870
2023/11/26 14:42
爆サイ.com 山陽版

サッカー国内





NO.7201210

デッツォーラ島根④
報告 閲覧数 3478 レス数 870

#2712019/07/01 01:12
■日本代表


◇代表デビュー〜エースとして

カズのフル代表デビューは1990年9月のバングラデシュ戦。その後もハンス・オフト監督の体制下、エースFWとしてダイナスティカップや、AFCアジアカップ1992での優勝に貢献、自身も両大会でMVPを獲得する。アジアカップのグループリーグ最終戦イラン戦では、後半終了間際に決勝ゴールを決め「魂込めました、足に」とコメントした。

1993年のFIFAワールドカップ・アメリカ大会予選では、1次予選では9ゴール、最終予選では4ゴールを挙げ、エースとして活躍した。中でも大韓民国戦での決勝ゴールは、日本サッカーが40年もの間超えられなかった壁であった韓国をワールドカップ地区予選で初めて破ったという意味でも値千金であった。しかし、最終予選最終戦のイラク戦でロスタイムに同点にされ(いわゆる「ドーハの悲劇」)、ほぼ手中にしていた本大会出場をあと一歩のところで逃した。このことについて、カズは「(センタリングを上げられた)瞬間、やばいと思った。スローモーションのように球の軌道が見えた」と著書『おはぎ』で語っている。

[匿名さん]

#2722019/07/01 01:13
■フランスW杯に向けて

その後、ファルカン、加茂周と監督が代わっても、カズはコンスタントにゴールを決め続けた。1997年6月22日、仏W杯アジア1次予選グループ4第4戦マカオ戦で6得点をあげ、釜本邦茂に並ぶ日本代表1試合最多得点記録を樹立した(2011年時点。FIFA認定記録ではカズ単独)。だが、1997年9月7日の仏W杯アジア最終予選B組初戦のウズベキスタン戦でこそ4得点を挙げたものの、その後ゴールを挙げられず勝ちきれない試合が続くとカズ代表不要論が高まり、予選自力突破が消滅した国立競技場でのUAE戦の後には暴徒化した一部サポーターに罵声を浴びせられ、またそれらに応戦する姿がワイドショーで放映された。

その後、ワールドカップ本大会初出場を決めたアジア第3代表決定戦のイラン戦(「ジョホールバルの歓喜」と称される)では、2トップを組む中山雅史と共に交代を命じられ、この時カズが「オレ?」と自分を指差したことが話題となった。交代板には11番が先に出たので、「ゴン(中山雅史)なのか? 俺なのか? どっちだ?」と岡田監督に確認を取るためのジェスチャーだったが(番組インタビューなどで本人及び城、岡田監督の両者が語っている)一般的には「まさか俺を交代させるのか?」と言うアピールだとマスコミに解釈をされてしまい、誤解を受けることとなった。またイランも交代の準備をしていたため、11番が日本の事なのかイランの交代に対してなのか判りづらかったと後日出演したTBS『見ればなっとく!』内で北澤豪は述べている(イランの11番であるアジジは交代することなくフル出場する)。また、予定外の交代は試合前のミーティングでの「FKは中田もしくは名波が蹴ること」との岡田監督の指示を無視してカズ自らが蹴ったことで「少し感情的になってしまった」と後に岡田監督は述懐している。

[匿名さん]

#2732019/07/01 01:14
1998年、ワールドカップ本大会に臨む代表候補25人に選ばれ、スイスでの直前合宿に参加するが、北澤豪、市川大祐と共に、本大会出場メンバーの選考から漏れ、苦渋の帰国となった(ニヨンの屈辱)。この舞台を切望していたカズが落選した発表はマスコミで大きく報じられた。カズは髪を金髪に染め上げて帰国し、帰国直後に成田国際空港で行われた会見では「日本代表としての誇り、魂みたいなものは向こうに置いてきた」とコメントした。その後、日本代表はアルゼンチン・クロアチア・ジャマイカと同組になったW杯本戦を1次リーグ3戦全敗、僅か1得点という結果で終えたこともあって、岡田の采配や判断は議論を呼んだ。


■フランスW杯後

フランスW杯終了後、フィリップ・トルシエに監督が交代してからもしばらく代表に招集されることはなかったが、1999年末から2000年までは再び代表に招集された。しかし、2000年6月のハッサン2世国王杯でのジャマイカ戦が最後の出場になった。この試合では、中田英寿からのパスで、現在のところ最後となる国際Aマッチでのゴールを決めている。それ以降は韓国戦に招集はされたが、サポーターからカズコールが起きたにもかかわらず、結局出場機会はなかった。トルシエはカズを高く評価しており、カズを初招集した際、「君がいろんな経験を積んでいるのは一目でわかる。若手を引っ張ってくれ」「98年のワールドカップはどうしてダメだったんだ。ウエイトオーバーだったのか?こんなに動けるのになにが問題だったんだ」と会話を交わした。トルシエは2002 FIFAワールドカップにおいて代表スタッフとしてカズの帯同を望んだが、カズは選手としての参加を望んでいたため、実現しなかった。

[匿名さん]

#2742019/07/01 01:15
■フットサル日本代表

2012年にフットサル日本代表に招集され、同年11月にタイで開催されるFIFAフットサルワールドカップ日本代表に選出された。10月24日に国立代々木競技場第一体育館でのフットサルブラジル代表戦に出場。日本代表として国際試合に出場するのは2000年以来となった。

10月27日に北海道旭川市の旭川大雪アリーナでのフットサルウクライナ代表戦に出場、前半14分にフットサル選手として初ゴールを挙げた。

2016年に記者から「客寄せパンダ的な利用のされ方をするのは嫌じゃないですか」という質問をされると、「J2でも、横浜FCでもよくそう言われるし、書かれているじゃないですか。でも、パンダじゃなきゃ人は来ないですから。その役割は自負していますよ。僕は客寄せパンダで十分ですよ。だって普通の熊じゃ客は来ないんだもの。パンダだから見に来るんだもの。熊はパンダになれないんだから」と返答している。

[匿名さん]

#2752019/07/01 01:16
■日本代表 国際Aマッチ
年 出場 得点
1990 3 0
1991 2 0
1992 11 2
1993 16 16
1994 8 5
1995 12 6
1996 12 6
1997 19 18
1998 1 0
2000 5 2
通算 89 55

2007年にJFAが行った検証により1997年のルーマニア戦 2試合が取り消された。このため出場数が91から89へ、得点数が56から55へと訂正された。

JFAとRec.Sport.Soccer Statistics Foundation (RSSSF) は、釜本邦茂(75得点)に次ぐ日本代表歴代2位の得点者としている。一方、国際サッカー連盟 (FIFA) は、2009年時点では釜本を三浦と同数の55得点としていたが、2014年時点では80得点としている。


