870
2023/11/26 14:42
爆サイ.com 山陽版

サッカー国内





NO.7201210

デッツォーラ島根④
報告 閲覧数 3477 レス数 870

#5212020/03/29 00:56
2011年
1月 - 口蹄疫復興イベント『TAKEACTION in 宮崎』開催(1月10日、宮崎県総合運動公園)
4月 - 東日本大震災チャリティマッチ『TAKEACTION in シンガポール』(4月2日、JALAN BESAR STADIUM)
5月 -       〃       『TAKEACTION in バンコク』(5月17日、SUPHACHALASAI STADIUM)
5月 -       〃       『ペルージャ PER 仙台』(5月23日、STADIO RENATO CURI)
6月 - 98年W杯仏代表GKラマ引退試合『フランス98 vsブラックスターズ vsパリサンジェルマンOB』にゲストプレーヤーとして出場
6月 - 『ASIAN DREAM CUP 2011 inホーチミン』 パク・チソン主催のチャリティーマッチに出場(6月15日、THONG NHAT STADIUM)
2012年
1月 - 松田直樹メモリアルゲームにNaoki Friendsとして出場(1月22日、横浜日産スタジアム)
12月 - 貧困撲滅チャリティーマッチ第10回『ロナウド&フレンズ VS ジダン&フレンズ』に出場(ジダンチーム)

[匿名さん]

#5222020/03/29 00:57
■逸話

◇個人として
イタリア語、英語が堪能で、スペイン語、ポルトガル語、フランス語、ロシア語でも簡単な会話ができるという。高校生のころからセリエAへの移籍を考えてイタリア語の勉強を始め、イタリアへ渡って2か月後には通訳なしで会話できるようになっていた。さらにボルトンへの移籍会見では、50分間通訳を通さず英語で応対。イタリアにいるころから英語の家庭教師についており、英語のインタビューには英語で応じていた。

ファッションが独特でファッションアイコンとして海外でも有名。2007年、米誌『ヴァニティ・フェア』で第68回ベストドレッサー男性部門の第8位に選ばれた。「服が好き」と公言しており、ミラノやパリのファッションショーに出没することも多い。現役時代は帰国する際のファッションがファンやマスコミの注目を集め「成コレ」(成田コレクションの略)と呼ばれた。海外ファッション誌『GQ』に10ページに渡って特集されたこともある。

[匿名さん]

#5232020/03/29 00:58
クールなイメージで多くのCMに出演したが、Jリーグデビュー当時、前園真聖と供に出演した日清ラ王の一連のCMシリーズでは、どちらかといえばサッカー選手として絶頂の時期であった前園がクールな役割だったのに対し、中田は三枚目的な役割で出演しており、今となっては大変珍しいCMである。また、クールなイメージに反して無類のゲーマーであり、子供の頃はアクションゲームやRPGなど、毎日朝から晩までゲームばかりしていたという。『イナズマイレブン2』の隠しキャラクターとしての登場依頼を引き受けた。『3』には自身がプレーしたイタリア代表で登場。また、漫画好きでもあり、海外に住んでいたときも『週刊少年ジャンプ』、『週刊少年マガジン』などの少年誌のほか、『週刊ヤングジャンプ』などの青年誌を毎週欠かさず航空便で送ってもらい、30年ぐらいかかしたことがなかった。中でも『キャプテン翼』はサッカーをはじめるきっかけになった。

[匿名さん]

#5242020/03/29 00:59
マスコミとの激しい確執は広く知られるところである。1996年のナビスコカップの際、日刊スポーツの報道をはじめ、1998年フランスワールドカップ時の一連の出来事[注 1]を契機に記者への不信感が高まり、「真実を伝えない」とマスコミとの軋轢が絶えなくなった。「君が代事件」により、右翼団体から抗議を受けた中田は、身の危険を感じて国際空手道連盟極真会館の黒帯選手たちによるボディーガードをつけていたこともあった。マスコミへの不信感から、自分の言葉を直に伝えるために、ウェブサイトでメールを発信するようになった。このスタイルはスポーツ選手が作るオフィシャルウェブサイトの先駆けとなり、マスコミの前で見せないような素の口調で書く形式で情報発信していった。ワールドカップ日韓大会後は特別番組を組んで生出演、さらにnakata.net TVという自身のテレビ番組も企画構成することで、自らが主体となってメディアを利用するようになっていった。そのnakata.netには木村拓哉も出演経歴があり、クールなイメージの中田が木村拓哉に対し、初対面で「拓哉くん」と呼び、木村に飲まされたと言った際、「電波を使って言うのやめろよ」と注意されたこともある。また、その日が大晦日であったことから、東京タワーに行き、初日の出を一緒に見たというエピソードもある。引退後は、現役時代ほどマスコミとの関係は険悪でなくなっており、2010年、2014年のワールドカップの中継番組でゲスト出演し、多くのサッカー番組にも出演するなどしている。

[匿名さん]

#5252020/03/29 00:59
2005年、貧困問題を訴えるホワイトバンドプロジェクトのクリッキングフィルムに参加。当プロジェクトの日本版は、中田の所属事務所サニーサイドアップが協力している。ファッション性の高さもありバンドは日本中に流行したが、「バンドの購入=寄付」ではないことがアナウンスされていなかったと批判された。同プロジェクトは2008年10月末に解散した。

引退後は、旅をしながら様々な慈善活動に参加している。

大の野菜嫌いでも有名で、子供の時から食べられるのは潰したジャガイモとトマトソースだけで、ハンバーガーは必ず野菜抜きを注文をし、バンズにケチャップを大量に塗って食べる。 野菜を食べない理由は「野菜を食べて得られるものより、嫌いなものを無理して食べるストレスの方が影響が大きい」のと、野菜を食べると蕁麻疹が出ることがあるからだという。

[匿名さん]

#5262020/03/29 01:01
■サッカー選手として

高校進学の際、当時韮崎工業高校の監督で、3度にわたり韮崎高校を選手権準優勝に導いた横森巧からも誘いを受けた。しかし中田は「僕は工業向きではない」と断っている。最初は父親と同じ甲府第一高校への進学を希望していたが、入学の年から校舎改修のためにグラウンドが使用できなくなるのを知り、当時山梨県のトップ選手が集まる韮崎高校を受験することを決め、特別枠だと500満点中270点ほど取れば合格だと聞かされるが、一般受験をする。当時、監督やコーチをしていた新道道也は、学区外だったために420点ぐらい取らなければならないのを心配したが、「460点ぐらい取ってしまった」と語っている。

