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NO.570872

【風雲昇り龍】天龍源一郎【Revolution】
#5002010/02/04 19:23
全米でトップを取ったカブキは、正規軍の若い選手に
「俺たちは源ちゃんと阿修羅に食わせてもらっているんだぞ」
と言っていたほどである。
当時のアメリカマットは、その日の客入りによってレスラーのギャラが決まるシステムだった。
つまり人気スターが登場すれば、それだけ観客動員が伸びて、そのぶんだけギャラが上がる。
他のレスラーに「今日はユーのおかげで俺のギャラも多かったよ」と挨拶されるのがステータスでもあった。
カブキはあのままアメリカマットにいたら、今頃は優雅な生活を送っていただろうし、一度はNWA世界王者になっていただろうと思わせるに十分すぎるほどの人気スターだった。
全米で火がついたカブキ人気は日本でも爆発した。
カブキとして日本に初上陸するまでは全日本プロレスは赤字興行が少なくなかった。ファンも空前のブームを巻き起こした初代タイガーマスクや長州のいる新日本プロレスを圧倒的に支持していた。
しかし、カブキ登場で全日本の経営状態は一変した。
カブキが出る会場は常に超満員続出。
赤字も一気に解消。ついでに馬場、鶴田を上回る人気を獲得してしまった。
しかし、これがカブキにとっては不幸だった。馬場はカブキに対してのギャラは、いち中堅レスラーの扱いを続けた。
カブキは何度もアメリカへ戻してくれと懇願したが、それも通らなかった。
馬場はカブキを冷遇していたわりには、そのレスリングセンスは認めていて、若手に対し「カブキの試合は必ず見ておけ」と命じていた。

こういう経験をしているカブキだからこその言葉だったのだ。

[匿名さん]

#5012010/02/04 19:31
天龍がSWSに設立に参加した後、「そこに天龍がいないから…」と、同じように全日本を飛び出してSWSに移籍したカブキと、昭和63年に引退しながら、SWSでカムバックした石川…
二人がいかに天龍に共鳴していたか分かる事実だ。

近年カブキが天龍との良き関係を取材で明らかにしているので、また話の流れで書きます。
長州力にとってのマサ斎藤

いや、天龍にとってのカブキは、それ以上の存在だったのは間違いない。

[匿名さん]

#5022010/02/05 17:07
天龍革命の面白いところは前途の通り、無血革命だったこともそうだが、ターゲットを、まずマスコミに置いていたことだった。
「毎日、取材に来ているマスコミの人たちに、オッ!?と言わすことができなければ、とてもじゃないがファンを惹き付けることはできない。毎日見ているマスコミの人たちが常に新鮮に思えるような試合をしてやる」
というのが、コンビを結成してからの天龍と阿修羅の意地だった。

[匿名さん]

#5032010/02/05 17:12
当時、取材キャリア7年で26歳。担当記者としても3年目の小佐野さんは、全日本プロレスにもすっかり馴染んで、いわゆるプロレス馴れして、一人前気取りの時期だった。
が、龍源砲はそんな小佐野さんの鼻を見事にヘシ折ってくれた。
巡業に付いて歩くと
「何だ、今日の試合は昨日と同じじゃないか」
と思うことも少なくない。レスラーも疲れが溜まってくると、流す試合をやったりする。

[匿名さん]

#5042010/02/05 17:17
だが、天龍と阿修羅は毎日、試合開始のゴングから試合終了のゴングまで全力疾走。
思い切り技を仕掛け、思い切り技を受け、馬鹿みたいにムキになってファイトするのだ。
しかも繰り出す技は同じだとしても、同じような試合は絶対にしない。

ハネダチ(試合が終わったらホテルに泊まらずに、そのまま次の試合地に向かう事)の時に限って長い試合をやる。

[匿名さん]

#5052010/02/05 17:26
そして正規軍と交わるのを徹底的に嫌って、レンタカーや時刻表片手に列車を使っての移動。
時にはリング屋さんのトラックや宣伝カーに便乗して移動する事もあった。
試合後にはマスコミを誘って、とにかく飲む。
それは遊びの要素もあるが、身近に見ているマスコミが自分たちのファイトをどう捉えているのか知りたいという気持ちもあったと思う。
「飲まない奴は信用できないな」と言って天龍カクテル(世にも恐ろしい飲み物)を振る舞っていた。
普通プライベートでは仕事の話をするのを嫌うレスラーは多いが、天龍と阿修羅は酒の席でも常にプロレスを熱く語り合っていた。