これは以下に示す JFA、IFFHS 両者の統計方法の違いによる。

JFA - 1988年以前のオリンピック予選および本大会における、プロリーグの存在しない国・地域の、年齢制限のないオリンピック代表チームとの試合は国際Aマッチとする。
FIFA - 1999年に「1960年以降の全てのオリンピック関係の試合が国際Aマッチと認められる訳ではないが、中間部分については更なる分析が行われる」という声明を出し、これを元にした基準を採用している。
なお、RSSSFは「東ヨーロッパとスカンジナビア諸国のサッカー協会はFIFAの声明を却下し、信頼できる各国の協会によって認められた統計方法を持っている。日本も大部分のオリンピックの試合を2015年に公式に認めている」という見解を示し、JFAの記録を追認している。

[匿名さん]

#2762019/07/04 00:44
□■サッカー日本代表 歴代監督■□


■2018年〜現在
森保一

■2018年
西野朗

■2015年〜2018年
バヒド・ハリルホジッチ

■2014年〜2015年
ハビエル・アギーレ

■2010年〜2014年
アルベルト・ザッケローニ

■2007年〜2010年
岡田武史

■2006年〜2007年
イビチャ・オシム

■2002年〜2006年
ジーコ

■1998年〜2002年
フィリップ・トルシエ

■1997年〜1998年
岡田武史

■1994年〜1997年
加茂周

■1994年
ファルカン

■1992年〜1994年
ハンス・オフト

■1988年〜1991年
横山謙三

■1986年〜1987年
石井義信

■1981年〜1985年
森孝慈

■1980年〜1981年
川淵三郎

■1980年
渡辺正

■1979年〜1980年
下村幸男

■1976年〜1978年
二宮寛

■1972年〜1976年
長沼健

■1970年〜1971年
岡野俊一郎

■1962年〜1969年
長沼健

■1960年〜1962年
高橋英辰

■1958年〜1959年
竹腰重丸

■1958年
川本泰三

■1957年
高橋英辰

■1951年〜1956年
竹腰重丸

■1951年
二宮洋一

■1942年
工藤孝一

■1938年〜1940年
竹腰重丸

■1936年
鈴木重義

■1934年
竹腰重丸■1930年鈴木重義■1925年山田午郎■1923年西田満寿次郎■1921年佐々木等

[匿名さん]

#2772019/07/08 02:26
□■早稲田大学ア式蹴球部■□

----------------------------------------------

◇創設者◇

[ 鈴木重義 ]


1920年に早稲田高等学院に入学。同校でサッカー部(ア式蹴球部)を設立。在学中、ビルマ人留学生チョウ・ディンからショートパス等のサッカーの指導を受けて実力を伸ばす。

1923年に早稲田大学に入学、1924年にア式蹴球部を創設した。在学中、野津謙らと全国高等学校ア式蹴球大会を開催。

1927年、上海で開催された第8回極東大会のサッカー日本代表に選出され、主将としてフィリピン代表戦では先制ゴールを決めるなど、日本代表として最初の国際大会勝利に貢献。

その後は早稲田大学の監督を務めるとともに、1930年に東京で開催された第9回極東大会では日本代表監督を務め、中華民国代表と同位ながら国際大会で初優勝を実現した。なお、翌年の1931年の1年間、鈴木の自宅が大日本蹴球協會(現日本サッカー協会)となっている。

1936年のベルリンオリンピックで日本代表監督に就任。本大会前の練習試合で、当時ヨーロッパで広まりつつあった3バック(WMシステム)を目の当たりにし、急遽代表チームにこのシステムを導入した。その結果、スウェーデン代表に勝利(ベルリンの奇跡)。

----------------------------------------------


全国タイトル計30回(全国大学タイトル計27回・天皇杯3回)、全国大学タイトル計27回(東西対抗13回・全日本大学選手権12回・総理大臣杯2回)や、現役学生のみのア式蹴球部による天皇杯優勝3回、関東大学リーグ優勝27回は全国の大学で最多である。

【男子部】
1924(大正13)年の創部以来、早稲田大学ア式蹴球部は常にサッカー界をリードし、数々の日本代表選手を輩出してきました。

【女子部】
「ピッチの中では泥臭く、ピッチの外ではエレガントに」をスローガンに、切磋琢磨しながら練習に励んでいます。

[匿名さん]

#2782019/07/08 02:27
>> 続く……

[匿名さん]

#2792019/07/20 06:25
7月21日(日)は、島根県1部の天王山。

デッツォーラ島根 VS SC松江

s-pitchにて15時キックオフ。

松江シティ VS Honda FC 戦の裏である。

[匿名さん]

#2802019/07/22 03:08
>>279

県リーグ第4節

SC松江1-2デッツォーラ島根

[匿名さん]

#2812019/07/26 20:57
船橋整形外科クリニックの電話に出る事務員全員男も女も電話対応が悪すぎる。名前も名乗らないし、クリニックに対するクレームは一切聞いてくれず、要は患者の話を一切聞かないという方針の病院で、やたらと患者を下に見てくる。
名医が例えいたとしても、事務員の電話対応がどの人も一人もいい人がいなくて、全員悪すぎてこの病院を選ばないという理由になる。
名医が一人いてもその名医が本当に名医か分からないしね。受付の電話対応も指導できない位のレベルの低い病院だし

[匿名さん]

#2822019/08/20 21:33
島根県1部、6戦6勝の負けなし!

デッツォーラ島根、復活かな?

今季はSC松江が独走するかと思ったが。

[匿名さん]

#2832019/08/22 13:34
デッツォーラ島根、頑張れ!

島根県1部、優勝だ!

[匿名さん]

#2842019/08/22 13:37
レノファ山口は、一度県1部に落ちてから這い上がって、今のJ2のポジションまで来た。応援してるぞ!

[匿名さん]

#2852019/09/01 21:36
FWの若林選手は身長が148cmと小柄だが、どんなプレーをするか気になる選手。

[匿名さん]

#2862019/10/15 13:36
島根県リーグ1部、優勝おめでとうございます!