フランスワールドカップ組み合わせ抽選会記念試合で、初めて「世界選抜」の一員として出場した時、チームの主将だったロナウドが後半で途中交代する際にキャプテンマークを渡されて巻いている。これ以後、世界選抜の記念試合や、ジーコ、ジネディーヌ・ジダン、ロナウド、ルイス・フィーゴら有名選手の主催するチャリティーマッチに多数出場している。ドイツワールドカップのブラジル戦では、入場通路でロナウド、ロナウジーニョ、カカらと談笑する姿が放映され、試合終了直後には、ピッチに倒れている中田にパルマ時代の同僚であるアドリアーノが近寄って腰をかがめ、「ヒデ、人生には、涙を流すときもあれば、笑うときもあるさ。」と慰めるシーンが見られた。

[匿名さん]

#5272020/03/29 01:02
試合に出られなかった日は、試合後にトレッドミルで試合時間と同じ90分間走り、試合に出たのと同じになるように心拍数をあげてコンディション管理をしていたという。また、ボローニャ時代のマッツォーネ監督は、「規律を守り、基本を疎かにせず、さらに自分なりに目的を持ってトレーニングに励んでいた。チームメイトは『ナカタはすぐに腹筋する変な癖がある』と言っていたよ(笑)」と話している。このようなサッカーに対する真摯な姿勢からか、他チームに移籍しても古巣との試合では相手サポーターから拍手が送られることがあった。元日本代表監督のジーコは、どんな状況でもすべての力を注ぐことができるのは大きな才能だと評価した。

引退後の2008年5月、自身が主催するサッカーのエキジビションマッチであるTAKE ACTION! 2008 『+1 FOOTBALL MATCH』に向けた体づくりのため、古巣の湘南ベルマーレの練習にチームウェアを着用して予定日数を超えて参加した。

[匿名さん]

#5282020/03/29 01:02
引退後はフィリピンのスラム街の子供たちとサッカーを楽しんだり、チベットの僧侶たちにサッカーのコーチをすることを約束するなど、各地でサッカーを通じた交流を行っている。中東では情勢が緊張していることもあって国境を越えるのも大変だろうと思っていたところ、周囲に「ナカタ?」と気づかれ、顔パスのような待遇を受けたと語っている。これは自分が有名だからではなく、世界中でサッカーが大きな存在である証拠だと謙遜している。2007年には、モンゴルサッカー協会主催のサッカーイベントに大相撲横綱の朝青龍とともに招待され、サッカーの試合に参加した。このとき朝青龍は、腰の疲労骨折と肘の靭帯損傷を理由に夏巡業の休場を決めたばかりだったことから「仮病疑惑」が浮上し、2場所の出場停止などの処分に発展した。中田までが批判されたが、日本サッカー協会の川淵三郎キャプテンは、中田は海外を拠点に活動していたために朝青龍が故障で夏巡業を休場していたことを知らなかったと擁護した。2009年の初場所初日には、朝青龍から招待され桝席で相撲観戦をする中田の姿が見られた。

[匿名さん]

#5292020/03/29 01:03
■実業家として

日本のサッカー界へさまざまな貢献をしている。

故郷の山梨で中学時代の恩師が監督をしているクラブ「フォルトゥナSC」をサポートしており、会員No.0001である。出身地の山梨県をホームとするヴァンフォーレ甲府がJ1に昇格した際にはスポンサーを紹介した。また、山梨県にユニフォームを贈呈したこともある。

ローマに移籍した22歳の時、J2に降格して資金的に窮したベルマーレを救済するために自身のHPの"nakata.net"の名で広告を出して出資して以来、ずっとスポンサーになっている。ユニフォームの背中の「nakata.net」の広告や、2004年、ベルマーレジュニアユースの公式戦用ユニフォーム作成の依頼を引き受け、自らデザインして一式を贈り、2008年には、「湘南ベルマーレ持株会」が目標とした2000万円に届かないため、1週間の期限延長とともに中田の持ち株会参加を表明すると、結果2700万円に達した。ベルマーレも感謝の印として、平塚競技場の7番ゲートを「Hideゲート」と名づけている。

2006年、2007年シーズンの2年間なでしこリーグのスポンサーだった株式会社モックとのスポンサー契約は、中田がモックの山田納生房代表取締役社長兼CEOと個人的な親交があったため、橋渡し役となった。

[匿名さん]

#5302020/03/29 01:04
2002年と2006年には、W杯に合わせて営業した『nakata.net cafe』で使用された家具のチャリティーオークションの収益で、Jリーグアカデミーへ全Jリーグクラブ分のミニゴールなどを寄贈している。

中田は菓子が好きなことで知られ、2003年7月9日には菓子メーカー株式会社東ハトの非常勤執行役員CBO(Chief Branding Officer=チーフ・ブランディング・オフィサー)に就任。キャラメルコーンやハーベストのパッケージを一新して話題になった。社員啓発のために配布した共著の絵本「お菓子を仕事にできる幸福」が評判を呼び、一般向けにも刊行した。

2005年には、ニューヨークにビルを購入、建築家の安藤忠雄にリフォームを依頼し、部屋のレンタルを計画した。

2015年11月には「JAPAN CRAFT SAKE COMPANY」を設立し、自ら社長に就任。日本酒を初めとした日本文化の本格的なPR活動に乗り出している。

所属事務所であるサニーサイドアップの大株主でもあり、取締役の次原に次ぐ第2位の株主である(2008年6月30日の段階で7.92%を保有)。

[匿名さん]

#5312020/03/29 01:05
■代表歴

◇出場大会など
1991年4月(14歳中学3年)- 甲府市立甲府北中学校3年生時、U-15に選出
1992年5月(15歳高校1年)- U-17アジアユース選手権出場
1993年8月(16歳高校2年)- U-17世界選手権 4試合中3試合出場、ベスト8
1994年9月(17歳高校3年)- U-19アジアユース選手権 全6試合出場、準優勝
1995年4月(18歳)- U-20 FIFAワールドユース選手権 全4試合出場、ベスト8
1996年7月(19歳)- アトランタオリンピック(U-23) グループリーグ敗退
1997年
5月(20歳) - W杯日韓共催記念試合 フル代表デビュー
6月 - フランスW杯アジア一次予選
11月 - フランスW杯アジア最終予選
1998年
6月(21歳) - フランスW杯 グループリーグ敗退(最下位)
1999年
9月 (22歳)- シドニーオリンピックアジア最終予選
2000年
9月(23歳)- シドニーオリンピック ベスト8
2001年
5月(24歳)- FIFAコンフェデレーションズカップ2001一次リーグ、準決勝
2002年
6月(25歳)- 日韓W杯 ベスト16
2003年
6月(26歳)- FIFAコンフェデレーションズカップ2003 グループリーグ敗退
2004年
2月 - 3月(27歳)- ドイツW杯アジア一次予選
2005年
3月 - 6月(28歳)- ドイツW杯アジア最終予選
6月 - FIFAコンフェデレーションズカップ2005 グループリーグ敗退
2006年
6月(29歳) - ドイツW杯 グループリーグ敗退(最下位)


