870
2023/11/26 14:42
爆サイ.com 山陽版

サッカー国内





NO.7201210

デッツォーラ島根④
報告 閲覧数 3468 レス数 870

#4212020/02/15 00:35
1922年、日本最初のリーグ戦である「専門学校蹴球リーグ戦」に東京帝国大学、早稲田大学、東京商科大学と共に参加。なお、同年で「専門学校蹴球リーグ戦」は休止されたが、1924年にア式蹴球東京コレッヂリーグ(現:関東大学サッカーリーグ戦 )が創設され、「専門学校蹴球リーグ戦」に参加していた東京帝大、早稲田大に加えて、法政大、慶應義塾大、東京農大の5校と共に1部に入った(同年は4位の成績)。1925年、ア式蹴球東京コレッヂリーグで初優勝を果たした。

1929年、東京高等師範学校から東京文理科大学へ改組し、同大学の蹴球部となった。

1935年に開催された全日本蹴球選手権大會(第15回天皇杯全日本サッカー選手権大会)に初出場して関大クラブなどを破って決勝に進出。決勝は全京城蹴球団(英語版)に敗れたが、準優勝の成績を残した。

1936年ベルリンオリンピックのサッカー競技の日本代表に在学中の松永行が選出され、スウェーデン代表で決勝点となるゴールを決めた(ベルリンの奇跡)。

1949年、東京文理科大学が東京教育大学へ改組し、同大学の蹴球部となった。

1954年、全日本大学サッカー選手権大会で初優勝を果たした。1959年、中央大学学友会サッカー部との中教サッカー定期戦(現在は「中筑サッカー定期戦」)が開始された。また、1957年から1959年まで3年連続で現役・OBによる茗友クラブとして天皇杯に出場している。

[匿名さん]

#4222020/02/15 00:36
1978年、東京教育大学が閉鎖され、筑波大学が発足すると共に同大学の蹴球部となった。

1981年、総理大臣杯全日本大学サッカートーナメントで初優勝した。また、同年の第61回天皇杯全日本サッカー選手権大会の2回戦で古河電工、準々決勝で日立製作所とJSL勢を連破してベスト4に入った。

2012年、26回目の出場となった第92回天皇杯全日本サッカー選手権大会の1回戦でJFL所属(当時)のFC琉球に勝利した。

2014年11月、中央大学に敗れて創部以来初となる関東大学リーグ2部へ降格した。

2015年11月、関東大学リーグ2部で2位に入って1年での1部復帰を決めた。2016年12月に開催された第65回全日本大学サッカー選手権大会で優勝した(13年ぶり9回目)。

2017年、30回目の出場となった第97回天皇杯全日本サッカー選手権大会の1回戦でJ3・Y.S.C.C.横浜に勝利、2回戦のベガルタ仙台戦で創部以来初となるJ1クラブから勝利を挙げた。3回戦ではJ2・アビスパ福岡に勝利した。2017年11月、関東大学リーグ1部で13年ぶりに優勝した。勝利数(17)、勝点(54)は共に22試合制になった2005年以降で最多となる。

[匿名さん]

#4232020/02/15 00:37
■主な成績

天皇杯 JFA 全日本サッカー選手権大会
準優勝:1回(1935年)
全日本大学サッカー選手権大会
優勝:9回(1954, 1956, 1968, 1971, 1979, 1980, 2002, 2003, 2016)
準優勝:4回(1995, 1999, 2000, 2008)
総理大臣杯全日本大学サッカートーナメント
優勝:3回(1981, 1988, 1992)
準優勝:6回(1983, 1987, 1989, 1993, 1995, 1999)
関東大学サッカーリーグ戦1部
優勝:15回(1925, 1953, 1968, 1969, 1980, 1983, 1987, 1988, 1992, 1993, 1994, 1999, 2000, 2004, 2017)
準優勝:11回(1948, 1955, 1977, 1979, 1955, 2001, 2002, 2003, 2010, 2016,2018)
アミノバイタルカップ
準優勝:3回(2012, 2015, 2017)
茨城県サッカー選手権大会(兼天皇杯茨城県予選)
優勝:11回(2000, 2002, 2003, 2005, 2007, 2011, 2012, 2013, 2014, 2016, 2017)
準優勝:3回(2004, 2010, 2018)


■主な出身選手

東京教育大学時代およびそれ以前の所属選手については東京教育大学の人物一覧#サッカーを参照

◇1978年度卒
大渕龍介
◇1979年度卒
内山勝
田嶋幸三
山口隆文
◇1981年度卒
坂下博之
◇1982年度卒
越田剛史
松田浩
◇1983年度卒
織田秀和
望月一頼
鈴木淳
風間八宏
◇1984年度卒
浅岡朝泰
倉田安治
小野剛
◇1985年度卒
吉田寿光
松村和彦
◇1986年度卒
保坂孝
◇1987年度卒
田口禎則
長谷川健太
◇1988年度卒
鋤柄昌宏
伊達倫央
野村雅之
◇1989年度卒
川俣則幸
畠山啓
井原正巳
中山雅史
森山佳郎
影山雅永

[匿名さん]

#4242020/02/15 09:26
この先不安定

[匿名さん]

#4252020/02/19 03:28
ヤンマーディーゼルサッカー部は、かつて存在した日本のサッカークラブ。ヤンマーディーゼルのサッカー部として1957年に創部された。呼称はヤンマー。「企業アマ」の体制確立に最も早くから着手したチームの内の1つでもある。日本代表で活躍した釜本邦茂を中心としたチーム構成で1970年代に全盛期を築き上げた。


■愛称
ヤンマー
■クラブカラー

■創設年
1957年
■ホームタウン
兵庫県
大阪府
滋賀県
■ホームスタジアム
神戸中央球技場
尼崎市記念公園陸上競技場
長居陸上競技場
水口スポーツの森陸上競技場



日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するセレッソ大阪の前身となったクラブである。


■概要

サッカー部は早稲田大学ア式蹴球部OBの古川能章を中心に1957年に創設。1963年には関西実業団選手権で優勝を飾ったが、当時の関西には田辺製薬、湯浅電池、日本ダンロップなどの強豪がひしめいており、そのため、日本サッカーリーグ設立の際には歴史の浅いヤンマーが加盟出来るとは思われなかった。

しかし、他チームが社業との両立や、リーグの成功と可能性を疑問視したことで参加を見送ると、関西唯一のチームとして第1回からの参加となった。これには、リーグ創設に尽力した古河電気工業サッカー部(現:ジェフユナイテッド市原・千葉)の長沼健と古川が高校時代の同期で、リーグの意義や趣旨を理解していた事も大きな要因の一つであった。

[匿名さん]

#4262020/02/19 03:29
初年度は最終節の東洋工業サッカー部(現:サンフレッチェ広島)戦で0-11という記録的な大敗を喫して7位。翌年は最下位に終わり入替戦に回るなど惨憺たる結果に終った。

そこで監督の鬼武健二、コーチの加茂周、マネージャーの安達貞至らが中心となり改革に取り組む。環境面では天然芝の照明設備付きグラウンド、サウナ付きの選手寮の建設。待遇面でも残業手当に相当する「運動部手当」を支給、従来夕方からの練習参加としていたのを、午前中で仕事を切り上げ午後からの練習参加を可能にするなど、企業アマ体制を確立させた。この背景には関西出身の大型ストライカー釜本邦茂が加入したことにより会社が積極的な支援を行う様になった面もある。

またヤンマーがブラジルに自社工場のヤンマーディーゼル・モトーレス・ド・ブラジル(Yanmar Diesel Motores do Brasil)を所有していた事もあり、そこで勤務していた日系人のネルソン吉村を獲得、日本リーグ初の外国籍選手となった。吉村や黒人選手のカルロス・エステベスを獲得すると、それまでの守備一辺倒のスタイルからラテン志向のパスサッカーへ転換を果たし、1969年の天皇杯を制覇。これは創部11年目にして初のビッグタイトルとなった。

釜本、吉村のコンビを中心としたブラジル流攻撃サッカーは人気を集め、ドイツ流の組織的サッカーを志向するライバルの三菱重工業サッカー部(現:浦和レッドダイヤモンズ)との試合は人気を集め1968年11月17日に国立霞ヶ丘陸上競技場で行われた試合は40,000人の観衆を集め、この記録は20年近くJSLでの最多入場記録であった。

[匿名さん]

#4272020/02/19 03:30
JSL優勝4回、天皇杯優勝3回を誇った名門も釜本の引退後は上位進出する事は少なくなり、1990-91シーズンにはリーグ11位となり2部降格。またJリーグ設立の際に候補として名乗りを挙げたもののホームタウンの問題から落選、1992年からジャパンフットボールリーグ(旧JFL)に参加。1993年12月6日にヤンマーディーゼル、日本ハム、カプコン等の共同出資による運営会社「大阪サッカークラブ株式会社」を設立。名称を「セレッソ大阪」と改め、Jリーグ準会員として1994年にJFLで優勝し、Jリーグへ加盟した。


