870
2023/11/26 14:42
爆サイ.com 山陽版

サッカー国内





NO.7201210

デッツォーラ島根④
報告 閲覧数 3472 レス数 870

#7212020/11/25 00:06
なお、試合は1-2で敗れている。奥寺康彦、永井良和らと共に、いわゆるメキシコ五輪銅の旧世代メンバーとの入れ替わりを象徴する選手の1人となった。「個人技で劣る部分を走ることでカバーする」という当時の日本サッカーのコンセプトを覆し個人技で見せ、1984年のロサンゼルス五輪予選まで中盤を牽引した。金田・木村のコンビは1980年代日本サッカーの希望、二人のコンビで一時代を築いた。ロス五輪予選は組み合わせにも恵まれ、本戦出場に期待が大きかったが、初戦で格下とみられたタイに2-5で敗れるとそのまま全敗。4月のタイの暑さが想像以上で、コンディショニングの失敗や森孝慈監督批判他、多くの批判が出たが、金田は「攻撃の形はワシが作ってたから、ワシがダメだったから負けた」と、直後に26歳の若さで代表を引退した。ワールドカップ出場にあと一歩のところまで辿りついた1985年ワールドカップメキシコ大会最終予選に金田がいればと、当時のサッカーファンは誰もが思っていた。日本代表154試合出場、国際Aマッチ58試合は歴代28位、6得点40位を記録している。

1985年夏に恥骨を疲労骨折、次いで内転筋を痛め精彩を欠いたが1980年代後半にキレが戻り1988年〜1989年の日産2年連続三冠(天皇杯、日本サッカーリーグ、JSLカップ)など、日産の国内タイトル7冠獲得に貢献した。

[匿名さん]

#7222020/11/25 00:06
この当時、ブンデスリーガに渡っていた奥寺の帰国に後押しされる形でスペシャル・ライセンス・プレーヤー制度が誕生。木村が国産プロ選手第1号になったが、チームの中で最もプロらしいスピリッツの持ち主であった金田は、選手としてプロになることを頑なに拒んだ。Jリーグが成功しないのではと思った、あるいは、代表選手に全く報酬もない中、会社で仕事をした後、サッカーを続けた多くの仲間たちのストイックな価値観を貫いたともいわれる。金田以外はチーム全員がプロ契約を結んだ。


■引退後

1991年、Jリーグ誕生を2年後に控えた熱狂から背を向けるように"異端の天才"は最後までアマチュアのまま現役を引退。現役時代は日産自動車の人事部に10年籍を置いたが、選手引退後は総務部に2年半勤務しサラリーマン生活を送る。送迎係や株主総会の担当などの仕事をこなした。ところが1993年のJリーグ開幕を控えてサッカー関連の仕事の依頼が増え、日産に勤務しながらNHK、TBS、テレビ東京のサッカーコメンテーター他を担当、日本初のプロサッカー解説者となる[25]。当時から唯一続くサッカー長寿番組『スーパーサッカー』(当時は『速報Jリーグ』)でも番組初期にビートたけしと絡み、笑える番組としての下地を作るなど、Jリーグ発足時からの名物解説者の1人として活躍した。こうして皮肉なことにサッカー関連の仕事が忙しくなり、1993年日産を退社し、自らが社長を務めるフチューマを設立して独立した。

[匿名さん]

#7232020/11/25 00:07
これらの活動と平行し、この後1995年まで日本サッカー協会の強化委員会(現・技術委員会)委員に就任。ドーハの悲劇後の会議でハンス・オフト日本代表監督の経験不足を指摘しセルジオ越後とオフト解任を強く唱えた。また、1995年10月の加茂監督契約更新問題のときも、加藤久や田嶋幸三、今西和男らと恩師でもある加茂解任に動いた。強化委員会には代表監督を"選定する"という役割が与えられ、これが明文化もされていたにも関わらず、この結論を幹部会が退け加茂留任を幹部だけで決めた。こうした対応により、金田ら強化委員会のメンバーは全員が辞任し解散した。

その後はサッカーコメンテーター・解説者として活躍。その他サッカーの指導・普及にも当たっている。ゴルフにも凝り雑誌に連載を持つ程の腕前。2000年に行われたサッカー・アジアカップ決勝戦(日本vsサウジアラビア)では、決勝点を決めた望月重良に向けて、「やったなー! モチィ」と極めてフレンドリーな賞賛を送り、中継に花を添えた。サッカー解説者としては比較的知名度は高く、人気はある方である。

若い頃から海外遠征が豊富で、海外のスター選手に憧れてサッカーを始めたこともあって、TBSのUEFA欧州選手権2008の解説も務めた。2010年9月には、プロ野球の日本プロ野球名球会に倣って新たに発足した日本サッカー名蹴会の設立発起人、及び会長に就任した。

[匿名さん]

#7242020/11/25 00:08
現在のサッカー界では考えられないが、現役の頃から試合後にロッカールームでタバコを吹かすヘビースモーカーで知られ、後輩の木村和司を夜中に呼びつけ広島のお好み焼きを作らせるなど使い走りにしたり、フジテレビ721で放送されていた『チャンネル北野eX』に出演した際は、最初から最後まで酒を飲んで、言いたい放題喋るなど、豪放な人物でもある。都並敏史が初めて日本代表の合宿に呼ばれて、夜に金田の部屋に行くと、金田がザブトンを敷いて木村と岡田武史を従えて花札をやっていて"これが代表の実態なのか..."とカルチャーショックを受けたと著書に書いている。「本格的に指導者になったら?」と勧められるが「それはどうかな。何をやっても選手時代の達成感はない。選手をやめてからはワシはただ生きてるだけ。生きる屍さ」と話している。


■所属クラブ
1973年 - 1975年 広島工業高校
1976年 - 1979年 中央大学
1980年 - 1991年 日産自動車


■個人成績

通算
日本 JSL1部 139 19
日本 JSL2部 18 2
総通算 出場157 21得点


■その他の公式戦

1990年
コニカカップ 6試合0得点

[匿名さん]

#7252020/11/25 00:09
■代表歴

◇出場大会など
アジア競技大会(1978, 1982)
モスクワオリンピック予選
ワールドカップスペイン大会予選
ロサンゼルスオリンピック予選

■試合数
国際Aマッチ 58試合 6得点 (1977-1984)

日本代表 国際Aマッチ その他 期間通算
年 出場 得点 出場 得点 出場 得点
1977 1 1 25 2 26 3
1978 14 0 11 2 25 2
1979 3 0 5 0 8 0
1980 12 2 11 2 23 4
1981 6 0 13 4 19 4
1982 8 0 14 1 22 1
1983 8 2 13 0 21 2
1984 6 1 5 0 11 1
通算 58 6 97 11 155 17


■メディア

「アルゼンチンサッカー中継」解説者(1998年〜2007年、J SPORTS)
「フットボール解体新書」ナビゲーター(2002年、ヒストリーチャンネル)
「J-LEAGUE WIDE」解説者(TBS)
「FIFAコンフェデレーションズカップ2003」解説者(2003年、TBS・フジテレビ)
「2010 FIFA 南アフリカワールドカップ」解説者(2010年、TBS)
「2010 アジア大会サッカー」解説者(2010年、TBS・NHK)
「2014 FIFA ブラジルワールドカップ」解説者(TBS)
「2018 FIFA ロシアワールドカップ」解説者(文化放送)
「サンデーモーニング」(2018年・TBS)

[匿名さん]

#7262020/11/25 00:10
■書籍・参考文献

『キンタのサッカーで遊ぼう』自著、朝日ソノラマ、2002年2月
『週刊サッカーマガジン』2006年11月21日
国吉好弘「我ら最後の関西大会世代」『週刊サッカーマガジン』2011年4月26日。 
国吉好弘「私が出会った和の匠:金田喜稔(上・下)」『週刊サッカーマガジン』2013-10-08、15。 
『日本サッカー史・代表篇』後藤健生、双葉社、2002年11月
『日本サッカー史・資料篇』後藤健生、双葉社、2007年1月
『歴代日本代表パーフェクト名鑑』ベースボール・マガジン社、2007年8月10日
『モダンサッカーへの挑戦』加茂周、講談社、1994年12月
海江田哲朗「異端の天才:金田喜稔の『超常識』」『サッカー批評』56、、2012年5月10日。 

[匿名さん]

#7272020/11/29 11:44
デッツォーラ島根の掲示板ですよ?
上記の書き込みの数々はバクサイの規約違反では?