■日本代表における個人成績

日本代表戦 77試合 11得点 9アシスト(1997年 - 2006年)

[匿名さん]

#5322020/03/29 01:06
■タイトル

◇クラブ
1995-1996年 アジアカップウィナーズカップ 優勝(ベルマーレ平塚)
2000-2001年 セリエA 優勝(A.Sローマ)
2001-2002年 コッパ・イタリア 優勝(A.Cパルマ)

◇個人
Jリーグベストイレブン(1997年)
日本年間最優秀選手賞(1997年)
アジア年間最優秀選手賞:2回(1997年-1998年)
AFC All Star Team:3回(1997年-1999年)
FIFAコンフェデレーションズカップ2001ベストイレブン(2001年)
FIFAコンフェデレーションズカップ2001ブロンズボール(2001年)
FIFA 100(2004年)
Jクロニクルベスト ベストイレブン(2013年)

◇その他
日本プロスポーツ大賞/大賞(1997年)
日本プロスポーツ大賞/殊勲賞(1998年)
セリエAサプライズ賞 グエリン・スポリティーボ(イタリア有力スポーツ誌)選(1998年)
朝日スポーツ賞(2006年)
イタリア連帯の星勲章(2006年)
カヴァリエーレ勲位(ナイト)(2006年)
チャイナ・ファッション・アワーズ 国際賞(2006年)
ブルガリ・ブリリアントドリームアワード2008 特別賞(2008年)

[匿名さん]

#5332020/03/29 01:08
■関連作品

◇VHS
中田英寿 イン・セリエA 1998-99 Vol.1
中田英寿 イン・セリエA 1998-99 Vol.2

◇DVD
NAKATA
Grande NAKATA-グランデ・ナカタ-
HIDETOSHI NAKATA DVD-BOX 1
HIDETOSHI NAKATA DVD-BOX 2
HIDETOSHI NAKATA 2004-2005 FIORENTINA VOLUME.7
HIDETOSHI NAKATA 2005-2006 BOLTON VOLUME.8
HIDETOSHI NAKATA-THE JOURNEY2枚組
HIDETOSHI NAKATA [THE JOURNEY] Vol.3 ベルマーレ平塚
中田英寿 僕が見た、この地球。〜旅、ときどきサッカー〜


■書籍

◇執筆書籍
1998年 新潮45 9月号別冊 アッカ!! (新潮社、中田英寿編集)
1999年 中田語録 (文藝春秋、小松成美編集、ISBN 978-4-16-727222-7)
2000年 nakata.net—98-99 (新潮社、ISBN 978-4-10-435901-1)
2001年 nakata.net〈2000〉 (新潮社、ISBN 978-4-10-435903-5)
2002年
nakata.net〈2001〉 (新潮社、ISBN 978-4-10-435904-2)
中田英寿・洪明甫 TOGETHER-2002ワールドカップBook (講談社、洪明甫共著、ISBN 978-4-06-179351-4)
2003年
nakata.net〈2002〉 (新潮社、ISBN 978-4-10-435905-9)
文体とパスの精度 (集英社、村上龍共著、ISBN 978-4-08-747571-5)
nakata.net〈2003〉 (新潮社、ISBN 978-4-04-853627-1)
nakata.net ITALY WALK (角川書店、サニーサイドアップ編纂、ISBN 978-4-04-853627-1)
2004年
nakata.netTV 2003-2004 (扶桑社、ISBN 978-4-594-04771-9)
お菓子を仕事にできる幸福 (日経BP社、東ハト(編集)、木曽健一共著、ISBN 978-4-8222-4408-8)

[匿名さん]

#5342020/03/29 01:08
2005年
NAKATA 1998-2005 〜中田英寿 イタリア セリエAの7年間〜 (エクスナレッジ、ISBN 978-4-7678-0496-5)
nakata.net Italy walk (2005) (角川書店、サニーサイドアップ編纂、ISBN 978-4-04-721525-2)
ドイツW杯への道 nakata.net (新潮社、小松成美編集、ISBN 978-4-10-435907-3)
2006年
教えて! ヒデ (小学館、nakata.net kids監修、ISBN 978-4-09-253266-3)
すべてはサッカーのために nakata.net 05-06 (新潮社、ISBN 978-4-10-435908-0)
2008年 nakata.net 06-08 the journey (講談社、ISBN 978-4-06-214652-4)


◇関連書籍
1998年
中田英寿 鼓動 (幻冬舎、小松成美、ISBN 978-4-87728-278-3)
戦いの前の素顔—Keibun Miyamoto photographs (マガジンハウス、宮本敬文、ISBN 978-4-8387-1057-7)
2001年 ジョカトーレ-中田英寿新世紀へ (文藝春秋、小松成美、ISBN 978-4-16-356920-8)
2002年 悪魔のパス 天使のゴール (幻冬舎、村上龍、ISBN 978-4-344-00189-3)
2003年 Amore Pace (講談社、宮本敬文、ISBN 978-4-06-308654-6)
2005年
ナカタ ノ ナカミ (マガジンハウス、ナカタ ノ ナカミ製作委員会、ISBN 978-4-8387-1568-8)
セリエAに挑んだ男たち (朝日新聞社、パオロ・ロッシ、ISBN 978-4-02-250050-2)
2007年
中田英寿日本代表全試合—1991-2006 (幻冬舎、ISBN 978-4-344-01272-1)
In His Times 中田英寿という時代 (光文社、増島みどり、ISBN 978-4-334-97514-2)
中田英寿 誇り (幻冬舎、小松成美、ISBN 978-4-344-01339-1)

[匿名さん]

#5352020/03/29 01:10
◇CD
2005年
FREE STYLE VOL.1 R&B COLLABORATIONS〜nakata.net music
FREE STYLE VOL.2 DANCE&SOUL〜nakata.net music
2006年 FREE STYLE VOL.3 Special edition for nakata.net cafe