■略歴

1957年 創部
1965年 第1回日本サッカーリーグに参加
1991年 日本リーグ2部降格


■タイトル

天皇杯
1968年、1970年、1974年
日本サッカーリーグ
1971年、1974年、1975年、1980年
JSLカップ
1973年(スペシャルカップ)、1983年、1984年
スーパーカップ
1981年
クイーンズカップ(親善大会)
1976年


■ヤンマーディーゼルサッカー部に所属した主な選手

古川能章
鬼武健二
釜本邦茂
ネルソン吉村(日本名:吉村大志郎)
加茂周
西村昭宏
副島博志
山野孝義
堀井美晴
楚輪博
カルロス・エステベス
梶野智幸
貴志俊治
梶野智
森島寛晃
マルコス

[匿名さん]

#4282020/02/19 03:32
■「Category:ヤンマーディーゼルサッカー部の選手」も参照


安達貞至

伊藤裕二
今村博治

上野山信行
宇野秀徳

カルロス・エステベス

鬼武健二

梶野智
梶野智幸
釜本邦茂
加茂周
川前力也

貴志俊治
木村文治

草木克洋

ジョージ小林
小松晃

白澤久則

鈴木康仁

副島博志
楚輪博

武田治郎

坪田和美

西村昭宏

長谷川治久

ヴィタヤ・ラオハクル

バウテル・フェレイラ・ルス
古川能章

堀井美晴

見崎充洋
水口洋次
皆本勝弘

マルコス・アントニオ・メネゼス・ゴドイ

森島寛晃

山崎慎治
山田泰寛
山野孝義
山橋貴史

湯口栄蔵

吉村大志郎


■セレッソ大阪と異なる点

活動地域は大阪というよりも広く関西圏で試合を行っており、練習拠点に近い尼崎市記念公園陸上競技場を中心に、長居競技場、靭公園蹴球場(現:廃止)、神戸中央球技場、水口スポーツの森などで試合を行った。練習拠点は尼崎市と大津市瀬田のヤンマーグラウンドが使用された。
現在もヤンマー尼崎グラウンドではセレッソの下部組織(ユース他)の練習が行われているが、トップチームは舞洲スポーツアイランド、並びに南津守さくら公園のセレッソグラウンドで練習が開催されている。
また現在のサテライト組織相当のチームとして「ヤンマークラブ」というチームが作られ、1976年〜1979年の4年間、日本サッカーリーグ2部リーグに所属したが会社の合理化とサッカー部の一本化に伴い1979年のシーズン終了と同時に解散された。このチームに所属した選手の多くは1980年に松下電器産業サッカー部(現:ガンバ大阪)を結成し奈良県社会人リーグに参加した。
ユニフォームカラーは上下ともに赤。チームエンブレムにはサッカーボールを蹴るヤン坊マー坊が描かれていた。

[匿名さん]

#4292020/02/19 03:32
■参考文献

『モダンサッカーへの挑戦』 (加茂周、講談社 1994年)
『空っぽのスタジアムからの挑戦』 (平塚晶人、小学館 2002年)
『サッカー移民‐王国から来た伝道師たち』 (加部究、双葉社 2003年)
『虹を掴む』 (川淵三郎、講談社 2006年)
日刊スポーツ連載 <伝説>「日本サッカーの先駆者 ヤンマー」2008年10月〜11月

[匿名さん]

#4302020/02/23 00:02
松下電器産業サッカー部は、かつて存在した日本のサッカークラブ。松下電器産業(現パナソニック)のサッカー部として1980年に創部した。呼称は松下。日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)所属のガンバ大阪の前身となったクラブである。


■呼称
松下
■クラブカラー
白と青
■創設年
1980年
■所属リーグ
日本サッカーリーグ
■ホームタウン
大阪府
■ホームスタジアム
長居競技場
神戸中央球技場


■概要

◇創部
松下電器産業(現パナソニック)は野球部(1950年創部)、バスケットボール(1951年創部)、バレーボール(1952年創部)を既に有しており、サッカー部は4つ目のスポーツチームとして1980年に創部された。前年に活動を休止したヤンマークラブ(ヤンマーのBチーム)の監督だった水口洋次を初代監督として迎え、1980年4月7日に新チーム結成の記者会見が行われた。この記者会見時点ではまだゴールキーパーも在籍しておらず、所属選手の内訳はヤンマークラブからの移籍組が5人、新卒選手が6人、大商大クラブから山本浩靖、そして社内選手が1人だった。ヤンマークラブから加入したFW山口正信、枚方FC出身の新卒MF佐々木博和といった選手はチームがJSL1部に昇格後もなお主力としてプレーした。

[匿名さん]

#4312020/02/23 00:03
■県、地域リーグ時代(1980年-1983年)

松下電器産業サッカー部は、できるだけ早くトップレベルに上り詰めるために、カテゴリ構成が少なくかつ強敵がいない奈良県リーグからのスタートを選んだ。創部1年目の1980年は奈良県2部リーグに参戦し優勝、1部へ昇格。翌1981年は奈良県1部リーグに優勝したものの、関西府県リーグ決勝大会と天皇杯の日程が重なったことが災いして、関西リーグ入れ替え戦の出場権を逃した。1982年は前年の反省から天皇杯よりも入れ替え戦を重視する姿勢で臨んだ。1982年12月26日に行われた関西府県リーグ決勝大会の決勝では北摂けまり団戦に1-0で勝利。1983年1月9日および16日に行われた関西リーグ最下位・三菱神戸との入れ替え戦に勝ち(1戦目1-0、2戦目0-0)関西リーグ昇格を決めた。

1983年の関西リーグでは1位となり、全国社会人選手権にも優勝した。全国地域リーグ決勝大会では横浜トライスターに次ぐ2位となり、JSL2部との入れ替え戦に進んだ。JSL2部9位の東邦チタニウムとの入れ替え戦に勝利して(1戦目2-1、2戦目0-0)創部6年目にしてJSL2部入りを決めた。

[匿名さん]

#4322020/02/23 00:04
■JSL時代(1984年-1992年)

JSL2部昇格初年度となった1984年は3位にとどまり昇格を逃したが、1985年は優勝してJSL1部昇格を決めた。この年はFW山本浩靖がJSL2部得点王に輝いた。1986-87シーズンのJSL1部では降格圏内の11位に沈み、1年で2部に戻った。

1987年には大学からGK本並健治、DF島田貴裕、DF和田昌裕を獲得、かつてヤンマーでプレーしていたタイ人のビタヤ・ラオハクルがプレーイングコーチとして加わった。1987-88シーズンのJSL2部では2位に入り、1年でJSL1部復帰を決めた。このシーズン、元韓国代表の崔徳柱(en:Choi Duck-joo)はJSL2部アシスト王になった。ビタヤの加入によって選手獲得は東南アジア路線がとられ、1980年代後半にはタイ代表DFナティ(en:Natee Thongsookkaew)、インドネシア代表FWリッキー(en:Ricky Yacobi)、タイ代表FWロナチャイ(en:Ronnachai Sayomchai)といった選手たちが在籍した。

1988-89シーズンは7位で残留し、和田昌裕が9アシストでアシスト王となった。1989-90シーズンは県リーグ時代から在籍するFW永島昭浩が得点ランキング2位となる15ゴールを挙げベストイレブン選出されたものの、チームの順位は10位に後退した。新加入FWリッキーの怪我、大商大から加入した日本代表MF池ノ上俊一がチームがフィットできなかったことなどが低迷の要因だった。

1990-91シーズンは初めて順位表の上半分となる12チーム中6位でシーズンを終えた。1990年度の天皇杯では決勝で日産自動車を下して、初めての主要タイトルを獲得した。試合は120分を終えてもスコアレスのまま、同大会決勝史上初めてとなるPK戦による決着だった。

1991年、創部以来監督を務めていた水口が取締役強化部長に回り、水口のヤンマー時代の同期でもある釜本邦茂を監督に迎えた。

[匿名さん]

#4332020/02/23 00:05
■略歴
1980年 : 創部。奈良県リーグに加盟。
1983年 : 関西サッカーリーグ優勝。
1984年 : JSL2部昇格。
1985年 : JSL2部優勝、JSL1部へ昇格。
1987年 : 1986-87シーズンJSL1部11位。JSL2部へ降格。
1988年 : 1987-88シーズンJSL2部2位。JSL1部へ昇格。
1990年 : 第70回天皇杯全日本サッカー選手権大会で優勝。
1992年 : ガンバ大阪への移行に伴って、サッカー部としての活動を終える。


■ガンバ大阪と異なる点

ガンバ大阪は吹田市などの大阪府北摂地域を拠点に活動しているが、松下サッカー部は当初奈良県へ拠点を置き、スタートも奈良県リーグからである。その後、活動拠点は大阪府枚方市へと移された。1983年10月、京都府田辺町(現:京田辺市)に練習グラウンドの田辺サッカー場が開場した。このグラウンドはガンバ大阪となった後も、1997年に万博記念公園内に練習場付きクラブハウスが建てられるまでのあいだ練習場として引き続き使用されていた。


