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NO.570872

【風雲昇り龍】天龍源一郎【Revolution】
#4002010/01/19 22:18
この一戦で天龍のアメリカ行きは白紙になった。
相撲を辞めるとき、非難中傷を浴び、どことなく世間に対して八方美人になっていたが、あのインタータッグ戦以来、本音で生きる。というのをずっと押し通してきている。
あの一戦以来、会社、マスコミ、ファンの目が自分に向き始めたのを肌で感じていた。

[匿名さん]

#4012010/01/19 22:25
しばらくすると、上田馬之助が新日本から移籍してきた。
上田の「全日本はぬるま湯体質だ」という挑発にカチンときていた。
本音はたとえ角界の大先輩であろうが
「しょっぱい序二段か三段目しかいってない奴が何言ってんだ!この野郎!ふんどし担ぎが!」と試合では本気でナマでぶち込んでいる。
ここでまた天龍は更に
「思ったことを出せばいいじゃないか!」というのに拍車がかかり、結局そっちのほうが得意になってしまった。
「技術?そういうのはジャンボに任せるよ」といった具合だった。

[匿名さん]

#4022010/01/19 22:30
今週の週プロの天龍関のインタビュー〔元おっかけ〕さんに読んで貰いたいです。小佐野さん時代のゴングよりは劣りますが、天龍関の生き様や根性を垣間見れますこのスレにはかなわないけど。

腰を折ってばかりですいません天龍源一郎の生き様、どんどん読みたいです

[リッキー台風]

#4032010/01/19 22:32
そして会社から世界最高峰NWA世界王者リックフレアーへの挑戦に抜擢という話も出てきた。
だが、ここで外部から待ったがかかった。
この年の8月に崩壊した国際プロレスの阿修羅・原である。
「団体が違っただけで、何でこんなに差をつけられなきゃいけないんだ!天龍!俺と勝負しろ!」

阿修羅の悲痛な叫びは痛いほどわかった。
天龍自身、プロレスに入って以来、この阿修羅・原と長州力には常に注目していた。

[匿名さん]

#4042010/01/19 22:40
阿修羅はラグビーの世界選抜選手に選ばれたという名声を引っさげてプロレスに入り、天龍と同じくギャップに悩みながら生きてきた男だ。
同病相憐れむではないが、何か親近感を感じていた。
他の社会である程度まで行った人がプロレスの社会に入ってくるというのは、前にいた社会に、何か不本意なところがあるからで、天龍も阿修羅もそうだった。

そして10月2日、後楽園ホールで天龍は阿修羅の挑戦を受けて立った。

[匿名さん]

#4052010/01/19 22:52
阿修羅は真っ向からぶつかってくる、当時の全日本にはいないキャラクターだった。
こういう相手は天龍も望むところであり、やってて妙に心地良く、両者共にガンガンぶつかり合った。
龍原初対決の結果は両者リングアウト。だが気分は爽快だった。
そしてこの試合が認められ、阿修羅・原は全日本プロレスに入ることになった。

いつしかリングを離れて二人はよく話をするようになった。「もうちょっとジャンボが奮起してくれないとな」
阿修羅はこの頃「ヒットマン」と言われていたが、心の根は純粋なスポーツマンで、気持ち良い試合をしたがっていた。
それは天龍も同じだから
「ジャンボは手を抜いているな」「いや、舐めている」とか悪口大会に…。
しかし、これが後に日本マット界にその名を残す、天龍同盟の発端になったのは間違いない。
天龍と阿修羅が二人で突っ走ることになる。それはこの出会いから6年後のことである。

[匿名さん]

#4062010/01/19 23:12
>>402
情報ありがとうございます。
もう何年もプロレス雑誌は読んだことありませんでしたけど、天龍さんのインタビューが載ってるなら、明日にでも買いに行ってきます。

リッキーさん。アメプロスレの構想は練れましたか?
HBKがてぐすねをひいて待っていると思います(笑)

しかし、気がつけば、いつしか天龍さんのヒストリースレになってきてしまいました。
書き終える度に次の内容はどういう展開にしようかと古い本を引っ張り出して思案しています。

天龍源一郎の魅力を一人でも多くの方に知っていただき、今まで知らなかった人も知っている人も含め、天龍さんを一緒に応援してもらえたらファンとして、これ以上ない喜びです。