■出演

◇CM・広告
日清食品 「日清ラ王」 (1996年) - 前園真聖と共演
アサヒ飲料
「Eau+(オー・プラス)」 (1998年)
「Eau+V(オー・プラス V)」
「SWITCH」 (1999年)
FILA イメージキャラクター (1998年 - 1999年)
富士重工業 (スバル)
「プレオ」 (1998年)
「レガシィ」 (2000年)
SKY PerfecTV!
NIKE イメージキャラクター
キヤノン
「デジタルカメラ・IXY」 (2001年 - 2006年)
「プリンター・PIXUS」 (2001年)
日本コカ・コーラ
「アクエリアス」 (2006年)
「コカ・コーラ ゼロ」 (2009年-)
トヨタ自動車 「WiSH」 (2006年)
ほっとけない 世界のまずしさキャンペーン
国際連合
資生堂 「SHISEIDO MEN」
エステティックTBC 「HUMAN×BEAUTY」 (2009年)
東芝 NTTドコモ携帯電話「T-01A」 (2009年)
JAL 「旅 中田英寿」 (2009年)
カルバン・クライン「Calvin Klein X Underwear」 (2010年)
レベルファイブ「イナズマイレブン3 世界への挑戦!!スパーク/ボンバー」 (2010年)
テレビ・ラジオ番組 編集
nakata.net TV (2000年7月〜2006年8月、スカイパーフェクTV!)
緊急スペシャル番組『nakata.net TV 2008 〜再会〜』 (2008年1月、スカイパーフェクト・コミュニケーションズ)
『nakata.net TV 2008 +1』 (2008年7月、スカイパーフェクト・コミュニケーションズ)
ニュースステーション (1997年12月8日・1999年9月3日、テレビ朝日)

[匿名さん]

#5362020/03/29 01:11
筑紫哲也 NEWS23 (1998年7月24日、TBS)
クローズアップ現代 (1999年3月3日、NHK)
ZONE (1999年11月4日、TBS)
Ryu's Barスペシャル21 (2001年1月2日、毎日放送)
イタリア語会話 (2001年4月、NHK教育)
日本の至宝・中田英寿独占密着1470日 (2002年7月5日、TBS)
PERFECT SPORT EXTRA〜 (2003年7月13日、フジテレビ)
FUGA presents 世界を駆けるヒーロー達 (2004年12月13日、日本テレビ)
サンデースポーツ (2005年6月12日、NHK)
報道ステーション (2006年5月2日・15日、テレビ朝日)
緊急放送!中田英寿引退特別番組 (2006年7月15日、テレビ朝日)
Hidetoshi Nakata Revealed (2006年12月9日 - 、CNNj)
中田英寿 引退特別番組〜遥かなる旅の途中〜 (2006年12月25日、テレビ朝日)
新報道プレミアA (2007年10月7日、フジテレビ・関西テレビ)
TOYOTAプレゼンツFIFAクラブワールドカップいよいよ世界一が決定!キックオフ直前SP (2007年12月16日、日本テレビ)
NEWS ZERO「NAKATA×ZERO」 (2007年11月9日・2008年2月7日・3月18日・4月17日・5月8日・5月29日・9月22日・11月3日、日本テレビ)
中田英寿 僕が見た、この地球。〜旅、ときどきサッカー〜 (2008年6月2日、日本テレビ)

[匿名さん]

#5372020/03/29 01:12
Touch ! eco 2008 明日のために…55の挑戦?スペシャル (2008年6月8日、日本テレビ)
週末ランニング部 (2008年12月12日、19日、FM東京)
「LANDSKAPE」〜アスリート、その視線の彼方〜 (2008年12月28日-30日、2009年1月1日、2日、BS民放5局共同)
すぽると! (2009年4月 - 、月1回月曜出演、フジテレビ)
20世紀スポーツ名勝負 ライバル伝説…光と影 (2009年7月20日、TBS)
2010FIFAワールドカップ開幕直前SP 中田英寿×本田圭佑 (2010年6月6日、テレビ朝日)
Nakata wants Japan and Italy to do well (2010年6月24日、CNN)
Nakata: 'Capello unites teams' (2010年6月25日、BBC)
ザ☆スター「坂東玉三郎」 (2010年8月7日、NHK-BS2)
Revalue NIPPON Project 中田英寿 日本をつなぐ (2011年3月 - 2012年3月、日本テレビ)
J-WAVE HOLIDAY SPECIAL TSUCHIYA presents LIGHT UP YOUR HEART (2012年1月、J-WAVE)
アナザースカイ/4周年SP(2012年10月5日・12日、日本テレビ)

[匿名さん]

#5382020/04/01 03:19
【NHK SPORTS STORY】

◇スポーツの面白さに出会えるメディア◇

[2018年6月4日(月)]


【FIFAワールドカップ 悔しさと喜びの日本代表20年史 -前編-】

世界中の人々が注目するサッカーW杯。選手もサポーターもときにはタコにも!?サッカーW杯では毎回数々のドラマが繰り広げられています。



■【1998年フランス大会】ドーハの悲劇を乗り越えた 日本

日本が初めて本選出場を叶えた1998年のフランス大会。1994年アメリカ大会への出場をあと一歩のところで逃した「ドーハの悲劇」から4年、出場を決めるまでのアジア最終予選にもドラマが詰まっていました。

日本がW杯に初挑戦してから43年、挑み続けた夢の実現がかかったアジア最終予選。


初戦の対ウズベキスタンでは、ドーハの悲劇を経験したエース、三浦知良選手が4得点の活躍で大勝を収め幸先の良いスタートを切ります。

しかし、その後は苦戦しカザフスタン戦で引き分けに終わると、日本サッカー協会は当時監督を務めていた加茂周監督を解任し、新監督として当時コーチだった岡田武史氏を起用しました。

しかし、その後3試合連続引き分けに終わると、国立競技場は怒りが収まらないサポーターたちで深夜にわたる騒ぎになったことも。

そんな状態の中行われた、アジア第3代表決定戦で日本が起こしたのが「ジョホールバルの歓喜」です。

前半は1点リードしたものの、後半で逆転を許します。しかし岡田監督の采配により2-2の同点に追いつき延長戦へ。

そして同点のまま迎えた延長後半13分に野人・岡野選手のゴールが決まり、3対2で勝利し、悲願の初出場を決めたのです!