[匿名さん]

#2872019/10/17 06:50
デツ島応援してます 

[匿名さん]

#2882019/11/08 09:57
選手の奥さんや彼女たちの応援団が熱い応援をしていたね

[匿名さん]

#2892019/11/16 19:03
試合終了
デッツォーラ島根1-0パナソニック岡山

[匿名さん]

#2902019/11/16 19:04
明日の試合予定
11時キックオフ
デッツォーラ島根vsバンメル鳥取

@コカコーラ広島スタジアム

[匿名さん]

#2912019/11/16 19:08
廿日市って、降格なんだ。

[匿名さん]

#2922019/11/17 11:25
前半11分
PKを決め
デッツォーラ先制

[匿名さん]

#2932019/11/17 11:57
前半終了
デッツォーラ島根1-0バンメル鳥取

[匿名さん]

#2942019/11/17 12:55
試合終了
デッツォーラ島根1-0バンメル鳥取

デッツォーラ島根、1年で中国リーグ昇格!
おめでとうございます!

来季中国リーグは、浜田ダービーが実現ですね!

[匿名さん]

#2952019/11/18 17:35
>>294
松江シティが降格したら浜田コスモスが押し出し降格してしまう。

[匿名さん]

#2962019/11/18 20:31
>>295
松江シティの結果如何か。

[匿名さん]

#2972019/12/01 16:22
中野 雄二は、東京都目黒区出身の元サッカー選手、サッカー指導者、大学教授。現役時代のポジションはディフェンダー。日本サッカー協会指導者ライセンスのB級を保有している。

◾生年月日
1962年10月17日(57歳)

◾出身地
東京都目黒区

◾選手情報
ポジション
DF

◾ユース
1978-1981
茨城県立古河第一高校
1981-1984
法政大学

◾監督歴
1985-1990
水戸短期大学附属高校
1992-1996
プリマハム土浦FC
1997
水戸ホーリーホック
1998-
流通経済大学


1978年、茨城県立古河第一高校に入学してサッカー部に所属。1年次よりレギュラーとして出場し第57回全国高等学校サッカー選手権大会で優勝した。2年次は県予選決勝で敗れたが、3年次は主将に就任して第59回全国高等学校サッカー選手権大会で自身2度目の優勝を果たした。

高校卒業後は法政大学社会学部応用経済学科へ進学してサッカー部に入部。入学当初よりレギュラーに定着して、2年次に総理大臣杯全日本大学サッカートーナメントで優勝し、4年次には主将も務め、監督代行としてチームをまとめた。しかし、関東大学サッカーリーグ戦で4年間共に1部と2部の昇格降格を繰り返したことなどで中野自身も後に後悔が残ったと語っている。

大学卒業後、1985年より水戸短期大学附属高校(現:水戸啓明高校)の商業科の教諭として赴任し、サッカー部の監督に就任。当時の同校サッカー部は弱小であり、かつ荒廃していたため当初より生活指導に明け暮れたが、徐々に強化が進んで1990年には高校総体茨城県予選で準優勝に導いたが、1990年夏に一身上の都合により水戸短期大学附属高校を退職した。なお、小澤英明は当時の教え子の一人である。

[匿名さん]

#2982019/12/01 16:23
1991年春よりプリマハムへ入社して新東京工場(土浦市)で勤務すると共に「プリマハムアセノFC」のコーチに就任した。入社2年目の1992年より「プリマハムアセノFC」を解消して、プリマハム単独出資のプリマハム土浦FCとして再スタートすると同時に同クラブの監督に就任し、同年の茨城県社会人サッカーリーグ1部で優勝、1994年に関東サッカーリーグへ昇格、1996年度の全国地域サッカーリーグ決勝大会で準優勝に導いた(その後、ジャパンフットボールリーグ(JFL)昇格が決定)

1996年シーズンを最後にプリマハムが「プリマハム土浦FC」の運営から撤退し、茨城県リーグに所属していた水戸FCと統合する形で1997年に水戸ホーリーホックが発足。同クラブの監督に2年契約で就任すると共に運営会社の常務取締役も兼任した。水戸での1年目はJFL最下位に終わり、シーズン終了後に中野は監督辞任に追い込まれた。

1998年、プリマハム土浦FC監督時期よりオファーを受けていた流通経済大学サッカー部の監督に就任。2010年に全日本大学選抜チームの監督、2011年には2011年夏季ユニバーシアードのサッカー日本代表の監督をそれぞれ務めた。現在は同大学社会学部の教授を務めるほか、全日本大学サッカー連盟副理事、関東大学サッカー連盟副理事長を兼任している。

◾選手歴
1975-1977 古河市立古河第二中学校
1978-1981 茨城県立古河第一高校
1981-1984 法政大学

◾指導歴
1985-1990 水戸短期大学附属高校(現:水戸啓明高校):監督
1991-1996 プリマハムアセノFC / プリマハム土浦FC
1991:コーチ
1992-1996:監督

1997 水戸ホーリーホック:監督
1998- 流通経済大学:監督

◾参考文献

秋元大輔『なぜ流通経済大学サッカー部はプロ選手を輩出し続けるのか?』東邦出版、2012年3月22日。ISBN 4809410226。

秋元大輔『日本でいちばんプロサッカー選手を育てた男』ぱる出版、2012年8月21日。ISBN 9784827207354。

[匿名さん]

#2992019/12/04 03:19
☆チーム紹介☆

□◾流通経済大学サッカー部◾□


◾チームプロフィール

我々流通経済大学サッカー部は1965年に創部。1998年、監督に中野雄二氏を招聘しサッカー部の強化を始めました。以来、緑に囲まれた龍ヶ崎市にある龍ヶ崎キャンパスにて活動をしています。

トレーニングは、サッカー専用グラウンド3面(大学サッカー場1面、RKUフットボールフィールド2面:人工芝)で行っています。また、施設内にはゴールピッチ(フットサルコートのサイズの人工芝ピッチ)や砂場トレーニング場もあり、学生たちは充実した環境の中で日々トレーニングに精進しています。

流通経済大学サッカー部は「サッカーを通して人間としていかに成長できるか」を追求し、社会人として様々な場で活躍できる人材を育成することを目指しています。その指導のもと、これまで数多くのプロ選手を国内外へ輩出しており、ここ20年でプロ選手(国内・国外)を90人以上も輩出しています。その他にも企業チーム・クラブチームにて活躍されている方、Jリーグ試合の審判員として活躍されている方、中学、高校の教師または警察官や消防士になられた方等、卒業後は様々な分野で活躍をしています。

私生活面では、全寮制をとっており住食をサッカー部の仲間たちと共に過ごし、団体生活の厳しさや楽しさを経験しながら、大切な大学4年間の生活をおくっています。

◾主な成績◾
関東大学リーグ1部優勝3回(2006年・2008年・2009年)、総理大臣杯全日本大学サッカートーナメント優勝3回(2007年・2013年・2014年)、 全日本大学サッカー選手権大会優勝2回(2014年・2017年)、第18回日本フットボールリーグファーストステージ1位、通算成績準優勝(2016年)