[匿名さん]

#7282020/11/29 11:45
デッツォーラ島根の選手、スタッフの皆様お疲れ様でした。

[匿名さん]

#7292020/11/29 20:07
明治大学体育会サッカー部(Meiji University Football Club)は、東京都世田谷区八幡山に所在する、明治大学体育会のサッカー部である。大学チームとして史上初めてJ1チームに勝利し、同じく史上初となる学生タイトル全五冠制覇を達成した、大学サッカー界の雄である。

■クラブカラー
紫紺
■創設年
1921年
■所属リーグ
関東大学サッカーリーグ戦
■所属ディビジョン
1部
■ホームタウン
東京都世田谷区
■代表者
越川芳明
■監督
栗田大輔


■概要

第60回全日本大学サッカー選手権大会決勝(国立霞ヶ丘陸上競技場)
1921年(大正10年)創部。全日本大学サッカー選手権大会に第1回から参加。2009年に天皇杯 JFA 全日本サッカー選手権大会で、大学チームとして史上初めてJ1チームに勝利し、2019年には史上初となる学生タイトル全五冠制覇を達成した。

◇ポリシー
部のポリシーとして、「オンザピッチ・オフザピッチにおいて一流を追求」、「プロの養成機関ではなく日本一を目指しながら体育会活動を通じて人格形成を追求し、社会のリーダーとなる人材の育成を追求」を掲げている。

◇運営体制
選手は4学年全体で50〜60名程度であり、他の主要大学の約半分以下の規模の少数精鋭体制をとっている。また、学業を優先とした練習スケジュールが組まれており、平日は早朝練習がメインとなっている。尚、原則としてスポーツ推薦入学による入部者は入寮し、一般入試組の入部者は寮に入らない方針である(この為、日本代表となった長友佑都や丸山祐市らは寮生活を送っていない)。

[匿名さん]

#7302020/11/29 20:08
◇Jリーグ
部是としてJリーガー養成を主眼にしていないことを謳っているものの、近年Jリーグ進出者は増加傾向にあり、2020年は9名に上った。また、現役J1選手輩出数では大学別で1位となっている。また、Jリーグからのオファーを断って、入部、就職する者などもいる。


■来歴

1921年に井染道夫らが中心となって創部。1928年より関東大学サッカーリーグ戦へ参加した。1952年に天皇杯(第32回大会)に初出場した。

1940年8月に開催された「満州国」建国十周年慶祝東亜競技大会で池清ら4名が現役のサッカー部所属選手として初めてサッカー日本代表に選出された。

1953年より創設されたインカレ(第1回大会)に参加して、1957年度の第6回全国大学サッカー選手権大会で準優勝、1958年の第7回全国大学サッカー選手権大会で初優勝を果たした。1964年には関東大学サッカーリーグ戦で初優勝を果たした。

2007年の第87回天皇杯全日本サッカー選手権大会2回戦でJ2・京都サンガF.C.に勝利。2009年の第89回天皇杯の2回戦でJ2・湘南ベルマーレに、3回戦でJ1・モンテディオ山形に勝利を収めた。なお、初めてJ1クラブに勝利した大学のサッカー部となった。同年末の第58回全日本大学サッカー選手権大会で51年ぶりに優勝(2度目)。

2013年はアミノバイタルカップで初優勝し、総理大臣杯全日本大学サッカートーナメントでも初の決勝進出を果たした。

2014年、FC町田ゼルビアなどを破って東京都サッカートーナメントで優勝。5年ぶりに天皇杯へ出場した。同年限りでユニバーシアード日本代表監督就任のため11年間監督を務めた神川明彦が退任、同部OBの栗田大輔が監督に就任した。

2015年はアミノバイタルカップで優勝。Jリーグに9選手を輩出した。

[匿名さん]

#7312020/11/29 20:09
2016年は第40回総理大臣杯全日本大学サッカートーナメントで初優勝し、リーグ戦でも強さを見せ、12チーム制になって以来最速となる4節を残しての優勝を決めた。2018年の第42回総理大臣杯全日本大学サッカートーナメントで2年ぶりに総理大臣杯を制した。

2019年、東京都サッカートーナメントで優勝して5年ぶりに天皇杯に出場。1回戦でJ3のブラウブリッツ秋田に勝利。アミノバイタルカップで優勝。総理大臣杯で2年連続優勝した。リーグ戦では22試合制になった2005年以降で最多となる勝ち点56を記録して優勝。大学選手権も優勝し、この年学生タイトル全五冠を制覇した。2015年度と並び、Jリーグに9選手を輩出。


■主な成績

◇全日本大学サッカー選手権大会
優勝:3回 (1958, 2009, 2019)
準優勝:3回(1957, 1963, 2011)
◇総理大臣杯全日本大学サッカートーナメント
優勝:3回 (2016, 2018, 2019)
準優勝:3回(2013, 2015, 2017)
◇東西学生蹴球対抗王座決定戦
優勝:1回 (1964)
◇関東大学サッカーリーグ戦1部
優勝:5回 (1964, 2007, 2010,2016,2019)
準優勝:9回(1929, 1960, 1961, 1965, 1985, 2011, 2012, 2014, 2015)
◇アミノバイタルカップ
優勝:3回 (2013, 2015, 2019)
◇東京都サッカートーナメント(兼天皇杯 JFA 全日本サッカー選手権大会東京都代表決定戦)
優勝:5回 (1998, 2007, 2009, 2014, 2019)
準優勝:1回(2017)

[匿名さん]

#7322020/11/29 20:10
■ 主な出身者
1920年代卒
井染道夫
1960年度卒
保坂司
1962年度卒
浜崎昌弘
1965年度卒
杉山隆一
1966年度卒
泉政伸
1967年度卒
菊川凱夫
1968年度卒
小畑穣
1977年度卒
田中孝司
1980年度卒
木村和司
佐々木則夫
1985年度卒
小林慎二
1988年度卒
神川明彦
1989年度卒
江尻篤彦
堀孝史
1991年度卒
吉田康弘
1992年度卒
見崎充洋
栗田大輔
1994年度卒
石井豊
内田利広
永田崇
1995年度卒
大柴克友
塚本秀樹
1996年度卒
浅利悟
1998年度卒
宮沢克行
1999年度卒
牛鼻健
河口真一
星出悠
2000年度卒
梅田直哉
中川雄二
長谷川満
2003年度卒
大和田真史
戸川健太
中島孝
2004年度卒
鳥丸太作
松ヶ枝泰介
2005年度卒
伊藤淳嗣
高杉亮太
日高拓磨
2006年度卒
小川佳純
福田健介
森賢一
2007年度卒
石井秀典
斎藤雅也
関憲太郎
2008年度卒
杉本裕之
長友佑都 (中途退部)
橋本晃司
林陵平
藤田優人
2009年度卒
田中政勝
都丸昌弘
2010年度卒
笠原昂史
久保裕一
小林裕紀
鹿野崇史
日野竜一
山田大記
山本紘之
2011年度卒
高木駿
田中恵太
丸山祐市
宮阪政樹
奥田大二郎
2012年度卒
岩渕良太
阪野豊史
松岡祐介
三田啓貴
山村佑樹
阿渡真也
2013年度卒小川大貴上松瑛梅内和磨矢田旭水野輝三橋隼斗2014年度卒三浦龍輝奥田裕貴苅部隆太郎松藤正伸石原幸治矢島倫太郎野間涼太2015年度卒山越康平瀬川祐輔小谷光毅鈴木達也藤本佳希和泉竜司高橋諒差波優人室屋成 (中途退部)2016年度卒服部一輝小出悠太道渕諒平河面旺成岩田拓也早坂龍之介丹羽詩温2017年度卒鳥海晃司山﨑浩介柴戸海土居柊太木戸皓貴2018年度卒岩武克弥上夷克典小野雅史後藤大輝長沢祐弥袴田裕太郎村田航一橋岡和樹2019年度卒加藤大智中村帆高川上優樹小野寺健也安部柊斗瀬古樹森下龍矢中村健人佐藤亮

[匿名さん]

#7332020/11/29 20:11
■ メディア

◇テレビ番組
『Jのミライ』 - スポーツ新時代が創造ヒトと企業の新しいカタチ
『FOOT×BRAIN』 - Jクラブから見た大学サッカーの今

◇関連書籍
『世界で戦える強い「個」を育てる』(2012 井澤千秋著 日本実業出版社)
『サッカーの戦術&トレーニング』(2012 神川明彦著 新星出版社)

◇関係者が登場するメディア作品
『赤き血のイレブン』 - 主要登場人物であるGKの大平洋介のモデルは、富士通サッカー部監督、川崎フロンターレ強化本部長などを務めた福家三男。
『ゆうとくんがいく』 - 長友佑都(サッカー日本代表)が監修し、主人公の「ゆうとくん」は自身がモデルである。

[匿名さん]

#7342020/12/02 02:37
斉藤 雅人(さいとう まさと、1975年12月1日 - )は、日本の元サッカー選手。大宮アルディージャ所属した。現役時代のポジションはMF。Jリーグで数少ない、プロ契約をしていないサラリーマン選手だった。埼玉県浦和市(現・さいたま市)出身。