[匿名さん]

#5392020/04/05 00:04
ジョホールバルの歓喜(Delight of Johor Bahru)は、1997年11月16日、マレーシアのジョホールバルでサッカー日本代表が1998 FIFAワールドカップ・フランス大会のアジア最終予選のアジア第3代表決定戦をイラン代表と戦い、勝利を収めたことによりFIFAワールドカップ本戦初出場を決めたサッカーの試合の日本における俗称である。



【1998 FIFAワールドカップ・フランス大会
アジア第3代表決定戦】

■大会名
1998 FIFAワールドカップ・アジア予選

日本  対 イラン

3 🆚 2

(延長ゴールデンゴール)


■開催日
1997年11月16日
■会場
ラルキン・スタジアム(ジョホールバル)
■主審
マヌエル・ディアス・ベガ

■背景

1998年W杯のアジア地区の出場枠は3.5であり、アジア最終予選は10チームがA・B組の2組に分かれ、それぞれホーム&アウェー方式にてリーグ戦を行い、各組1位の2ヵ国が本大会出場権を獲得し各組2位同士で第3代表決定戦を行い、この勝者が3番目の本大会出場権獲得。敗者がアジア4位としてオセアニア1位との大陸間プレーオフに回りその勝者が本大会出場という方式であった。

[匿名さん]

#5402020/04/05 00:06
最終予選の形式は当初、前回アメリカ大会予選と同様のセントラル方式が予定されていたが、日本協会をはじめとする東アジアの国はマレーシア開催を主張し、西アジアの国はバーレーンでの開催を主張し対立が起き開催地を決着できなかったため、FIFAが直前の7月21日の総会でホーム&アウェー方式への変更を発表した。この方式変更によって試合数が2倍に増えることになるため、結果として最終予選の日程が相当過密なものとなった。予選の終盤までもたつくも、強豪アラブ首長国連邦(以下「UAE」)を逆転して日本はグループ2位に滑り込んだ。


■グループ展開

◇日本(B組)

日本は、ホーム・アンド・アウェー方式の1次予選第4組で5勝1分けとし、オマーンを抑えて1位通過し、最終予選に進んだ。

9月7日、ホーム国立競技場で行われた初戦のウズベキスタン戦を三浦知良の4ゴールなどで6-3と大勝し、約2週間後の9月19日、気温40度のアブダビで行われたUAE戦を0-0で引き分けた日本は、9月28日、このグループ最大のライバルとされた韓国をホーム国立競技場に迎えた。日本は後半22分、山口素弘のループシュートで先制するも、この日日本代表として初出場だったFW呂比須ワグナーをDF秋田豊と交替させ守りに入ったことが裏目に出て、後半39分に徐正源、42分に李敏成にゴールを許し、1-2で逆転負け、3試合を終了して1勝1分1敗の勝点4にとどまった。同じく3試合を消化した韓国は3連勝で勝点9の1位、2位にUAEが勝点7で続く状態となり、1位通過が危ぶまれた。

[匿名さん]

#5412020/04/05 00:07
続く10月4日、アルマトイで行われたカザフスタン戦は、コーナーキックから秋田豊のヘディングで先制するも、ロスタイムに同点ゴールを決められて引き分け。同日、首位の韓国がホームでUAEに3-0で快勝したため、2位UAEとの勝点差こそ2に縮まったものの、首位韓国との勝点差は7に開き、1位となる可能性はほぼ消滅した。この試合後に加茂周監督は更迭され、ヘッドコーチの岡田武史が監督に就任した。

岡田監督の初戦、かつアウェー連戦となった10月11日、タシケントでのウズベキスタン戦では前半30分に先制され、敗戦直前まで追い詰められるが、終了間際にDFも前線に上げるパワープレーを敢行した結果、井原正巳のロングボールを呂比須ワグナーがヘディングシュート、これが同点ゴールを生みそのまま引き分けとなった。同節、韓国はアウェーでカザフスタンと引き分け、UAEは試合がなかったため、韓国との勝点差こそ7のままながら、UAEとの勝点差はUAEが1試合少ないとはいえ1に縮まり、首の皮一枚繋がった形での引き分けとなった。

[匿名さん]

#5422020/04/05 00:08
次の試合は10月26日、UAEをホームの国立競技場に迎えた2位争いの直接対決で、UAEが10月18日の第7節でカザフスタンにアウェーで敗れたためUAEと日本の勝点差1はそのまま、日本が勝てば2位浮上となる試合だった。呂比須が前半4分に先制ゴールを挙げるも、前半37分に追いつかれそのまま追加点を挙げられず引き分けた。この試合ではUAE寄りだったジャッジと、異様に短いロスタイムが問題になり、試合後に国立競技場周辺で日本のサポーターが暴動を起こす事態となった。この試合の結果、上位3チームがいずれも2試合を残した状態で、同節試合がなく既に勝点16を得ていた韓国と2位UAEとの勝点差が8となり、韓国のグループ1位およびW杯本戦出場が決定するとともに、日本の自力による2位からのプレーオフでの最終予選通過が消滅した。

もうあとがなくなった日本。11月1日、アウェーでの韓国戦で日本は、既にワールドカップ出場を決め、主力DFの洪明甫を累積警告で欠いた韓国守備陣を試合開始から翻弄し、前半1分に名波浩、前半37分に呂比須がゴールを決め2-0と快勝、勝点を10とする。翌日、UAEがホームで最下位ウズベキスタン相手に引き分けたため、UAEの勝点は9にとどまり、日本は逆にUAEに勝点差1をつけ2位に浮上した。

日本は、勝てばB組2位が確定する11月8日の最終戦、アウェーで終了間際引き分けに持ち込まれたカザフスタンをホームに迎えた1戦でも、秋田のヘディングで先制、代表復帰した中山雅史や高木琢也のゴールなどで5-1で快勝し、第3代表決定戦への出場権を得た。

[匿名さん]

#5432020/04/05 00:09
◇イラン(A組)

一方、A組には前大会ベスト16のサウジアラビアと強豪イランが所属していた。当初はイランがA組の首位を走っていたが、第9節にて最下位のカタールに0-2で敗れ、9節終了時点で勝点12の暫定首位で、最終節の第10節に試合がないため一足早く全日程を終了。第10節のサウジアラビア(勝点11)−カタール(勝点10)戦が引き分けに終われば、勝点でサウジアラビアと並ぶものの得失点差で1位となるが、いずれかが勝利した場合、もう1試合の中国対クウェートがいずれかの大勝に終わらない限り2位となるため、サウジアラビア対カタールの結果待ちとなった。この試合を1-0で制したサウジアラビアが首位となって本戦出場権を獲得、イランは2位に転落して第3代表決定戦にまわることとなった。

A組2位が決まるまでの間、日本では、第3代表決定戦の相手としてはサウジアラビアの方が与しやすいとの論が主流であったが、期待に反して第3代表を争う相手はイランとなった。


■開催地決定

第3代表決定戦をホーム・アンド・アウェー方式のもとで2試合開催することは日程的に難しく、中立地での一発勝負の実施が前提とされた。当時のB組の展開から、UAEがB組2位になることが想定されたため、第3代表決定戦はバーレーンで開催されることとなっていた。しかし移動距離や気候などで著しい不利を被ることになる日本協会はこれに反発。AFCでは、西アジア勢同士ならバーレーン、東アジア勢同士なら韓国、西アジア勢対東アジア勢の対戦ならマレーシア(イスラム教国であり、かつAFC本部がある)で開催するという案に落ち着いた。

[匿名さん]