■松下電器産業サッカー部に所属した主な選手

佐々木博和
本並健治
ビタヤ
久高友雄
永島昭浩
湯木英夫
桝本厚志
慶越雄二
肥塚一晃
梶居勝志
島田貴裕
和田昌裕
北浦重宏
倉橋克典
高祖和弘
斉藤敏明
林茂美
福田安和
山口正信
平野直樹
松島芳久
溝畑哲郎
美濃部直彦
池ノ上俊一
山本浩靖
奥出章弘
ダリオ
ランジェ
ミューレル

[匿名さん]

#4342020/02/23 00:06
■「Category:松下電器産業サッカー部の選手」も参照


池田司信
池ノ上俊一

岡中勇人

梶居勝志

久高友雄

慶越雄二

高祖和弘
肥塚一晃
今藤幸治

佐々木博和

塩川哲也
金相煥
島田貴裕

崔徳柱

永島昭浩

羽様隆

ヴィタヤ・ラオハクル
平野直樹

ダリオ・ペレイラ

坊野竜也
本並健治

前田浩二
桝本厚志
松島芳久
松永英機
松山吉之

水口洋次
美濃部直彦

マルコス・アントニオ・メネゼス・ゴドイ

山本浩靖

和田昌裕


■参考文献

荒井義行「チームストーリー」『Jリーグ・ファン・ガイドブック パナソニック ガンバ 大阪』集英社、1993年。ISBN 4087801853。

『日本サッカーリーグ全史』日本サッカーリーグ、1993年。

「始動した新生・松下電器サッカー部 水口洋次と13人のサムライたち」『サッカーマガジン』、ベースボール・マガジン社、1980年5月25日号 No.237、 90-91頁。

「'83年、注目の新星・松下を追う」『サッカーマガジン』、ベースボール・マガジン社、1983年3月号 No.281、 82-83頁。

「松下新サッカー場完成」『サッカーマガジン』、ベースボール・マガジン社、1983年12月号 No.290、 28-29頁。

[匿名さん]

#4352020/02/26 01:51
富士通サッカー部は、かつて存在した日本のサッカークラブ。富士通のサッカー部として1955年に創部し、1996年に「富士通川崎フットボールクラブ」へ改称した。呼称は「富士通」。日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)所属の川崎フロンターレの前身となったクラブである。


■呼称
富士通
■クラブカラー

■創設年
1955年
■所属ディビジョン
日本サッカーリーグ他
■ホームスタジアム
等々力陸上競技場他


【歴史】

■創立・JSL時代
富士通サッカー部は中原区の国鉄(現:東日本旅客鉄道)南武線武蔵中原駅前にある富士通川崎工場の従業員を中心した同好会として設立され、1960年代から徐々に強化を進めた結果、1967年の関東サッカーリーグ発足時のオリジナルメンバーとなった。1972年に日本サッカーリーグ(JSL)2部に昇格し、1976年にはGKで主将を務めた小浜誠二の活躍もあってJSL2部で優勝、ホーム&アウェー方式の入替戦で同シーズン1部最下位のトヨタ自動車工業サッカー部に1分1敗で敗れ一旦は1部昇格を逃したものの、その後1部7位だった永大サッカー部の活動休止が決まったことにより翌シーズンから1部に昇格した。しかし2シーズン後には2部に降格し、その後はJSL2部での活動が続いた。この1部昇格時を含む1973年から1991年は八重樫茂生が監督または総監督を務め(中断期を含む)、富士通サッカー部の基礎を築いた。

1988年/89年シーズンには元中国代表の沈祥福が北京足球倶楽部から入団し、以後は日本サッカーでは珍しく中国色の強いクラブへと変化した。

[匿名さん]

#4362020/02/26 01:52
■JFL

富士通はJリーグとしてのトップリーグのプロ化には参加せず、1992年からは企業内チームのままジャパンフットボールリーグ(旧JFL)へ参加。同年に現役を引退した沈が1994年にコーチから監督へ昇格し、魏克興など他の中国人選手の活躍もあって、他チームのプロ化が進む旧JFLで中位の維持に貢献した。1995年には専修大学から源平貴久が入団し、開幕戦の東芝堀川町サッカー部戦での2ゴールで華々しいデビューを飾り、シーズン終了までにチーム内最多の8得点を決めたが、チームは旧JFLで最低の12位へ後退した。シーズン終了後に沈は監督を辞任し、他の選手と共に中国へ帰国した。同年には11シーズンにわたって活躍した岩渕弘幹が現役を引退した。

沈が監督を辞任して中国へ帰国し、1983年から1988/89年シーズンまで富士通サッカー部の選手だった城福浩が監督となった1996年シーズンにクラブは「富士通川崎フットボールクラブ」へ改称した。守備の中核としてジュビロ磐田からパウスを迎え、攻撃ではナイジェリア出身の新FWムタイルが期待された。シーズン序盤にはブランメル仙台からブラジル人MFのエンリケを獲得して更なる戦力強化を図り、ムタイルはチーム得点王の11ゴールを挙げて同年のJFLオールスター戦にも出場したが、最終順位は3ランクアップの9位に終わり、中位圏からの躍進はできなかった。

[匿名さん]

#4372020/02/26 01:53
■フロンターレへの移行

一方、運営面では大きな変革を迎えていた。既述通り、1996年3月の旧JFL開幕時に富士通サッカー部は「川崎」の名称を加え、従来は大和市の大和市営大和スポーツセンター競技場や厚木市にある厚木市荻野運動公園競技場での開催が多かった旧JFLの主催試合を市内の等々力陸上競技場で増やせるようになったが、その将来像はまだ明確ではなく、栃木県小山市などでは富士通の誘致を念頭に置いた「Jリーグクラブ招致活動」も行われていた。しかし、富士通は自らの手でサッカー部をプロ化し、川崎市をホームタウンとしてJリーグ参加を目指す事を決定し、10月17日に富士通本社から記者発表を行った。同月には同じ川崎市が本拠地だったJリーグクラブのヴェルディ川崎と等々力で公開練習試合を行って川崎市民への告知を行い、11月21日には「富士通川崎スポーツ・マネジメント株式会社」を設立してチームを法人化し、更にチーム名の公募も始めて、翌シーズンへの準備を進めた。城福監督やコーチ、それに選手の多くはアマチュアだったため、クラブのプロ化による大量の退団・社業専念が実施され、数人のプロ契約選手もムタイル以外は全員が退団した。

その変革の中で臨んだ天皇杯では、11月17日の3回戦でジェフユナイテッド市原を下し、初めて公式戦でJリーグクラブを倒してベスト16に進出した。4回戦は旧JFL閉幕後の12月23日に等々力で行われ、ガンバ大阪に1-3で敗れた富士通川崎サッカー部は歴史に一区切りを付けた。

なお、「富士通川崎サッカー部」なるクラブは、その後フロンターレに参加せず社業に専念する選手により別に作られ、現在神奈川県社会人サッカーリーグ3部リーグ(2013年)に所属している。

[匿名さん]

#4382020/02/26 01:54
■略歴

1955年 : 創部。
1967年 : 関東サッカーリーグ発足と同時に同リーグへ参加。
1972年 : 日本サッカーリーグ(JSL)2部へ昇格。
1977年 : JSL1部へ昇格。
1979年 : JSL2部へ降格。
1992年 : ジャパンフットボールリーグ(旧JFL)へ参加。
1996年 : 「富士通川崎フットボールクラブ」へ改称。
1997年 : 「川崎フロンターレ」へと組織を改編し、「富士通サッカー部」としては消滅。


1995年と1996年のJFLにおける1試合平均観客数は、1995年が1,129人、1996年が1,720人。出典は「週刊サッカーダイジェスト 2008年J1&J2選手名鑑」。


■獲得タイトル

日本サッカーリーグ2部
優勝 : 1回 (1976年)
関東サッカーリーグ
優勝 : 1回 (1968年)


■チーム記録

旧JFLでの最多得点試合
1995年 本田技研戦 ○6-1
旧JFLでの最多失点試合
1993年 フジタ戦 ×0-7


■その後

既述の通り、富士通サッカー部は1997年に「川崎フロンターレ」としてJリーグを目指す法人格のプロクラブへと組織を一新し、1999年にはJリーグに新設された2部(J2)に参加し、2000年には念願の1部(J1)昇格を果たした。この時は1年でJ2へ降格したが、2005年にJ1復帰を果たし、以後定着している。なお、富士通(川崎)サッカー部とフロンターレはスポンサー企業・本拠地・所属選手など多くの点で明確な連続性があるが、公式記録では通算して扱われず、フロンターレのクラブ自己紹介でも「クラブヒストリー」の中で「1992年 ジャパンフットボールリーグ加盟」と触れられるだけである。

[匿名さん]