2019年部員数:213名

[匿名さん]

#3002019/12/08 19:12
三菱化成黒崎サッカー部は、かつて存在した日本のサッカークラブ。三菱化成(現・三菱化学)のサッカー部として1935年に創部し、1995年から三菱化学黒崎フットボールクラブへ改称。2001年からクラブチームとなり、チーム名を「ニューウェーブ北九州」に改めた。日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)加盟のギラヴァンツ北九州の前身となったクラブである。

■創設年
1947年

■解散年
2009年

■ホームタウン
北九州市

■ホームスタジアム
北九州市立本城陸上競技場
北九州市立鞘ヶ谷陸上競技場


1947年に北九州市八幡西区黒崎にあった三菱化成黒崎工場(現:黒崎事業所)のサッカー部として創設。1973年に発足した九州サッカーリーグに創設時より参加し、同年に優勝して九州リーグの初代王者となった。また、全国社会人サッカー選手権大会にも初めて出場した。

九州リーグでは新日鐵大分サッカー部や日本電信電話公社熊本サッカー部、鹿児島サッカー教員団などとしのぎを削り、1981年から1984年までの4連覇を含む合計7回のリーグ制覇を果たした。1981年には全国地域サッカーリーグ決勝大会に初めて出場した。

また、天皇杯全日本サッカー選手権大会には第65回(1985年)に初出場して、合計4度出場したが、日本サッカーリーグ(JSL)勢の壁は厚く、天皇杯で勝利を挙げることは出来なかった。

1990年代初めになると日本各地でJリーグへの参加を表明するクラブが次々と名乗りをあげていった。しかし九州でJリーグ入りを表明したクラブはなく、日本サッカーリーグ(JSL)に唯一参加した古豪の新日鐡八幡サッカー部もJリーグ加盟を断わっている。詳細は八幡製鉄サッカー部を参照のこと。なお、三菱化成黒崎サッカー部は1995年に三菱化学黒崎フットボールクラブへチーム名を変更した。

[匿名さん]

#3012019/12/08 19:16
さらに1990年代後半に入ると九州各県からJリーグ加入を目指す動きが起き始め、それに伴い強化を図るクラブチームが頭角を現した。このため1989年に優勝したのを最後に徐々に成績を落とし優勝から遠ざかっていった。

■ニューウェーブ北九州
2001年、地域密着型のサッカー・スポーツクラブの創設を目標として、北九州市と地元企業などが共同で特定非営利活動法人北九州フットボールクラブ(北九州FC)を創設し、当時九州リーグに所属していた三菱化学黒崎フットボールクラブの運営を北九州FCに移し、チーム名を「ニューウェーブ北九州」に改め、北九州FCのトップチームになった。元々ニューウェーブ北九州という名前は、北九州市長杯争奪北九州招待サッカー大会に出場するため三菱化成黒崎サッカー部と新日鐵八幡サッカー部から選出された北九州市選抜チームに対して付けられていた名前であった。

クラブは「北九州からJリーグチームを」というスローガンを掲げ当初からトップチームのJリーグ参加を目指し、地元資本である井筒屋やゼンリンなどのスポンサードを受けたり、北九州市内に設置されているコカ・コーラの自動販売機の売上の一部が運営費に贈られた。

2005年、サガン鳥栖元監督で北九州市出身の千疋美徳が監督に就任。リーグ戦は6位の成績。

2006年、千疋が監督を続投し、従来からのスポンサーに加え北九州市からの支援も受けた。リーグ戦は3位、全国社会人サッカー選手権大会は準決勝で静岡FCに敗れた。福岡県サッカー選手権大会(兼第86回天皇杯全日本サッカー選手権大会福岡県予選)は東海大五高校に敗れた。

[匿名さん]

#3022019/12/08 19:17
2007年、千疋が監督を退任し(コーチに就任)、後任に前年までFC琉球の監督だった与那城ジョージが就任。選手もJリーグ経験者のFW藤吉信次、GK水原大樹、クラブ史上初のブラジル人選手となるDFドグラスら全選手の半数近くとなる10人(途中、DFタチコが入団)が加入した。リーグ戦は21節時点で第31回全国地域リーグ決勝大会の出場圏内の2位以上を確定させ、さらに22節に勝利して前身時代以来18年ぶりの九州リーグ優勝を決めた。地域決勝大会は得失点差でファジアーノ岡山FCに次ぐ2位。2008年からの日本フットボールリーグ(JFL)昇格が決まった。なお、北九州市を本拠とするチームとしては日本サッカーリーグ2部から九州サッカーリーグに新日鉄八幡サッカー部が降格した1991年以来17年ぶりの全国リーグ所属チームとなった。

2008年2月、Jリーグ準加盟クラブとして承認された。JFLリーグ戦でのホームゲームの入場者数が毎試合1,000人前後で、最も入場者の多かったMIOびわこ草津戦も1,752人で、8月26日のJリーグによる予備審査で経営状況などの面で基準に劣ると判断された。

初出場となった天皇杯全日本サッカー選手権大会(前身の三菱化成黒崎時代を含めると18年ぶり5回目)では、1回戦でホンダロックSCにPK戦で勝利(三菱化成黒崎時代も含めて大会初勝利)、2回戦も三菱重工長崎サッカー部を破ったが、3回戦でベガルタ仙台に敗れた。

[匿名さん]

#3032019/12/08 19:17
2009年、与那城体制3年目。MF関光博、FW長谷川太郎などJリーグ経験者を獲得。前期は、一時は12位まで順位を下げたが8勝4分5敗の勝点28で5位。9月に徳島ヴォルティスから大島康明をレンタルで獲得。後期に入って4位以内を維持し、第16節(11月23日)でアルテ高崎を破り、年間4位以上が確定(最終順位も4位)。入場者数は、開幕戦のジェフリザーブズ戦で9,856人、前期第14節のV・ファーレン長崎戦で8,157人など、後期第15節のFC琉球戦の時点で、Jリーグ加盟基準(平均3,000人)以上の年間入場者数51,000人を突破した。 11月30日のJリーグ臨時理事会で2010年からのJリーグ加盟が承認された。

天皇杯は福岡県代表として本大会に出場したが、1回戦で日本文理大学に敗退した。

2010年よりチーム名称をギラヴァンツ北九州へ改称した。

[匿名さん]

