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NO.7201210

デッツォーラ島根④
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#2212019/06/03 00:25
デットマール・クラマー(ドイツ語: Dettmar Cramer, 1925年4月4日 - 2015年9月17日)は、ドイツのドルトムント出身のサッカー選手、サッカー指導者。デトマール・クラマーと表記されることもあった。


■生年月日
1925年4月4日
ドルトムント
没年月日
2015年9月17日(90歳没)


■監督歴

チーム
◇1960-1963
日本 (顧問)

◇1964-1966
ドイツ (assistant)

◇1971-1974
エジプト

◇1974
アメリカ合衆国

◇1974
ヘルタBSC

◇1975-1977
FCバイエルン・ミュンヘン

◇1977-1978
アイントラハト・フランクフルト

◇1978-1981
アル・イテハド

◇1981-1982
アリス・テッサロニキ

◇1982-1985
バイエル・レバークーゼン

◇1984-1985
マレーシア

◇1991-1992
韓国 U-23

◇1997
タイ



クラマーは日本サッカー界初の外国人コーチであり、サッカー日本代表の基礎を作り日本サッカーリーグの創設にも尽力したことから「日本サッカーの父」と称された。

[匿名さん]

#2222019/06/03 00:28
■来歴

クラマーはドイツのウィクトリア・ドルトムント(Viktoria Dortmund)やSGゲルマニア・ヴィースバーデン(英語版)などで選手としてプレーしたが、怪我のために引退した。

クラマーは、指導者としては西ドイツユース代表監督を務めた時期にフランツ・ベッケンバウアーをユース代表に抜擢し、公私両面で指導した。

1960年、クラマーは1964年東京オリンピックを控えたサッカー日本代表を指導するため、その代行監督として招聘された。日本サッカー協会は代表強化のために外国人監督を招くことを検討しており、成田十次郎の仲介や会長である野津謙の決断で実現した人選だった。

[匿名さん]

#2232019/06/03 00:29
羽田空港でクラマーを出迎えた岡野俊一郎が、クラマーを日本サッカー協会が手配していた宿泊先の山の上ホテルに連れて行こうとしたところ、「日本代表チームのみんなはどこにいるのですか」と尋ね、本郷の、岡野曰く「修学旅行生が使うような旅館」であることがわかると、「すぐ、そっちへ行く」と言い出し、岡野が選手は布団で寝て、朝食はご飯、生卵、塩鮭に味噌汁、昼はどんぶりもの、などと説明したうえで「いきなり日本の生活に入るのは無理だ」と説得しても、「選手と同じ生活をしなくて、どうして選手の気持ちが分かるんだ。明日からはそっちに行かせてもらう」と頑として譲らず、また当時練習場として借りていた、東京大学の本郷キャンパス内にある御殿下グラウンドが凸凹の土のグラウンドであったにもかかわらず、「何も言わずに、すぐ指導に入ってくれた」という。それまで、各地域別、大学別のコーチ術しかなかった日本に、世界に通用するコーチ学をもたらし、正確なパス、トラップなどの方法から、インステップキックはどう蹴る、インサイドキックはどう蹴るなど、育成に必要な基礎を教え込み、「一番重要なのは試合。そのために実戦練習が必要であり、それをやるための基本ができていないところがあるので、基本をやろう」と、基本動作、応用動作、実戦を織り交ぜつつ、かつ個人に応じたトレーニングも設定した。

クラマーも、自ら手本となるプレーを見せて実技指導を行った。初歩的な練習の繰り返しに対しては批判もあったが、方針を変えることはなかったという。当時のクラマーの教え子に釜本邦茂、杉山隆一らがいた。

[匿名さん]

#2242019/06/03 00:30
当時日本では知られておらず、専用の道具もなかったテーピングを岡野が入手した大きな絆創膏を代用して行ったり、自ら選手用の薬を調合することまでしていた。練習は厳しかったが選手を大事にしていたことから、選手達はクラマーに心酔し、後にメキシコ五輪代表のキャプテンとなった八重樫茂生も岡野に対し「岡野さん、僕はクラマーのために戦うんです!」と言ったという。またその岡野とも、クラマーの実母も含め生涯兄弟同然の交流を続けた。

1964年の東京オリンピックでは、サッカー日本代表はアルゼンチン代表を破るなどでベスト8の成績を残した。


東京オリンピックが終わった後、任期を終えたクラマーは帰国に当たって5つの提言を残した。

・強いチーム同士が戦うリーグ戦創設。

・コーチ制度の確立。

・芝生のグラウンドを数多く作り、維持すること。
・国際試合の経験を数多く積むこと。代表チームは1年に1回は欧州遠征を行い、強豪と対戦すること。

・高校から日本代表チームまで、それぞれ2名のコーチを置くこと。


— 三上孝道「日本サッカーの父 デッドマール・クラマーの言葉」

[匿名さん]

#2252019/06/03 00:32
クラマーのこれらの提言は、1965年の日本サッカーリーグ発足など長沼健らによって全て実行に移された。クラマーはその後も釜本のドイツ留学を実現させるなど、日本のサッカーに貢献した。そのクラマーの指導を受けた選手・コーチを中心に構成された長沼健監督率いる日本代表は、メキシコオリンピックで銅メダルを獲得した。この試合を観戦していたクラマーは日本代表の活躍を喜んだという。

クラマーは1967年にFIFA公認トレーナーとなり、1969年に日本で開催されたFIFA・AFC・JFA共催の「コーチングスクール」を指導した。

1975年から1976年、クラマーはFCバイエルン・ミュンヘンを率いてUEFAチャンピオンズカップで優勝した。その際、人生最高の瞬間ではないかと問われたものの、「最高の瞬間は日本がメキシコ五輪で銅メダルを獲得したときです。私は、あれほど死力を尽くして戦った選手たちを見たことがなかったのです。」と答えた。


クラマーは「言葉の魔術師」とも呼ばれ、数々の名言を残している。


「サッカーは子どもを大人にし、大人を紳士にする。」


— めざせ!ベストサポーター

[匿名さん]

#2262019/06/03 00:33
しかしその一方で口は相当悪かったらしく、コーチと兼任でクラマーの通訳も担当していた岡野が度々出るクラマーの罵言雑言を意訳するのに苦労した経験(直訳で伝えると、怒鳴られた選手はショックを受け、その場で泣き出すほど酷かったという)から、会長時代にクラマーと同じく短気で直言癖があるフィリップ・トルシエ監督の通訳を担当する事となったフローラン・ダバディーに「トルシエの汚い言葉は意訳して伝えろ、難しければ訳さなくて良い。」と注意していた。

2005年、 クラマーは日本サッカー協会が制定した表彰制度「日本サッカー殿堂」の第1回受賞者となった。また2011年にはドイツサッカー連盟(DFB)からDFB名誉賞を受賞した。

2015年9月17日、クラマーはバイエルン州のライト・イム・ヴィンクル(英語版)でその生涯を閉じた。クラマーの来日は2011年、JFA 創立90周年記念パーティーに来たのが最後の来日となったが、その時点で既に式典中立っておられず、岡野がずっと体を支えていなければならないほどだった。クラマーは岡野に2か月に1度のペースで電話をしていたのが、晩年には1か月に1度のペースとなり、第二の故郷である日本に行きたがっていたという。

クラマーが亡くなった翌日の9月18日、日本プロサッカーリーグ (Jリーグ) は9月19日および20日に開催される全公式戦でクラマーに対する黙祷を行った。



■参考文献


◇『日本サッカーは本当に強くなったのか』
大住良之・後藤健生:中央公論新社、2000年


◇『デットマール・クラマー 日本サッカー改革論』
中条一雄:ベースボール・マガジン社、2008年

[匿名さん]

#2272019/06/05 00:18
[ 1968.10.24 ] メキシコシティー

□■SAMURAI BLUE■□

【メキシコオリンピック】

メキシコオリンピック代表 🆚 日本代表

0 対 2

0 前半 2
0 後半 0

◇GOAL 釜本邦茂 18´, 39´


[ メンバー ]
■日本代表

GK 横山謙三
片山洋
山口芳忠
鎌田光夫
森孝慈
小城得達
宮本輝紀
渡辺正
松本育夫
釜本邦茂
杉山隆一


◇[SUB]
GK 浜崎昌弘
八重樫茂生
宮本征勝
鈴木良三
桑原楽之
富沢清司
湯口栄蔵



◇監督 長沼健


■メキシコオリンピック サッカー 結果

1968/10/14 プエブラ
日本代表 3-1 ナイジェリア代表
1968/10/16 プエブラ
日本代表 1-1 ブラジルオリンピック代表
1968/10/18 メキシコシティー
日本代表 0-0 スペインオリンピック代表
1968/10/20 メキシコシティー
日本代表 3-1 フランスオリンピック代表
1968/10/22 メキシコシティー
日本代表 0-5 ハンガリーオリンピック代表
1968/10/24 メキシコシティー
メキシコオリンピック代表 0-2 日本代表

[匿名さん]

#2282019/06/05 02:18
ねろ!