#5442020/04/05 00:10
イランは時差の点で不利を受け(日本とマレーシアの時差1時間、イランとマレーシアの時差4時間半)、さらにイランは直行便が確保できず、試合直前にやっと確保できたのはドバイや香港を経由した約36時間の移動であった。加えて飛行機の遅延でクアラルンプールでの乗り継ぎに失敗し、ジョホールバルへの到着がさらに6時間も遅れることとなった。そのため体調を崩す選手が続出し、準備もできなかった。時差や移動の面で日本に有利に働き、また、日本の第3代表決定戦出場がイランよりも先に決定したこともあり、マレーシアには日本のサポーターが多数観戦に訪れ、またクアラルンプールの日本企業や日本人学校を練習場として使用できた上に日本人会の支援を受けるなど、日本にとってはホーム同然の環境であった。

試合2日前の練習では、イランの選手達がコーランを大音量で流したり、日本選手の真横をランニングするなどのあからさまな挑発行為に出たが、並木磨去光は「肩でハアハアと息をしていて、明らかに疲れていた」とイラン代表の余裕の無さが既に現れていたと振り返った。

[匿名さん]

#5452020/04/05 00:11
■試合展開

日本はアウェー韓国戦から機能している北澤豪をトップ下に置いたダイヤモンドの4-4-2のフォーメーションを継続。FWはそれまでレギュラーながら前節カザフスタン戦で出場停止だった三浦知良と呂比須ワグナーが揃って出場停止から復帰したが、直前に実母を亡くしたばかりの呂比須はベンチスタートにして、三浦とカザフスタン戦で代表復帰ゴールを決めた中山雅史が2トップを組んだ。一方、イランはアジア予選で19得点と活躍したMFカリム・バゲリを累積警告による出場停止で欠いていたが、前日練習で車椅子に乗っていたコダダド・アジジが平然とスタメンで出場し、エースのアリ・ダエイ、ドリブラーのメフディ・マハダビキアと変則3トップを組む。それまで右サイドMFだったマハダビキアをウイングの位置まで高くしたのは、日本の攻守の要となっていた左SB相馬直樹のオーバーラップを牽制する狙いであった。

試合は前半39分、日本がMF中田英寿のスルーパスに反応した中山がGKアハマド・レザ・アベドザデの脇を抜くシュートを決めて先制。前半はこのまま1-0と日本がリードして折り返すも、イランは後半開始25秒にダエイのシュートのこぼれ球をアジジが押し込んで同点とし、後半14分にはダエイがヘディングシュートを決めて2-1と逆転した。

[匿名さん]

#5462020/04/05 00:12
後半18分、後のない日本の岡田監督は2トップの三浦と中山に代えて城彰二と呂比須を同時投入し、同時に3バックに変更した。この積極策が功を奏し、後半31分に中田のクロスボールを城がヘディングでゴールに突き刺し、2-2の同点に追いつく。コンディショニングに失敗したイランの選手は時間経過とともに運動量が落ち、接触プレーで倒れた後起き上がれない場面が目立つようになる。しかし、両チーム決勝点を奪えないまま後半を終了し、得点が決まった時点で試合終了となるゴールデンゴール方式の延長戦に突入した。

延長戦開始と同時に、日本はMF北澤に代えて5人目のFW岡野雅行を投入。岡野は最終予選においてそれまで一度も出場機会を与えられていなかったが、中田からのパスに俊足を活かして何度もゴールに迫る。しかし、GKと1対1になる絶好機でシュートを打たず、ゴール前へ走りこんできた中田へのパスを選択してチャンスをつぶし、次のチャンスではシュートを打ったもののゴールのはるか上に打ち上げてしまう。城はゴールへ迫った際にアベドザデと接触、この時から岡野の決勝ゴールの場面までの記憶が全くないという。

[匿名さん]

#5472020/04/05 00:13
イランも反撃を見せ、ゴール前でフリーでクロスを受けたアリ・ダエイのシュートがバーの上を通過するなど両チームとも決定的なチャンスをものにできなかった。そのピンチの直後、PK戦への突入も近づいた延長後半13分、呂比須が中盤で奪取したボールを中田がドリブルで持ち上がり、ペナルティエリア直前からミドルシュート。アベドサデがはじいたルーズボールに岡野が走りこみ、スライディングしながら右足でゴールに押し込んだ。決勝点を決めた岡野は「これを外したらもう日本に帰れないと思った」と後に語っている。試合終了直後、岡田監督を始めスタッフ・ベンチメンバーが一斉にピッチへ飛び出し、岡野を祝福した。

シーソーゲームの末に、日本はこのゴールデンゴールでW杯本戦初出場を決めた。1954年のW杯スイス大会予選に参加して以来43年目、10回目の挑戦での出場権獲得となったが、ワールドカップの予選及び本大会でゴールデンゴール方式が採用されたのはフランス大会および日韓大会(2002年)のみで、2004年をもってゴールデンゴール方式は廃止されたため、この方式でW杯出場を決めたのはこの試合に勝った日本だけである。

なお、この一戦に敗れたイランはオセアニア地区代表オーストラリアとの大陸間プレーオフに勝ち、ワールドカップ本戦進出を決めた。

[匿名さん]

#5482020/04/05 00:14
■放送

この試合は地上波ではフジテレビ(実況:長坂哲夫、解説:清水秀彦)、衛星放送ではNHK-BS1(実況:山本浩、解説:松木安太郎)が生中継した。日曜日の深夜の放送にもかかわらず、フジテレビの平均視聴率は47.9%という高視聴率だった。「フジテレビが中継する試合で日本代表は負けない」という、当時の不敗神話はこの試合でも継続された。

岡野のゴールデンゴールの瞬間、フジテレビの中継で解説を務めていた清水は「やったー!」という歓声をあげ、実況の長坂は「最後は、岡野ー!日本、勝った!ワールドカップ!」と叫んだ。ラジオで実況を務めたニッポン放送の師岡正雄は「岡野だぁーっ!岡野! 岡野!」と絶叫。翌日の新聞・ニュースには「日本中が歓喜した」との言葉が躍った。

試合後は興奮したり泣きながらインタビューに応じる選手が多い中で、中田は落ち着いてインタビューに応じ、「代表はうまく盛り上がったんで、あとはJリーグをどうにか盛り上げてください」とコメントした。

[匿名さん]

#5492020/04/05 00:15
翌日放送の『ニュースステーション』(テレビ朝日)ではサブキャスターの小宮悦子と、サッカーコーナー担当の川平慈英がその喜びを伝えた。特に小宮は現地に赴き、試合を観戦するほどの熱の入れようで、岡野のゴールデン・ゴールの瞬間は絶叫で後のことは覚えていないと述べている。また、川平は自由が丘のスポーツバーで兄であるジョン・カビラとこの試合をテレビ観戦し、日本が勝利(出場権獲得)した際は嬉し涙を浮かべ、「(日本に)生まれてよかったよ。生きててよかった!」と絶叫。最後はバーの客とともに「日本サッカーの曙だ!」と勝ち鬨を挙げた。