#3042019/12/11 08:26
布 啓一郎(1960年12月21日-)は、千葉県出身の元サッカー選手、サッカー指導者。

◾出身地
千葉県

◾ユース
1976-1979
千葉県立千葉東高校
1979-1983
日本体育大学

◾監督歴
1984-2002
船橋市立船橋高校
2003-2004
日本 U-16
2009-2010
日本 U-19
2018-
ザスパクサツ群馬


体育教師志望で日本体育大学に一般入試で受験し合格した。サッカー部に所属では三軍からレギュラーを勝ち取り全日本大学サッカー選手権大会(インカレ)でも優勝している。

日体大卒業後、1984年に船橋市立船橋高等学校に赴任し、サッカー部監督に就任。これ以降、1987年、88年の高校総体連覇、1988年の高校選手権準優勝などの成績を残した。2000年に日本サッカー協会公認のS級ライセンスを取得した。

2003年、船橋市立船橋高校を退職し、U-16日本代表監督に就任したが、日本で開催されたAFC U-17選手権2004は1次リーグで敗退し、2005 FIFA U-17世界選手権出場は成らなかった。

その後は日本サッカー協会技術委員として若年層の強化に努めた。2005年から技術副委員長・ユースダイレクターに就任、『JFA2005年宣言』の実現に向けての『プレジデンツ・ミッション(PHQ)』の一環として、JFAプリンスリーグU-18発足以降JFA内で進められている育成年代の試合を現在のノックアウトトーナメント方式中心からリーグ戦中心に移行する構想を推し進めた。

[匿名さん]

#3052019/12/11 08:27
2009年、U-19日本代表の監督に就任した。なお、日本経済新聞や夕刊フジは、布の就任についてコーチの牧内辰也と共に過去に若年層の世界大会に出場できなかった彼らにリベンジのチャンスを与えたかったとする、JFA内幹部の配慮であったと報じている。2010年10月に中華人民共和国で開催されたAFC U-19選手権2010に挑み、一次リーグを3戦全勝し決勝トーナメントに進んだものの、準々決勝でU-19サッカー大韓民国代表に敗れ2011 FIFA U-20ワールドカップへの出場権を逸した。2010年いっぱいで監督を辞任。日本サッカー協会技術委員会JFAアカデミープロジェクトリーダーおよびJFAアカデミー福島スクールマスターも務めた。

2015年、ファジアーノ岡山のコーチに就任。

2018年よりザスパクサツ群馬の監督に就任した。翌年の2019年シーズンで2位に入り、チームを3年ぶりのJ2復帰へ導いた。


◾船橋市立船橋高校サッカー部時代の主な成績

1985年、全国高校サッカー選手権大会初出場
1987年、全国高等学校総合体育大会優勝
1987年、全国高校サッカー選手権大会ベスト4
1988年、全国高等学校総合体育大会2連覇
1988年、全国高校サッカー選手権大会準優勝
1994年、全国高校全国高校総合体育大会ベスト4
1994年、全国高校サッカー選手権大会優勝
1995年、全国高校総合体育大会ベスト4
1996年、全国高校総合体育大会ベスト4
1996年、全国高校サッカー選手権大会優勝
1997年、全国高校総合体育大会ベスト4
1998年、全国高校総合体育大会優勝
1999年、全国高校サッカー選手権大会優勝
2000年、オッテンカップ世界ユース選手権大会優勝
2001年、全国高校総合体育大会優勝
2002年、高円宮杯全日本ユース選手権大会ベスト8
2002年、全国高校サッカー選手権大会優勝

[匿名さん]

#3062019/12/14 19:41
藤和不動産サッカー部(とうわふどうさんサッカーぶ)は、かつて存在した日本のサッカークラブ。藤和不動産のサッカー部として1968年に創部した。1972年から1993年まで日本サッカーリーグに所属した。日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟する湘南ベルマーレの前身となったクラブである。



■創設年
1968年

■ホームタウン
栃木県(1968年 - 1974年)
東京都、神奈川県平塚市(1975年 - 1992年)
神奈川県平塚市(1993年)


1968年、広島出身の藤田一族の経営する藤和不動産が新たに栃木県那須の藤和那須リゾート内に創設。チーム創設の経緯は「キング・オブ・スポーツ」のサッカーで社名を世界に轟かせるという威勢にいいもので、藤田正明の持論は「野球はアメリカと日本だけ。将来、必ずサッカーの時代が来る」「強くなるためにはプロを作らないとダメだ」で、将来のプロ化を見据えて藤田はサッカー部を作った。当時、日本サッカーリーグ(以下、JSL)のチームでさえ練習場所を転々としていたが、那須ハイランドに芝生3面の専用練習グラウンドを整備し、全24室すべて個室の合宿所(コテージ風)を建設。これら全てを1カ所に集中させた。また専門の栄養士が就いて選手の食事を用意し、夜はビデオテープを使ってミーティングまで行なったという他チームにとっては垂涎の環境であった。三菱重工(現「浦和レッズ)が合宿を行なった際、同行していたドイツの名将・ヘネス・バイスバイラーが絶賛したという逸話も残る。雪で練習場が使えない時は、藤和の選手たちは矢板東高校のグラウンドを借りた。同校の選手・指導者に最先端の戦術・技術を伝え、同校は全国的な強豪になった。

[匿名さん]

#3072019/12/14 19:42
「3年で日本サッカーリーグ(JSL)入り」という高い目標を掲げて、東洋工業サッカー部の黄金期を創った石井義信を迎え強化を図り、栃木県社会人リーグ4部に参加、1試合平均15得点とあまりの強さに、1部リーグとの入れ替え戦を許され、翌1969年栃木県リーグで優勝。関東サッカーリーグ2年目の1971年、全国社会人サッカー選手権大会で優勝し、JSL入れ替え戦に出場、名古屋相互銀行を下しJSLに昇格、創部から3年8ヶ月という記録破りの早さでトップリーグに上り詰めた。この年更に東洋工業を5度のJSL優勝に導いた下村幸男をヘッドハンティングして監督に迎え1972年JSL参加初年度を戦った。

インターネットどころか、衛星放送もまだない時代、日本人がヨーロッパや南米のサッカーを目にする機会はほとんどなかったが、藤田は「うまくなるには本物に触れないといけない」とこの年、日本サッカー史上初の「元プロ」選手を獲得した。それがセルジオ越後で、「元プロ」選手の獲得にアレルギー反応は強く、日本サッカー協会では元プロ選手のプレーの是非を巡って議論が起き、外国人選手の試合出場は来日・登録から半年間は認めないとする新たな規約が設けられた。