「プロレスに、こんなにも一生懸命なレスラーがいるのだろうか」
というのが当時の小佐野さんの率直な気持ちだったという。

[匿名さん]

#5062010/02/05 17:31
「地方なんかでマズイ試合をやっちゃうとファンは、やっぱり田舎だから…。とか、テレビがないからって思うわけでしょ。ハネダチの時に短い試合をやったら、早く帰りたいからだ。とかさ。そういうのが俺、嫌なんだよね。もし、お客が入っていなかったとする。でも、そこで一生懸命の試合をやって、一人連れてきてくれれば、お客は二倍になるわけよ。気の遠くなるような草の根運動だけどさ、それが大事だと思うよ」

[匿名さん]

#5072010/02/05 17:40
「いたずらに試合時間を長くしているわけじゃないけど、お客さんはメインエベンターが出てくるまで二時間も待ってるわけでしょ。てめぇたちは控え室で二時間、くだらない話して過ごしたりしてもさ、お客にしてみれば、くだらない試合を二時間も見させられて、やっとメインエベンターが出てきたら10分で終わりかよ…。って思うかもしれないよ。そう思わせちゃいけないから…どっちみち痛い思いするんだから、だったら一生懸命やって、お客に伝えなければ損だと思うんだよね。テレビ中継は自己主張の場。それを見て、面白そうだなと思ったら、会場に足を運んでほしいと思うよね。絶対に損はさせないから。この世界は、いつ首がイッちゃうとか、いつアウトになるか分からないんだから、目いっぱいやらなきゃ。人に大変でしょう?って聞かれて、大変です!って堂々と答えられるようなファイトをやっていきたいね」
というのが、当時の天龍の口癖だった。

[匿名さん]

#5082010/02/05 18:52
聞きたかった内容で満足ですできたらブロディやハンセン、谷津やカブキとの熱い戦いを〔元おっかけ〕さんの視点から書いてください

[リッキー台風]

#5092010/02/05 23:18
うーん…

僕の視点ですか。

これは難しいですねぇ

個人的に天龍のベストバウトはジャンボ鶴田を倒した三冠戦。
対外人だとランディサベージ戦なんです。

リッキーさんが挙げたハンセン、ブロディ、カブキ、谷津…

天龍同盟と当たると、とにかくカブキさんの攻撃が凄まじかった事は強く印象に残ってます。

ハンセン、ブロディには鶴龍コンビ時代にメチャクチャやられていた印象が強くて、三冠統一戦やUN,PWFダブルタイトルマッチの時なんかは、怖くてまともに見てられなかったです(笑)
谷津に関しては全く印象にないです。

天龍同盟vs正規軍(カブキ絡み)の6メンやタッグマッチはハズレはなかったですね。

ふだんプロレスを見ない親父や姉までが「凄い試合だなー」って見ていたのを覚えてます。

うーん…。ちょっと難しいな。すみません。

これはHBKに助けてもらおうかな(笑)

[元おっかけ]

[匿名さん]

#5102010/02/09 18:51
ありがとうございました続きを楽しみにしてますこのスレが少しでも長く続く事を望んでます

[リッキー台風]

#5112010/02/13 18:16
>>507続き
この天龍革命の精神は、その後の三沢&川田&田上&小橋の全日四天王、そして秋山などによって完成された王道プロレスにも受け継がれた。
平成7年暮れの週刊ゴングにおける三沢へのインタビューで記者が「来年に向けての全日本の武器は?」との質問に

[匿名さん]

#5122010/02/13 18:25
「ウチの団体は、俺もそうだけど、こう…受けを狙って何かをやるっていうのは嫌いだしね。でもファンの足を会場に運ばせるだけの興味あるモノを提供しなきゃいけない。ここが難しいんだよ(苦笑)ひとつ言えるのは、今に満足しちゃいけない、そして向上心を持ってなくちゃいけないってこと。その中での武器は、見に来た客の口コミ。一度、見に来た客が、全日本は面白い!って友達を誘って来てくれて、その友達が自分の友達を連れてくる…。それしかないね。そのためには一度だって、つまらなかったって言われちゃ駄目なんだよ。口コミ…気の長いことかもしれないけど、俺は報われるものと信じているよ。」