良い文章が書けるよう、一生懸命頑張ります。

皆さん、今後もよろしくです。m(_ _)m


[元おっかけ]

[匿名さん]

#4072010/01/19 23:26
天龍源一郎最高ですよ俺は引退を口にしながらも恥ずかしながらカテゴリー復帰に動いたのは〔元おっかけ〕さんがノア派VS反ノア派、プロレス否定派のレス乱れ打ちの中で、天龍のように自分を見失ったりせず、逃げなかった所に感動したからですアメリカ版は、プロレス博士の始めたい時で良いですよハート・ブレイク・キッドさんの意見も盛り込みつつ。とにかく、天龍源一郎の生き様(このスレ)のロングランを希望します

生活の中の楽しみのひとつです

[リッキー台風]

#4082010/01/21 19:02
>>405続き
この昭和56〜57年は公私共に充実していた。
日本テレビで天龍のテーマソングを公募し、高中正義の「サンダーストーム」に決まり、改めて全日本第3の男として売り出す事になった。
各レスラーのテーマソングについて決めていた当時の日テレのプロデューサーは本当にセンスが良かったと思います。
さて、プライベートでは奥様のまき代夫人との出会いがあった。
天龍の友人が奥さんの従兄弟を知っていたのがそもそもの始まりで、その従兄弟は歌手をやっていて東京の店によくキャンペーンに来ていた。
そこに手伝いがてらに付いて来ていたのがまき代夫人であった。

[匿名さん]

#4092010/01/21 19:10
気になる天龍が友人にあれこれ聞くと評判は悪くない。
大阪での試合のとき、京都で誘ったのが初デートだったようだ。
どんな話をしたのかは天龍自身は、よく覚えていないと言うが、まき代夫人に聞くと
「あの時は28歳だって言ってたわよ」と、嘘をついていた事をしっかり覚えられている(笑)
この頃の天龍はアメリカ修行から帰ってきたばかりで、日本のヒット曲をよく知らなかった。
へぇー、こんなに歌に興味ない人っているのかしら。拳銃でも売っている危ない人かしら?というのが天龍への印象だったようだ。

[匿名さん]

#4102010/01/21 19:20
その後、天龍がちゃんこ屋を持った時、オープニングの日に呼んだ。
しかし回りには当然、全日本のゴツいレスラーもお祝いに来ている。
まだ若手だったターザン後藤は、言われるまま、寿司の出前用の器に日本酒を波々注がれ一気飲み。
したまではいいが、その後、寿司の器に全部吐いて大騒ぎ。
色気も何もあったものではなかった。
しばらく経って、天龍が動いた。
「俺は結婚してもいいと思っている。結婚を前提に付き合おうか。それで差し障りないか?」

「ハイ、ありません」

「じゃあ、今日から、ちゃんとそういう事で付き合おう」
と、いかにも天龍らしい言い回しで交際がスタートした。

[匿名さん]

#4112010/01/21 19:31
しかし相手は京都、天龍は東京、遠距離恋愛で電話ぐらいしかできなかった。
でも、自分の身を引き締めて、これは、ちゃんと自分の女房になる女性だから、俺のありのままを見てもらわなきゃ困るなという気持ちが生まれた。
そして半年後、東京プリンスホテルで、めでたくゴールインした。
結婚式場で「どういう家庭を持ちたいですか?」との質問に
「ジャイアント馬場のようなリッチな生活をしたいです」
と答えていた。だが、これは表向きのリップサービス的な部分も含まれており、本音は
「どんな状況になったとしても、俺は家族が誇りを持てるような男であり、夫であり、父親でありたいと思っている」
である。

[匿名さん]

#4122010/01/21 19:40
「天龍源一郎が、ここでいい加減な事をしたり、ここで一生懸命やらないと誰かに見放されるって思うときに家族を思い出すし、誰かが守ってくれていると思うときも家族の事を思い出す」
長く経った今でも天龍の思いは何一つ変わっていない。
「俺の涙を見せられる奴がいる。男が涙を流す時に見守ってくれる奴がいるというのは、男にとって心強いものであり、不可欠なのだと思う」
こう付け加えている。
結婚から1年後、待望の愛娘が生まれた。
天龍が実に優しい表情をする時がある。それは娘さんと話をする時だ。
もちろんプロレスファンで、父親、天龍源一郎の大ファンである。

[匿名さん]