[匿名さん]

#2292019/06/07 20:08
現在、島根県1部2位!

[匿名さん]

#2302019/06/10 00:33
八重樫 茂生(やえがし しげお、旧名:茂夫、1933年3月24日 - 2011年5月2日)は、岩手県和賀郡東和町(現・花巻市)出身(朝鮮・大田生まれ)の元サッカー選手・監督。選手時代のポジションはフォワード、ミッドフィルダー。


◇生年月日
1933年3月24日
◇没年月日
2011年5月2日(78歳没)
◇身長
174cm
◇体重
69kg

■選手情報
◇ポジション
FW/MF

◇ユース
1949-1951
岩手県立盛岡第一高等学校
1952-1953
中央大学
1954-1957
早稲田大学

■クラブ
出場
(得点)

1958-1969
古河電工
51
(14)

■代表歴
1956-1968
日本
44
(11)

■監督歴
1967
古河電工
1970
日本ユース代表
1973-1981
富士通
1985-1991
富士通

◇獲得メダル
男子 サッカー
オリンピック
銅 1968 サッカー


■出場大会
・メルボルンオリンピック
・アジア競技大会 (1958、1962、1966)
・1962 FIFAワールドカップ・予選
・1964年東京オリンピック(ベスト8)
・メキシコシティオリンピック(銅メダル)

◇試合数
国際Aマッチ 44試合 11得点(1956-1968)

[匿名さん]

#2312019/06/10 00:36
■【伝説のキャプテン】

盛岡一高時代は工藤孝一の指導を受け、1951年の全国高等学校サッカー選手権大会に東北代表として出場。FWでプレーしたが、1回戦で高知農業に敗退。同年5月の天皇杯では盛岡サッカークラブのメンバーとして参加し、こちらも1回戦で敗退。高校卒業後の1952年に中央大学へ進学し、同年の関東大学サッカーリーグで新人王を獲得。その後は工藤が監督を務める早稲田大学に編入し、関東大学リーグ優勝3回・東西学生王座決定戦2回・大学選手権優勝1回に貢献。当時学生ナンバーワンと言われた早大の原動力となり、在学中に日本代表入り。1956年のメルボルンオリンピックに出場した。

[匿名さん]

#2322019/06/10 00:37
卒業後の1958年に古河電気工業へ入社し、サッカー部の黄金時代を築く。1960年に西ドイツ・デュースブルクのスポーツシューレでデットマール・クラマーに会い、初めて指導を受けた。1963年には第3回日本年間最優秀賞(フットボーラー・オブ・ザ・イヤー)を受賞し、東京オリンピック(1964年)ではベスト8進出に貢献。1965年に日本サッカーリーグ(JSL)が発足すると、ベテランならではの味のあるプレーを見せ、1967年には選手兼任監督を務めた。メキシコシティオリンピック(1968年)では主将として出場したが、初戦のナイジェリア戦でラフプレーを受けて、靱帯断裂の怪我を負った。残り試合出場は不可能となり、その後は松葉杖をつきながら全18人のユニフォームを1人で洗うなど選手をサポートし、銅メダル獲得に貢献。1969年にはFIFAコーチングスクール(千葉・花見川)でクラマーの助手を務めた。同年引退。その後は日本ユース代表監督(1970年)・ミュンヘンオリンピック日本代表コーチ(1971年)を経て、富士通サッカー部で総監督(1973年 - 1976年, 1989年 - 1991年)・監督(1977年 - 1981年, 1985年 - 1988年)を歴任し、チームの基礎を固めた。

Jリーグ発足後はジェフ市原の育成部長・スーパーバイザーを歴任し、2005年には第1回日本サッカー殿堂入り。2006年からグルージャ盛岡のスーパーアドバイザーを務めていた。

2011年5月2日、東京都多摩市の日本医科大学多摩永山病院で78歳で没。

八重樫の死の翌日、ジェフユナイテッド市原・千葉は喪章をつけて試合に臨んだ。

[匿名さん]

#2332019/06/17 00:01
長沼 健(ながぬま けん、1930年9月5日 - 2008年6月2日)は、広島県広島市中区袋町出身の元サッカー選手・日本代表選手、元日本代表監督である。1994年より第8代日本サッカー協会会長を4年務め、その後同協会最高顧問のほか日本フットサル連盟名誉会長、日本ハンディキャップサッカー連盟会長、日本体育協会副会長、埼玉スタジアム2002場長、NPO法人日本知的障害者サッカー支援機構顧問を務めた。



◇生年月日
1930年9月5日
◇出身地
広島県広島市袋町
◇没年月日
2008年6月2日(77歳没)

■選手情報
◇ポジション
FW
◇代表歴
1954-1961
日本の旗 日本
4(1)


■所属クラブ
1946年-1949年 - 広島高等師範学校附属中学校・高校
1949年-1953年 - 関西学院大学
1953年-1955年 - 中央大学工学部(理工学部)
1955年-1966年 - 古河電工
指導者歴
編集
1962年-1976年 - 日本代表監督(一部現役時代と重複)
1972年-1974年 - 日本サッカー協会技術委員長
1974年-1976年 - 日本サッカー協会理事
1976年-1987年 - 日本サッカー協会専務理事
1987年-1994年 - 同 副会長
1994年-1998年 - 同 会長
1998年-2002年 - 同 名誉会長
2002年- 同 最高顧問


■個人成績
◇出場大会
オリンピック
男子 サッカー

1968
サッカー

◇アマチュア時代
1947年 全国中等学校選手権(優勝)
1948年 国民体育大会(優勝)
1950年 全日本選手権大会(優勝)
1953年 ユニバーシアード
1954年 ワールドカップ地区予選

◇実業団時代
1956年 メルボルンオリンピック
1960年 天皇杯(優勝)

◇代表監督時代
1964年 東京オリンピック
1968年 メキシコオリンピック(銅メダル獲得)

■代表歴
◇試合数
国際Aマッチ 4試合 1得点(1954-1961)

[匿名さん]

#2342019/06/17 00:12
■若年時代

生まれた年の1930年はW杯の第1回大会が開催された年でもあった。

実家は広島の老舗電気工事業・長沼電業社。祖父の長沼鷺蔵は賀茂郡御園宇村(現・東広島市)出身の広島藩士で、戊辰戦争の際に結成された「神機隊」の参謀。明治維新後、廣島県警察部に奉職し刑事係を務めた後、数々の事業を起こしその一つが長沼電業社であり、のち広島有数の実業家となり、広島市議会議員などの要職を務めた。父親、実兄もサッカー選手。広島は野球が非常に盛んな地域であるが、進学した旧制広島高等師範学校附属小学校(現・広島大学附属小学校)には野球班(部)がなく、小学校時から自然にサッカーを始めた。

1945年15歳の夏、原爆投下の日には広島市内中心部にあった学校での防空当番が前夜にあり、当日7時までいて、その後8キロ西北の疎開先、現在広島ビッグアーチがある付近・沼田(現・安佐南区沼田)まで自転車で帰る途中、家に着く直前被爆した。ちょうど山蔭に入ってところで一命をとりとめた。30分帰りが遅かったら直下だった。1週間後、帰ってこない村人の捜索のため市内に入り地獄絵を見る。「あんなにたくさんの死体をいっぺんに見た人は世界にもそんなにいないと思いますよ。それも誰が誰だか分からないんだから」と話していた。多くの知人・級友を亡くし、自らも亡くなるまで白血球過多で苦しんでいた。その為、被爆者手帳を持っていた。後年、海外遠征すると「お前のネイティブタウンはどこだ」と聞かれ「広島です」と答えると、みんな原爆のことは知っていて、「お前は何で生きてるんだ」と驚かれた。外国では広島市民は全員死んだという認識であったという。

[匿名さん]

#2352019/06/17 00:13
■学生時代

終戦後、焼け野原となった町でグラウンドの整地、食糧調達、器材の作製などを自分達で行い、1個だけのボールを縫いながらサッカーに打ち込みボールを追った。戦争で中断されていた全国中等学校選手権(現・全国高等学校サッカー選手権大会)が1947年に復活。長沼は旧制広島高等師範学校附属中学(現・広島大学附属高校)のエースFWとしてチームを戦後初の優勝に導いた。チームは相手の虚を突くパスワークに抜群の冴えを見せ、ボールを両足で自由に蹴れるのはこのチームだけだったと言われている。

