあげ、アフリカのマラリア対策のための蚊帳を購入する資金として寄付され、翌年の5月には中田本人がアフリカに行って配布に参加し、配布状況を見届けている。 また、『TAKE ACTION! 2008 実行委員会』は、収益の中から岩手・宮城内陸地震へ義援金を寄付した。この取り組みは、高校生向けの倫理副読本「最新図説倫理」(浜島書店)に掲載された。

[匿名さん]

#5152020/03/29 00:49
2009年1月、審査団の一員として選出方法から参画していた、アラブ系最大サッカー雑誌の『Super』誌による年間最優秀アジア選手、年間最優秀アフリカ選手、年間最優秀アラブ選手の表彰式に出席、年間最優秀アジア選手賞のプレゼンターを務めた。審査委員長は、著名なレフェリーだったピエルルイジ・コッリーナが務めている。同月、メンバー6名からなる国土交通省観光庁の有識者会議「観光庁アドバイザリー・ボード」に、世界各地を回った経験が評価された中田が選ばれ、定期的に会合に出席してアドバイスをしていくこととなった。


チャリティマッチに出場した中田(2011年)
また、一般財団法人「TAKE ACTION FOUNDATION」を立ち上げ、代表理事に就任[28]。4月には、TAKE ACTION FOUNDATIONの初事業として、中田の郷里である甲府市の信玄公祭りに合わせ、山梨県サッカー協会主催のヴァンフォーレ甲府との親善試合と、TAKE ACTION F.Cのメンバーがコーチとなるサッカー教室が行われた。収益の一部から、アフリカへのサッカーボール2万個の寄付と教育プログラムが実施され、また、甲府市が行うサッカーの機会拡大のための地域活性プロジェクトへ250万円を寄付した。

[匿名さん]

#5162020/03/29 00:49
同月から、フジテレビ「すぽると!」月曜日「マンデーフットボール」に半年間月1回不定期で録画出演した。6月、ローマ時代の元同僚であるヴァンサン・カンデラの引退試合に出場。選手時代と同じ「8」の番号を付けたユニホームでスターティングメンバーとしてスタディオ・オリンピコのピッチに立った。9月、週刊誌『AERA』に日本全国を周る旅について綴るコラムの連載を開始。同月、FIFAとコカ・コーラ共催の「コカ・コーラ FIFAワールドカップトロフィーツアー」のアンバサダーに就任。11月には、これまでのアフリカへの支援活動により、アフリカ各国の大使らが構成する在日本アフリカ外交団から表彰を受けた。

2010年2月、湘南ベルマーレのJ1昇格記念試合『We're back』では、TAKE ACTION F.C.とベルマーレOBとの親善試合が開催され、また、ハイチ復興支援のための寄付活動も合わせて行われた。同年3月、TAKE ACTION FOUNDATIONでの活動が評価され、世界経済フォーラム(通称「ダボス会議」)の「ヤング・グローバル・リーダーズ2010」に選出された。

ほか、朝日新聞社「AERA」にてコラム「つなぐ」を連載中。

[匿名さん]

#5172020/03/29 00:50
◇IFABのFAPメンバー - 現在(2015年- )

2017年初頭、アジア・フットボール連盟枠で国際サッカー評議会(IFAB)内のルール変更案に対してサッカー面とスポーツ面についての助言を行うFootball Advisory Panelに入っていたことが一部メディアで報じられた。「FIFA入り」と報じるメディアもあったが、IFABはFIFAとは独立した組織である。FIFAの公式サイトでは2015年4月のIFABのFAP立ち上げを発表した記事の時点ですでに中田英寿の名前は明記されていた。

2018年9月13日に、セリエAでデビューしてから20周年と言うことで、イタリアで所属したペルージャからフィオレンティーナまでの5クラブのスタジアムやクラブハウスを訪れる「中田英寿20年目の旅セリエA在籍5クラブを訪ねて」がAbemaTVで放送され、「Number Plus セリエA在籍5クラブを訪ねて 中田英寿 20年目のイタリア」(9月3日発売)として書籍化もされている。

[匿名さん]