#4392020/02/26 01:55
フロンターレのJリーグ参入ではJSL1部昇格時の主将だった小浜誠二が運営会社の常務として送り込まれてプロジェクトの中心となり、豊富な資金を与えられて積極的な補強策を展開したが、1998年のJ1参入決定予備戦敗退(「博多の森の悲劇」)を含め、その成果はなかなか挙がらなかった。2000年には前年途中に監督に就任しJ1昇格を実現させた松本育夫をクラブの社長とし、自らは副社長として補強の実権を握ったが、その権限を巡って松本との対立が表面化し、シーズン終了後にJ2降格の責任を問われる形で退社した。2001年、運営体制が一新されたクラブには1982年から3シーズン富士通の監督を務めた福家三男が強化本部長(GM)に据えられ、中長期的な戦力強化や運営会社名の変更などの改革が進められた。

[匿名さん]

#4402020/02/26 01:56
1996年の富士通川崎所属34選手のうち、1997年のフロンターレに登録されたのはムタイルを含む13名で、1999年のJリーグ初年度まで残ったのは伊藤彰・川元正英・久野智昭・小松崎保の4名だった。このうち、J1参入決定予備戦にも出場した川元などはアマチュア契約のまま「社員選手」としてプロ契約選手と一緒にプレーし、1999年限りでの引退後は富士通での社業に専念した。源平貴久も社員選手としてフロンターレに在籍し、1998年限りの引退後は富士通在職のまま母校専修大学のサッカー部でコーチを始め、現在は同部の監督となっている。また、久野は2000年にプロ契約へ切り替え、富士通川崎に在籍した最後のフロンターレ選手として2005年まで現役を続けた後、スカウトやコーチとしてクラブに残っている。一方、小松崎保や伊藤彰は社員選手としてフロンターレでプレーした後、チームからの戦力外通告を受けた際に富士通も退社して他チームでプロ選手となった[14]。 フロンターレへの移行時にムタイル以外のプロ契約選手は全員退団したが、そのうち巻田清一は水戸ホーリーホックの主将に任命され、同時に移籍した3名と共に水戸の創立時メンバーとなった。また、蓮見知弘は東京ガスに移籍し、巻田らと同様に旧JFLでフロンターレと対戦した。

[匿名さん]

#4412020/02/26 01:56
富士通川崎の監督だった城福浩は監督続投の希望が容れられずに富士通での社業専念となったが、プロの指導者としてサッカーに携わる希望が強く、1998年には富士通川崎と同様に同じく旧JFLの企業内部活動(東京ガスサッカー部)からJリーグクラブへの転換を目指す「FC東京設立準備室」に参加するために富士通を退社した。その後、2008年から2010年途中まではFC東京のトップチーム監督となり、フロンターレと対戦した。この他にも富士通からFC東京へ移動したスタッフがおり、この両チームのJリーグでの対戦を「多摩川クラシコ」として盛り上げる共同キャンペーンの素地となった。 一方、城福の下でヘッドコーチを務めていた安部一雄はフロンターレの運営委員となり、その後にU-18チーム監督に就任した。高畠勉も斉藤和夫新監督の下でフロンターレのコーチとなり、その後2008年と2010年には監督となった。富士通川崎でコーチ生活を始めていた岩渕弘幹もフロンターレのコーチへ残留し、現在はフロンターレで育成普及を担当をする傍ら、専修大学サッカー部コーチとして源平監督を補佐している。

沈祥福は中国に帰国した1996年から中国サッカー・スーパーリーグ所属で古巣の北京国安でコーチ・監督となり、その後は2002年W杯でW杯初出場を果たした中国代表のコーチや2004年アテネ五輪予選のU-23中国代表監督などを務めた。その後は北京国安の監督に復帰するなどの後、2010年には長春亜泰の監督としてAFCチャンピオンズリーグ(ACL)で鹿島アントラーズと対戦した。魏克興は北京国安のコーチとなり、2010年シーズンではACLでフロンターレと対戦した後、9月からシーズン終了まで同クラブの監督を務めた。

[匿名さん]

#4422020/02/26 02:37
この他、富士通サッカー部出身の著名なサッカー指導者としては大木武が挙げられる。大木は1984年から1990/91年まで富士通でプレーし、引退後は母校の東京農業大学サッカー部でコーチを務めた後、1993年に富士通を退社して清水エスパルスのユースチーム監督へ就任した。


■富士通サッカー部の選手


浅野裕史

伊藤彰 (サッカー選手)
今井敏明
岩渕弘幹

浮嶋敏

大木武
太田貴光
沖宗敏彦

川元正英

岸本浩右

久野智昭
カルロス・エンリケ・クペール・カルドーソ

源平貴久

高升 (サッカー選手)
小島光顕
小林慎二
小松崎保

境秋範

城福浩
申在範

高畠勉
武田信平

沈祥福

中村一義 (サッカー選手)

アンドレ・パウス
蓮見知弘

福家三男

保坂信之

巻田清一
牧野安正
松田岳夫

望月豊仁
ムタイル・モモドゥ

柳田伸明

呂洪祥

[匿名さん]

#4432020/03/01 00:02
東芝堀川町サッカー部は、かつて存在した日本のサッカークラブ。東芝のサッカー部として1935年に創部した。神奈川県川崎市幸区堀川町の東芝川崎事業所に本拠地を置いていた。日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)所属の北海道コンサドーレ札幌の前身となったクラブである。


■呼称
東芝
■クラブカラー
赤と黒
■創設年
1935年
■所属リーグ
日本サッカーリーグ他
■ホームタウン
神奈川県川崎市
■ホームスタジアム
等々力陸上競技場


■概要

1935年創部。1970年代後半以降、本格的な強化が始まった。1977年に全国社会人サッカー選手権大会優勝。翌1978年に日本サッカーリーグ(JSL)2部昇格、1979年には優勝を果たしJSL1部との入替戦に挑戦するが日産自動車サッカー部に敗れ昇格は果たす事は出来なかった。当時の選手には中村道明(永大産業サッカー部等に所属)がいた。

1980年に「東芝サッカー部」と改称。1981年に大西忠生を監督に迎え、同年にJSLカップ優勝、1982年度にはリーグ2位となり再び入替戦に挑戦するが本田技研に敗れ今回も1部昇格を果たす事は出来なかった。1987年に高橋武夫が監督に就任、1989年に念願の1部昇格を果たした。

1990年代初頭にはウルグアイ代表のウーゴ・デレオン、ペドロ・ペデルッチや実力派日本人選手の向島建、堀孝史らを擁し、昇格2年目の1990-91シーズンとJSL最後のシーズンとなった翌1991-92シーズンに2シーズン連続で4位に入る成績を収めた。

[匿名さん]

#4442020/03/01 00:03
しかし同サッカー部はJリーグ参加へ名乗りを挙げなかった為、1992年からは実質的な下部リーグであるジャパンフットボールリーグ(旧JFL)への参加となった。1993年度にホルヘ・ルイス・デリー・バルデスの活躍もあってJFLで3位となったものの、Jリーグでのプレーを希望する選手の流出もあってJFLでは中堅クラブの位置に留まっていた。

その後、1990年代半ばに北海道でのプロサッカークラブ誘致活動を受けると、これを承諾。1996年に新しく運営会社「株式会社北海道フットボールクラブ」が設立され、「コンサドーレ札幌」と改称された。ただし、コンサドーレ札幌には東芝の社員選手も何人か在籍することになった。

ユニフォームは当初は上下赤の物を着用していたが、当時チームに在籍していた石崎信弘の発案で、1990-91シーズンから石崎が好きなACミランにあやかり、赤と黒のストライプの物を着用する様になった。これはコンサドーレ札幌にも受け継がれている。

なお、東芝は現在、サッカー部のお膝元であった川崎市を本拠地とするJリーグ ディビジョン1・川崎フロンターレの協賛スポンサーとして、ピッチ看板を提供している。また東芝社員によるサッカーチームは、改めて結成された「東芝イーグルス(2016年にTOSHIBA EGS)」として、東京都社会人サッカーリーグ2部に在籍しており、公式サイトにも「TOSHIBA EGS since1935」のロゴや、「創部1935年」との説明が書かれてある。

[匿名さん]

#4452020/03/01 00:04
■略歴

1935年 東芝堀川町サッカー部創部
1977年 全国社会人サッカー選手権大会優勝
1978年 日本サッカーリーグ2部昇格
1979年 日本サッカーリーグ2部優勝
1980年 東芝サッカー部に改称
1981年 JSLカップ優勝
1988/89年 日本サッカーリーグ2部優勝(2回目)
1989/90年 日本サッカーリーグ1部昇格
1992年 第1回ジャパンフットボールリーグ1部参加
1995年 東芝サッカー部として最後のシーズン。1996年からは札幌市に移転しコンサドーレ札幌となる。


■歴代監督

清水曙 1976-1980、1986
大西忠生 1981-1985
高橋武夫 1987


■東芝堀川町サッカー部に所属した主な選手

石崎信弘
川勝良一
ウーゴ・デレオン
ペドロ・ペデルッチ
アレハンドロ・ルイディアス
向島建
パベル・ジェハーク
ホルヘ・ルイス・デリー・バルデス
鈴木将方
堀孝史
白井淳
川合孝治
村田達哉