特にFWの3人、のち“アジアの黒豹”と謳われた木村現、樽谷恵三、長沼の速攻は当時の学生レベルでは止められなかった。5-0、4-0、5-0、7-1と4試合で21得点を叩き出し、得失点差は20。決勝戦7-1のスコアは、戦後最多得点、及び大会最多得点差記録として現在も残る。同チームの右ハーフバック(HB)だったのがヤンマーディーゼルサッカー部(現・セレッソ大阪)創設者・古川能章。この大会の初戦で、のち長らく盟友となる東京都立五中学(現・都立小石川高校)の岡野俊一郎と対戦している。翌1948年、国体でも優勝。

1949年、長沼ら新制広島高等師範学校附属高校のメンバー8人が卒業後関西学院大学入りし1950〜1952年、関西学生リーグ3連覇、1950年大学王座、関学の黄金時代を築いた。関学への進学は親戚の手島志郎のアドバイスによるもの。1950年は、長沼ら現役大学生メンバーと鴇田正憲らOBを加えた全関学が全日本サッカー選手権大会(天皇杯の前身)で慶應義塾大学を6-1で降して優勝。

[匿名さん]

#2362019/06/17 00:14
1953年、関西学院大学を卒業するとさらに大学でサッカーを続けるためと、電気関係の家業を将来継ぐためもあり、関東学生リーグで前年2位であった中央大学の3年(学部は当時の工学部)に編入。4年次には主将を務め100人の部員を統率し、全日本大学サッカー選手権大会2年連続準優勝に導いた。

中央大学時代の1953年には西ドイツ・ドルトムントで開催された第3回国際学生週間(ユニバーシアードの前身)に初めて日本学生代表として岡野、平木隆三ら17名と参加、約2ヶ月にわたってヨーロッパを転戦した。これは竹腰重丸技術委員長の提唱で、日本サッカーの復興のため若い人の視野を広げて将来に役立ててもらおうと企図されたもので試合、ホームステイの他、オペラ、美術館などを見てまわった。しかし当時の蹴球協会には金はなく参加費用は自腹(個人負担+出身校や都道府県協会の募金)だった。この頃ドイツの街もまだ戦禍が生々しかったが、あちこちに見事な芝があった。日本には神戸と横浜の外国人クラブにしか芝のグラウンドは無かった。

1954年には、日本が初めてワールドカップ地区予選に参加した第5回スイスW杯予選の日本代表(当時の名称は全日本)に選出される。3月7日、スイスW杯予選グループ13初戦の雪の神宮競技場(現・国立競技場)の対韓国戦で記念すべきW杯予選における日本代表の第1号ゴールを決める。この試合は日韓宿命の対決、サッカー日韓戦の第1戦、第1号ゴールでもあった。この頃日本サッカーの目標はオリンピックであり、長沼はワールドカップとは何かよく分からずやっていたと言う。この頃の日本サッカーはそのような時代であった。

[匿名さん]

#2372019/06/17 00:15
■古河電工へ

中央大学卒業後の1955年、家業が古河電工の製品を東洋工業(現マツダ)や中国電力に納める仕事をしていた縁故もあり、当時関東実業団リーグ2部に転落していた古河電工(現ジェフユナイテッド市原・千葉)へ入団。当時の古河電工サッカー部は、創部10年を経てはいたものの、アイスホッケーの選手も混じる同好会レベルのチーム。本格的なサッカー選手は長沼ら数人だけだった。この頃、社会人スポーツはまだ熱気がなく「スポーツは学生まで」という考えが日本では主流だった。古河は他の企業よりもスポーツに関して理解が深く、「社員の志気を高めるために」と社長が号令をかけて、バレーボール部とサッカー部に力を入れることになり、サッカー部の強化を一任されたのが長沼だった。「スポーツは学生まで」という考えを改めなくてはいけないと、毎年毎年、いい選手を獲ってくれと会社に要請した。社業が第一、毎日5時まで仕事をして練習となるが、自前のグラウンドはなく、ボールは蹴らず、皇居の周りを何周も走るだけ。二重橋前の手入れの行き届いた芝生公園を見ながら「あそこで蹴れたら気持ちがいいだろうな」と思いながら走った。ボールを蹴るのは週末のみ、毎回違う郊外のグラウンドを借りてボールを蹴った。ここでもエースフォワードとして活躍し、すぐに関東実業団リーグ2部優勝、1部昇格に導く。「長沼を中心に何か始めるらしい」と知った平木隆三は1957年、湯浅電池を円満退社して古河電工へ移ったほどであった。長沼は古河電工に入社した1955年に読売新聞社の後援で新設された全国都市対抗サッカー選手権大会に「東京クラブ」のメンバーとして出場して優勝している(翌年も)。

[匿名さん]

#2382019/06/17 00:16
1956年、メルボルンオリンピック日本代表に選ばれたものの下痢を発症し隔離病棟に拘束され、その間にチームは1試合で敗退した。1958年、東京アジア大会日本代表。1959年、28歳の若さで古河電工のプレイングマネージャーとなり同年実業団、都市対抗の2冠に輝いた。

翌1960年、古河電工を実業団チームとして初めて天皇杯を制覇、日本一に導く。それまでの学生サッカーの時代から、社会人サッカーの時代の始まりだった。更に翌1961年は史上初の3冠(全日本(天皇杯)、実業団、都市対抗)を達成しこの年新設された、第1回日本年間最優秀選手賞(フットボーラー・オブ・ザ・イヤー)を受賞した。

親分肌かつ人柄の良さから長沼のまわりには自然と人が集まってきたといわれ、長沼が関学、中大、古河電工と移るとともに日本サッカー界の勢力地図が塗り替えられていき、古河を強豪にしたことによって八重樫茂生、宮本征勝、川淵三郎、木之本興三、清雲栄純、岡田武史らのちの重要人物が古河入りすることになった。彼らは「長沼一家」と呼ばれた。『古河電工サッカー部史』は、「長沼が古河に入社してなかったら、歴史は変わっていただろう」と書いている。

この頃古河のプレイングマネージャーだった長沼は日本代表入りを辞退し続けたといわれ、代表出場試合数は多くはない。1960年に来日したデットマール・クラマーが、長沼の指導者としての能力に目を付け、強引に代表試合に出場させたといわれている(1961年11月28日、対ユーゴスラビア代表)。

[匿名さん]

#2392019/06/17 00:19
■日本代表監督就任

1962年、この頃のサッカーはまったく人気が無く日本代表(当時の名称は全日本)の監督といえば、ある程度の年配者が当たり前だったが、同郷で当時日本サッカー協会会長だった野津謙が大英断を下し、まだ現役選手でありながら33歳で日本代表監督(コーチ・岡野俊一郎(32歳))に抜擢される。これは日本サッカー近代化のスタートだった。1962年12月9日に行われた日本代表対スウェーデン選抜戦が、当時まだ30代前半だった長沼監督&岡野俊一郎コーチ・コンビのデビュー戦で、同時に最古のサッカー日本代表のサポーター組織・日本サッカー狂会のデビュー戦でもあった。新体制下では、クラマーが技術面や戦術面でチームを牽引し、岡野がそれを補佐。そして人望の厚い長沼が選手を束ねるという適確な役割分担が機能し、日本代表は短期間で見違えるような進歩を遂げた。当時の日本代表チームは、東京に本拠を置く「丸の内御三家」の東のグループと、東洋工業と八幡製鉄の広島出身者を中心とした西のグループとがあってお互い仲が悪かったが、長沼が広島出身で西のグループにも崇拝されていたため和が保たれたといわれる。

長沼は日本代表監督として1964年、東京オリンピックの対アルゼンチン戦での勝利は日本に空前のサッカーブームを起こし1968年、メキシコオリンピックでも銅メダル獲得の偉業を達成した。長沼と岡野は二人で、代表選手の所属チームとの交渉、スカウティング、マッチメイク、広報活動等を行い代表チームの強化とサッカー普及に尽力した。クラマー-長沼-岡野の共同作業は、ほぼ何も無い土地に種を蒔き、開化させることに等しかった。

[匿名さん]