■両監督の再会

2007年2月3日、長野市サッカーフェスティバルの講演会で、岡田武史とイラン代表を率いていたバドゥが、ジョホールバルでの試合以来約9年ぶりに再会し対談を行った。バドゥは当時AC長野パルセイロで監督を務めており、その縁もあって長野での対談が実現した。対談の内容はやはりジョホールバルに関する話題が殆どで、当時話題になった、コダダド・アジジの起用に関する情報戦的な駆け引きなど采配についての裏話も語られた。

[匿名さん]

#5502020/04/05 00:16
■脚注

^ のちにフジテレビ製作「FAIR PLAYの記憶」に出演した岡田は、当初は呂比須のみを投入するつもりだったが、選手のがっくり来た様子を見てショックを与えるため咄嗟に城の投入を決断したと語り、そのため城はウォーミングアップをせずにピッチに立ったと述べた。



^ 岡野は試合翌日のインタビューで「僕はあんまり緊張とかしない方なんですけど、さすがに昨日の出されかたはちょっとビビりましたね。今まで一回も出てないのに、突然延長で"行くぞ"と言われても」と苦笑した。



^ フジテレビのスタジオでは青嶋達也が進行を担当し、解説は田島幸三(現・日本サッカー協会会長)、ゲストに長谷川健太(当時清水エスパルス、現・FC東京監督)、武田修宏、ラモス瑠偉(ともに当時京都パープルサンガ。元ヴェルディ川崎)、森保一(当時サンフレッチェ広島、現・日本代表監督)が出演した。



^ 当時のJリーグはリーグ発足時のブームが去り、Jリーグの観客動員は低迷。2ndステージの観客動員数は9,651人と1万人を割り込み、年間の平均観客動員数も10,131人と過去最少の数値となり、翌年の横浜マリノスと横浜フリューゲルスの合併に繋がった。

[匿名さん]

#5512020/04/05 00:27
□■【SAMURAI BLUE】■□

■FIFAワールドカップフランス'98アジア地区第3代表決定戦
[ 1997.11.16 ] ジョホールバル


日本代表 🆚 イラン代表

3 対  2

1 前半 0
1 後半 2

0 延前 0
1 延後 0
[Golden goal]


【GOAL】
■日本代表
中山雅史 39´
城彰二 76´
岡野雅行 118´

■イラク代表
ホダッド・アジジ 46´
アリ・ダエイ 59´


【日本代表メンバー】
GK 川口能活
秋田豊
井原正巳 イエローカード
相馬直樹
名良橋晃
山口素弘
中田英寿
名波浩
北澤豪 ▼91' OUT
中山雅史 ▼63' OUT
三浦知良 ▼63' OUT


【SUB】
岡野雅行 ▲91' IN
呂比須ワグナー ▲63' IN
城彰二 ▲63' IN
GK 楢﨑正剛
本田泰人
小村徳男
中村忠

【監督】
岡田武史

[匿名さん]

#5522020/04/05 00:29
>> 続く...

[匿名さん]

#5532020/04/05 16:42
■夢先生の紹介 | JFAこころのプロジェクト | 社会貢献活動


夢や目標を持つことの素晴らしさ、それに向かって努力することの大切さ、フェアプレーや助け合いの精神を、子どもたちと語り合い、触れ合いながら伝えていく「夢先生」を紹介します。


JFA こころのプロジェクト 夢先生プロフィール

【常名 秀則】

東京都出身。柏井高校入学直後、ブラジルにサッカー留学しました。E.C キンゼデジャウーユー ス時代には、三浦知良とともにプレー。1987 年には、日本人二番目のプロ選手として E.C サン ト・アンドレと契約しました。ジャボチカバル・アトレチコ、C.A タクワリチンガへの移籍を経て、 1991 年に帰国。帰国後は、京都紫光クラブ(現 京都サンガ F.C.)、古河電工千葉事業所サッカ ー部(現 VONDS市原)でプレーしました。現役引退後は指導者の道を歩み、クラブ チームや高校、中学で指導。2008 年には日本サッカー協会公認 B 級コーチライセンスを取得し、 現在は幼児から社会人まで幅広く指導を行っています。

[匿名さん]

#5542020/04/10 09:33
シゴトクダサい

[匿名さん]

#5552020/06/11 00:29
新型コロナの影響は、デッツォーラにとって、吉と出るか凶とでるか、、、

[匿名さん]

#5562020/06/11 00:36
現時点での浜田市完全移転、再出発への評価は厳しい。2010年シーズンからの劇的復調からもう10年。県内全域ホーム構想は何処へ。。。わずかな可能性が残るとすれば、出雲市?あるいは、セントラル中国に原点回帰であれば少なからずチャンスが残るか。。。

[匿名さん]

#5572020/06/11 23:50
嵐も落ち着いたみたいで、ここからの、再出発を期待したい!!!

[匿名さん]

#5582020/06/15 16:13
中国リーグは、トーナメント方式との書込みがちらほら。降格はなしか?!

[匿名さん]

#5592020/06/16 00:47
マツダSCは、広島県を拠点とする、自動車メーカーマツダのサッカー部である。

■原語表記
マツダサッカークラブ
■創設年
1966年
■所属リーグ
広島県社会人サッカーリーグ
■所属ディビジョン
2部
■ホームタウン
広島県安芸郡府中町
ホームスタジアム
広島スタジアム
揚倉山健康運動公園
吉田サッカー公園
庄原市上野総合公園
廿日市市サッカー場



前身は日本サッカーリーグ1部などに所属していたマツダSC(旧・東洋工業、現・サンフレッチェ広島)のサテライトチーム、マツダSC東洋クラブ。


■概要
1966年、広島県リーグ発足に伴い、JSL・東洋工業の2軍として創部。1軍を引退したOB選手、および1軍の若手が選手登録されていた。若手はここで経験を積ませ、ある程度認められるとトップチームである東洋工業に登録される流れになっていた。当時のチーム名は「東洋工業B」あるいは「東洋工業クラブ」。東洋工業のコーチやマネージャー、若手にくわえ、当時は今ほど選手登録に厳しくなかったため、1軍である東洋工業選手が調整としてプレーしていた。

1984年から中国サッカーリーグに昇格。 1980年代に入ると、トップチームのマツダSCには地方のハンデキャップから有力な大学生新人がほとんど来ない状況となっていた(地元広島出身の金田喜稔・木村和司らが来なかった)が、ここで育てられた若手がのちに1993年のJリーグ開幕とともにサンフレッチェ広島で主力となることとなる。