■基本情報
◇国籍
日本
◇生年月日
1975年12月1日(44歳)
◇出身地
埼玉県
◇身長
172cm
◇体重
65kg

■選手情報
◇ポジション
MF
◇利き足
右足


■来歴

武南高等学校、駒澤大学卒業。 旧JFL時代からの生え抜き選手。球団職員(NTT所属の社員選手)でもある。

2010年1月14日、現役引退を発表。大宮アルディージャU-12コーチに就任した。現在は朝から昼までは社業に就き、昼からスクールコーチとして働いている。

2018年3月8日、大宮アルディージャ選手OB会の初代会長に就任。


■人物

チームのJ1残留をかけた2007年J1最終節の川崎フロンターレ戦で途中出場し、1-1の同点に追いつく自身J1初ゴールを決め、試合は引き分けとなり大宮はJ1残留を決めた。

外見およびプレースタイルから冷静で物静かな人物に見えるが、実際は熱いらしく、ベンチにいる時、味方の選手に対して不可解な判定や悪質なファウルがあった場合、監督やコーチ、スタッフとともにベンチを飛び出して抗議し、第4審判になだめられる場面がしばしばある。過去にも、アウェイゲームでベンチに退いた後、ボールパーソン(ホームチームのユースチームが担当していた)の時間稼ぎに対し、執拗な抗議を行ったとして退場処分を受けたことがある。

FC東京に所属していた浅利悟は高校の1年先輩であり、東京ガスの社員(出向扱い)でありながらサッカー選手という、斉藤と同じような社員選手であった。奇しくも、2人は2009年シーズン終了後に現役引退している。

[匿名さん]

#7352020/12/02 02:38
埼玉西武ライオンズの平尾博嗣は、中学時代(浦和市立東浦和中学校、現・さいたま市立東浦和中学校)の同級生である。

元俳優の江原淳史は同じ中学、高校の1年先輩である。
大宮で付けていた背番号15は、斉藤引退後4年間欠番となっていたが、2014年シーズンよりU-12からの下部組織育ちで同年トップチームに昇格した大山啓輔が付けることになった。


■所属クラブ
1991年 - 1993年 武南高等学校
1994年 - 1997年 駒澤大学
1998年 - 2009年 大宮アルディージャ


■個人成績

◇国内大会個人成績
年度 クラブ 背番号 リーグ リーグ戦 リーグ杯 オープン杯 期間通算
出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点
日本 リーグ戦 リーグ杯 天皇杯 期間通算
1994 駒大 20 - - - 1 0 1 0
1995 駒大 - - - 1 0 1 0
1997 駒大 8 - - - 3 0 3 0
1998 大宮 15 旧JFL 15 1 - 3 0 18 1
1999 大宮 15 J2 22 0 1 0 2 0 25 0
2000 大宮 15 J2 24 2 2 0 3 0 29 2
2001 大宮 15 J2 31 1 2 0 1 0 34 1
2002 大宮 15 J2 35 3 - 3 0 38 3
2003 大宮 15 J2 36 2 - 3 0 39 2
2004 大宮 15 J2 43 2 - 3 0 46 2
2005 大宮 15 J1 21 0 3 0 4 0 28 0
2006 大宮 15 J1 25 0 3 0 1 0 29 0
2007 大宮 15 J1 26 1 4 0 - 30 1
2008 大宮 15 J1 22 2 3 0 0 0 25 2
2009 大宮 15 J1 4 0 3 0 0 0 7 0
通算 日本 J1 98 3 16 0 5 0 119 2
日本 J2 191 10 5 0 15 0 211 10
日本 旧JFL 15 1 - 3 0 18 1
日本 他 - - 5 0 5 0
総通算 304 14 21 0 28 0 353 14


■指導歴

2010年 - 大宮アルディージャ
2010年 ジュニアコーチ
2011年 - 2014年 ジュニアユースコーチ
2015年 - ユースコーチ

[匿名さん]

#7362020/12/06 00:50
☆★サッカーマガジンWEB★☆


□■4度目の正直でついに1部昇格。1977年の読売クラブ◎J前夜を歩く第27回■□

2020-11-04
サッカーマガジン編集部


1965年から1992年まで日本のサッカーはJSL(Japan Soccer League/日本サッカーリーグ)を頂点として発展してきた。連載『J前夜を歩く』ではその歴史を振り返る。第27回は異彩を放つ個性派集団、読売クラブの初昇格について綴る。


文◎国吉好弘


■長く続いた上位リーグ優位の規定

 1965年にスタートした日本サッカーリーグ(JSL)は当初から入れ替え戦があった。今で言えば昇格プレーオフということになるが、現在行なわれているのは(コロナ禍の今季は開催されないが)J2の1位、2位は自動昇格し、それに次ぐ3番目のチームを決める戦い。J2の3位から6位のチームが戦って勝ち抜いたチームがJ1の下から3番目のチームと対戦する。しかし、JSL開始からしばらくの間行なわれていた入れ替え戦は、JSLの下位2チームとまだ2部がない時代には全国社会人選手権で決勝に進んだ2チームが対戦した。

 つまり自動昇格・降格はなく、それが取り入れられたのは1979年の第19回大会から。この79年も1部の最下位と2部優勝チームは自動で入れ替わるが、1部の下から2番目のチームと2部の2位は入れ替え戦を行なった。入れ替え戦が完全に廃止されて1部の上位2チームと2部の上位2チームが自動で入れ替るのは1984年からだ。

[匿名さん]

#7372020/12/06 00:51
入れ替え戦は基本的にホーム・アンド・アウェーの2回戦制で行なわれたが、2試合の合計が同点の場合は上位リーグのチームが残留した。これはかなり既存のチームに有利な規定で、2引き分けか、1勝1敗でも得失点差で劣らなければよかった。この規定ためもあって、JSLが始まってチーム数が「8」だった1971年の第7回大会まで、合計13回あった対戦(初年度は最下位のチームと社会人選手権優勝チームの対戦のみ)のうち、入れ替えに成功したのはわずか3チームのみ。社会人選手権で優勝しても、1年間リーグでもまれてきたチームを2戦合計で上回ることは容易ではなかった。

 1973年からは2部ができて1部の下位と2部の上位が争うようになるが、それでも結果の傾向は変わらず、73年からの4シーズンで昇格できたのは73年の永大産業のみ。その4シーズンで74年から3年連続で敗退したのが、読売クラブだった。

 1969年に創設された読売クは、文字通りクラブチームであり、JSLで企業チームではない異色の存在となった。社会人の東京都リーグから始まり、72年にJSL2部が立ち上がるときにはそのメンバーとなっている。無名でも腕(脚?)自慢の個性的な人材が集まり、ブラジルからやってきたジョージ与那城を中心に南米流の個人技を生かしたプレーも取り入れて、年ごとに強化された。

[匿名さん]

#7382020/12/06 00:52
JSL2部で72年は7位に終わったが、2年目の73年には3位、さらに74年には優勝を果たして意気揚々入れ替え戦に臨んだ。読売クは2部とはいえ18試合で46得点を挙げた攻撃力を誇り、すぐに1部昇格を果たすのではないかとの声も聞かれていた。相手は1部最下位のトヨタ自工。アウェーの第1戦ではPKで与えた1点を返せず、0-1で敗れた。東京へ戻って西が丘で戦った第2戦でも、立ち上がりに集中力を欠いて2点を先行され、後半に反撃したものの、2-3で敗れた。1部との試合運びの差を見せつけられる格好で昇格はならなかった。


■ 与那城とジャイロで重たい扉を開く

翌75年もリーグでは2位ながら入れ替え戦ヘ進んだが、日本鋼管に第1戦は1-1で引き分けたものの、第2戦で0ー1と敗れて敗退。さらに76年もリーグで2位となり、今度は新日鉄と対戦。相手はJSL開設の1965年から所属する古豪だったが、個々の能力ではむしろ読売クが勝っていた。ところが、試合運びの成熟度で劣り、1-2、2-3と2試合とも1点差で敗れた。

そして1977年、チームが解散となってリーグを脱退した永大産業から数人が加わり、戦力が向上する。特にブラジル人のジャイロの加入が大きく、与那城とのコンビで攻撃力はさらにアップした。また、DF松木安太郎、MF小見幸隆、FW岡島俊樹といったクラブで育った若手が経験を重ねて、落ち着いて持てる力を発揮できるようになった。試合運びの面で格段に成長していた。

[匿名さん]

#7392020/12/06 00:52
4年連続4回目のチャレンジの相手は、4年前に初めて苦汁を飲まされたトヨタだった。4年前と同様に第1戦は敵地トヨタスポーツセンターで行なわれた。違っていたのは、読売クのチームとしての成熟度だ。立ち上がりから攻勢をかけながらなかなか得点できず前半は0-0。しかし、焦れることなく試合を運び、50分に与那城が先制する。この得点でさらに落ち着いてプレーできるようになり、岡島が追加点を記録して2-0とし、入れ替え戦での初勝利を挙げた。