#2402019/06/17 00:30
クラマーの提案を受け1965年から発足した日本サッカーリーグ(JSL)の創設にも岡野、西村章一、重松良典らと尽力。長沼はこの時もまだ現役選手だった。クラマーの提案は、ドイツの北部・南部・西部3リーグ制の地域リーグであるレギオナルリーガを想定していたが、新幹線と在来線を乗り継げば「全国リーグ」が出来ると反撥したのは長沼たちであったという。アマスポーツの全国リーグは初めてのケースで、他の競技団体からも大きな注目を浴びた。アイスホッケー、バスケットボール、バレーボールの全国リーグが翌年から追随した。JSL創成期の苦労は現在とは比べ物にならない程過酷なもので、広島などへの遠隔地への試合では「われわれには夜行列車があります」と社業に差し支えると渋る会社と交渉。週末に移動し日曜に試合をこなし、夜行で帰り月曜の朝、東京駅に着くとそのまま丸の内の会社に出社し仕事をした。部員には「絶対に寝るな」と釘を刺したという。リーグが始まって社内でも「いくら何でもかわいそうだ」という声が出て、月曜の午前中は休める会社も出てきた。それがセミプロ化への流れを作ったのではないか、と長沼は話している。その後古河は、サッカー部を廃部するという時期があったが、長沼の存在があったから廃部を救えたという。

1966年、日本代表を連れヨーロッパ遠征中、せっかくだから選手にワールドカップを見せてやろうとドーバーのインド人が経営する安宿に泊まり、ワールドカップイングランド大会を自身も初観戦。またドイツ遠征中、アディダス社のアディ・ダスラー(アドルフ・ダスラー)に代表選手のシューズを作ってもらう。これが現在、麒麟麦酒(キリンビール)・キリンビバレッジと両輪で日本代表を支える有力スポンサー・アディダスと協会との長きに亘る付き合いの始まりであった。

[匿名さん]

#2412019/06/17 00:31
また、長沼は後年キリンビールのスポンサー獲得も実現させている。天皇杯の決勝戦が元日国立競技場開催になったのは、明治神宮に250万人の参拝客が来るので、初詣帰りの1%でも来てもらえないか、と思案して変更したものという。1969年、日本で開催されたFIFA・AFC・JFA共催コーチング・スクールでクラマーの助手を務め、世界初のFIFAコーチライセンス[要出典]取得。1970年、野津のお供でワールドカップメキシコ大会を視察。この時はロイヤルボックスで観戦し、当時の国際サッカー連盟(FIFA)会長・スタンリー・ラウスから話が出たというワールドカップ日本招致の話を野津から聞く。ワールドカップ日本招致を野津に進言したのは長沼だともいわれるが、長沼は反対していたとも言われ、この辺の経緯は不明。1960年代から海外遠征時にサッカー協会には内緒で試合のギャラを選手に還元していたという。1972年、日本蹴球協会技術委員長。1974年、同理事となり協会の法人化(財団法人日本サッカー協会に名称変更)にも奔走。日本代表監督は1976年まで歴代最長の11年間指揮を執った。この頃の代表監督は契約でなく、協会の組織の中の役職のため無報酬だった。

[匿名さん]

#2422019/06/17 00:33
■日本サッカーの改革者として

代表監督を退任したこの年、医者の野津謙サッカー協会会長では将来が望めないと岡野・重松らと野津会長=小野卓爾専務理事体制の刷新を画策。三菱化成工業(現・三菱化学)社長だった篠島秀雄に会長就任を要請した。しかし篠島が1975年急逝したため篠島から推薦されていた平井富三郎(元・新日本製鐵社長)を新たに担ぎ、野津会長の後継とした。自身も専務理事となり平井会長=長沼体制として実質的に日本サッカーのリーダーとなる。平井はサッカーには明るくなかったが、平井を迎えたのは財政の確立が至上命令であったためで、財政の確立を平井会長に進言したのは長沼である、長沼が大会社のトップを間近に見て経営の心得を実地に学んだことは大きな意味を持った。これらはサッカー誌などで「76政変」「長沼のクーデター」「無血クーデター」などと呼ばれている。「無血クーデター」というのは、この交代が揉めずにすんなり行われたため。野津らも世代交代の時期と考えていたのではといわれている。長沼がリーダーとなったことで、半世紀以上も続いてきた大学リーグ中心のサッカー協会が日本リーグを中心とする社会人チームの関係者の手に移るという大きな分岐点であった。また「丸の内御三家」の影響力がさらに強まることとなった。長沼は、平井富三郎、藤田静夫、島田秀夫と3代の会長を立てながら、実質的に激動期の改革を主導した。この頃、早稲田大学の同好会でサッカーに興じていた岡田武史を呼びつけ同大学蹴球部に入部させたという逸話も残る。加茂周の日産自動車サッカー部監督就任は、長沼らの仲介によるもの。

[匿名さん]

#2432019/06/17 00:34
また協会の運営を円滑に進めるため、古河の経理部門にいた小倉純二を抜擢した。小倉が「国際派」となるのは、1981年に古河電工のロンドン支店に転勤になった小倉に長沼が「日本サッカー協会国際委員(在ロンドン)」と書かれた名刺を持たせてからである。

当時の日本サッカー協会には財源確保という大きなテーマがあった。長沼はFIFAや欧州のクラブ組織を参考に、以下の3つを柱として協会の組織改革する。

FIFAの組織に準じた専門委員会の改編。
FIFAに先じた個人登録制度(のち年齢別登録制に変更)の導入。個人登録制度は長沼が平井会長に提案して、平木隆三と共に計画を練り、大谷四郎にも相談して発足させたもの。選手個々から登録料を徴収するという提案は中体連から「子供たちから金を取るのか」などと、強い抵抗を受けたが1978年から実施した。付随して日本のスポーツでは初めて、天皇杯を日本のすべての加盟チームに門戸を開いた。
自転車操業ともいわれた当時のサッカー協会の慢性的な赤字体質からの脱却。オフィシャルサプライヤー制度を始め、デサント、アシックス、プーマと契約。1977年に結成した「日本サッカー後援会」の会費と個人登録制度、国際試合の興行収入、日本体育協会からの補助金と合わせ財政基盤確立をもたらした。
同年、組織的に選手を発掘し育成するナショナル・トレーニング・センター制度を発足。この年電通から持ち込まれたペレの引退試合を国立競技場で開催、観衆6万5000人を集め、国立競技場が初めて満員になったといわれ、7000万円の純益を出した。協会が手掛けた初めての大きな興行で、1978年から実施した個人登録制度導入と合わせ以降、日本サッカー協会は赤字体質から脱却した。

[匿名さん]

#2442019/06/17 00:35
この年を境に協会は一度も赤字になることはなく、Jリーグ発足直前には40億円の金があったといわれている。同じ年、全日本少年サッカー大会をスタートさせ全国高等学校サッカー選手権を国立競技場での決勝など首都圏開催へ移す。また日本体育協会にこれも先じて長沼が企画して始めたコーチングスクール開催、また、協会の有力スポンサー、のちのトレーニングセンター建設などで、ユース世代の指導がスムーズに行われるようになった。日本でもコーチのシステムをつくった方がいいというクラマーのアドバイスを受けて、コーチングスクール開催等、それを具体化したのは全て長沼だった。岡野は「財政が豊かでないときに、とにかくやらなければ将来の日本はないんだということでスタートさせた、指導者をきちっとしたシステムの中で育てていかなければいけないんだというのが、健さんの一番大きな功績だったと思います」と述べている。また、協会の有力スポンサーにキリンビールが付いたのは長沼が当時、原宿の協会の部屋の窓から線路を挟んで目と鼻の先にかつて本社のあったキリンビールに「ああいう(大きな)会社に支援をお願いできないものか」と思案したのが始まりである。

1978年から始めて当初赤字を出したジャパンカップのスポンサー探しに、キリンビール社員で審判員だった久保田秀一に案件を依頼。久保田の尽力で長沼は岡野と共に代理店なしで当時の同社・小西秀次社長に直談判し冠スポンサーを実現させ、同大会は1980年第3回大会からキリンカップサッカーと名称変更となった。インターコンチネンタルカップ(トヨタカップ)日本開催実現にも協力する。1977年、セルジオ越後らの提言を受け日本ミニサッカー連盟(現在の日本フットサル連盟)発足。

[匿名さん]

#2452019/06/17 00:36
1981年に日本代表監督に就任した森孝慈の要請に応え、それまで勝利給はおろか日当さえも出なかった代表チームの報酬金 や宿泊ホテルを改善。これは1983年から韓国Kリーグが始まり、韓国代表選手に金銭的手当てが出るようになった影響がある。1983年、木之本のJSL事務局長抜擢に尽力した。1984年、日本のサッカー界初の引退試合「釜本邦茂引退試合 ヤンマーディーゼル対日本サッカーリーグ選抜」(国立競技場)開催に尽力。