1992年、マツダSCを母体としてサンフレッチェ広島が誕生。マツダSC東洋は「新生」マツダSCとして宗政潤一郎を監督に中国社会人リーグに登録。1990年代中期にはサンフレッチェ広島を戦力外となった選手も所属しており、1996年からの3連覇を含め5回優勝し、全国地域リーグ決勝大会に出場していた。

[匿名さん]

#5602020/06/16 00:47
■タイトル

◇リーグ戦
中国サッカーリーグ:9回


■チーム名変遷

1966年 - 東洋工業B・東洋工業クラブ
1984年 - マツダSC東洋クラブ
1992年 - マツダSC


■歴代監督

1990年 - 1999年 : 宗政潤一郎
1999年 - 2000年 : 上原洋史


■主な在籍経験選手

白石聡
河野和正
森保一
片野坂知宏
柳本啓成
笛真人
牧野安正
吉川公二
橋満士郎
田原輝幸

[匿名さん]

#5612020/06/16 12:37
ここは、相当深い闇をかかえてるな、、、

[匿名さん]

#5622020/06/18 01:11
攻めるなら出雲か!?デッツォーラの由来としては、出雲がしっくりくる!!!

[匿名さん]

#5632020/06/21 06:20
古河電気工業株式会社(英文社名 Furukawa Electric Co., Ltd.)は、古河グループの光ファイバー・電線・ワイヤーハーネス等の製造を行なう非鉄金属メーカーである。

■種類
株式会社

■市場情報
東証1部 5801

■略称
古河電工

■本社所在地
〒100-8322
東京都千代田区丸の内二丁目2番3号
(丸の内仲通りビル)

■設立
1896年(明治29年)6月25日

■業種
非鉄金属

■法人番号
5010001008796

■事業内容
光ファイバー・電線・ワイヤーハーネスの製造販売

■代表者
代表取締役社長
小林敬一
代表取締役兼執行役員副社長
荻原弘之

■主要子会社
古河電池株式会社
古河産業株式会社

■関係する人物
古河虎之助(創業者)
中島久万吉(初代社長)
柴田光義(元社長)


電線御三家(古河電工・住友電工・フジクラ)の一角。
光ファイバーでは米コーニング、伊プリズミアンに次いで世界3位、電線では世界5位。
自動車エアバッグ用ステアリング・ロール・コネクター(SRC)/世界首位。
リチウムイオン電池材料/世界首位。
ハードディスク用アルミ基板/世界首位。
ETC用アンテナ/国内首位。
最近では世界最高電圧の超電導線を開発した。

古河機械金属(旧・古河鉱業)、富士電機、富士通とともに古河グループの中核企業である。

[匿名さん]

#5642020/06/21 06:21
■主力製品・事業

光ファイバー
電線
アルミ製品
自動車用ワイヤーハーネス
樹脂製品
超電導製品
リチウムイオン電池材料
アンテナ製品


■主要事業所

本社 - 東京都千代田区丸の内2-2-3
千葉事業所 - 千葉県市原市
日光事業所 - 栃木県日光市
三重事業所 - 三重県亀山市
横浜事業所 - 神奈川県横浜市西区
平塚事業所 - 神奈川県平塚市


■主要関係会社

◇国内グループ企業
エネルギー・産業機材
理研電線株式会社
古河エレコム株式会社
古河電工産業電線株式会社
古河樹脂加工株式会社
古河電工パワーシステムズ株式会社
株式会社ビスキャス
富士古河E&C株式会社
株式会社フォーム化成
株式会社KANZACC
電装・エレクトロニクス
古河電池株式会社(東証1部上場)
株式会社エヌ・テック
古河AS株式会社
古河マグネットワイヤ株式会社
オリエクス株式会社
情報通信
東京特殊電線株式会社(東証1部上場)
アクセスケーブル株式会社
岡野電線株式会社
ミハル通信株式会社
株式会社正電社
古河C&B株式会社
古河ネットワークソリューション株式会社
株式会社明星電気商会
株式会社成和技研
不動産・サービス等 その他
古河電工エコテック株式会社
古河インフォメーション・テクノロジー株式会社
古河産業株式会社
古河物流株式会社
古河ライフサービス株式会社
古河テクノリサーチ株式会社
株式会社古河電工アドバンストエンジニアリング

■関連会社
富士古河E&C株式会社 (富士電機と共同出資、東京証券取引所市場第2部)
株式会社UACJ(東証1部上場)
ブロードワイヤレス株式会社 (住友電工と共同出資)
ビスキャス株式会社 (フジクラと共同出資)
原子燃料工業株式会社

[匿名さん]

#5652020/06/21 06:22
■主要取引先

日本国有鉄道 (その後JRグループ)
日本電信電話公社 (その後NTT)
電力会社
トヨタ自動車
DENSO
東海理化
本田技研工業


■関係する人物
中島久万吉

◇サッカー部出身者
長沼健
川淵三郎
岡田武史
奥寺康彦
永井良和
金子久

◇サッカー関係
小倉純二


■関連項目

・ジェフユナイテッド市原・千葉 - 同社のサッカー部を前身とするプロサッカーチーム。JR東日本との共同出資によりプロ化したチームの運営会社を設立し、Jリーグに加盟する。同社にとってサッカーは「社技」と呼ばれていたほどで、日本サッカー協会の役員としても知られる川淵三郎や小倉純二は古河電気工業の出身である。

・丸の内御三家

・VONDS市原 - 同社の千葉事業所サッカー部を前身とするサッカーチーム。JSL在籍経歴有り。クラブチーム化後、「S.A.I.市原サッカークラブ」という名称を経て、2011年からJリーグ参入を目指すようになり、現在に至る。なお、千葉事業所サッカー部時代からホームタウンは市原市のままである。

・H.C.栃木日光アイスバックス - 同社アイスホッケー部を前身とするアイスホッケーチーム。実業団チームとしての活動停止を受けて1999年にクラブチーム化し、現在に至る。

・富士電機/富士通 - 富士電機は古河電気工業とドイツ・シーメンス社との資本・業務提携で設立された「富士電機製造」。富士通は富士電機製造から分社化して設立された企業

[匿名さん]

#5662020/06/25 00:07
盗撮だな^ ^

[匿名さん]

#5672020/06/25 00:08

糖質の間違い、、、あくまで、傾向、、、

[匿名さん]

#5682020/07/02 12:38
公式がなかなか動かないけど、活動はFacebookメイン?

[匿名さん]

#5692020/07/08 11:11
プレシーズンマッチは未実施?

[匿名さん]

#5702020/07/08 21:05
コピペがなくなってきたのは、前向きにとらえられる!

[匿名さん]


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