■「Category:東芝サッカー部の選手」も参照


浅沼達也
エドゥアルド・アセベド

石崎信弘

落合弘

加藤正明 (サッカー選手)
唐井直
川合孝治
川勝良一

木島敦

櫛引実

白井淳
新明正広

鈴木政紀

高橋武夫
高本詞史

千葉泰伸

ホルヘ・ルイス・デリー・バルデス
ウーゴ・デレオン

中込正行

パベル・ジェハーク

ペドロ・ペデルッチ

保坂孝
保坂不二夫
堀孝史

向島建
村田達哉

山路嘉人

アレハンドロ・ルイディアス

[匿名さん]

#4462020/03/04 03:17
NEC山形サッカー部は、かつて存在した日本のサッカークラブ。山形日本電気(NEC山形)のサッカー部として1984年に創部し、1996年から1998年まではアマチュア組織のままでチーム名を「モンテディオ山形」と呼称した。日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するモンテディオ山形の前身となったクラブである。


■呼称
NEC山形(1984年 - 1995年)
モンテディオ山形(1996年 - 1998年)
■創設年
1984年
■ホームタウン
山形県
■ホームスタジアム
山形県総合運動公園陸上競技場他


■概要

1984年に山形日本電気の鶴岡工場内で創部された「山形日本電気サッカー同好会」からスタートし、1985年に山形工場内へ本拠地を移転した。

1987年、鶴岡地区リーグ在籍時に地元で1992年に開催の第47回国民体育大会(べにばな国体)のサッカー競技承引企業に指定され、地元の有力高校から強化指定選手を採用するなど本格的に強化。1989年に発足した山形県社会人サッカーリーグで優勝した。

1990年より東北社会人サッカーリーグに昇格。その年の東北リーグはリーグ2連覇中のTDKサッカー部(現:ブラウブリッツ秋田)などが所属していたが、12勝2分(無敗)、得失点差+36の成績で初出場初優勝を飾った。また、全国地域サッカーリーグ決勝大会(地決)に初めて参加し、東京ガスサッカー部(現:FC東京)などと同組のグループAに入ったが1勝1敗の成績でグループリーグ敗退。また、天皇杯全日本サッカー選手権大会の東北予選を突破して本戦へ初めて出場(1回戦で全日空サッカークラブに敗北)。

[匿名さん]

#4472020/03/04 03:18
1991年、東北リーグは14戦全勝の成績で2位の東北電力サッカー部(現:ベガルタ仙台)に勝ち点8差を付けて2年連続の優勝(2度目)。初出場となった全国社会人サッカー選手権大会(全社)は準々決勝でPJMフューチャーズに敗北するがベスト8の成績。地決はグループAを1勝1分の成績で突破したが、決勝ラウンドは2分1敗で4チーム中最下位に終わった。

1992年、東北リーグは11勝2分1敗の成績で2位の東北電力に勝ち点5差を付けて3年連続の優勝(3度目)。地決はグループAを2戦2勝で突破。決勝ラウンドはPJMなどと同組となったが1勝1分1敗で4チーム中3位の成績で上部リーグへの昇格は成らなかった。なお、べにばな国体は成年1部で6位に入賞した。

1993年、東北リーグは13勝1分(無敗)の成績で2位の東北電力に勝ち点3差を付けて4年連続の優勝(4度目)。全社は2回戦で藤枝市役所サッカー部に敗北。地決はグループAを1勝1分の成績で突破。決勝ラウンドは日本電装(現:FC刈谷)などが同組となり1勝1分1敗の成績で4チーム中2位に入りジャパンフットボールリーグ2部の下位チームとの入れ替え戦に出場。1回戦は西濃運輸サッカー部に敗れたが、敗者復活戦で日本電装に勝利して東北地方に本拠地を置くクラブとして初めてのJFL昇格を果たした。

1994年よりジャパンフットボールリーグ(JFL)へ昇格、この年の天皇杯で初めてJリーグ加盟クラブと対戦(1回戦:相手は名古屋グランパスエイト)。1995年より石崎信弘が監督に就任。

[匿名さん]

#4482020/03/04 03:19
1996年、将来のJリーグ昇格に向けて「NEC山形」からチームの名称変更を実施する事になった。県民などによる一般投票(投票総数1570票)の結果、「モンテディオ山形」、「オラクロス山形」、「ヴァーテクス山形」、「アルテリア山形」、「山形セレノール」という5つの名称候補の中から最多の490票を獲得した「モンテディオ山形」に決定し、アマチュアチームのままチーム名をモンテディオ山形へ変更。なおNEC系列のスポーツクラブでは、基本的に「○○ロケッツ」(○にはチームカラーの英語名が入る)を使っているが、モンテディオ山形は、かつてバレーボール女子リーグに加盟した「NEC関西レイクスターズ」と同様に「○○ロケッツ」を使用しなかった。

1999年からのJリーグ加盟に向け、1996年9月、山形県サッカー協会・モンテディオ山形後援会・NEC山形による「モンテディオ山形法人設立準備室」が設置され、法人化に向けた準備を開始する。しかし、行政・NEC山形以外の出資企業が現れない為にJ2参入条件の一つである法人設立が難航した。1997年4月、当時のチーム運営母体のNEC山形が、法人化が実現しなかった場合の当年限りのJFL撤退を表明(但しユニフォームのスポンサー協賛は継続)し、山形県内の企業に法人化に向けた支援を求めた。

[匿名さん]

#4492020/03/04 03:20
その後、同年5月には後に山形県副知事ならびに山形県スポーツ振興21世紀協会理事長となる山形県教育長の金森義弘が積極的な行政支援を表明するなど、法人設立に向けての活動が促進され、1997年9月29日、モンテディオ山形法人設立準備室は運営母体を社団法人としてクラブを運営するとし、1998年2月に社団法人山形県スポーツ振興21世紀協会が設立され、プロ化した。なお、1998年シーズンは一時期首位に立つも最終的には3位になった。その後、クラブは1999年よりJリーグへ加盟して、Jリーグ ディビジョン2(J2)へ参加した。


■スタジアム
山形市陸上競技場
山形県総合運動公園陸上競技場 (1994年および1996年以後の本拠地)
山形市陸上競技場 (1995年に山形県総合運動公園陸上競技場の改修期間に伴い、本拠地として使用)。
鶴岡市小真木原陸上競技場
山形県野球場 (1994年のみ。当時県内にナイターが可能な球技場がなかったため)


■タイトル・主な成績

◇リーグ戦
東北社会人サッカーリーグ
優勝(4回):1990, 1991, 1992, 1993
山形県社会人サッカーリーグ
優勝(1回):1989

◇その他
全国地域サッカーリーグ決勝大会
準優勝(1回):1993年(第17回)
3位(2回):1991年(第15回)、1992年(第16回)


■モンテディオ山形と異なる点

現在はかつてのNEC山形創設時から今日に至るまでの経緯により、「山形市・天童市・鶴岡市を中心とした山形県全域」をホームタウンと位置づけており、J2初期のころは山形県陸上競技場(現・NDソフトスタジアム山形)のほか、山形市陸上競技場、鶴岡市小真木原陸上競技場でも主催試合をしていた。

[匿名さん]

#4502020/03/04 03:21
その後、同年5月には後に山形県副知事ならびに山形県スポーツ振興21世紀協会理事長となる山形県教育長の金森義弘が積極的な行政支援を表明するなど、法人設立に向けての活動が促進され、1997年9月29日、モンテディオ山形法人設立準備室は運営母体を社団法人としてクラブを運営するとし、1998年2月に社団法人山形県スポーツ振興21世紀協会が設立され、プロ化した。なお、1998年シーズンは一時期首位に立つも最終的には3位になった。その後、クラブは1999年よりJリーグへ加盟して、Jリーグ ディビジョン2(J2)へ参加した。


■スタジアム
山形市陸上競技場
山形県総合運動公園陸上競技場 (1994年および1996年以後の本拠地)
山形市陸上競技場 (1995年に山形県総合運動公園陸上競技場の改修期間に伴い、本拠地として使用)。
鶴岡市小真木原陸上競技場
山形県野球場 (1994年のみ。当時県内にナイターが可能な球技場がなかったため)


■タイトル・主な成績

◇リーグ戦
東北社会人サッカーリーグ
優勝(4回):1990, 1991, 1992, 1993
山形県社会人サッカーリーグ
優勝(1回):1989

◇その他
全国地域サッカーリーグ決勝大会
準優勝(1回):1993年(第17回)
3位(2回):1991年(第15回)、1992年(第16回)


■モンテディオ山形と異なる点

現在はかつてのNEC山形創設時から今日に至るまでの経緯により、「山形市・天童市・鶴岡市を中心とした山形県全域」をホームタウンと位置づけており、J2初期のころは山形県陸上競技場(現・NDソフトスタジアム山形)のほか、山形市陸上競技場、鶴岡市小真木原陸上競技場でも主催試合をしていた。