[匿名さん]

#2462019/06/17 00:37
■Jリーグ創設への舵取り

1987年、日本サッカー協会(JFA)副会長就任。同年、エリザベス2世が名誉総裁を務めるイングランドサッカー協会に倣い、高円宮憲仁親王を名誉総裁に迎える。

1989年、FIFAに2002年ワールドカップ開催の意思を伝える。森健兒、石井義信、木之本興三らと、のちに川淵が中心となって進めたプロ化推進では難色を示す長老が多くこのままでは頓挫してしまうと判断、長沼は協会内にプロ化検討委員会の設置を提案し自ら委員長(プロリーグ対策本部長)に就任、プロ化反対派に対する防波堤となり川淵らを強力にバックアップしJリーグを実現させた。博報堂がJリーグを手掛けることになったのは長沼からのリンクであるという。

また愛知県は当初、Jリーグ参加に難色を示していたが、地域性から全国リーグの格好が付かないと、トヨタカップで付き合いのあった豊田章一郎に熱弁を振るいトヨタ自動車の出馬を懇請、さらに名古屋グランパスエイトから企業名を外させた事も極めて大きな意味があった。1991年、川淵を日本代表強化委員長に抜擢。日本代表のW杯出場への挑戦が、現実的な目標となったのはこの時から。

[匿名さん]

#2472019/06/17 00:38
1993年、日本体育協会会長代行。古河での出世のチャンスを拒み長らくサッカー協会会長職も固辞したといわれる。関係者が皆「健さんの頼みは断れない」と口を揃える磊落型の親分肌で知られた長沼は1994年、64歳で漸く日本サッカー協会会長に就任。日本代表監督経験者としては初の会長就任となった。

その後ハンス・オフト、パウロ・ロベルト・ファルカンの招聘、そして1998年フランスW杯予選途中での加茂周監督更迭、岡田コーチの昇格を英断し、ジョホールバルの歓喜・日本サッカー悲願のW杯初出場をもたらした。

また2002年日韓W杯招致では、世界30ヶ国、延べ75万キロ、地球19周を飛び回り開催を実現させた。

[匿名さん]

#2482019/06/17 00:38
1996年5月31日、2002 FIFAワールドカップの日韓共催が決定し、直後に試算した結果、2か国開催によって「収入は半減・支出は不変」となることから2002年日韓W杯は赤字になると見込まれた。その赤字の補てんの為に、日韓W杯の収支試算が出た直後からJFA内で資金(ストック)を貯めていった。1997年、JFAは協会設立75周年を機に「JFAアクションプラン」を策定した。その中に、当時JFA会長だった長沼は「自前のJFAハウスを持つ」と明記した(それまでJFAの事務所は常に賃借だった)。もちろん、長沼もすぐに実現するとは思っておらず、遠大な目標のつもりだった。ところが、実際に日韓W杯が終了すると、日本W杯組織委員会(JAWOC)は約130億円の黒字を計上した。その黒字の一部とJFAが日韓W杯の赤字補てんに備えて貯めていた資金(ストック)を合わせて、JFAは三洋電機株式会社が所有していたビルを2003年に購入した。この時、長沼は既にJFA会長ではなかったが、長沼が遠大な目標としてJFAアクションプランに「JFAハウスを持つ」と記してからわずか6年後に目標が実現したのだった。同年9月、この日本サッカー協会ビル(JFAハウス)にJFA事務局が移転し、同時に日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)、日本フットボールリーグ(JFL)、日本女子サッカーリーグなど国内のサッカー事務局や関連企業も都内各地などから移転し、同年12月22日に2002年W杯を記念した日本サッカーミュージアムを開設した。困窮の時代のサッカー協会を切り盛りしてきた長沼にとってJFAハウスは長年「いつかは」と抱き続けた夢だった。

[匿名さん]

#2492019/06/17 00:39
戦後日本サッカー史の歴史を変える局面全てに立ち会い、しかも重要な役割を果たしてきた人物。長沼の人生は日本サッカーの苦悩と葛藤のクロニクルそのものであった。

デットマール・クラマーは 「私は日本サッカー界に偉大な貢献をしたと言われますが、それはとんでもない話。ナガヌマのほうがはるかに素晴らしい人でした」「私はあくまで招待されたアドバイザー。銅メダル獲得には、長沼の貢献のほうが大きかった」と話している。スポーツ報知は「今でこそ、サッカーは野球と並ぶ人気スポーツの地位を確立したが、長沼は、その礎を築き上げた最大の功労者」と評している。

[匿名さん]

#2502019/06/17 00:40
■長沼路線の功罪

フランスW杯予選前に、川淵に任命された加藤久強化委員長が加茂監督では、アジア予選を勝ち抜けないとして同監督を更迭し、後任監督をネルシーニョに決定した。当時のJFA規定では強化委員会が日本代表監督の評価を行うと明記されていた。契約交渉は最終段階に入り、残りは条件面を詰めるだけになっていたのにも関わらず、W杯誘致運動から帰国した長沼は"鶴の一声"で加茂続投を決めてしまった。さらに、その決定過程を記者会見で上手く説明出来なかったばかりか「加茂でフランスに行けなかったら辞任する」と発言したものの、加茂更迭時に自らは会長職にとどまった。更に契約交渉の最終段階で、日本代表監督契約を突然白紙撤回されたネルシーニョが"日本サッカー協会には腐ったミカンがいる"と長沼を非難したことも物議を醸し、マスメディアを大いに賑わせた。長沼が専務理事だった1984年に、当時日産自動車を率いて日の出の勢いだった関学の後輩・加茂を日本代表監督の候補に挙げながら、梯子を外した借りがあり、1992年のオフト招聘の際も、川淵強化委員長の推すオフトより加茂を抜擢したかったといわれる。また日本単独開催を目指していたW杯が、政治的妥協の結果、韓国との共催となり韓国に譲歩しすぎた事も当時極めて強い批判を受けた(だが、実際は、2002年ワールドカップの日韓共催はFIFA内の会長選挙を巡る権力闘争によって決まったのであって、共催は避けられないことであった。もし、長沼が最終的に共催の決断を下さねば、韓国の単独開催になるのは必至の情勢であった)。

[匿名さん]

#2512019/06/17 00:46
これら一連の出来事により、1997年から1998年にかけ、長沼はとくに若年のジャーナリストと彼らを支持するファンからの厳しい批判にさらされ、競技場で大きなブーイングを浴びる事もあった。

[匿名さん]

#2522019/06/17 00:46
■晩年

1998年にサッカー協会会長職を岡野に譲って同協会名誉会長となり、日韓W杯終了後に最高顧問となった。晩年はスポーツ界全体の振興にも力を注ぎ、日本体育協会副会長として地方の大会にもこまめに足を運んだ。また、日本スポーツ少年団本部長、日本フットサル連盟会長、埼玉スタジアム2002の場長などを務め、知的障害者サッカーの普及などにも奔走した。

1997年、南米サッカー連盟大勲位特別頚章受章。

2004年、旭日中綬章受章。

2005年、日本サッカー殿堂委員会委員長、及び、第1回日本サッカー殿堂。

2008年6月2日、前年から患っていた肺炎のため逝去。77歳没。

この日、横浜国際総合競技場で行われたFIFAワールドカップ・南アフリカ大会アジア3次予選の日本対オマーン戦において長沼の死を悼み試合開始前に黙祷が捧げられ、日本代表の選手達は腕に喪章を付けてプレーをした。試合は3-0で日本が勝利を収めて長沼への手向けとした。尚、長沼はこの日指揮を執った「監督・岡田武史」生みの親でもあった。

日本政府も多年に亙る長沼の日本スポーツ界並びにサッカー界への功労を評価し、2008年7月1日の閣議で長沼に死後叙位(正五位/叙位日付は死去日の6月2日付)を親授することを決めた。また同年11月にはアジアサッカー連盟(AFC)から生前の功績を称えて「アジアのダイヤモンド賞」が贈られている。



■著書

・『チームプレー』長沼健 光文社(1969年)

・『サッカーに賭けた青春』長沼健 講談社(1969年)

・『11人の中の1人』生産性出版、2008年。ISBN 978-4-8201-1904-3。(1975年初版増補)

・『時代の証言者13「サッカー」長沼健』読売新聞社、2006年。

[匿名さん]