#4132010/01/21 19:47
小学校の頃は
「うちのお父さんは天龍っていうプロレスラーなんだよ」
と友達に自慢していた。
また、天龍が全日本に辞表を出したとお母さんから聞いたときは「なんで…」と泣いたという。
そして小学校で自分の家庭環境をみんなの前で説明したときに
「うちのお父さんは、なんでか知らないけど、馬場さんとケンカして辞めちゃいました。だからなんにもしていません」
と言って笑われたという微笑ましいエピソードがある。
それにしても、堂々と父親の退社を発表するとは…

さすが天龍の娘だ…。

[匿名さん]

#4142010/01/21 19:54
だが、学校で男の子たちから苛められたり、冷やかされたりしたこともあった。
「血ノリだろ?」とか「本当は痛くないんだろ?」とか…
それに対し「うちのお父さんは違う」と断固反論していた。
足を引きずっている父、しょっちゅう病院に行っている父、氷枕で頭を冷やしている父、医者に来てもらい針を打ってもらっている父を見てきているから、自分のお父さんがいい加減に生きていない事がはっきりと伝わっていたのだ。
夫人と娘さんも天龍を支えるとてつもなく大きな存在であるのは今までも、これからも変わる事はない。

[匿名さん]

#4152010/01/21 20:08
余談ですが、天龍ファミリーの貴重なスリーショットは、風間ルミ選手のブログ(このサイトのルール上、URLは載せられません)で見られます。
実に優しい表情の天龍さんが見られます。
そして娘さんの可愛いこと!
噂には聞いていましたけど、これにはびっくりしました。
集合写真には週刊ゴング元編集長、小佐野夫妻や元全女の方々が…

コメント欄を読んでいると昨年いっぱいで、天龍さんのお店「鮨処しま田」を閉めるので、それでみんな集まったようです…

今まで天龍の家族についてはプロレス入り20周年の記念パーティの時に一度だけ奥様とのツーショットをゴングで見た事がありましたけど、娘さんはNGだったようですね。

今回、風間さんがお願いしてブログに載せる事もOKもらったようです。
風間さん、GJ!です。

[匿名さん]

#4162010/01/22 17:04
>>414続き
公私共に充実した天龍は、いつしか全日本第3の男と呼ばれるようになっていた。
第3の男といえば聞こえはいいが、要するに一応名前があって、上の方でボコボコやられてハードに使われていた。やられ役に近いものだった。
また一部マスコミやファンから
「猪木のコピーじゃねぇか」
と言われていたのもこの時期である。
連日、タイガージェットシン、スタンハンセン、ブルーザーブロディ等の超一流レスラーに揉まれていた。

[匿名さん]

#4172010/01/22 17:16
ハンセンの場合は「てめぇこの野郎!」と相撲に似た感じでガツン!と来る。
あの馬力で押し込まれると「どうしようもねぇな」という感じだった。
シンには当然、毎回のように凶器で頭をカチ割られ、家で寝ていて咳き込むと額から血が流れたりした。
これを見た結婚間もないまき代夫人は「こんな職業ってやっぱり…」と、よく嘆いていたという。
ブロディの場合はガッと出るとパッと引いたり、引くと突っ込んで来る。そのタイミングが絶妙だった。
それと誰に対しても絶対にスキを見せず、自分の世界というのを持っていて、そこに入り込んで来る奴は誰であろうと容赦しない怖さを持っていた。

[匿名さん]

#4182010/01/22 17:33
天龍が常に意識していたトップレスラーの中でプロレスに対して一番できると思ったのも、このブルーザーブロディだった。
この頃チャンスを掴み上昇ムードに乗っかろうとしていた天龍の前に、いつも立ちはだかり、完ぷ無きまでに痛めつけ、自らの存在価値を強烈にアピールし続けた。
「絶対に負けたくない。俺が一番だ!という気持ち、勝つという執念は誰よりも凄かった。レスラーはみんな勝つつもりでリングに上がっているけど、ブロディには異常なものを何度も感じさせられた。初めての対戦のとき、あの当時はブロディが一枚も二枚も上。俺にしてみれば軽く流してくるかな?と思ったら、始まったとたんにガツンガツン来る。こうなったら格上も下もないのがリング。俺も行きましたよ。セコンドの連中が目玉を丸くして驚いていた。シングルで20回前後はやりましたよ。」
と当時を振り返っている。

[匿名さん]