また、昇格当時は山形県内にJリーグ・JFLの公式戦に必要なナイター設備を整えた球技場が存在しなかったため、1994年に限り山形県野球場を間借りして数試合を主管したことがあった。1995年に山形市陸上競技場、1996年に山形県陸上競技場にそれぞれ照明塔が完成しナイター開催も可能となった。

[匿名さん]

#4512020/03/08 03:41
全日空横浜サッカークラブは、かつて存在した日本のサッカークラブ。全日本空輸の子会社である全日空スポーツが運営をしていた。呼称は全日空。かつて日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟していた横浜フリューゲルスの前身となったクラブである。


■呼称
全日空
■クラブカラー
白と青
■創設年
1964年
■所属リーグ
日本サッカーリーグ他
■ホームタウン
神奈川県横浜市
■ホームスタジアム
国立霞ヶ丘陸上競技場
三ツ沢公園球技場


■概要

1964年に横浜市中区スポーツ少年団として創設、当初は小学生から社会人の各年代のチームを擁する市民クラブであった。

1975年に横浜サッカークラブに改称。1979年から全日空が資金援助を行い名称は当時の全日空の主力機であったロッキード L-1011 トライスターに肖った横浜トライスターサッカークラブへ変更された。1984年に日本サッカーリーグ(JSL)1部昇格を決めた事を契機に、全日空は完全出資の子会社「全日空スポーツ株式会社」を設立し、全日空横浜サッカークラブに改称、本格的な経営に乗り出した。

しかし1985年シーズンのJSL1部では最下位と低迷を続け、来期に向けた選手との契約問題のもつれからボイコット事件(後述)が発生し、選手や関係者が処分される事態に発展した。

[匿名さん]

#4522020/03/08 03:42
その後、名古屋相互銀行や永大産業で選手、指導者経験のある塩澤敏彦を監督に迎えると、1988年に1部復帰を果たし全日空サッカークラブに改称。前田治やフェルナンド・ダニエル・モネールらを擁して1988-89シーズンのJSL1部では2位、翌1989-90シーズンでは3位。天皇杯では1988年と1989年に2年連続でベスト4進出を果たした。

1991年に塩澤に代わって日産自動車の監督として実績のある加茂周が監督に就任。加茂は当時世界最先端の戦術であったゾーンプレスを導入するため、スロベニアからズデンコ・ベルデニックをコーチとして招聘し、戦術の浸透に務めた。

中区スポーツ少年団時代から使用していた戸塚グラウンドは、2006年シーズンまで横浜F・マリノスが、2007年から横浜FCがそれぞれ練習グラウンドとして使用している。


■略歴

1964年 横浜市中区スポーツ少年団として設立
1983年 JSL2部昇格
1984年 JSL1部昇格
1985年 JSL2部降格
1988年 JSL1部昇格


■タイトル

◇リーグ戦
関東サッカーリーグ1部:1回
1983年
◇カップ戦
全国地域リーグ決勝大会:1回
1983年

[匿名さん]

#4532020/03/08 03:43
■ボイコット事件

1986年3月22日、第21回日本サッカーリーグ第22節の対三菱重工戦(国立西が丘サッカー場)において、かねてから全日空によるクラブ運営に不満を抱いていた全日空クラブ所属の登録選手6名が試合をボイコットする事態が発生した。

全日空クラブは、この試合を残りの登録選手10名(うち先発メンバーは8名)で行い、1対6で三菱に敗れた。ルール上、1チーム7名以上の選手が出場していれば試合は成立するが、このリーグ史上初の不祥事に日本サッカー協会は、試合をボイコットした6選手に対して無期限登録停止、全日空クラブに対し翌シーズンのJSLカップを含む3か月間の公式戦出場停止の処分を下した。

なお、この時ボイコットした選手のうちの1人と、この年を最後に全日空横浜サッカークラブを退団した選手のうちの1人が、同年9月に「横浜スポーツクラブ(現:横浜スポーツ&カルチャークラブ(Y.S.C.C.横浜))」を設立した。

※ 詳細は「全日空横浜サッカークラブ・ボイコット事件」を参照

[匿名さん]

#4542020/03/08 03:44
■歴代監督

西海輝(1970年 - 1971年)
森豊(1972年 - 1974年)
田中豊(1975年)
森本孝光(1976年)
久保英夫(1977年 - 1983年)
栗本直(1984年 - 1985年)
塩澤敏彦(1986年 - 1991年)
加茂周(1991年 - 1992年)


■全日空に在籍した主な選手

李国秀
上野展裕
水島武蔵
反町康治
山口素弘
田口禎則
前田治
ピッコリ
モネール


■参考文献
加茂周 『モダンサッカーへの挑戦』講談社、1994年 ISBN 978-4062071147

[匿名さん]

#4552020/03/11 11:45
住友金属工業蹴球団は、かつて存在した日本のサッカークラブ。住友金属工業(現・日本製鉄)のサッカー部として1947年に創部され、始めは大阪府、1975年からは茨城県鹿島郡鹿島町(現在の鹿嶋市)を拠点として活動していた。略称は住金。日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟する鹿島アントラーズの前身となったクラブである。


■呼称
住友金属、住金
■クラブカラー

■創設年
1947年
■ホームタウン
茨城県鹿島郡鹿島町
■ホームスタジアム
住友金属鹿島製鉄所
総合グラウンド陸上競技場
収容人数
5.000人


■概要

◇歴史
1947年に同好会(住友金属工業蹴球同好会)として創設。1956年に正式にサッカー部となり、会社から援助が受けられる「団」へ昇格した。

1969年に関西サッカーリーグに昇格したが、優勝した京都紫光クラブ(現:京都サンガF.C.)に2戦合計で0-9で敗れる等で最下位に沈み、1年で降格した。

1973年に関西リーグに復帰して優勝。全国社会人サッカー選手権大会で優勝。羽衣クラブとの入れ替え戦に勝利。

1974年から日本サッカーリーグ (JSL) 2部へ昇格した。

[匿名さん]

#4562020/03/11 11:47
1975年に大阪本社から稼動したばかりの鹿島製鉄所がある茨城県鹿島町(現在の鹿嶋市)に移転した。これ以降に本格的な強化が始まり、1985年にJSL1部に昇格した。

JSL1部には1985年、1987-88年、1988-89年の3シーズンを過ごしたが、Jリーグ入りが承認された1991年当時はJSL2部に所属していた。

日本リーグ時代の主要な試合会場は住友金属鹿島製鉄所総合グラウンド陸上競技場(ナイター設備あり 5000人収容)で行われた。現在の鹿島アントラーズクラブハウスグラウンドが出来る前はアントラーズ・トップチームの練習会場、Jサテライトリーグの試合会場でもあった。


■鹿島アントラーズ設立の経緯

住友金属の事業所の中で鹿島製鉄所は中核を成していたが、街と周辺地域は魅力に乏しく、社内でも鹿島への勤務や転勤は敬遠されがちであった。一般的に人気の無い勤務先は活気に欠け、それが業務効率低下にも繋がる恐れがあり、街の活性化は会社としても最重要課題であった。そこで住友金属本社は1990年5月に「2000年ビジョン」を発表した。その中には「地域社会に貢献する住友金属」という趣旨の項目が含まれていた。

こうした思惑は、1980年代後半の日本サッカー界のプロ化への動きと合致し、1989年にプロサッカーリーグ設立が具体化し「プロリーグ検討委員会」からプロリーグ参加への聞き取り調査が行われた際には、名乗りを上げることになった。しかし、参加候補を選考する過程において、住友金属の前述の成績や、都市としての規模の小ささから集客能力に問題があるとして関係者からは住友金属のプロリーグ入りに批判的な意見が大半を占めた。

[匿名さん]

#4572020/03/11 11:47
1991年に元ブラジル代表のジーコを獲得。また地元自治体の支援を受け国内初となる全席オールシートのサッカー専用スタジアム(茨城県立カシマサッカースタジアム)の建設を発表するとこれが決定的な要因となり、初年度からのJリーグ参加が決定した。

1991年10月に地元の5自治体と43企業の出資からなる株式会社株式会社鹿島アントラーズ・エフ・シーを設立。1992年3月のJSL閉幕をもって、蹴球団としての活動を終えた。

※ 詳細は「鹿島アントラーズ#歴史」を参照


■略歴

1947年 : 住友金属工業蹴球同好会として創部。
1956年 : 住友金属工業蹴球団に名称を変更。
1973年 : 関西サッカーリーグ優勝。全国社会人サッカー選手権大会優勝。
1974年 : 日本サッカーリーグ (JSL) 2部昇格。
1975年 : 本拠地を大阪から茨城県鹿島町に移す。
1984年 : JSL2部優勝、JSL1部へ昇格。
1986年 : JSL2部降格。
1987年 : JSL1部昇格。第12回JSLカップ準優勝。
1989年 : JSL2部降格。
1991年 : Jリーグ加盟が承認。株式会社鹿島アントラーズ・エフ・シーを設立
1992年 : 蹴球団としての活動を終える。