#2532019/06/19 02:41
[ 1964.10.14 ] 東京・駒沢競技場

□■SAMURAI BLUE■□

◇東京オリンピック◇

日本代表🆚アルゼンチンオリンピック代表

3 対 2
0 前半 1
3 後半 1

[ GOAL ]
□日本
杉山隆一 54´
川淵三郎 81´
小城得達 82´

□アルゼンチン
ドミンゲス 24´, 62´


■メンバー

[ 日本代表 ]
GK 横山謙三
片山洋
山口芳忠
八重樫茂生
鎌田光夫
鈴木良三
川淵三郎
釜本邦茂
小城得達
宮本輝紀
杉山隆一

[ SUB ]
GK 保坂司
平木隆三
渡辺正
継谷昌三
上久雄
森孝慈
宮本征勝
富沢清司

[監督]:長沼健


□東京オリンピック サッカー 結果□

・1964/10/14 東京・駒沢競技場
日本代表 3-2 アルゼンチンオリンピック代表

・1964/10/16 東京・駒沢競技場
日本代表 2-3 ガーナ代表

・1964/10/18 東京・駒沢競技場
日本代表 0-4 チェコスロバキアオリンピック代表

[匿名さん]

#2542019/06/22 19:15
□■一般社団法人日本フットボールリーグ■□

□第21回日本フットボールリーグ 第12節□
[ 日時:2019年6月22日(土) 13:00 ]

■試合形式 90分
■会場名:青森県総合運動公園陸上競技場 青森県
■風:弱
■ピッチ(芝):良芝
■ピッチ(表面):水含み
■天候:雨
■マッチコミッショナー:吉田 昌一
■気温:21.1°C
■湿度:71%
■主審:御厨 貴文
■審判アセッサー:前之園 晴廣
■副審1:橋本 真光
■副審2:品川 美博
■第4の審判員:種市 穂
■運営委員:佐々木 良美
■記録担当:吉田 茂
■観客数:421人


ラインメール青森🆚松江シティFC

[ 1 対 2 ]

前 半 0 対 0
後 半 1 対 2


[ 得点者 ]
◇松江
9 西村 光司 50分
8 佐藤 啓志郎 89分
◇青森
23 田中 康平 86分


[ 松江シテFC メンバー]
GK1:守山 健二
DF5:長谷川 翔平
DF6:石津 優介
DF13:筒井 俊
DF22:田中優毅
MF8:佐藤啓志郎
MF9:西村光司
MF10:宮内寛斗
MF18:酒井将史
MF:31 田平 謙 (Cap.)
FW:14中井栞吏

[SUB]
GK21:船川 航司朗
DF4:多木理音
DF29:平林卓也
MF7:長谷 優
MF16:髙畑智也
MF24:赤尾凌
FW11:土井拓斗


[監督]:田中 孝司

[匿名さん]

#2552019/06/24 03:10
横山 謙三(よこやま けんぞう、1943年1月21日 - )は、埼玉県浦和市(現さいたま市)出身の元サッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはゴールキーパー。現日本オリンピアンズ協会理事。日本代表監督時代は兼三と名乗っていたが後に元の謙三に戻した。


◇生年月日
1943年1月21日(76歳)

◇出身地
埼玉県浦和市(現さいたま市)

◇身長
175cm

◇体重
72kg


■所属クラブ

1959年 - 1961年 埼玉県立川口高等学校
1962年 - 1965年 立教大学
1966年 - 1977年 三菱重工業サッカー部

■代表歴
国際Aマッチ 49試合 0得点(1964-1974)

◇出場大会
1964年東京オリンピックのサッカー競技
1966年アジア競技大会
1968年メキシコシティーオリンピックのサッカー競技
1970 FIFAワールドカップ・アジア・オセアニア予選
1970年アジア競技大会
1974 FIFAワールドカップ・アジア・オセアニア予選
1974年アジア競技大会

■指導歴
1976年 - 1983年 三菱重工業サッカー部:監督
1988年 - 1991年 日本代表:監督
1992年 U-23日本代表:総監督
1994年 浦和レッドダイヤモンズ:監督
1995年 - 2001年 浦和レッドダイヤモンズ:ゼネラルマネージャー
2000年10月 - 12月 浦和レッドダイヤモンズ:総監督
2002年 - 2006年6月 浦和レッドダイヤモンズ:常務取締役、取締役
埼玉県サッカー協会:専務理事


■選手情報
◇ポジション
GK

◇ユース
立教大学

出場
(得点)

◇1966-1977
三菱重工
136
(0)

◇代表歴
1963-1975
日本
49
(0)

■獲得メダル
男子 サッカー
オリンピック
銅 1968

[匿名さん]

#2562019/06/24 03:12
■来歴
東京神田の生まれ、浦和市立常盤小学校出身。埼玉県立川口高等学校3年時の1961年にゴールキーパーに転向。渡辺正のいた立教大学(社会学部)に進学し、卒業後、JSLの三菱重工(現・浦和レッドダイヤモンズ)に入団した。JSLでは通算136試合出場、日本代表では国際Aマッチ37試合出場の記録を残した。1964年東京オリンピックではアルゼンチンを破る大金星に貢献、1968年メキシコシティーオリンピックでも三位決定戦でPKをセーブするなど活躍し、そこでの銅メダル獲得にも貢献した。三菱重工では1学年後輩(生年は同じ)の森孝慈と共に1969年の初優勝に貢献した。

1976年から三菱重工の監督に就任、1978年には日本サッカーリーグ、JSLカップ、天皇杯と当時の3冠を全て制覇した。この年から三菱のユニフォームは青から赤に変わり、これは今の浦和レッズにも受け継がれている。

1988年からは日本代表の監督に就任。当時の世界最先端である3-5-2システムを採用し、ウイングバック(両サイドのMF)を攻撃の基点とする戦術を採ったが、1990 FIFAワールドカップ・アジア予選は1次予選敗退という結果となった。前回大会を下回る結果にサッカーファンの不満が高まり、ファンによる解任署名運動やスタジアムにおける解任を要求する横断幕の掲示が行われたが、その地位に留まり続けた。その後、総監督としてU-23代表を率い1992年3月のバルセロナ五輪アジア最終予選に挑むが惨敗を喫し、遂に辞任する結果となった。

[匿名さん]

#2572019/06/24 03:13
就任当初はベテラン選手を外し井原正巳や柱谷哲二といった若手選手を積極的に起用したが思うような結果を残せず、W杯予選敗退を境にそれまでの方針を覆し三浦知良、ラモス瑠偉、北澤豪らの読売クラブ出身の選手を登用し、1991年6月のキリンカップにおいて初優勝に導いた。また、この時期は唯一「日の丸」の赤を基調としたユニフォームを着用していたことでも知られる。

またこの時期からユニホームエンブレムを日の丸から八咫烏を本格的に使用して現在に引き継がれている。

1994年に森孝慈の後任として浦和レッドダイヤモンズの監督に就任した。低迷するクラブの再建を一任されたが果たす事は出来ず、代表監督時代同様にサポーターからの激しい非難を浴び、このシーズン限りで辞任した。

1995年からは浦和レッズのゼネラルマネージャー(GM)に就任。陰でクラブを支え続けたが、1999年にクラブはJ2に降格。1年間でJ1復帰を掲げたがシーズン終盤の2000年10月に成績不振からクラブのJ1復帰が危うくなると斉藤和夫監督に代わり、自らが総監督として指揮を執り、最終節の勝利によって辛うじてJ1復帰を実現させた。

2002年からは森にGMの地位を譲り、強化担当からは離れ株式会社三菱自動車フットボールクラブの取締役として地域活動の強化にあたった。2006年6月で退任。2006年、第3回日本サッカー殿堂入りをした。

2006年に埼玉県サッカー協会専務理事に就任、2014年6月に埼玉県サッカー協会の会長に就任した

[匿名さん]

#2582019/07/01 00:53
三浦 知良(みうら かずよし)は、静岡県静岡市葵区出身のプロサッカー選手。Jリーグ・横浜FC所属。ポジションは左ウイング(ブラジル時代)、FW(日本帰国後)。妻はタレント・ファッションモデルの三浦りさ子。

■愛称
キング・カズ

■生年月日
1967年2月26日(52歳)

■出身地
静岡県静岡市葵区

■身長
177cm

■体重
72kg

■選手情報

◇在籍チーム
横浜FC
◇ポジション
FW
◇背番号
11

■ユース
◇1973-1979
城内FC
◇1979-1982
城内中学校
◇1982
静岡学園高等学校
◇1982-1986
CAジュベントス

■所属クラブ
1986年 サントスFC
1986年 - 1987年 SEマツバラ
1987年 クルーベ・ジ・レガタス・ブラジル
1988年 ECキンゼ・デ・ノヴェンブロ (ジャウー)
1989年 コリチーバFC
1990年 サントスFC
1990年 - 1998年 読売サッカークラブ/ヴェルディ川崎
1994年7月 - 1995年7月 ジェノアCFC (期限付き移籍)
1999年 - 同年7月 クロアチア・ザグレブ
1999年7月 - 2000年 京都パープルサンガ
2001年 - 2005年7月 ヴィッセル神戸
2005年7月 - 横浜FC
2005年11月 - 同年12月 シドニーFC (期限付き移籍)