 この勝利で勢いを得ると、ホームで本領を発揮する。西が丘では与那城らの友人、知人からなるブラジル式のサンバの応援も後押しし、与那城、ジャイロが前後半に1点ずつを挙げて、この日も2ー0と快勝。2連勝で合計スコアも4-0とし、これまでこじ開けられなかった重い扉を、ついに開いた。

 読売クの力がすでに1部にふさわしいものであったことは、翌年初の1部でのシーズンを戦って4位という成績を収めたことで証明される。1980年代に入ってからも常に優勝を争った。Jリーグ初期に常勝軍団と呼ばれたヴェルディ川崎へと続くトップリーグでの活躍は、4年連続で臨んだ入れ替え戦での苦しい戦いを乗り越えたからこそだった。

[匿名さん]

#7402020/12/09 00:26
サッカー(米: soccer、英: football)は、丸い球体を用いて1チームが11人の計2チームの間で行われるスポーツ競技の一つである。アソシエーション・フットボール(英: association football; 協会式フットボールの意)ないしはアソシエーション式フットボール[注釈 1]とも呼ばれる。他のフットボールコードと比較して、手の使用が極端に制限されるという特徴がある。蹴球とも言う。


■統括団体
国際サッカー連盟
■通称
蹴球
アソシエーション・フットボール
アソシエーション式フットボール
ア式蹴球
■起源
イングランド(19世紀中頃)
■特徴
◇身体接触

◇選手数
1チーム11人
◇男女混合
有、大会は男女別
◇カテゴリ
屋外競技
◇ボール
サッカーボール
◇実施状況
オリンピック
1900年(男)
1996年(女)


サッカーは、210を越える国と地域で、多くの選手達によってプレーされており、4年に一度行われるFIFAワールドカップのテレビ視聴者数は全世界で通算300億人を超えており、世界で最も人気のあるスポーツといえる。試合は、それぞれの短い方の辺の中央にゴールがある長方形のフィールドでプレーされる。試合の目的は、相手ゴールにボールを入れ得点することである。

[匿名さん]

#7412020/12/09 00:33
1チームは基本11人。少なくとも7人以上いれば試合ができる。少人数制のルールもある。2チームが敵味方となり、1個のボールを主に足を使って移動させ(腕、手を使ってはいけない)、自チームのゴールを守りつつ、相手チームのゴールへ運び、相手ゴールにボールが入ると自チームの得点が1点 加算される(ゴール型)。試合は制限時間のホイッスルによって終了し、時間内により多くの得点を記録したチームが勝ちとなる。 足を使うことが基本であるが、手と腕以外の部分であれば使っても問題ない。例えば、もも、胸、頭、肩、膝などが挙げられる。手や腕でボールを故意に扱った場合は反則となる。各チームには1人だけ、ゴールキーパーというゴールを守る特別な役割のプレーヤーを置くことが定められている。ゴールキーパーだけが、自ゴール前の一定の領域(ペナルティエリア)内に限り、手を含む全身でボールを扱うことを許される。


■ 名称

アメリカ、オーストラリアではラグビーフットボール、アメリカンフットボールとの混合を避けるため、サッカー(soccer)を使用する。アメリカンフットボールは、アメリカではフットボール(football)イギリスでは American football)を使用する。

soccerは、associationの短縮系socに接尾辞cerをつけてできたとされる。

日本では、フットボール、ア式蹴球、蹴球などと呼ばれてきたが、ラグビーフットボール、アメリカンフットボールと区別し、呼称をはっきりさせるために1960年頃からサッカーと呼ぶようになった。従来の日本蹴球協会は1974年に日本サッカー協会に改称した。

[匿名さん]

#7422020/12/09 00:35
国際サッカー連盟に加盟する国の約9割は「フットボール(football)」を自国の言語に訳した単語を使っており、「サッカー(soccer)」と呼称する国は少ない。

世界的に英語: football が外来語となり広く用いられている。フランス語: footballを筆頭にして、スペイン語、ポルトガル語、ルーマニア語などのロマンス語の系統に典型である。またスラブ語派のロシア語、ウクライナ語、ベラルーシ語、セルビア語、ブルガリア語ではキリル文字による表記も同一でФутболを用いる。これをラテン文字で表記するとfutbolになり、スペイン語のものと同一である。

次に英: footballをfoot(足)とball(ボール、球)に分解して、自分達の言語での訳語をそれぞれ当てはめる呼称の仕方が存在する。ドイツ語: Fußballが典型で、Fußがfootに、ballがballに相当する。ヨーロッパの言語ではゲルマン語派に特徴的な表記方法であるが、これらの言語は語彙的に英語に近い(英語はゲルマン語派)ためドイツ語: ballと英語: ballのように語彙的な違いが全くない(発音は違う)か、あってもFußとfootのように違いがそれほど感じられない場合も多い。オランダ語、デンマーク語、ノルウェー語、スウェーデン語、アイスランド語等がこれに相当する。

[匿名さん]

#7432020/12/09 00:36
これらの言語は英語と語彙がかなり乖離しているためゲルマン系の言語とは印象が大きく異なる。また、footballを外来語として用いることが多いロマンス語の系統の中で、イタリア語が、この表記法に近い面を有する。calcioは元々「蹴る」という意味の言葉が変化したものである。イタリア語でカルチョと呼ぶのは歴史的な理由がある為である。また、スペイン語: balompiéという言葉がある。これはbalón(ボール)とpie(足)を組み合わせた語であるが、一部のクラブの名称としては使われるが、英語からの外来語のフトボル(fútbol)のほうが一般的である。

漢字文化圏における漢字表記でも、 中国語: 「足球」(ズーチィウ)が当てられている(例:チャウ・シンチーの映画「少林サッカー」=原題「少林足球」)。これはゲルマン系の言語と同じケースである。一方同じ漢字文化圏でも日本語では「蹴球(しゅうきゅう)」という漢字が当てられている。これは古来の遊戯「蹴鞠」(けまり)を連想して名づけられたといわれ、文献史料等を検討すると日本にサッカーが本格的に普及し始めた1905年以降の創作と考えられる。これ以前の文献には、フートボール、アッソシエーションフットボール、フットボールが散見され、「蹴球」が現れるのは大正時代になってからである。

[匿名さん]

#7442020/12/09 00:37
漢字表記自体が一般的ではないものの、朝鮮語における漢字表記も「蹴球(축구、チュックー、ツックー)」が用いられる。これは、1945年まで続いた日本統治の結果として、同一の協会(大日本蹴球協会、現在の財団法人日本サッカー協会の前身)の下にあった影響が大きい。漢字表記が用いられなくなっても呼び方はこのままで変わっていない。

日本語では、これまでのケースがfoot(足)とball(ボール、球)という組み合わせだったのに対して、「蹴る」と「ボール」とし、このスポーツを動的に捉えた意訳をしていることが見て取れる。このように「蹴る」と「ボール」を組み合わせたのは日本語に限定されたものではない。イタリア語のカルチョもこれに相当するが、ハンガリー語: Labdarúgás、ベトナム語: Bóng đáなどがこれに相当する。

サッカー (soccer) という名称は、「(協会式)」(Association Football) が転化した物である。イングランドで19世紀後半に流行った、語尾に「 -er 」をつけるという通称のつけ方に由来し、同時期にラグビーがイングランドでラガー (rugger) と呼ばれたこととも共通する。

[匿名さん]

#7452020/12/09 00:38
「サッカー」と言う呼称は、他のフットボールと区別する必要がある場合に用いられやすい。サッカー以外のフットボールの方が普及し認知されている国では、区別のために「サッカー」が用いられる傾向が強い。「フットボール」という呼称は、例えばアメリカではもっぱらアメリカンフットボールを指し、日本では「フットボール」という言葉を用いてサッカーだけを思い起こすことは難しいため、「サッカー」を用いて端的に区別する必要が生じる。なお、協会名称に「soccer」に当たる語を使用しているのはFIFA加盟国ではアメリカ、カナダ、米領ヴァージンの3ヶ国・地域のみで、日本協会は便宜的に国内でのみ使用している(日本語表記は「日本サッカー協会」であるが、英語表記では Japan Football Associationとしている)。


■試合

サッカーはLaws of the game(競技規則)として知られている一組のルールに従ってプレーされる。試合はサッカーボールとして知られている球形のボール(FIFAの試合では外周71 cm (28 in))を使用してプレーされる。それぞれ11人の選手からなる2チームは相手チームのゴール(ポストの間かつバーの下)にボールを入れ、得点することを競う。試合終了の時点でより多くのゴールを記録したチームが勝者となる。もしゴールが同点の時は、試合は引き分けとなる。(勝ち負けをつける場合は、延長戦をすることになる。)それぞれのチームは1名のキャプテン(主将)によって率いられる。競技規則で定められているキャプテンの唯一の公式な責務は、キックオフあるいはペナルティーキックの前のコイントスに参加することである。

[匿名さん]