1975年、後期リーグから藤和の親会社のフジタ工業に転籍し、フジタ工業クラブサッカー部と改称、翌1976年から本拠地を東京に移した。同時に練習グラウンドを神奈川県平塚市大神に移転、これが後の平塚移転に繋がる。その後フジタ工業のサッカー部となり呼称はフジタ。後に社名変更でフジタサッカークラブになった事で、呼称との区別は無くなった。強かった時代のセレソン風の黄色いユニフォームと「フジタ工業」の名でよく知られる。

[匿名さん]

#3082019/12/14 19:43
本場ブラジルのプロ選手であったセルジオ越後を獲得する等、ブラジル出身の技巧派選手を揃え攻撃的なブラジルサッカーで席巻した事でも知られる。セルジオが去った後にアデマール・ペレイラ・マリーニョ、ジョアン・ディクソン・カルバリオ、セイハン比嘉らの活躍で、1977-1978年シーズンを史上最多得点(64得点)でJSLを初制覇すると1979-80年、1981-82シーズンと3度JSLを制覇した。また1977年、1979年と天皇杯全日本サッカー選手権大会も2度優勝、黄金期を築いた。

ブラジル風サッカーと云えば後年読売サッカークラブの代名詞となったが、それ以前に実現し、またプロ化を目指した先駆的なクラブであった。「日本初のプロ・チームを作りたい」と藤田正明社長も公言し、「やる以上は徹底的にやり、日本はもちろん、世界一のチームを作る」と意気込んでいた。1970年代前半に読売サッカークラブの関係者が、「ウチと藤和さんで定期戦をやり、それをプロ化への突破口にしてもいい」と言ったことがあった。社会人サッカーの雄・浦和サッカークラブに声をかけて全員を入社させようと動いたこともある。

1991/92年の最後となったJSL2部でピッタらを擁して優勝した。翌シーズンの第1回ジャパンフットボールリーグ(JFL)1部に参加した。翌1993年には日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)加盟を目指して日立、ヤマハと共にJリーグ準会員となり、それに併せてチームの愛称を湘南ベルマーレとし、またホームタウンをそれまでにも試合を開催していた平塚市とした。

[匿名さん]

#3092019/12/14 19:45
1993年は、ジャパンフットボールリーグ(旧JFL)1部で優勝、Jリーグ昇格を決めた。元ブラジル代表MFのベッチーニョ、ミランジーニャの活躍が大きく、岩本輝雄、名良橋晃、野口幸司、名塚善寛など、後に日本代表にも選ばれる20代前半の若手との融合で旧JFLでは圧倒的な実力を誇った。

なお、1994年にベルマーレ平塚へチーム名を改称したが、当時はホームタウンを1つの市区町村とすることを原則としていたため、地域名である湘南ではなく、本拠地の平塚市の名前を採用した。また、チームのホームスタジアムである平塚競技場も当時はJリーグホームスタジアムとしての基準(スタンドで15,000人以上収容、芝生部分はカウントしない等。当時メインスタンド以外は全て芝生スタンドであった)を満たしていなかったが、競技場のJリーグ規格へ改修する予算を平塚市が付けて昇格が認められた。

鈴木淳(元山形・新潟・大宮・千葉監督)、吉浦茂和(筑陽学園高校監督)、上川徹(元国際主審)などの指導者・人材も輩出している。

フジタは、1999年にクラブ運営会社の経営から一旦撤退し、運営権を平塚市などが運営する現在の法人「株式会社湘南ベルマーレ」「特定非営利活動法人湘南ベルマーレスポーツクラブ」に譲渡したが、2017年に18年ぶりにユニフォームスポンサー(袖部分)に復帰することになった。フジタ代表取締役・奥村洋治は「2018年のクラブ創設50周年に向け、当社もチームと一丸になり、熱い思いを共有したいと思います」述べている。

[匿名さん]

#3102019/12/14 19:46
■Jリーグ参加に至る経緯

発足は栃木県。藤和不動産社長の藤田正明が、欧州や南米のようなプロクラブを目指し、那須高原の藤和那須リゾート内に施設を建設、クラブを発足させた。チームが急激に力を付けると、フジタグループ全体でサポートする事になり1975年後期から「フジタ工業クラブサッカー部」に名称変更、翌1976年から本拠地を東京に移した。那須は寒くて芝が育ちにくく、練習相手もなくチームとしてまとまりがなく、同時に練習場を神奈川県平塚市に変更した。平塚ではいくらでも練習試合が組めた。

しかしこの事が、かえって当初の目標からは離れてしまったともいわれる。JSLにいながら、常にプロ化へのプレッシャーをかけ続けた読売サッカークラブとはこの点では違うかも知れない。1990年前後にはチーム力がやや落ちたが、藤田正明の後を継いだ正明の甥・藤田一憲も、とてもサッカー好きだったこともあって、Jリーグ創設に際しては参加を強く希望し候補の一つとなった。

しかしJリーグ参加の大きな条件にフランチャイズ制があったため、関東に候補チームが集中し、東京にチームを置くフジタには不利となった。当確といわれたマツダが降りると言った時、川淵三郎が「(会社発祥の地でもある)広島でやってくれるなら無条件で参加を認める」と打診したが、「もう関東の会社なので」と拒否。さらに浦和市に本拠地を置いてやると決まりかけていた本田技研が降りた時も、三菱自工に先を越されたといわれる。

[匿名さん]

#3112019/12/14 19:47
結局、平塚市北部大神に練習グラウンドを持っていた繋がりで平塚市を本拠地にしたが、オリジナル10には選に漏れた。川淵から説明された落選理由は「鹿島が屋根付きサッカー専用スタジアムをつくるというので鹿島を選んだ。また平塚市で盛り上がりが見られないこと、そしてフジタ(ベルマーレ)を入れると神奈川が4チームとなってしまう」というものだった。



■藤和不動産、フジタサッカー部に所属した主な選手

セルジオ越後
安藤正俊
カルバリオ
セイハン比嘉
古前田充
上田栄治
マリーニョ
植木繁晴
ピッタ
手塚聡
信藤健仁(信藤克義)
鈴木淳
宮澤ミシェル
高木琢也
谷中治
ホルヘ平野
野村貢
高橋貞洋
高橋憲司 (石田憲司)
カルロス
ミランジーニャ
ウーゴ
バルガス金城
池内豊

[匿名さん]

#3122019/12/16 00:50
これだけ無関係な書き込みは明らかに利用規約違反ですね。

[匿名さん]