■タイトル

◇リーグ戦
関西サッカーリーグ1部:1回
1973年
JSL2部:2回
1984年、1986年
カップ戦 編集
全国社会人サッカー選手権大会:1回
1973年


■歴代監督

種田孝一 1947年-1956年
松田太郎 1957年-1960年
皆木忠夫 1961年-1964年
木村俊郎 1965年-1973年
山本栄治 1974年-1978年
中村潤吉 1979年-1984年
野見山篤 1985年-1988年
鈴木満 1989年-1992年

[匿名さん]

#4582020/03/11 11:49
■住友金属工業蹴球団に在籍した主な選手

ジーコ
手倉森浩
手倉森誠
副島博志
藤代伸世
江本城幸
大野俊三
賀谷英司
石井正忠
真中靖夫


■「Category:住友金属工業蹴球団の選手」


石井正忠

江本城幸

大野俊三 (サッカー選手)
大場健史
岡本賢二
奥友敏朗

垣田健
賀谷英司
川地貴裕

佐藤洋平
里内猛

ジーコ
城祐万

鈴木満 (サッカー選手)

副島博志

手倉森浩
手倉森誠

根岸誠一

野見山篤

平野雅義

福井勲
藤代伸世
藤本義一 (サッカー選手)

眞中靖夫

[匿名さん]

#4592020/03/11 11:50
■関係する人物

鈴木昌 - 住友金属工業蹴球団、団長。株式会社株式会社鹿島アントラーズ・エフ・シー元代表取締役社長。


■参考文献

茨城県サッカー協会50年史編集委員会『茨城サッカー五十年のあゆみ』茨城県サッカー協会、1997年2月。NCID BA34610527。

鹿島アントラーズFC『鹿島アントラーズ栄光の10年 : Football dream 1992-2001』ベースボール・マガジン社、2001年10月。ISBN 4-583-03667-1。

[匿名さん]

#4602020/03/15 00:06
【あの日、その時、この場所で】川淵三郎/前編 Jリーグは2DKの一室から始まった

2019年10月17日 17時30分 【サッカーダイジェストWeb】


ゴールは果てしない。しかし日本代表が7大会連続出場を狙うW杯2022年カタール大会のアジア2次予選はもうスタートした。「ドーハの悲劇」(93年アジア最終予選イラク戦)にピッチで打ちのめされたMF、森保一(51歳)が、四半世紀を経て、日本代表を率いて同じカタール・ドーハにたどりつこうとしているのも不思議な巡り合わせだ。

 Jリーグの開幕は1993年5月だが、プロリーグを発足させるため「プロリーグ準備検討委員会」が初めて設置されてから、実は今年でちょうど30年となる。

 準備室長からJリーグ初代チェアマン、チェアマンから日本サッカー協会会長と、日本サッカーを昭和、平成とけん引してきた川淵三郎キャプテン(82歳)が令和を迎え、歴史の原点となった場所を再訪し、改めてそれを留める「あの日、その時、この場所で」。

 川淵が「最初の事務所」と形容した九段コーポラスからスタートする。



「そこがJリーグの、本当に最初の場所」と記憶に刻む「九段コーポラス」跡地に立ち、外堀通りに近い坂下から靖国通りに続くなだらかな坂を確認するように川淵は少し沈黙し、クスリと笑った。

「それにしても、全く懐かしくないなぁ」

 同マンションは08年、すでに11階建ての「住友不動九段北ビル」になっており、当時の面影と呼べるようなものは周囲にも何ひとつ残っていないのだから無理もない。

[匿名さん]

#4612020/03/15 00:06
 1989年6月、日本サッカー協会はプロ化を目指して「プロリーグ準備検討委員会」を設置。13回もの同検討委員会を経て、91年2月には「オリジナル10」と呼ばれるリーグ最初の10クラブが決定し、3月「プロリーグ設立準備室」が立ちあがった。

 その時、Jリーグのプロモーションを担う博報堂の紹介で「初めて構えた、本当に最初の事務所らしきもの」(川淵)が、九段コーポラスの一室だった。

 事務局メンバーは、準備室室長の川淵、日産自動車から準備室事務局長として加わった佐々木一樹(後にJリーグ事務局長)、当時博報堂に勤務していた加賀山公、豊野輪華子のわずか4人。プロ誕生に向けて本格的に華々しいスタートを切った、わけではなく、部屋の間取りは2DK、折り畳み式のベッドを引き出しに収納してから仕事を始めるようなひっそりとした船出だった。

 Jリーグが広報誌として発行し続ける「Jリーグニュース」記念すべき第一号でも、最初の事務所と記載されているのは九段下の後に移転した、神田の雑居ビルであるから、2DKのマンションが「初代事務所」だった時代を知る人物も、少なくなってしまったのだろう。

「あれから一度もここには来ていないだろうから、懐かしいような、懐かしくないような不思議な気分になるね。マンションは当時でさえとても古い公団住宅のような作りで、相当年季が入った感じだった。それでもあの頃はサッカーのために事務所を借りるなんて、そういう感覚もお金も全くなかったわけだから、博報堂の厚意でここを紹介してもらったのは有難かった。僕がJリーグの本当に最初の場所、と今でもここを記憶している理由は、自分たちで初めてサッカーの事務所と呼べる場所を構えた、そういう気持ちが強く残っているからだろう」

[匿名さん]

#4622020/03/15 00:08
 4人の事務局員に担当はなかった。オールラウンダーといえば聞こえはいいが、実際には役割分担をする余裕もなかったからだ。

「あまりの忙しさに、担当も何もあったもんじゃなかったんです。今も鳴りっぱなしだった電話を思い出すくらいですから。本当に大変だった」

 加賀山はそう振り返って笑う。

 プロリーグへの問合せや確認の電話は朝からずっと切れる間がなく、電話の嵐がやっと収まるのは夜遅くなってから。しかし、小さな秘密基地のような場所で、Jリーグの理念の根幹を成す重要な言葉や理念が検討された。

 川淵は、スピーチを頼まれれば個人ならばその人物像を、企業、団体ならば背景やエピソード、さらに場を盛り上げるためには時流を捉えた話題を必ず交えて自ら原稿を書く。これだけ長く、多くのスピーチを行なってきたが、「スピーチライター」は一切頼まず常に自分で原稿を書き上げている。それは、「自分の言葉」で発信する力、魅力をもっとも重要だと考えているからだ。だからこそ、これまでにないプロサッカーリーグを、新鮮でオリジナリティのある存在として表現するために「言葉にこだわって考えよう」と、よく佐々木、加賀山たちに話していたという。

[匿名さん]

#4632020/03/15 00:09
 日本では使われていなかった「チェアマン」(理事長)の名称はよく知られる。他にもプロ野球で使われていた「フランチャイズ」。興行権の意味合いが強く、サッカーで使うには違和感がある。様々な表現を考え、一度は「本拠地」としたが、どこか馴染めず新しさもない。事務局、関係者が議論した結果、最後は「ホームタウン」となった。ホームタウンにはまさに新しい響きが備わり、その後、スポーツが企業を離れ、地域がスポーツを盛り上げるといった日本社会の構造的な転換にも影響力を発揮した。91年11月に発表されたリーグ名も、新しいものだった。

「この場所は、本格的に準備に取り掛かろうとした、言ってみれば勝負が始まった場所だったと思う。段取りの時代といってもいいのかもしれない。何もかもか手探りだったけれど、とにかく色々な場所に出掛けて説明して、対話をして、理解を得る、それを繰り返す毎日だった。社団の名前を決める際も、(当時)文部省からプロ野球は、機構、と漢字を使っており、プロサッカーリーグ、とカタカナで表記するのは社団の名前では前例がないと説明された。それまで企業の福利厚生費や広告宣伝費でまかなわれていたサッカークラブの運営費も、プロになって、企業の出費としてどう課税されるのかも調べる必要があった。国税庁を訪ねて話を聞いたり、資料を読んだり……本当に段取りのためにあちこち走り回ったね。ただバブル期の頂点だったので、経済面では強気で考えられたし、クラブを持つ企業は、僕らが官公庁で何か交渉する際は必ず、役員クラスの助言や紹介の根回しをして下さったんで、皆さんに理解して頂くのは案外早い印象だった」

[匿名さん]

#4642020/03/15 00:10
 当時54歳、古河電工から古河産業に出向しており、仕事を抱えながら週4回は事務所に足を運んだ。古河産業の日本橋オフィスから事務所に行き、時には、事務所がひと段落するともう一度会社に戻って業務をこなし千葉へ帰宅する日もあった。

 一口坂(ひとくちざか)の傾斜はとても緩やかで、外堀通りから事務所を目指して坂を上っていく時間はほんの少しだけ歩みを遅らせ、プロリーグは一体どんなものになるのだろうか、と考え事をするのに適していたのかもしれない。

 取材の終わりに、もう一度、坂道を振り返って見つめた。

「坂道だけは覚えている。あの頃、日本サッカーの未来を考え意気揚々と、なんていう明るい気持ちじゃなくて、かといって不安だけでもなかった。何か確信を持って段取りしていたわけではなかったから、本当に手さぐりで、手さぐりで……坂道を、沈思黙考(黙って深く考える様子)で上がっていた。そんなところだろうか」