#4192010/01/22 17:51
ちょうどこの頃、アメリカでは天龍の日本での師匠格にあたる高千穂明久がブロディの助言を受け(NWAスレに書いたかな?)テキサス州ダラスで全米を風靡した東洋の神秘ザグレートカブキに変身している。
国内の天龍はそんな激しい戦いの毎日の中から
「俺も目いっぱい行くからガンガン来い!俺は逃げも隠れもせず、真正面から受けとめてやる!」
現在も続く、天龍のファイトスタイルがこの頃生まれた。
相手がガンッと来れば、一番最初に受けたダメージは凄いものがある。けど、そこでこれ以上のものはないだろうというのが見えるから、次に戦った時が楽なのだ。
この考えは以前書いた相撲の世界の「かわいがり」を耐えた事が根底にある。

それに真正面から行って勝てば、相手に「あいつには勝てないな」という意識が芽生えていく。

これも相撲で培ったものである。

[匿名さん]

#4202010/01/22 17:57
ガップリ四つになって、どういう危ない場面があったにせよ、それを凌いで勝った奴には絶対負けない自信がついたし、突っ張って、はたいて勝ったとか、何かでヒョコッと勝った奴には、今度は負けるかもしれないという不安が常につきまとった。
不思議なもので、プロレスを長くやってれば、段々と相撲の事は忘れるはずなのに、プロレスをやればやるほど相撲でやってきた事を生かしている。そしてそれが確実に生きるというのを実感していた。

[匿名さん]

#4212010/01/22 18:03
いつだったか憶えてないらしいが、ハンセンが例によって遠慮会釈なしにガンガン来た。
ここで障りなく負けてしまえばダメージも少なくて済むが、天龍は頭に来た。

この野郎!目にもの見せてやる!と遠慮なくガンガン向かって行った。
すると、なんと、あのハンセンが怯んだのだ。
半分、人間じゃないかもと思っていた相手がひるんでいる。
こいつだって怯むんだな。という事に気付いた。
これは大きな自信になった。

[匿名さん]

#4222010/01/22 18:08
馬場やジャンボの盾になり、コテンパンにのばされていた毎日に、第3の男という割には何なんだよ!と二人を恨んだ事もあったという。
しかし、逆にこの時期に大事に扱われなかったことで、誰が来たって怖いものがなくなっていった。

[匿名さん]

#4232010/01/22 18:14
この頃、ジャンボと二人揃ってのサイン会も増えた。
当然ジャンボの方に長蛇の列が出来た。
それでも「天龍さん、頑張って下さい!応援してますから!」と天龍のサインを貰うファンもいた。
その時、いつも心の中で
「今はこのサインに、たいして価値はないかもしれないけど、いつか必ず貰って良かったと思えるようにするから!」
と誓ってペンを走らせていた。

[匿名さん]

#4242010/01/22 18:20
そして、この時期に天龍は現在もトレードマークになっている、黒のタイツ、黒と黄色のリングシューズにした。

マスコミ向けには「反骨といじけの象徴」と答えているが、目立つ色を入れたことで、しっかりやっていかなきゃいかん!という自意識が生まれていた。

そして「そろそろ天龍にもベルトを」
会社に動きが出てきた。

[匿名さん]

#4252010/01/22 20:35
ムタになってこいよオラ事件はまだまだ先ですか?

[匿名さん]

#4262010/01/22 21:17
黙って読もうや

[匿名さん]

#4272010/01/23 20:56
>>424続き
昭和58年、天龍にジャンボ鶴田が返上したばかりのUN王座獲りに白刃の矢が立った。
ジャンボはブロディがドリーから奪った日本の至宝、インターナショナルヘビー級王座獲りに路線変更、文字通り、全日本のエースへの階段を登っていっていた。
天龍にしてみれば、何でジャンボのおさがりを俺が争わなきゃいけないんだ?と釈然としないところもあった。
しかし、このユナイテッドナショナルヘビー級王座の歴史を紐解いてみると、そうそうたるトップレスラーが持っていた大変に価値のあるベルト。
歴代王者の顔ぶれを見て、天龍もその気になった。

[匿名さん]