■タイトル
1990-1991年 - 日本サッカーリーグ 優勝(読売サッカークラブ)
1991-1992年 - 日本サッカーリーグ 優勝(読売サッカークラブ)
1992年 - ダイナスティカップ 優勝(日本代表)、AFCアジアカップ 優勝(日本代表)、ヤマザキナビスコカップ 優勝(V川崎)
1993年 - Jリーグ2ndステージ 優勝 & 年間優勝(V川崎)、ヤマザキナビスコカップ 優勝(V川崎)
1995年 - Jリーグ2ndステージ 優勝(V川崎)
1998-1999年 - プルヴァHNL 優勝(クロアチア・ザグレブ)
2006年 - J2優勝(横浜FC)


■代表歴
[ 試合数 ]
国際Aマッチ 89試合 55得点(1990年 - 2000年)

◇2012
日本 フットサル
6
(1)

[匿名さん]

#2592019/07/01 00:56
日本代表としてもFIFAワールドカップ初出場に貢献した。ワールドカップ地区予選では総得点を27点記録するも、ワールドカップ本大会へは未出場。Jリーグ年間最優秀選手賞1回、得点王1回、ベストイレブンを2回受賞、1993年にアジア年間最優秀選手賞を受賞。釜本邦茂と共に、国際Aマッチ1試合で6得点の日本代表1試合最多得点記録、通算得点記録(55得点)を持つ(2011年時点)。

2012年にはフットサル日本代表としてフットサルワールドカップに出場。

[匿名さん]

#2602019/07/01 00:56
■サッカー選手として

日本国籍の選手で2019年現在、唯一ブラジルで成功した選手である。また、世界各国のサッカークラブを渡り歩いた日本プロサッカー選手の先駆け的存在である。現在のサッカー人気や日本代表ブーム、自身のセリエA移籍などで、ファンが欧州サッカーへの関心を高めるきっかけをつくるなど、サッカーを日本においてメジャースポーツに押し上げた火付け役であり、功労者でもある。特に若手にとって手本とされるのは、その強烈かつストイックなプロ意識にある。

朝一番にグラウンドに訪れ、ランニングでは常に先頭に立つなど精力的に動く。年齢を重ね、若手選手とは親子ほどの年齢差になっても練習は別メニューでなく一緒にこなす。一日に何度も体重を量り、フィジカルトレーナー、マッサージトレーナー、栄養士は個人で雇い入れているほど、徹底した体調管理を行っている[87]。シドニーFC在籍時にはピエール・リトバルスキー監督から「カズはサッカー選手のお手本。シドニーFCの選手達はカズからプロ精神を学んだ」と賛辞を贈られている。

前述のようなストイックなイメージで知られるが、孤高の存在というわけではなく、欧州でプレーする長友佑都・長谷部誠・内田篤人・香川真司らと食事会(通称「カズ会」)を行うなど面倒をみている。その際、カズの隣の席の争奪戦が起きるほどに慕われている。

2004年12月、ブラジル・サンパウロ州のクラブチームで同州2部リーグに所属するウニオン・サンジョアンECのクラブ買収に乗り出していた。現役選手の視点から、クラブ運営や自分を育ててもらった人材の宝庫と言われるブラジルで、後進の育成にも携わっていく構想を持っているようで、2010年1月にはサッカークラブのオーナーを目指していると東スポに報じられた。

[匿名さん]

#2612019/07/01 00:58
■プレースタイル

ブラジル時代は左ウイングとして、ブラジルのサッカー専門誌『プラカー』にて年間ポジション別ランキングで左ウィングの第3位に選ばれる 等、活躍した。Jリーグや代表ではセンターフォワードとしてゴールを量産した。

ドリブルを得意としており、強烈なサイドステップを踏むフェイント、シザーズ(またぎフェイント)等で相手を打ち破った。『週刊サッカーダイジェスト』のドリブラー特集でも、名前を挙げられている。ブラジル仕込みの卓越したテクニック、ディフェンスを置き去りにする一瞬のスピードを持っていた。パス、トラップ、シュート等基本的なプレーもずば抜けているとは言えないが、平均して高いレベルで安定している。基本的なプレーをおろそかにせず、守備をしっかりこなすなど、献身的なプレーも見せる。全盛期はシザーズやフェイントを多用していたが、体の切れが無くなって不調に陥った後は、徐々にそういったプレーは少なくなり、純粋なストライカーにプレースタイルを変化させていき、ボールを引き出す動き、意表をついたシュートなどに活路を見出していった。

元々身体能力に恵まれた選手ではなく、身体も極めて堅い。年齢の積み重ねとともにスピードは衰えてきているが、それでもボールを扱うテクニックはクラブ内で高いレベルを維持し、巧みな読みで勝負している。また、40歳を超えても高い持久力を維持している。

[匿名さん]

#2622019/07/01 01:03
サッカージャーナリストの大住良之は、カズの特質として「並外れた精神力」を挙げている。カズよりもシュート力・テクニック・スピードのある選手はいるが、精神的な強さでカズをしのぐ選手はいないと評している。岡野雅行は「ココ一番な場面では必ずゴールを決めるし、大舞台にもビクともしない」とコメントしている。プロ野球選手のイチローは「価値観が同じというか、種目は違うけど互いの考え方を理解しあえる人。大きなプレッシャーを背負いながら、あれだけの力を発揮できる集中力・精神力はさすが」とコメントしている。また、横浜FCでのチームメイト・早川知伸は「カズさんがすごいのはメンタル。精神力があるからこそ、技術も体力も衰えない」、小野智吉は「本当にサッカーが好き。43歳でも、中学生のような気持ちを忘れない」と話した。

若い頃は、カズがクラブや代表でもフリーキックやコーナーキックを蹴ることもあった(上記のように2010年にもJ2カターレ富山戦で直接フリーキックによるゴールを決めている)。さらにスイッチキッカーとして左右両足でフリーキックやコーナキックを蹴る稀なプレイヤーであった。都並敏史は「僕も左右で蹴れるけど、カズはその精度が高い」と称えており、カズ自身は「小さい頃から利き足に関係なく、両足で練習していた。それは意識してというよりも、自然な感じで覚えたものだった」と語っている。

[匿名さん]

#2632019/07/01 01:04
■ブラジル時代

1982年12月、私立静岡学園高校を1学年修了を待たずに8カ月で中退し、ブラジルに単身で渡航してCAジュベントスに所属した。当時の三浦は身長が低く、テクニックは持っていたものの他に一流と呼べるような強みはなく、指導者達はブラジルでプロのサッカー選手になりたいという三浦の夢は実現不可能だと考えていた。1984年の秋頃、ジュベントスからECキンゼ・デ・ノヴェンブロ(通称:キンゼ・デ・ジャウー)へ移籍した。

1985年頃には夢を諦めた上で日本に帰国することも一時検討したが、最終的に翻意しブラジルでの下積みを継続した。後に本人が語ったところによれば、ふと寄ったリオの公園で現地の貧しい少年達がサッカーをしている様子を見かけたことが、帰国を思い止まる切っ掛けを作ったという。三浦曰く、その少年達の中には裸足の子や片足がない子もおり、ボールも古く汚いものだったが、皆楽しそうにボールを追っており、その様子を見て、「自分には両足も、スパイクも、いいボールもある。何を俺は贅沢なことを言っているんだ」と思い、帰国を思いとどまったとのことである。同年8月、SBSユースに出場したキンゼ・デ・ジャウーの一員として静岡に凱旋し、当時静岡高校選抜に選出されていたディフェンダーの中山雅史、フォワードの武田修宏らと試合を行った。1986年1月[注 1] には、サンパウロ州選手権タッサ・サンパウロ (U-21) に日本人として初出場した。同大会やキンゼ・デ・ジャウーの育成組織で活躍したことが、後のプロ契約に繋がっていった。

[匿名さん]