#7462020/12/09 00:39
試合における主要な規則は、ゴールキーパー以外の選手はプレー中に手あるいは腕を使ってボールを故意に扱ってはならないということである。スローインによる再開の際には手を使用してもよい。選手は大抵ボールを動かすのに足を使用するが、手あるいは腕以外の体のどの部分を使用してもよい(とりわけ額を用いたヘディングが使われる)。通常のプレー中は、全ての選手はどの方向にボールを動かしてもよいし、ピッチの至るところに移動してもよいが、オフサイドポジションでボールを受けることはできない。

典型的な試合では、選手はドリブルでボールをコントロールしたり、チームメートにパスをしたり、相手ゴールキーパーによって守られたゴールに向かってシュートしたりすることで、得点機会を作り出そうと試みる。相手選手はパスを途中で捕まえたり、ボールを保持した選手に対してタックルしたりすることでボールの支配を取り戻そうとする。しかしながら、相手との間の身体的接触は制限されている。サッカーは一般的に流動的なゲームであり、プレーが止まるのはボールがフィールドを出るか、規則違反のために審判によってプレーが止められた時のみである。停止後、規定の方法によってプレーを再開する。

[匿名さん]

#7472020/12/09 00:40
プロフェッショナルレベルでは、ほとんどの試合でわずか数ゴールしか生まれない。例えば、2005-2006シーズンのイングランドプレミアリーグでの一試合平均ゴール数は2.48であった。競技規則では、ゴールキーパー以外のポジションは規定されていないが、多くの専門化された役割がこれまでに生じている。これらは、3つの主要なカテゴリーが含まれる。得点が主な役割であるフォワード、相手チームの得点を防ぐことに専門化したディフェンダー、フォワードにボールをパスするために相手からボールを奪い保持するミッドフィールダーである。これらのポジションの選手は、ゴールキーパーと区別するためにフィールドプレーヤーと呼ばれる。これらのポジションは、選手がほとんどの時間に位置しているフィールド上のエリアに応じて、更に細かく分けられる。例えば、センターバックや、レフト(左)ミッドフィールダー、ライト(右)ミッドフィールダーなどである。10人のフィールドプレーヤーの組み合わせは様々である。それぞれのポジションの選手の数がチームのプレースタイルを決定する。フォワードが多くディフェンダーが少ないチームはより攻撃的となるが、逆はより守備的なスタイルとなる。選手は通常特定のポジションで試合のほとんどを過ごすが、選手の移動に関する制限はほとんどなく、いつでもポジションを入れ替えることができる。選手の配置は「フォーメーション」として知られている。チームのフォーメーションおよび戦術の決定は大抵、チームの監督の権限である。

[匿名さん]

#7482020/12/09 00:41
■歴史

◇ 起源
人類としての歴史が始まった頃から人類はある種のフットボールを行っていたと思われる。新石器時代(紀元前約1万年前)の現中国地域の地層から石の球が発見され、中国マスコミはこれをサッカーの起源として報道したが、蹴った証拠は見つかっていない。南米ではアマゾンの熱帯雨林から天然ゴムが採取できた為、早くからボールを蹴る競技が行われていた。パタゴニアやアンデスのインディオ文明からは、様々なボール(もしくはそれに類するもの)や、ボールを蹴る競技の証拠が見つかっている(紀元前1500年チリのピリマタム、パタゴニアのチョエカ、紀元前800年メキシコのマヤ文明のポク・タ・ポク)。

足でボールを蹴る遊戯は、考古学的には、古代エジプト、古代ギリシャ、古代ローマから足でボールを蹴る人物のレリーフが発見されている(紀元前200年古代ギリシャのエピスキロス、紀元前200年古代ローマのパルパツウム)。中国では戦国時代に足で鞠を蹴りあう蹴鞠(しゅうきく)という遊戯が存在したことが、前漢末(紀元前1世紀)の「戦国策」に見える。

なお、FIFAのホームページでは最も古い形態のサッカーとして中国の蹴鞠を載せている。2014年にFIFAのゼップ・ブラッター会長が中国の博物館に「中国はサッカー発祥の地」とする認定証をおくった際は物議を醸した。

[匿名さん]

#7492020/12/09 00:41
◇イタリア

15世紀イタリアでも、イングランドのフットボールに良く似た「カルチョ」(Calcio) という遊びが存在した。この遊びがイングランドやフランスと決定的に異なる点は、農村地帯の広い空間でなく、都市の限られた空間である広場で行われていたことである。そのため自ずとフィールドが限定され、参加人数も限られたものとなり、簡単な役割や作戦も決められていたようで、これは現在のフットボールにかなり近い存在であったと言える。


■サッカーの確立

フットボールやカルチョのような遊びは近世末までヨーロッパ各地で行われていた。イングランドで行われていたものについては、決められたルールなどなく、色々なやり方でプレーされており、そのため極めて乱暴で、殺人を除くあらゆる手段が使われ、時に死者を出すことすらあったため、1314年にロンドン市長がエドワード2世の名で禁止令を出して以降、1847年までの533年間で、わかっているだけで42回にわたって禁止令が出されている。16世紀に宗教改革が行われると、禁欲的な生活から少し開放的になり、国王の庇護のもとに試合が行われるようになった。

ところが18世紀中頃から19世紀にかけて勃興した産業革命によって、大量の工場労働者を生み出すために農村の共同体が崩壊させられると次第に廃れていった。

[匿名さん]

#7502020/12/09 00:42
農村の代わりにフットボールをレクリエーションとして受け入れ近代的な「スポーツ」として成立させたのがイングランドにおけるパブリックスクールである。パブリックスクールでも当初は農村での遊びに近い形態で行われていた。18世紀の後半にパブリックスクールが上流階級の子弟のための教育機関となると、生徒は自分達よりも下の階級に属する校長や教師の指導に従わなくなった。この時期(18世紀後半から19世紀初め)にかけてのパブリックスクールには「乱暴な雰囲気があり、フットボールもそのような雰囲気のなかで行なわれ」、「フットボールは上級生が下級生に権力をふるうための一つの手段になっていた」。産業革命により新たに台頭した企業家たちがパブリックスクールの運営にもかかわるようになると、上級生が下級生を支配するのではなく、教師の権威が確立され、学校の規律が守られるようになった。こうしたパブリックスクール自体の改革によって、フットボールもまたルールに基づき人格形成に役立つような「スポーツ」を目指すようになった。

この時点でのフットボールは学校毎にルールが異なり、他校との試合の際はその都度ルール調整のための話し合いが持たれていた。しかし、これでは手間もかかる上、ルールに対する理解に齟齬を来たすため、しばしばルール統一を目指した協議が行われた。そのため共通ルールが1846年ケンブリッジ大学で立案された(ケンブリッジルール)。これが現在のサッカーのルールの基になった。ケンブリッジルールの特徴としてラグビー校式のルールがほぼ取り入れられなかったことが挙げられる。

[匿名さん]

#7512020/12/09 00:44
上流階級の出身者が多いイートン校やハーロー校の卒業生が、中流階級の子弟が比較的多いラグビー校の卒業生を格下とみなしていた階級差別もこの一因であったことが指摘されている。

こうして1850年代までにはイートン校を中心とする「手を使うことを制限するルール」と、ラグビー校を中心とする「手を使うことを許可するルール」との二大勢力に収束していったが、両者の間には依然として大きな隔たりがあった。1863年には、一部のクラブはボールを手で持って運ぶこと(キャリング)、ボールを運んでいる相手の脛を蹴ること(ハッキング)を認めるラグビー校スタイルのルールを採用し、その他のクラブはどちらも禁止していた。1863年10月26日にイギリスのロンドンにある居酒屋フリーメイソンズ・タバーンにて、ロンドンの12(11とする資料もある)のクラブが「統一ルールの作成と、試合における同ルールの運用に携わる協会の設立」を目指した会議を開いた。参加したクラブは、バーンズ、ブラックヒース(後に脱退)、ブラックヒース・スクール、クルセイダーズ、クリスタル・パレス、フォレスト、ケンジントン・スクール、ノー・ネイムズ、パーシバル・ハウス、サーピトンなどである。この日がフットボール協会(FA)の公式な設立日とされる。この日の会合ではハッキング派と反対派との間の激しい隔たりがあった。同年11月17日の会合ではハッキング派が優位に立ち、この問題を議論した。

[匿名さん]

#7522020/12/09 00:45
FAの主事エベネーザー・コッブ・モーリーによって起草されたFAの規則の初稿はこの好みを反映し、今日ではサッカーよりもラグビーに近いと見なされるであろう多くの要素を含んでいる。