#4282010/01/23 21:07
ジャンボの次にチャンピオンになったのはテッドデビアス。
言うまでもなく、とにかくタフで粘っこい。それに巧い。
天龍はこの年、デビアスに二度挑戦したが、1回目はスモールパッケージで丸め込まれ、2回目は両者リングアウト。
タイトル奪取は昭和59年の最重要課題になった。
デビアスとはアマリロ、ファンク道場の兄弟子、弟弟子で、しかもプロレスデビュー戦を務めてくれた相手だ。
リングを離れるとよくメシを食い、酒を飲み明かし、お互いの将来を語り合っていた。
「リングを下りれば、デビアスは親友の一人。シリーズ最終戦の後、よく飲んだ」
と天龍は語る。

[匿名さん]

#4292010/01/23 21:18
そのデビアスが昭和59年1月、マイケルヘイズに敗れた。
そしてデビットフォンエリックへとタイトルが移動。王者デビットは2月に来日するもホテルで急死。
急遽、リッキースティムボートをアメリカ代表として呼び、2月23日、蔵前国技館、天龍vsリッキーでUNヘビー級王座決定戦を行う事になった。
リッキーとは一緒にノースカロライナをサーキットした仲で、トレーニングを教わったり、天龍がタイガー戸口の件で急に帰国を命じられた時に、桜田から買っていた車、サンダーバードを天龍から安く譲ってもらっている。
これまた修行時代の親友だ。

[匿名さん]

#4302010/01/23 21:24
だが天龍は、この試合でのリッキーの態度には腹が立っていた。
やたらとファンに媚びているように見えるのだ。
今の時代でこそファンとのキャッチボールで盛り上げるレスラーは多いが、当時はそんなタイプはいなかった。
天龍は俺も同じように見られたら嫌だなというのがあったし、俺が一生懸命やっているのに出稼ぎ根性とまでは言わないが、自分の名前に傷がつかなければいいやというような、勝ち負けじゃなくてファンの支持を得たいという態度が気に入らなかった。

[匿名さん]

#4312010/01/23 21:39
だがリッキーには別の事情があった。
リッキーの母親が日本人なのは周知の事だが、結婚後アメリカに渡って以来、一番も日本に帰国した事がなく、親族とも連絡が途絶え、生き別れの状態になっていた。
これを何とかしたかったリッキーは、(確かこれ以前)来日の時に母親を同行して、TV局にお願いして中継で呼び掛けてもらい、念願の母親と親族の再会を果たしている。
元々正義感が強く、根っからのお人好し。日本は母の祖国で第2の故郷。
日本のファンのおかげで母に親孝行できたリッキーからすれば、日本のファンに媚びているわけではないが感謝し尽くせないでいる態度が、この天龍との試合前に見られたと記憶している。
ちなみに、後にリッキーは宿敵フレアーを倒し、第73代NWA世界ヘビー級王者に輝き、チャンピオンのサーキットを一番に日本に決め、自身の奥様まで連れてきた大の親日家だった。

[匿名さん]

#4322010/01/23 21:51
さて、試合のほうはグランドコブラで天龍の勝利。
初のシングルの王者に輝いた。
後に「これで俺も一人前のレスラーって言っていいかな。成功した部類に入るかな」
「国技館は相撲の殿堂。13年間住み慣れたところ。あんな形で相撲界を去った俺が、その会場で初タイトルを獲ったんだから嬉しかった」
と何度も口にしている。

しかし、このUN王座奪取には、さらに尾ヒレがつく。
この日のメインはAWA世界ヘビー級選手権。
ジャンボ鶴田がニックボックウィンクルを下して日本人初のAWA世界王者になった日だ。

これには
「この野郎!せっかくUN取って人生最高の日だと思っているのに。いつまで経ってもジャンボは本当に目の上のタンコブだな」
それが天龍の偽らざる気持ちだった。

[匿名さん]

#4332010/01/23 22:19
UN編も楽しく読ませてもらってますリッキーやデビアスとの友情や、リッキーの親孝行話など初めて知りました

[リッキー台風]

#4342010/01/24 03:05
WARで天龍最後の大暴れをして華々しく引退かと思ったら、
それからさらに流転のレスラー人生を送るとは思わなかった。

[風魔党◆DLIQ98Sc]

#4352010/01/24 17:06
>>432続き
ジャンボに対して強烈なライバル意識…というよりも、割り切れないものがあったのは確かだった。
うまく表現できない、やきもちとは違う、また別な感情があった。
俺がUN王者だ。そう実感できたのはベルトを取ってから1ヶ月後、3月24日に場所も同じ蔵前国技館で、元王者テッドデビアスをピンフォールして初防衛に成功したときだった。