#3132019/12/18 02:39
2017.11.23
著者 : 加部 究

□◾歴史は1986年から始まった— 日本サッカー界とアル・ヒラルの因縁◾□

◾日本のチームが初めてアジアを制した31年前、古河電工がアル・ヒラルと対戦

「サウジアラビア(アル・ヒラル)は優勝を義務づけられている。だから一番弱そうな日本戦で最初に弾みをつけようと考えていたんでしょうね」——(前田秀樹=古河電工、元日本代表)

サウジアラビアを代表するビッグクラブ「アル・ヒラル」は、過去にも少なからず日本のチームと因縁の試合を繰り返している。

実は、日本のチームが初めてアジアを制したのは1986年だった。まだ日本は、単独チームの国際交流に目を向けておらず、大会に参加するのも2度目。しかも、AFC(アジアサッカー連盟)が急遽決勝リーグの年末開催を通告してきたので、前年のリーグ王者・古河電工(ジェフユナイテッド千葉の前身)がアジアのNO1決定戦に臨むためには、天皇杯を棄権しなければならなかった。

大会開催地はサウジアラビアの首都リヤド。古河は現地に着いた当日の夜から、中1日で3試合(総当たりリーグ戦)を戦った。そして初戦の相手が、2017年のACL決勝で浦和レッズと顔を合わせたアル・ヒラルだった。まだ日本は、アジア大会などでも中東勢に対して分が悪く格下と見られていたため、ホームチームは大勝して弾みをつけようと目論んだに違いなかった。

[匿名さん]

#3142019/12/18 02:40
◾奥寺氏のハットトリックなどでアル・ヒラル快勝…完全制覇を成し遂げる

実際、大会を通して「日本のマラドーナ」と称賛された前田秀樹氏(現・東京国際大監督)も、控え目な目標しか立てられなかった。

「なんとか勝ち点1は取りたいな、と話していました。取れるとしたら、相手は中国かな、と」地の利を考えても「中東勢有利」は動かしがたく、2戦目のアル・タラバ(イラク)との試合でも相手サポーターが大挙駆けつけ、完全アウェーの試合を強いられた。だが古河は、ブンデスリーガから復帰したばかりの奥寺康彦氏のハットトリックなどで、アル・ヒラルに4-3で快勝。さらにアル・タラバ、遼寧(中国)にも連勝して完全制覇を成し遂げる。逆に大会最終戦に組み込まれた中東決戦は、優勝決定後の消化試合になってしまった。

[匿名さん]

#3152019/12/22 05:39
奥寺 康彦(おくでら やすひこ)は、日本のサッカー選手、サッカー指導者。元日本代表。秋田県鹿角市出身。株式会社横浜フリエスポーツクラブ(横浜FC)取締役会長。

■愛称
東洋のコンピューター
■生年月日
1952年3月12日(67歳)
■出身地
秋田県鹿角市
■身長
177cm
■体重
75kg

■選手情報
ポジション
FW(LWG, CF) / MF(LSH, LWB, DH) / DF(LSB)

■利き足
左足


■クラブ
出場
(得点)
◇1970-1977
古河電工
100
(36)
◇1977-1980
ケルン
75
(15)
◇1980-1981
ヘルタ・ベルリン
25
(8)
◇1981-1986
ブレーメン
159
(11)
◇1986-1988
古河電工
43
(3)

■代表歴
1970-1987
日本
32
(9)

■監督歴
1996
ジェフユナイテッド市原
2017
横浜FC


1970年代当時、海外でプレーした日本人選手はまだいなかったが、奥寺は世界最高峰のリーグと言われたドイツのブンデスリーガ(1976年-1984年までUEFAリーグランキング1位)で活躍した初めての日本人選手である。3つのクラブを渡り歩き計9年間プレーを続けレギュラーとして実績を残した。その正確無比で安定したパスとシュート、戦術眼からくるプレースタイル、特に左足での強烈なシュートとスピードを武器にフォワードからディフェンダーまで出来る万能選手として活躍し、地元ドイツのファンから「東洋のコンピューター」というニックネームで呼ばれて賞賛された。

[匿名さん]

#3162019/12/22 05:40
欧州サッカー連盟主催の国際大会には6回出場しており、小野伸二に抜かれるまでアジア人最多だった。1978-79シーズンのUEFAチャンピオンズカップ(現UEFAチャンピオンズリーグ)ではアジア人として大会史上初となるゴールを記録している。なお、16年後の1994-95シーズンにタジキスタンのラシッド・ラヒーモフが得点を上げるまで奥寺以外のアジア人の得点者は現れなかった。

一般的に「日本人初のプロサッカー選手」として紹介される事が多いが、2人目のプロサッカー選手であるとの異説もある。


■古河電工時代
秋田県鹿角市十和田大湯(旧鹿角郡十和田町大湯)出身。二卵性双生児の妹がいる。小学校5年時に一家で横浜市に転居する。 横浜市立東戸塚小学校を経て、横浜市立舞岡中学校でサッカーを始め、相模工業大学附属高等学校(現:湘南工科大学附属高等学校)に進学。同校卒業後の1970年、中学時代の外部コーチだった東邦チタニウムサッカー部監督・三村恪一の口利きで、三村と中央大学で同期だった古河電気工業サッカー部OBで日本サッカー協会の強化責任者だった長沼健に連絡を取り、テストを受け、日本サッカーリーグの古河電気工業サッカー部に入部。1976年に古河がブラジル工場を持っていた縁でブラジル・パルメイラスに2ヶ月間留学して急成長を遂げ、ユース代表を経て日本代表に選出される。同年に代表ではムルデカ大会で得点王に輝き、古河ではJSL、天皇杯の二冠に貢献しベストイレブンに選出された。

■海外移籍への経緯
1977年夏に日本代表がドイツにおいて分散合宿を行った際、当時の代表監督・二宮寛はブンデスリーガ(ドイツ1部リーグ)の1.FCケルンの監督であったヘネス・バイスバイラーと親しかったことから、奥寺ら数人をケルンの合宿に参加させた。

[匿名さん]

#3172019/12/22 05:41
当時、ケルンはスピードのある左ウイングを探しており、バイスバイラーは同ポジションの奥寺に興味を持った。そこで、練習と称して事実上の入団テストを行ったうえで、奥寺に正式なオファーを出した。後に本人は、もし最初からあれが入団テストだと分かっていたら緊張して思ったとおりの力が出せなかったであろうと語っている。

奥寺は自分がブンデスリーガで通用するのか、失敗した場合に家族を養えるのかという不安から一度はオファーを断るが、再三に渡る国際電話でのオファーの果てに監督のバイスバイラー自ら奥寺を口説きに来日したため、日本サッカー協会に半ば強引に背中を押される形でドイツ行きを決意した。