#5182020/03/29 00:53
■経歴
1991年4月(14歳中学3年)- 甲府市立甲府北中学校3年生時、U-15に選出
1992年5月(15歳高校1年)- U-17アジアユース選手権出場
1993年8月(16歳高校2年)- U-17世界選手権 4試合中3試合出場、ベスト8
1994年
1月 - 全国高等学校サッカー選手権大会出場、2回戦敗退
9月(17歳高校3年)- U-19アジアユース選手権 全6試合出場、準優勝
12月 - Jリーグ12チーム時代、11チームからオファー。ベルマーレ平塚と仮契約
1995年
2月(18歳高校3年)- プロデビュー(途中出場)東京ドームカップ・対ジュニオール戦
3月 - 公式戦デビュー(Jリーグ)- 3月11日 XEROX SUPER CUP・ヴェルディ川崎戦(国立競技場)
リーグ戦デビュー(Jリーグ) - 3月25日 ジェフ市原戦(市原臨海競技場)
4月 - U-20 FIFAワールドユース選手権 全4試合出場、ベスト8
5月 - プロ初ゴール(Jリーグ)- 5月3日 鹿島アントラーズ戦(平塚競技場)
1996年
7月(19歳)- アトランタオリンピック(U-23) 3試合中2試合出場、2勝1敗、グループリーグ敗退
12月 - アジアカップウィナーズカップ優勝
1997年
5月(20歳)- フル代表初出場 - 5月21日(ワールドカップ日韓共催記念試合)韓国代表戦(国立競技場)
6月 - フル代表初ゴール - 6月22日(ワールドカップ・アジア一次予選)マカオ代表戦(国立競技場)
7月 - Jリーグオールスター戦出場
11月 - フランスW杯アジア地区最終予選 日本3-2イラン 3アシスト(ジョホールバルの歓喜)
12月 - W杯組み合わせ抽選会記念試合 世界選抜対欧州選抜
12月 - 天皇杯全日本サッカー選手権大会出場 3戦2勝1敗
1998年
3月 - ダイナスティカップ優勝
6月(21歳)- フランスワールドカップ一次リーグフル出場 3戦全敗
7月 - セリエA・ACペルージャへ移籍
9月 - シーズン開幕戦(ユベントス戦)で2得点

[匿名さん]

#5192020/03/29 00:54
12月 - イタリアサッカー連盟100周年記念試合 イタリア代表対世界選抜
2000年
1月(22歳)- ASローマへ移籍
8月(23歳)- 世界選抜チャリティーマッチ フランス対世界選抜
9月 - シドニーオリンピック ベスト8
10月 - ジュビレオ杯(イタリア聖年記念試合) イタリア対セリエA外国人選抜
2001年
6月(24歳)- FIFAコンフェデレーションズカップ2001出場 準優勝、1得点
6月 - セリエA優勝(ASローマ 日本人として初)
7月 - ACパルマへ移籍
8月 - チャンピオンズリーグ最終予選出場
2002年
5月(25歳)- コッパ・イタリア優勝
6月 - 日韓ワールドカップ 全4試合出場 ベスト16、1得点
8月 - スーペルコッパ・イタリアーナ出場 準優勝
12月 - レアル・マドリード創立100周年記念試合『世界選抜対レアル』レアル・マドリード対世界選抜
2003年
6月(26歳)- 親善試合 セレッソ大阪対パルマA.C.
6月 - コンフェデレーションズカップ グループリーグ全3試合フル出場、1勝2敗、1得点 グループリーグ敗退
12月 - 貧困撲滅の慈善試合『ロナウド&フレンズvsジダン&フレンズ』(ロナウドチーム)
2004年
1月 - ボローニャへ期限付き移籍
3月(27歳)- 「THE FIFA 100」に選出される
7月 - ACFフィオレンティーナへ完全移籍
11月 - 世界エイズデー 国際慈善試合 バルセロナ対世界選抜 1得点
2005年
2月(28歳)- スマトラ沖地震チャリティーマッチ 世界選抜対欧州選抜
6月 - 「FIFA人種差別撲滅キャンペーン」親善大使に任命される
6月 - コンフェデレーションズカップ グループリーグ全3試合フル出場、1勝1分1敗、グループリーグ敗退
8月 - イングランド・FAプレミアリーグボルトン・ワンダラーズへ1年契約の期限付き移籍
2006年
6月(29歳)- ドイツワールドカップに出場、1分2敗でグループリーグ敗退
7月 - 引退

[匿名さん]

#5202020/03/29 00:55
2007年
6月(30歳)- フィーゴ主催・フィーゴチーム対世界選抜慈善試合(フィーゴチーム)
7月 - 香港の中国返還10周年記念試合 中国代表対世界選抜(世界選抜チームのキャプテン)
12月 - FIFA親善大使就任
12月 - ジーコ主催チャリティーマッチ『JOGO DAS ESTRELAS(スターゲーム)』
2008年
5月(31歳)- フィーゴ主催・フィーゴチーム(世界選抜)対ルーマニア選抜慈善試合(フィーゴチーム)
6月 - 自身主催『+1 FOOTBOOL MATCH JAPAN STARS vs. WORLD STARS』
7月 - フランスワールドカップ世界選抜試合『France 98 Selection mondiale』
2009年
1月 - 一般財団法人『TAKEACTION FOUNDATION』設立、観光庁のアドバイザリーボードメンバーに就任
4月(32歳)- 『TAKEACTION in 甲府』 開催
6月 - ヴァンサン・カンデラ引退試合 1998フランス代表対ローマメンバー
6月 - TAKEACTION!クリック募金「ケニアに10万食の給食を届ける!」(WFP支援プログラム、協力企業 株式会社東芝)
2010年
1月 - 名波浩引退試合に出場 (1月10日、エコパスタジアム)
2月(33歳)−湘南ベルマーレJ1昇格記念試合『We're back FC vs.TAKE ACTION FC』(2月20日、平塚競技場)

[匿名さん]


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