11月24日の会合では、「ハッキング派」が再び辛うじて過半数を占めた。しかしながら、この会合で、モーリーはその年の10月に出版されキャリングとハッキングを禁止したケンブリッジ大学のフットボール規則に出席者の注意を向けさせた。ケンブリッジルールの議論とこの問題に関してケンブリッジと意思疎通をはかることを勧める提案によって、規則の最終的な「調停」は12月1日の会合に先延ばしとなった。ラグビー式フットボールを支持する多くの代表者はこの追加会合に出席せず、結果としてキャリングとハッキングは禁止された。最も顕著なハッキング派であったブラックヒースのフランシス・キャンベルは、「ハッキングに賛成する」規則が採用されるのを防ぐために11月24日の会合を不適切に運営したとしてFA会長アーサー・ペンバー(英語版)、モーリー、そして彼らの仲間を糾弾した。ペンバーはそういった「非紳士的な行為の訴え」を否認した。ブラックヒースと他の「ハッキング支持派」クラブはこの論争の結果としてFAを脱退した。

同年12月、FAの規則の最終版が正式に採用、出版された、14条から成る統一ルールが誕生した(サッカー競技規則#1863年の規則)。これを現代サッカーの始まりと見なすことができる。

[匿名さん]

#7532020/12/09 00:47
FAのフットボールは協会式フットボール(Association Football)と呼ばれるようになった。その省略形 soc に「人」を意味する -er をつけたものが soccer の語源であり、1880年代頃から使われているといわれている。1863年の規則と現在の規則との大きな違いは以下の通りである。

クロスバーがなく、ゴールはどの高さでも決めることができること(今日のオーストラリアンフットボールと同じ)
ほとんどのハンドリングは禁止だったが、ボールのキャッチは認められていた(持ったまま走ったり、投げたりはできなかった)。フェアキャッチに対してはフリーキックが与えられた(今日のオーストラリアンフットボール、ラグビーユニオン、アメリカンフットボールに残っている)。
厳格なオフサイドルール。ボールより前にいる味方選手はオフサイドとなった(今日のラグビーユニオンのオフサイドと似ている)。唯一の例外はボールがゴールラインの後方から蹴られた時。
ボールがタッチの外に出た後に最初にボールに触った選手にスローインが与えられた。ボールはタッチラインから直角に投げ入れなければならなかった(今日のラグビーユニオンのラインアウトと同じ)。
コーナーキックはなかった。ボールがゴールラインの後ろに出た時は、ラグビーと幾分似た状況となった。攻撃側が最初にボールに触った時は攻撃側がボールを触った地点から15ヤード後方からゴールへのフリーキックを得て(ラグビーのコンバージョンに幾分似ている)、守備側が最初にボールに触った時は、ゴールラインの後方からのキックアウトとなった(現在のゴールキックに相当する)。

[匿名さん]

#7542020/12/09 00:48
ゴールが決まる毎にエンドを交換した。
ゴールキーパー、審判、反則に対する罰、試合時間、ハーフタイム、選手の数、ピッチのマーキング(プレーエリアの境界線を印す旗のみ)については規定が設けられていなかった。
このFAルールでの初の試合(つまり世界初の「サッカー」の試合)は、1863年12月19日にイングランドで行われたリッチモンド対バーンズ戦で、0-0の引き分けだった。

1850年代は英語圏でパブリックスクールや大学との繋りを持たない多くのクラブが設立され、様々なルールでフットボールをプレーしていた。その内の1つの北部のクラブであるシェフィールドFCは1858年にシェフィールド・ルールを策定し、このルールは北部地域ではサッカーよりも人気を博していた。シェフィールド・ルールではコーナーキックやスローイン、クロスバーが考案され、またフェアキャッチを廃止したことによりヘディングの技術が発展した。サッカーはこれらの要素を取り込みつつ、最終的に1877年にはFAのルールとシェフィールド・ルールが統一された。ゴールキーパーのポジションは1871年に導入された。

なお、FAから去ったハッキング派(ラグビー派)は、1871年にラグビーフットボール連合を設立した。

[匿名さん]

#7552020/12/09 00:49
■サッカーの伝播

イングランドのパブリックスクールで始められたサッカーは、パブリックスクールのOBを中心に早い段階からイギリス各地域(スコットランド、ウェールズ、アイルランド)に広まっていった。1870年3月5日、ロンドンのケニントン・オーヴァルで「非公式」ながら、世界初の国際試合がイングランドとスコットランドの間で行われ、1-1の引き分けに終わった。その後、この試合も含め両者は5回に渡り非公式国際試合を行った(1870年の11月19日、ケニントン・オーヴァルでイングランドが1-0で勝利。1871年2月25日、同地区で1-1引き分け。1871年11月18日、ロンドンでイングランドが2-1で勝利、1872年2月24日、ロンドンでイングランドが1-0の勝利)。一連の非公式国際試合は、それらの試合を企画したイングランドサッカー協会 (FA) 第4代事務局長チャールズ・ウィリアム・オールコックの名前にちなんで、オールコックの国際試合と呼ばれている。1872年11月30日に、グラスゴウのパーティック地区のハミルトン・クレッセント・グラウンドで、世界で最初の“公式”国際試合が、イングランドとスコットランドの間で実施された。スコアは0-0の引き分けだった。その後1880年代までに、スコットランド、ウェールズ、アイルランドではサッカー協会が結成された。19世紀後半のイギリスは世界中のあらゆる場所に進出する大英帝国であったので、サッカーが世界中に伝播されるのに非常に都合がよかった。サッカーは最初海外に進出するイギリス人が駐在先でプレーしたことによって伝えられた。

[匿名さん]

#7562020/12/09 00:49
1880年代末までには、ベルギー、スイス、フランス、ドイツといった西ヨーロッパ、中部ヨーロッパ、1890年代末までには東ヨーロッパや南米に、20世紀初頭にはアジア地域にも伝播した。

1863年イングランドで近代サッカー(現代のサッカー)が誕生した時からイングランドはロングボール戦法だった。イングランドに勝てなかったスコットランドは、1867年にショートパス戦法を考案。スコットランドはショートパス戦法確立後、1872年-1882年の10年間で、イングランドに対し、7勝2敗2分け得点39失点31試合平均得点3.55平均失点1.91と大きく勝ち越した。この2つの戦法が、近代サッカー(現代のサッカー)伝来と同時か時を経て各国に伝播されていき、各国のサッカー戦術の源流となった。

各国でいつ、どのようにサッカーが伝播し受容されていったかについては各国のサッカーの項目にある歴史の項を参照されたい。


■サッカー大会の開始

イングランドでは、1872年に最初のサッカー大会となるFAカップが開始された。これは他の多くの国、地域でのカップ戦のモデルになっている。FAカップでは最初はアマチュアクラブや、大学チームが活躍していたが、1880年代に入ると、生活保障を受けるプロフェッショナルプレーヤーが誕生しこれを主体としたクラブが上位を占めるようになった。こうした国内強豪クラブを集めて実施されたのが1888年から始まったフットボールリーグである。これはサッカーでは最初のリーグ戦であり、多くの国、地域が自国のリーグ戦のモデルとしている。

[匿名さん]

#7572020/12/09 00:50
■プロフェッショナルの誕生と産業化

20世紀初頭までにイングランドでは完全にプロフェッショナルが主体となり、他の国、地域でもこれに追随した。アマチュアとプロフェッショナルの間で多少の軋轢があり、時期的な違いが見られるものの、当時強豪国と呼ばれていた国・地域のほとんどは1920年代までにプロフェッショナルへの移行を果たしている。

プロフェッショナルとなった彼等に払われるサラリーは当初ごく僅かなものであり、これはパブ仲間内で出し合ったお金で遣り繰りすることは可能であった。次第に選手へのサラリーが増大し、高額な移籍金で選手を集めるクラブが出現し始めると小額の資本でクラブを運営していくことは難しくなり、クラブの運営はより大きな資本を持つ者の手にゆだねられるようになった。最初は企業家、商人、医師といった地元の名士が名乗りを上げたが、1920年代以降になると次第にもっと大きな資本がクラブの運営に手を出すようになってきた。フィアットの資本的後援を受けたユヴェントスや、フィリップスの後援を受けたPSVアイントホーフェンなどはその一例である。


■国際大会

サッカーで最初の国際大会は、オリンピックのサッカー競技であった。公開競技としては第一回のアテネオリンピックから行われており、1908年ロンドンオリンピックで公式競技として採用された。

[匿名さん]

#7582020/12/09 00:51
オリンピックのシステムとサッカーのそれは互いに矛盾する点が幾つか見られた。前述の通り1920年代までに強豪国のほとんどがプロフェッショナルへの移行を果たしていたが、五輪憲章でアマチュア条項が規定されたオリンピックのサッカー競技では最強のナショナルチームを結成することは不可能であった。1904年に結成された国際サッカー連盟(FIFA)は、1930年からアマチュアもプロフェッショナルも出場可能な真のサッカー代表世界王者を決める大会としてFIFAワールドカップを開始した。なお、「ワールドカップ」という名称を最初に用いたのはサッカーである。以降アマチュアのオリンピックは急速に興味を失われていくことになる。なおオリンピックサッカー競技はその後、1984年のロサンゼルス五輪によるプロ参加の容認(五輪憲章のアマチュア条項自体は、このロサンゼルス五輪より10年前の1974年の第75回IOC総会で削除)などの制度の変遷を経て、1992年バルセロナ大会以降は男子に関しては「23歳以下の選手による大会」という性格を得るに至っている(詳細はオリンピックのサッカー競技の記事を参照)。なお、女子は1996年アトランタ五輪から五輪競技に採用され、採用時から現在まで女子A代表(年齢制限なしのその国最強の代表)の大会となっている。同じく女子A代表のFIFA女子ワールドカップは1991年から開催されている。