#2642019/07/01 01:05
1986年2月、サンパウロ州のクラブであるサントスFCと自身初のプロ契約を結んだ。5月にはSEパルメイラスと特別契約を結び日本でのキリンカップでプロサッカー選手として帰国を果たした。しかしサントスFCで出場できたのは1部リーグ2試合のみに留まり、1986年10月にはパラナ州のSEマツバラへレンタル移籍した。翌1987年の2月にはマツバラと正式契約を結ぶと、レギュラーとして南部三州リーグ優勝に貢献し、同年10月にアラゴアス州のクルーベ・ジ・レガタス・ブラジル(通称:CRB)に移籍した。このクラブでも三浦はレギュラーとして活躍し、日本人で初めてブラジル全国選手権への出場を果たした。

1988年、かつてユース時代に所属したサンパウロ州のキンゼ・デ・ジャウーへ移籍した。同年3月19日、SCコリンチャンス・パウリスタ戦で日本人としてリーグ戦で初得点を記録し、格上の人気チーム相手に3-2で勝利するという番狂わせ(いわゆるジャイアント・キリング)の立役者の一人。このときの試合はブラジル全土にテレビ中継されていたため、「三浦知良」という日本人の名前がブラジル全土に知られるきっかけとなった。同年にブラジルのサッカー専門誌『プラカー』の年間ポジション別ランキングで左ウイングの第3位に選ばれた。クラブでの活躍により、三浦はジャウー市から名誉市民賞を贈られている。1989年2月、パラナ州のコリチーバFCに移籍し、パラナ州選手権優勝に貢献した。

[匿名さん]

#2652019/07/01 01:06
1990年2月、サントスFCへ4年ぶりに再移籍した。サントス在籍時代にマツバラにレンタルされたとき以来、もう一度サントスでプレーして自分の力を証明したいと思っていたこともあり、三浦はサントスへの移籍に際し、他のチームからの移籍の誘いを断ってサントスと交渉した。移籍後にレギュラーの地位を確保すると、同年4月29日のパルメイラス戦では1得点1アシストと活躍し、チームも2-1で勝利した。翌日のブラジルの新聞はスポーツ紙・一般紙を問わず同試合での三浦の活躍を伝え、この試合の三浦のゴールシーンはブラジルのサッカー専門誌『プラカー』の表紙を飾った。


■Jリーグでの活躍から欧州移籍へ

1990年7月、Jリーグ発足が現実味を増す中、日本代表のW杯出場権獲得に貢献するためにブラジルに残ることよりも代表選考の対象となりやすい日本でプレーすることを決断し、日本サッカーリーグの読売サッカークラブ(ヴェルディ川崎 = 現東京ヴェルディの前身)に移籍した。当初、周囲の期待とは裏腹に日本のサッカーになじめずなかなか日本サッカーリーグのリーグ戦では活躍できなかったが、時間の経過とともに徐々に順応を見せた。1992年のJリーグカップではヴェルディを優勝に導いた上、大会MVPにも選出された。この活躍が評価され、三浦は1992年の日本年間最優秀選手賞(フットボーラー・オブ・ザ・イヤー)を受賞した。

[匿名さん]

#2662019/07/01 01:06
Jリーグ開幕後は、ラモス瑠偉、北澤豪、武田修宏、ビスマルク、柱谷哲二、ペレイラ、菊池新吉ら他、多くのチームメイトに恵まれ、川崎の名を冠していた時代のヴェルディの黄金期を支えた選手の一人として記憶されることとなった。Jリーグの開幕年となった1993年シーズンのリーグ戦の第1ステージはクラブ内の内紛や日本代表の過密スケジュールの影響を受け不本意な成績に終わったが、7月17日神戸ユニバー記念競技場で行われたJリーグオールスターサッカーでは当時J-EASTで指揮を採っていた松木安太郎監督の下2得点を決める活躍を見せ、大会MVPに選出された。これを切っ掛けとして三浦は本来の調子を取り戻し、自身の結婚式の前日の試合となった7月31日博多の森陸上競技場での第2ステージ第2節ガンバ大阪戦からは6試合連続で得点を記録した。最終的にはシーズンを通して日本人選手ではリーグ内でトップとなる20得点を決めるなど、ヴェルディ川崎をJリーグの初代チャンピオンに導く上で決定的な活躍を見せた。この活躍が評価され、第1回のMVPを受賞した他、前年に続いて1993年の日本年間最優秀選手賞に輝き、1993年のアジア年間最優秀選手賞をも受賞した。また1993年12月にはACミラン主催のチャリティーマッチに招待され、先発出場し、ウーゴ・サンチェスの得点をアシストした。

[匿名さん]

#2672019/07/01 01:08
■ジェノアCFC

1994年にはイタリア・セリエAのジェノアCFCに1年契約で期限付移籍し、アジア人初のセリエAプレーヤーとなった。この移籍には商業的な価値を期待していたと見る向きが強く、ジェノアのユニフォームの胸部分の広告権をケンウッドが獲得したこともあって、加入会見では「スポンサーを得るために獲得したと言われているが、どう思うか?」などと辛辣な質問も浴びせられた。

プレシーズンマッチの地中海カップでは好プレーを見せ、サンシーロで行われた、ACミランとのセリエA開幕戦において先発出場し、セリエAデビュー、前半途中にフランコ・バレージとプレー中に激突し、鼻骨骨折と眼窩系神経を損傷してしまい、一ヶ月の戦線離脱を余儀なくされた。

[匿名さん]

#2682019/07/01 01:09
復帰後、12節UCサンプドリアとのジェノヴァダービーで先発出場、アントニオ・マニコーネの浮き球からトマーシュ・スクラビーがヘディングで落としたボールを右足アウトサイドでゴール隅に決め、セリエA初ゴールとなる、先制ゴールを奪ったが(16節のパドバとの対戦では、サイド突破からマニコーネの決勝点のアシストはあったが)、これがジェノアでの唯一の得点となった。代表戦のため第31節ユベントス戦に出場後、シーズン終了を待たずに帰国、その他1994年10月にはアジア大会への出場のための帰国、また度重なる監督交代も影響して、21試合出場(先発10試合)に留まった。その後、トリノFC、スポルティング・クルーベ・デ・ポルトゥガルといったチームからオファーが来ていたが、シーズン終了後にはヴェルディ川崎へ復帰することとなった。ジェノア在籍時にはジェノバの名前を日本に広めたことで、市から特別表彰を受けた。シーズン終了後、ジェノアCFCの一員として、横浜スタジアムで行われた、ヴェルディ川崎との親善試合に出場、この試合を最後にジェノアを離れ、ヴェルディへ復帰した。また在籍時の1994年12月にはASローマ対世界選抜の試合に出場した。

[匿名さん]

#2692019/07/01 01:10
■クロアチア・ザグレブ

カズはクロアチアのクラブチーム、クロアチア・ザグレブへ2年契約で移籍した。これはクロアチア・ザグレブに大きな影響力を持った当時のクロアチア大統領フラニョ・トゥジマンの意向が働いたものとされており、戦力としての評価よりも背後のジャパン・マネーを狙った経済的な期待が大きかった。カズはデビュー戦でPKを失敗したこともあり、アシストのみでゴールは挙げられなかったが、ザグレブはクロアチア・リーグで優勝した。しかしそのシーズン終了後、新たに就任した日本でも監督経験のあるアルディレス監督に戦力外とされ、本人が熱望していたUEFAチャンピオンズリーグへの日本人初出場はかなわず、1999年6月、契約よりも1年早く日本に帰国した。1999年5月にはマルセイユで行われた、ジャン・ピエール・パパンの引退試合に招待され、フランス代表と対戦、得点は無かったが、クロスバー直撃のシュートを放った。

[匿名さん]

#2702019/07/01 01:11
■シドニーFCへの期限付き移籍

横浜FCに移籍後間もない11月、2005年に設立したばかりのオーストラリアAリーグ初のゲストプレイヤー(Aリーグの公式戦4試合のみ出場が認められる特別枠選手)としてシドニーFCに期限付き移籍した。シドニーFCは元Jリーガーで、カズの全盛期を対戦相手としてよく知るピエール・リトバルスキーが監督を務めており、2005年12月に日本で開かれるFIFAクラブ世界選手権のオセアニア地区からの出場権を既に得ていた。カズはリーグ戦4試合に出場し当時首位を走っていたアデレードとの直接対決において2得点と結果を残した。チームでのポジションを確保し、FIFAクラブ世界選手権では準々決勝たる1回戦と5位決定戦の2試合フルタイム出場、得点には絡まなかったもののシドニーFCは5位決定戦勝利に貢献、全6クラブ中最下位を免れた。シドニーでの背番号は21番、FIFAクラブ世界選手権では11番を着けてピッチに立った。なお同大会の前身であるインターコンチネンタルカップを含め、日本人の出場はカズが初めてである。

[匿名さん]


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