[匿名さん]

#4362010/01/24 17:14
とにかく天龍はUNのベルトを大切にした。当時の日本マット界の風潮は新日本プロレスでは長州力が藤波辰巳に牙を剥いてタイトルマッチよりも日本人対決が主流になっていた。
全日本プロレスでは、タイトルマッチとなると、どうしてもチャンピオンが両者リングアウトに持ち込んだり、反則負けだと王座は移動しないルールを使って守りに入る傾向があり、ファンは明らかにそんなタイトルマッチに飽きていた。
そんな中で天龍は、俺のUNのベルトが賭かった試合が見たいと言われるように、一生懸命、そして誠心誠意戦った。

[匿名さん]

#4372010/01/24 17:24
ベルトを巻いた人の歴史を見たときに、俺で汚すわけにはいかないと思ったし、ノンタイトルであっても、何でもない奴に負けたりした時は「持っていても仕方がない」と自分からタイトル返上した事もあった。
こうした地道な事が、後に三冠統一戦に火をつけたという、かすかな自負があった。
この昭和59年は天龍のプロレス人生の中でも実にドラマチックな年だった。UNに続いて9月にはジャンボ鶴田との鶴龍コンビでインタータッグ王者になり、暮れの84世界最強タッグではハンセン&ブロディを破って初優勝した。
そして一番強烈な出来事は、あの長州力がジャパンプロレスとして全日本のリングに上がることになった事だ。

[匿名さん]

#4382010/01/24 17:31
天龍が長州に興味を持ったのはフロリダ修行時代の事で、当時ミュンヘンオリンピック、アマチュアレスリング代表の肩書きを持ってプロレス入りした長州がアメリカ修行に出されたまではいいが、「プロレスなんて、どうってことないよ」と言ってフロリダでもカールゴッチの家に行かず、トレーニングをサボって遂にはゴッチに破門されたというような話を聞いた。
長州に言わせると
「大学の頃にやっていた反復練習ばかりで、こんな事するためにわざわざ来たのかと思うと馬鹿らしくてやってられない」
との事だった。

[匿名さん]

#4392010/01/24 17:40
当時、プロレスの社会なんて煮ても焼いても食えない社会だなと、同じように自虐的な生活を送っていた天龍は妙に親近感を覚えた。
それから何かにつけて、阿修羅と同様に成功してくれたらいいなと注目していた。
ある日、長州と藤波がモメている(噛ませ犬事件)のをテレビで見た。
当時は日本人同士で戦うことは珍しかったから「何やってんだ?これ」という感じだった。
それからの長州はあれよあれよという間に、竜巻のように昇っていってしまった。
天龍は目を覚まされる思いだった。

[匿名さん]

#4402010/01/24 17:49
人間どんなに不器用で地味だって、信念を持って一生懸命にやっていれば光る時があるのだという事を長州は教えてくれた。
実は直接的な接点も長州が全日本に上がる前の年の暮れからあった。
写真記者クラブの表彰式で初めて会い、それから何回か飲みに行ったりしていた。酔っぱらって長州のマンションに泊まった事もあった。
ただ、この時、いずれ戦うなどとは微塵にも思わなかった。いい友達でいたいなという気持ちのほうが強かったのは間違いない。
その長州力が全日本のリングに来るのだ。
天龍にためらいがなかったとは言えないが、だが、だからこそ、来る以上は俺に目を向けさせなければ意味がないと思った。
絶対に俺が一番最初にやってやると心に期するものがあった。

[匿名さん]

#4412010/01/25 18:03
話は前後するが、昭和58年に入ってからの天龍はオリジナルホールドの開発に真剣に取り組んでいた。
全日本プロレスのくせに、いつまでも猪木のマネをしている変な奴ということだけで注目されているわけにはいかない。という意識が強烈に芽生えていた。
国内デビュー戦のためにドリーファンクJrから教わったローリングクレイドルホールドがあったが、これはデビュー戦の後も何回か使ったけど、あまりにもヘボくてやめたとの事。

[匿名さん]