また、当時は試合ごとに欧州と日本を行き来する発想はなく、欧州移籍は即ち、その期間中は日本代表参加を諦める事を意味していた事も、本人にとっても周りにとっても欧州移籍の決断を渋らせた大きな要因であった。

■FCケルン時代
同年10月ドイツへ渡り、10月7日に1.FCケルンと契約を交わし正式に入団。12日にはブンデスリーガのベンチ入りを果たし、10月22日、対MSVデュースブルク戦で先発デビューを飾った。

12月20日に行われたドイツカップ準々決勝、シュバルツバイス・エッセン戦で初ゴール(2得点)、ブンデスリーガでは1978年4月8日のカイザースラウテルン戦で初ゴールを記録。名将・バイスバイラーの下で数々の活躍をみせ、1977-78シーズンのリーグ優勝とドイツカップ優勝の二冠に貢献した。優勝を決めた試合では途中出場ながら2ゴールを挙げた。

[匿名さん]

#3182019/12/22 05:42
翌1978-79シーズンのUEFAチャンピオンズカップでは準決勝に進出し、イングランドのノッティンガム・フォレストと対戦。アウェーの第1戦において貴重な同点ゴールを決め3-3のドローに追いついたが、ホームの第2戦では0-1で破れ欧州制覇は成らなかった。

1980年にバイスバイラーがアメリカ・NASLのニューヨーク・コスモスへ移籍すると、後任監督カールハインツ・ヘダゴットの構想外となり、ベンチからも外れる。出場機会を求めて1980-81年シーズンの後半にブンデスリーガ2部所属のヘルタ・ベルリンへ移籍した。

■ヴェルダー・ブレーメン時代
1部昇格に挑んでいたヘルタは最終的に昇格を逃したが、そのシーズンにヘルタに競り勝ち1部昇格を決めたヴェルダー・ブレーメンのオットー・レーハーゲル監督に認められ、翌1981-82シーズンからブレーメンに移籍する。

奥寺は左ウイングとしてブンデスリーガに渡ったが、レーハーゲルは守備的MFとしての奥寺の能力に注目した。守備の強さ、堅実なプレーに惹かれ、80年代なかばからヨーロッパの主流となった3−5−2システムの中で、奥寺は左ウイングバックという「天職」を与えられた。守備を行いながら、味方ボールとなると、ウイングそのものとなって攻撃の中核を担う。そうしたプレーはレーハーゲルをして「オク1人で他の選手の3人分の働きをしてくれる」と言わしめた。

[匿名さん]

#3192019/12/22 05:43
1982年、1部1年目のブレーメンは、5位という好成績を残し、翌83年にはハンブルガーSVに次ぎ2位、そして84年5位、85年、86年と連続して2位。優勝は経験できなかったが、奥寺は最もコンスタントな選手として監督に信頼され、ファンから愛された。

ブンデスリーガには通算9年間在籍。63試合連続出場記録を樹立するなど、帰国するまでの9年間でブンデスリーガ通算234試合出場、26得点。この通算26点という記録は、2014年9月13日にマインツの岡崎慎司が通算ゴールを28点とするまで、ブンデスリーガにおける日本人選手の最多得点だった。また、通算234試合出場も、2017年3月5日に長谷部誠が更新するまで、ブンデスリーガにおける日本人選手の最多出場だった。

■古河復帰
1986年、「まだ自分の体が言うとおりに動くうちに」日本のサッカー界に持てる全てを伝えたいとして、日本に帰国し、古巣の古河電工に復帰した。

帰国した奥寺は木村和司と共に日本国内初のスペシャル・ライセンス・プレーヤー契約を結び注目を集めた。また古河の一員としてはこの年にアジアクラブ選手権優勝。日本代表にも復帰し1987年のソウル五輪アジア最終予選進出に貢献した。最終的に中国との争いとなり、左サイドバックとして第1戦では相手エースを完璧に抑え1-0の勝利に貢献したが、ホームの第2戦では奥寺の逆サイドを守備の穴として狙われ、0-2で落としソウル五輪出場は叶わなかった。

1987-88年シーズンを最後に現役を引退した。

[匿名さん]

#3202019/12/22 05:44
■引退後
Jリーグ参入のため、古河電工からクラブチーム化された「東日本JR古河サッカークラブ」(ジェフ市原の前身となるクラブ)のゼネラルマネージャーに就任。1996年には監督に就任したが成績不振から1シーズン限りで退任した。

1999年に横浜フリューゲルスのサポーター有志で結成された「横浜フリエスポーツクラブ」(横浜FC)のゼネラルマネージャーに就任、2000年からは代表取締役社長を兼任。

2012年8月、日本サッカー殿堂入り。

2014年11月、AFC初代殿堂入り、

2017年10月、中田仁司の解任により監督が不在となったことで、第38節のFC町田ゼルビア戦で暫定的に指揮を執ることが発表された。


■日本人初のプロサッカー選手

従来、日本人初のプロサッカー選手として紹介されてきたが、2000年代あたりから、1975年に香港の「東方足球隊」でプレーした佐田繁理(さだまさしの実弟)の方が日本人初のプロサッカー選手であるという紹介が一部メディアにより成される様になった。ただし佐田は正式なプロ契約では無かったという説を採るメディアもあり、その場合は奥寺が日本初となる。

[匿名さん]


『デッツォーラ島根④』 へのレス投稿
レス本文 必須 750文字まで:残り750文字

スタンプ

NEW!
任意入力フォーム

お名前 任意 16文字まで
E-mail 任意

※削除パス機能は廃止しました。
会員は、投稿から24時間以内であれば削除パスなしで
削除できます。
詳しくは「削除パス廃止のお知らせ 」をご覧ください。
今すぐ会員になる

📘 ローカルルール
📌スレッドは立てる前に、重複していないか確認してから立てて下さい。重複スレッドは削除対象となります。
📌スレッドタイトルは、タイトルを読んで中身がわかるように心がけて下さい。
📌国外についての話題はサッカー国外に書き込みして下さい。
📌個人についての話題はサッカー個人に書き込みして下さい。
📌女子についての話題は女子サッカーに書き込みして下さい。
📌静岡についての話題は静岡サッカー総合に書き込みして下さい。
📌その他のサッカーについての話題はサッカー総合に書き込みして下さい。
📌誹謗中傷にあたる書き込みは利用規約違反になりますのでお止め下さい。
📌重複スレッドを発見した場合は、スレッド下部にある「重複スレの報告」フォームよりご連絡下さい。
投稿前の注意
  • 掲示板あらし行為URLの記載は 一回で書込み禁止措置と致します。





🌐このスレッドのURL





📑関連掲示板