[匿名さん]

#7592020/12/09 00:52
また、スキャモンの発達曲線から区分された育成年代のサッカー選手の各発達段階に国際経験を積むことで、更なる成長を促すという目的で各年代別世界大会が男女とも開催されている。男子は1977年に開始されたFIFAワールドユース選手権(現FIFA U-20ワールドカップ)、女子は2002年に開始されたFIFA U-20女子ワールドカップが最初に開始されたFIFAの年代別世界大会である。

第二次世界大戦後には各大陸連盟が設立され、これらの下で大陸別選手権(例:アジアではAFCアジアカップ)が開催されるようになった。また同時に、各大陸連盟はクラブチームによる大陸別選手権(例:アジアではアジアクラブ選手権〔現AFCチャンピオンズリーグ〕)も実施した。ただしクラブチームによる世界選手権、FIFAクラブワールドカップが創設されるのは21世紀を待たなければならなかった。

[匿名さん]

#7602020/12/09 00:52
■現在

サッカーはボール以外に特に重要な道具を必要とせず、ルールも単純なため、先進国のみならず経済水準や教育水準が低い国に至るまで広く普及している。11人でチームを作りグラウンドの上でプレーするという形態以外にも、様々な姿に形を変え、ラテンアメリカやヨーロッパを中心に老若男女を問わず、世界中のあらゆる地域でプレーされている。世界中のほとんどの国でナショナルチームが組織されていることはその現われの一つである。母数が多いため、純粋な統計を調べることは難しいが、競技人口および国際的な認識が最も高いスポーツの一つであるといえる。FIFAには2016年5月13日時点で全世界211の国と地域のサッカー協会が加盟しており、この他にもFIFA未加盟のサッカー協会が複数存在する。競技人口は2006年時点で2億6500万人以上(FIFA加盟の各国サッカー協会に登録料を支払い登録している選手の合計)で、競技人口に審判や競技役員も合わせたサッカー競技活動従事者は2億7千万人以上と国際サッカー連盟(FIFA)は発表している。2006年時点の各国別の競技人口ランキングも、FIFA公式HPで閲覧することが出来る(但し、2006年時点でのFIFA加盟協会のみ。All Playersは各協会未登録者も合わせた競技人口、Registered playersは各協会登録競技者人口、Unregistered Playersが各協会未登録競技人口、Clubsがクラブ数、Officialsが競技役員総数)。

[匿名さん]

#7612020/12/09 00:53
■種類

「11人集めてチームを作り、グラウンドの上でプレーする」と言う制約を除けば、現代のサッカーは以下のような形態でも行われている。

・ストリートサッカー(en:Street football)
・フットサル
・ビーチサッカー

これらについては上記各項目を参照。このうち、フットサルとビーチサッカーについてはFIFAによって世界選手権が開催されている。

また、その他にも、ソサイチと呼ばれる新しい形態での取組が増えている。

20世紀中頃まで競技者は男性が中心であったが、近年では女性の競技も認知され、また他方では健常者だけでなく障害を持つ者に対してプレーできるよう取り組みがなされてきている。


■女子サッカー

20世紀初めまでサッカーは「男が行うスポーツ」と見られていた。女性が男性のように髪を乱してスポーツをすることははしたない行為であり、殊にサッカーは太股を露にする動作が淫らであるといった認識がされていた。ただ実際には女性による競技も古くからごくわずかながらも行われていた。第一次世界大戦において女性も総力戦体制に動員されるが、これを受けて戦後は女性の地位が向上し、婦人参政権の確立などの権利拡大が図られた。平行して女性がスポーツをすることも認められるようになり、1920年代には女子サッカーは一つのピークを迎えた。

[匿名さん]

#7622020/12/09 00:54
しかし様々な理由で女子サッカーは不当な扱いを受け続け、試合のみならず練習会場すらままならない状況が続いた。その後、1970年代ごろから女性にも競技機会が開放されると、アメリカや北欧を中心に女子サッカーは発展。1991年にはFIFA女子ワールドカップが開始され、1996年アトランタオリンピックからオリンピックの正式種目に採用されるなど(1996年アトランタオリンピックのサッカー競技も参照)、少しずつ市民権を得てきている。


■障害者サッカー

20世紀末から、身体や発達に障害を持つ人向けのサッカーが広く行われ、ワールドカップ大会が開催されたり、パラリンピックやスペシャルオリンピックスなどの大会に採用されたりしている。

◇サッカーの名称 対象 大会
電動車椅子サッカー 肢体障害者 電動車椅子サッカーワールドカップ

視覚障害者サッカー(ブラインドサッカー) 視覚障害者 パラリンピック

ろう者サッカー(デフサッカー) 聴覚障害者 デフリンピック

知的障害者サッカー 知的障害者 スペシャルオリンピックス世界選手権

脳性麻痺7人制サッカー(CPサッカー) 脳性麻痺者 パラリンピック

アンプティサッカー 肢体障害者 アンプティサッカーワールドカップ

日本ではFIFAワールドカップ開催後の2002年8月に「2002 INAS-FIDサッカー世界選手権大会」が国際知的障害者スポーツ連盟と日本サッカー協会により東京、神奈川で開催された。

[匿名さん]

#7632020/12/09 00:55
■ルール

サッカーのルールは全17条の項目であるサッカー競技規則とこれ以外の国際サッカー評議会 (IFAB) の通達やガイドライン等によって構成されている。サッカーの競技規則はFIFAではなく、国際サッカー評議会 (IFAB) が定めている。2015年2月頃に改正されたサッカー競技規則2015/2016までは、IFABが制定したルール(競技規則等)をFIFAが冊子として発行していたが、2016年3月IFAB年次総会(AGM)で改正されたサッカー競技規則2016/2017以降は、IFABが直接ルール(競技規則等)の英語版(正式な原本)、フランス語版、ドイツ語版およびスペイン語版の冊子(ルールブック。競技規則本)を発行している。文章表現や解釈に疑問が生じた場合は、英語版の競技規則に基づくものとされている(日本では、日本サッカー協会が英語版を毎年改正部分を含めて日本語に翻訳、表現を見直しながら日本語版出版)。

IFABが毎年2月末頃(2月か3月)に開催する年次総会(AGM)において、ルール改正を討議し、出席者の3/4以上の賛成を得た場合(IFAB構成メンバー:FIFA4票、英本土4協会各1票計8票中6票以上)、ルールが改正される。つまり、ルール改正にはFIFAの4票、英本土4協会が各1票の計8票のうち6票以上が必要であり、FIFAだけでも英本土4協会だけでも決められないようになっている。「新競技規則(新ルール)」は5月末までにFIFAからFIFA加盟各国のサッカー協会に通達され、6月1日から全世界で施行される(国際試合は6月1日から有効。ただし、6月1日までにその年のシーズンが終了していない大陸連盟及び加盟協会は、その施行を次のシーズン開始まで延期できる。

[匿名さん]

#7642020/12/09 00:57
日本では例年6月1日以降のしかるべき日、遅くとも8月中には施行している。6月1日以前に、シーズンを開始する場合は、IFABの改正に関する通達の直後に施行することができる)。つまり、毎年サッカーのルールは細かく変更されている。そのため、審判は毎年、更新講習会を受ける必要がある(未受講の場合、審判資格を失効する)。近年、IFAB年次総会で結論が出なかった内容などについては、6月か7月のIFAB特別会議を経て、その他の指示や方向性(通達)として改めて伝えられるようになった。

したがって、以下のルールも変更あるいは削除(ルールおよび用語自体が無くなっている)されている場合がある。例えば、キーパーチャージ(ゴールエリア内のキーパーへのチャージを禁ずる)の反則は、1997年のルール改正で削除され現在は存在しない。最新のルールおよび通達については日本サッカー協会公式HPなどを参照のこと。


■フィールド (第1条)

大きさ : 縦105メートル×横68メートル(国際大会)
ライン : 12センチメートルを越えてはならない
ゴールの大きさ : 7.32×2.44メートル(内側寸法)、柱12cmを越えてはならない

[匿名さん]