 沈思黙考の坂道を数か月で離れ、1991年11月、文部省が当初賛成しなかったカタカナで「日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)」が設立される。川淵は30年勤務した古河電工を退社し、「初代チェアマン」に就任した。Jリーグ開幕まで1年半となっていた。


取材・文:増島みどり(スポーツライター)

[匿名さん]

#465
この投稿は削除されました

#4662020/03/18 03:06
1991年にJリーグへ加盟。ホームタウンは静岡県静岡市(合併前は清水市)。ホームスタジアムはIAIスタジアム日本平、練習場はエスパルス三保グラウンド。チーム名の「エス(S)」は「サッカー、清水、静岡」の頭文字で、「パルス(PULSE)」は英語で心臓の鼓動を意味する。1993年のJリーグ開幕を戦った10クラブ(オリジナル10)の一つで、10クラブの中では唯一母体となるクラブが実業団ではなく、かつ日本サッカーリーグ (JSL) に加盟していないクラブである。発足時の運営会社は株式会社エスラップ・コミュニケーションズ、1998年2月1日以降は株式会社エスパルス。

クラブマスコットは、パルちゃん(名前の由来はエスパルスとサポーターを結ぶ「友達(パル)」より。耳の羽は現代版羽衣を表す)、パルちゃんの恋人で2012年7月に誕生したピカルちゃん(名前の由来は勝ち星およびタイトル獲得を示す星より)、パルちゃんの妹的な存在に当たるこパルちゃんである。パルちゃんは「サッカーに要求される速さ、強さ、賢さをもち、かつ現代的で品格がある可愛く元気のよいキャラクター」と位置づけられ、Jリーグのマスコットの中で屈指のパフォーマーとエスパルス公式サイトでは紹介されている。

[匿名さん]

#4672020/03/18 03:07
■クラブ発足の経緯

1956年、清水市立江尻小学校に新人教師として赴任した堀田哲爾によって児童へのサッカー指導が始まり、1967年には清水市で全国初の小学生リーグが結成、国内初となる指導者育成の学校「コーチング・スクール」が誕生、サッカー育成の制度が確立されていた。選抜チームのオール清水(清水FC)はJFA全日本U-12サッカー選手権大会にて優勝8回を数え、高校選手権では市内の学校(清水東高・清水商・東海大一)が1980年から1988年の間に7度決勝進出(うち優勝4回)を重ね、多数のサッカー選手を輩出している地域であった。

また、1991年には静岡県で行われた高校総体サッカー競技のメイン会場として、日本平運動公園球技場が完成。開場当時日本では1万人収容の専用スタジアムは例がなく、プロリーグでの使用にも十分に耐えられるものと考えられた。

Jリーグ発足に際し、プロリーグへの参加条件に従来の企業スポーツからの脱却を図り、地域に根ざした欧州のクラブ組織を理想とした「フランチャイズ制の確立」が掲げられるなか、Jリーグの理念を体現し、「プロサッカーチームを大きく育てるホームタウンがあるとしたら、清水以上の候補地はない」と評価され、清水に本拠地を置く静岡県社会人サッカーリーグ所属の「清水FC」が初年度の参加チームとして選抜された。

[匿名さん]

#4682020/03/18 03:08
■1991年〜1992年(静岡県リーグ)

◇1991年
5月、清水FCの運営企業として、テレビ静岡をはじめとして中日新聞東海本社、フジテレビジョンなどが出資、市民からも1割の持株を募り、株式会社エスラップ・コミュニケーションズを設立。チーム名を清水FCエスパルスと定め、企業チームとの差別化を図った。初代監督にはエスピノーザが就任。クラブ創設に伴い、堀池巧、大榎克己、長谷川健太の“清水東三羽烏”をはじめ、初代主将となる三浦泰年や澤登正朗など地元出身の選手が加入した。

◇1992年
6月、エスピノーザに代わりエメルソン・レオンが監督に就任。7月4日には長居陸上競技場にてガンバ大阪とのプレシーズンマッチが開催された。クラブでは初試合となったこの日を「エスパルスの誕生日」としている。1992Jリーグヤマザキナビスコカップでは準優勝を果たしている。

◇1993年(Jリーグ)
5月15日、Jリーグ開幕。翌16日の三ツ沢球技場で開催された横浜フリューゲルスとの試合が開幕戦となった。1stステージは10チーム中4位と健闘。2ndステージ第2節からGKシジマールが加入すると、第3節から6戦連続無失点で6連勝を果たし、一時は首位に立つなど快進撃を見せた。2ndステージは14勝4敗で2位となり、1993Jリーグヤマザキナビスコカップの準優勝、天皇杯のベスト4進出と好成績を収めた。

[匿名さん]

#4692020/03/18 03:10
■エスパルス栄誉賞

クラブ在籍中の活躍や貢献が著しかった選手・監督・スタッフに対し「エスパルス栄誉賞」を授与、その功績を称える。 原則として移籍・引退・退任等でクラブから離れる際に表彰する。

1999年 スティーブ・ペリマン、長谷川健太、堀池巧
2000年 カルロス・サントス
2002年 大榎克己
2005年 真田雅則
2006年 澤登正朗
2010年 伊東輝悦、市川大祐
2014年 齊藤俊秀


■引退試合

Jリーグ引退試合
S-PULSE ALL STARS vs JAPAN ALL STARS
2007年1月21日 『鈴与グループPRESENTS 澤登正朗引退試合』
2018年1月8日 『鈴与グループPRESENTS 市川大祐引退試合〜THANK YOU FOR FOOTBALL〜』


■スタジアム・練習場

◇ホームスタジアム
ホームスタジアムはIAIスタジアム日本平(正式名称:静岡市清水日本平運動公園球技場)。1994年に客席増設工事を実施した期間を除き、ほぼ全ての試合を開催している。2001年に開場された静岡県小笠山総合運動公園スタジアム(エコパスタジアム)でも一部の試合を開催している。

◇練習場
練習場はエスパルス三保グラウンド、三保移転前は蛇塚グラウンドを使用。過去には静岡市清水総合運動場も使用していた。

[匿名さん]

#4702020/03/18 03:11
◇新スタジアム構想
IAIスタジアム日本平は2013年から発効している「Jリーグクラブライセンス制度」の「スタジアムに関する規定」を満たしていない。

スタジアム規定では「A等級基準」である収容人員15000人以上(J1基準)は満たしているものの、「観客席の屋根を競技場の1/3以上覆うこと」や「トイレ(洋便座)を1000人当たり5台以上設置する」ことを求めている。現在の日本平にはメインスタンドの中央部の一部とバックスタンド(東側一部除く)しか屋根が敷設されておらず、基準を満たしていないことが問題になっている。

エスパルスは静岡市に対してライセンス規格に沿った新スタジアムの建設を2014年7月、同市長の田辺信宏に対し要望書を提出した。田辺のこのスタジアム計画については2015年度からの静岡市第3次総合計画の審議に組み入れられ、2014年11月までに具体化することを目指している。

有力な候補地として、葵区にあるJR東海東静岡駅北の約2.5haの市所有地が挙げられている。当初この箇所は1990年に「東静岡地区新都市拠点整備事業構想」で、体育館の建設が予定されていた他、新市庁舎の建設計画も予定されていた。しかしいずれも計画がとん挫しており、現状も空き地になっている。そこで静岡市は2013年にこの市有地の活用を市民や専門家から意見を聞くための都市デザイン案のコンペティションを実施し、その意見には、スポーツ施設や文化施設(総合博物館)などの誘致を期待する声が寄せられていた。

[匿名さん]


『デッツォーラ島根④』 へのレス投稿
レス本文 必須 750文字まで:残り750文字

スタンプ

NEW!
任意入力フォーム

お名前 任意 16文字まで
E-mail 任意

※削除パス機能は廃止しました。
会員は、投稿から24時間以内であれば削除パスなしで
削除できます。
詳しくは「削除パス廃止のお知らせ 」をご覧ください。
今すぐ会員になる

📘 ローカルルール
📌スレッドは立てる前に、重複していないか確認してから立てて下さい。重複スレッドは削除対象となります。
📌スレッドタイトルは、タイトルを読んで中身がわかるように心がけて下さい。
📌国外についての話題はサッカー国外に書き込みして下さい。
📌個人についての話題はサッカー個人に書き込みして下さい。
📌女子についての話題は女子サッカーに書き込みして下さい。
📌静岡についての話題は静岡サッカー総合に書き込みして下さい。
📌その他のサッカーについての話題はサッカー総合に書き込みして下さい。
📌誹謗中傷にあたる書き込みは利用規約違反になりますのでお止め下さい。
📌重複スレッドを発見した場合は、スレッド下部にある「重複スレの報告」フォームよりご連絡下さい。
投稿前の注意
  • 掲示板あらし行為URLの記載は 一回で書込み禁止措置と致します。





🌐このスレッドのURL





📑関連掲示板