#4422010/01/25 18:12
UN王者時代の天龍の得意技は延髄斬り、卍固め、テキサスクローバーホールド、それにショルダーバスター。
このショルダーバスターの要領で相手を担ぎ上げ、このまま肩じゃなく頭に膝を叩きつけるのはどうか?いや、危険すぎて使えないなぁ。などと思案していたが、ある時、古いプロレスのビデオを見てピンときた。
鉄人ルーテーズが必殺のバックドロップと並行して奥の手として使っていた元祖パイルドライバーである。
「そうか!この要領で相手を叩きつけて、そのままフォールする方法があるぞ!」
天龍はテーズのビデオからヒントを得た技を嬉々として練習し始めた。

[匿名さん]

#4432010/01/25 18:19
そして、ほとんど完成段階に入った頃、とんでもない事が起こった。
天龍自身がパワーボムでフォールされてしまったのである。決められた相手は人間魚雷テリーゴディ。この年の8月、テリーファンクの引退試合にハンセンと組んで戦うため、初来日したゴディの来日第一戦目の事だった。
天龍は、とにかく言葉で言い表せないほどのショックを受けた。
試合後、シャワーも浴びずに一目散に家に帰った。
ただショックと同時に、やっぱり凄い技だぞ!これは!と身をもって確信した。

[匿名さん]

#4442010/01/25 18:27
振り子のように持ち上げられると、リングの照明が目に飛び込んでくる。
そして、そのまま叩きつけられると、平衡感覚を失っているからモロに後頭部、首筋をマットに叩きつけられてしまう。怖い…。心底そう思った。
それに自分が取り組んでいた技を先にやられフォール負けしてしまったショックも大きかった。
天龍にしてみれば、今から使ってもゴディの真似と言われるだけだ。
天龍はこの時のパワーボムにさらに改良を重ねた上で世に出した。

[匿名さん]

#4452010/01/25 18:34
細かい部分になるが、天龍のパワーボムとゴディのそれは別物である。
ゴディの場合、上背もあるし、相手を高々と持ち上げて落差をつけ、叩きつけることに重点を置いているが、天龍の場合は、持ち上げることよりも、押さえつけることに重点を置いている。
首を決めて押さえつけてしまえば相手は動けない。下手に動くと首を痛めてしまうのである。
後に長州はこの一発で首に爆弾を抱える事になった。つまり、天龍のパワーボムは、見栄えは悪いかもしれないが、ほんの僅かでも相手が持ち上がれば、それだけで十分なのだ。

[匿名さん]

#4462010/01/25 18:48
だが言葉とは裏腹に、この頃からWAR時代頃まで、天龍のパワーボムの高さが低かった記憶はほとんどない。一度だけ、馬場からピンフォールを取ったときには、この言葉通り、持ち上げる事より押さえつけてフォールをもぎ取った一発を見た事があるが、これ以外はどれも高さ十分なパワーボムだったと思う。
後に叩きつける事に重点を置いてこの技を使うレスラーも増えた。
スコットノートンやクリスベノワあたりが凄い一発を放っていたが受け身の技術も進化しているため、投げっぱなしではフォールは取れにくい。高さ、叩きつけ、押さえ込み。この3点において完璧な使い手は川田利明ぐらいかな…?(←私見です→)天龍がランディサベージを破った時の一発が最高だったな。

さて、リングに話を戻します。
昭和59年11月1日、後楽園ホール。
長州が全日本プロレスの試合を視察しにやってきた。

[匿名さん]

#4472010/01/26 07:41
パワーボムをくらった相手は上半身だけで受け身取るから
受け身の意味があるのかないのか…
やらないよりマシって程度なのかな?

変に体をひねって肩直撃とかは…
やっぱり受け身したほうがよいですね

[匿名さん]

#4482010/01/26 10:31
ぱわーぼみゅならアンダーテイカーのラストライドや大谷のスバイラルボムが好きらぁ

[HBK]

#4492010/01/26 17:16
>>446続き
付き人の冬木にあらかじめ長州の席を確認させておいた天龍はリングに上がるなり挑発した。
「長州、そんなとこに座ってないで上がって来い!この野郎!」
そしてセカンドロープに腰を落として手招き。
すると、新日本やテレビ朝日との契約問題があって、リングには上がれない身の長州が怒り狂い、観客を押しのけ、凄い迫力でリングに向かって突進してきた。
後に長州は、この時の事を「あの時の天龍は本当にいい顔をしていた。俺の体中の血が、ガーッと燃えたぎった。掛け値なしで血が騒ぐというのを初めて体験したのはこの時だった」
と自らの著者で回想している。

[匿名さん]


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