#7652020/12/09 00:58
ゴールの大きさ : 7.32×2.44メートル(内側寸法)、柱12cmを越えてはならない
コーナーフラッグ : 高さ1.5メートル以上
センターサークル : ゲームの開始時(キックオフ)、また、得点が入ったとき、ここの中心(センターマーク)からプレイが始められる。相手側の選手がこのエリアにいるときは、キックオフすることができない。
タッチライン : フィールドの長辺(側方)に引かれたライン。ボールがこのラインからフィールドの外に出たとき、最後に触れた選手の相手方のチームにスローインが与えられる。
ゴールライン : フィールドの短辺(ゴールの接する辺)に引かれたライン。ボールがこのラインからフィールドの外に出たとき、最後に触れた選手が攻撃側の場合はゴールキック、守備側の場合はコーナーキックになる。
ペナルティーエリア : このエリア内では、守備側のゴールキーパーがボールを手で扱える。また、守備側が直接フリーキック(FK)にあたる反則をした場合には、攻撃側にペナルティーキック(PK) が与えられる。
コーナーアーク : コーナーフラッグから描く、半径1メートルの4分の1の円
ペナルティーマーク : ゴールから11メートルの点で、ペナルティーキックの時にボールを置く地点。


■ボール (第2条)

大きさ : 外周は68センチメートル以上70センチメートル以下
重さ : 410グラム以上450グラム以下(試合開始時)
空気圧 : 0.6-1.1気圧

[匿名さん]

#7662020/12/09 00:59
■出場人数 (第3条)

11人以下。ただし、そのうち1人は必ずゴールキーパーであること。どちらかのチームが7人未満の場合は試合を行わない。また、試合中に7人未満になった場合は、国際サッカー評議会としては一方のチームが7人未満となった場合、試合中止すべきと考えるが、実際の判断は加盟協会の裁量に任せる(試合続行可能な1チームの競技者最少人数を加盟協会が決定してよい)。
FIFA、各大陸連盟、各国協会が行う公式競技会ではいかなる試合でも最大3人まで交代できる。(1994 FIFAワールドカップ以降)
国際Aマッチの親善試合では最大6人まで交代可能(たとえ対戦する両チームの合意があっても、7名以上交代させた場合は、国際Aマッチ認定を取り消し、その試合の記録は国際Aマッチとしては全て無効になる)。それ以外の試合であれば対戦者同士の合意と試合前の主審への通知があれば、最大交代人数をさらに増やすことができる。試合前に主審に通知されなかった場合、または合意出来なかった場合は、最大6人交代可能。
2018 FIFAワールドカップからは延長戦に限り4人目の交代が認められ、その他の主要国際大会でも導入された。


■用具(第4条)

袖のあるシャツ
ショーツ
ソックス

脛当て(シンガード、レガース)
ゴールキーパーは、トラックスーツのパンツをはくことができる。
ヘッドギア、フェイスマスク、また膝や腕のプロテクターなど危険でない保護用具で、柔らかく、軽いパッドが入った材質でできているものは、ゴールキーパーの帽子やスポーツめがねと同様に認められる。

[匿名さん]

#7672020/12/09 00:59
■審判員(第5条、第6条)

フィールド内に主審が、タッチライン外側に副審2名が置かれる。大きな大会ではこれ以外に第4、第5の審判員が設置される。最近ではVAR(ビデオアシスタントレフリー)も導入されている。


■試合時間 (第7条)

前後半45分の計90分。
年齢、性別により変更できる。
いわゆるコールドゲームは原則的にない。
途中の選手交代や負傷などによる中断時間を審判員が独自に計測し、その分の余剰時間(アディショナルタイム)を付ける。
一定以上の規模の試合では、第4の審判員が目安となる時間をタッチラインで明示する。
時間内に決着がつかなければ次のように取り扱われる。
引き分け : 各国リーグではそのまま引き分けにする場合が多い。
延長戦 : トーナメント戦で次のラウンドに進むチームを決める場合に行われることが多い。
PK戦 : 延長戦でも勝者が決定しない場合に行われる。ごくまれに、延長戦を行わずにPK戦を行う場合もある。 


■プレーの開始・再開(第8条)

キックオフ、直接フリーキック、間接フリーキックもしくはドロップボールで試合が開始、再開される。キックオフは前・後半の開始時と得点のあとにおこなわれる。試合前にコイントスで勝ったチームがエンドを選ぶか前半にキックオフをする。後半はエンドを入れかえ、前半にキックオフしなかったチームがキックオフする。ドロップボールはインプレー中に主審が試合をとめたときの再開方法。ドロップボールはボールがグランドにふれてから(バウンドしてから)ける。空中でけるとやりなおし。

[匿名さん]

#7682020/12/09 01:01
■オフサイド(第11条)

相手側ゴールラインより前に相手側の選手が2人(GK含む)の時に、相手選手達より前、あるいは間に味方が立ち、その味方にボールを蹴り出す行為。または、ボールに関与する動きをすること。または、相手選手を邪魔すること。


■ファウル及び不正行為(第12条)

グリーンカード : 良いことをした時に提示するカード。12歳以下のみ使用。
イエローカード : 警告を告げる際に主審が提示するカード。同一試合に2枚で退場(レッドカード)となる。大会、形式によっては次の試合出場停止。
レッドカード : 退場を告げる際に主審が提示するカード。
大会、形式によっては次の試合出場停止。
ハンドリング : ボールを手や腕で扱う反則。ただし、ゴールキーパーが自陣のペナルティエリア内にあるボールを扱う場合は反則とならない。故意や悪質と判断されたもの、決定的な得点の機会を阻止した(例 触らなければゴールになるシュートをフィールドプレイヤーが手で阻止した)、場合には、警告や退場となる。ルール上故意とはあるが、故意か否かは本人にしか分からないので、基本的には手に当たったことにより敵チームが不利となる時には反則を取られる(ハンドリングにより得点やアシストをした場合など)。
キッキング : 相手選手を蹴ること。
トリッピング : 相手選手をつまずかせる行為。足、または体を使い相手選手を倒したり、倒そうとする行為。
ジャンピングアット : 相手選手に飛びかかる行為。
ストライキング : 相手を殴ること。または殴ろうとする行為。
プッシング : 相手選手を押すこと。

[匿名さん]

#7692020/12/09 01:02
ファウルチャージ : 乱暴で危険な手法で相手選手にチャージする行為。または、妨害していない相手選手を背後からチャージする行為。
ファウルコンタクト : ボールに触れる前に相手選手に触れること。
ホールディング : 相手選手を押さえ込むこと。
スピッティング : 相手選手に唾を吐きかけること。
シミュレーション : 相手選手との接触による転倒を模擬して審判を欺く行為。
アドバンテージ : 守備側が反則行為を行ったが、そこでゲームを止めない方が明らかに攻撃側に有利となる場合、その時点での反則を取らない場合がある。これをアドバンテージといい、主審は両手を上前方にあげるジェスチャーを取り、プレー続行を示す。これは反則を見逃すということではなく、次にプレーが止まった時点で警告や退場を命じることがある。


■フリーキック(第13条)

反則を犯したチームへの罰として相手チームによって試合を再開させるキック。直接得点できる直接フリーキックと、ほかのプレーヤーに触れてからでないと得点できない間接フリーキックがある。フリーキックの際は、守備側選手は一定距離離れなければならないが、その距離が満たされていなくても攻撃側は一定の場合を除き、キックでプレーを始めることができる。


■ペナルティーキック(第14条)

ペナルティーエリア内で反則を犯したチームへの罰として相手チームに与えられるキック。ゴールから11m(12yd)の位置から、GK以外に妨害されることなく直接得点を狙うことができる。

[匿名さん]

#7702020/12/09 01:02
■スローイン(第15条)

タッチラインを割ったときに最後に触れた選手の反対のチームが、ボールが割った位置で頭上で両手を使ってボールを投げ入れて試合を再開する。このとき、両足を地面についていないといけない。直接ゴールを狙うことはできない。スローインのボールはオフサイドの対象とならない。


■ゴールキック(第16条)

ゴールラインを割ったときに最後に触れた選手が攻撃側だった場合、守備側がゴールエリア内にボールを置いてキックで再開する。直接ゴールを狙ってもよい。ゴールキックのボールはオフサイドの対象とならない。


■コーナーキック(第17条)

ゴールラインを割ったときに最後に触れた選手が守備側だった場合、フィールドの角を示すコーナーポストの位置から相手に邪魔されない形でキックすることができる。直接ゴールを狙ってもよい。コーナーキックのボールはオフサイドの対象とならない。


■用語

◇ポジション

大きく分けて次の4つのポジションがある。

ゴールキーパー (GK) : ゴールを守る選手。唯一ペナルティエリア内で手でボールを扱うことができる。しかし、ペナルティエリアを出てボールを扱う場合は他のプレーヤー同様、手の使用は禁じられる。GKに対し、それ以外の選手を総称してフィールドプレーヤー(FP)という。
ディフェンダー (DF) : 主に後方で守備を行う選手。
ミッドフィールダー (MF) : 主に中盤で守備と攻撃とをつなぐ選手。
フォワード (FW) : 主に前線で攻撃を行う選手。

[匿名さん]


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