[匿名さん]

#5132010/02/13 18:29
三沢の口から出てきた言葉は…まさにかつて天龍が口にしていた事と同じであった。
受け継がれたのは思想だけではない。
そのファイトスタイルもだ。龍原砲の試合は、スタートと同時に真っ向からロックアップ、相手をヘッドロックに捉えてロープに飛んで猛タックル!
この一発の衝撃で観客の目を釘付けにする。

[匿名さん]

#5142010/02/13 18:36
実はこのスタートはジャパンプロから盗んだもの。
長州のエネルギーが充満しているような躍動感を取り入れたのである。
そして惜しみなく技を繰り出し、同時に相手の技も真っ向から受け止めて一瞬たりとも休まないスピーディな攻防を続けるというものだった。
これに立体的な技を加える一方で反則、流血戦、因縁といったドロドロとした要素を排除して女性や子供、お年寄りも安心して楽しめるプロレスにしたのが王道プロレスなのだ。
三沢も川田も田上も小橋も、若い時期に天龍同盟と戦って、その極意を自然に身につけ、さらに進化させたのである。

[匿名さん]

#5152010/02/13 18:52
天龍が行動を起こした時、マスコミは天龍革命と称したが、それは長州の維新革命のようにピンとくるキャッチフレーズがなかったというのが真相。
とりあえず天龍が行動を起こしたから天龍革命と呼んだのだ。
この天龍革命がレボリューションとして定着したのは、天龍同盟が着ていた揃いのジャケットの存在が大きい。
天龍が黒地に黄色、阿修羅が青地に白で背中にREVOLUTIONと大きく書かれたジャケットを着始めたのは、龍原砲初のフル参戦となった7月のサマーアクションシリーズから。
REVOLUTIONの文字の下には「WE ALL WANT TO CHANGE THE WORLD」(俺たちは皆、世界を変えたいんだ)というメッセージが入っていた。
後に表にメジャーリーグのロサンゼルスドジャース風のカッコいいREVOLUTIONのロゴが入ったものに改良されている。

[匿名さん]

#5162010/02/13 19:07
この名作レボリューション・ジャケット(僕も購入しましたが)は天龍と友達付き合いをしていた大阪デサントの大谷典久氏のアイデアによるものだった。
大谷さんはビートルズの曲「レボリューション」をヒントにし、背中には天龍革命にピッタリな歌詞を縫い付けた。
背中のメッセージは、まるで天龍の気持ちを代弁するかのように、その時々で変化していった。
天龍同盟が躍進すると「CATCH US IF YOU CAN」(俺たちを捕まえられるものなら捕まえてみろ)に変わり、大谷氏のレボリューション・ジャケット作製はその後、SWS,WARになっても続いた。
最後の作品は「LIVE FOR TODAY」(今日を生きる)
天龍の生きざまにピッタリな言葉である。
大谷氏は平成6年9月に病気で亡くなられたが、それは阿修羅のWARでの引退を間近に控えた時期で、最後まで阿修羅の引退試合用のジャケットのことを考えていたという。
こうした影の支援者がいた事も天龍革命成功の大きな要因である。

[匿名さん]

#5172010/02/13 19:10
出張でしばらく書けませんでしたが、戻りましたのでまた再開します。


[元おっかけ]

[匿名さん]

#5182010/02/13 21:28
ウygイユオウオイイオウhhイウジョk;l;;l

[匿名さん]

#5192010/02/13 22:18
おかえりなさいレボリューションのストーリーも初耳です続きも楽しみです

[リッキー台風]

#5202010/02/13 22:38
自分も楽しみにしてます

[匿名さん]

#5212010/02/14 15:59
>>516続き
馬場の承諾を得て昭和62年6月6日の長門市スポーツセンターにおける「スーパーパワーシリーズ」第17戦から発進した龍原砲は同シリーズの残り全試合にタッグで出場し、5戦4勝1敗(鶴田&タイガーに反則負け)の星を残し、7月3日開幕の「サマーアクションシリーズ」は何と23戦中19試合をタッグで戦い、11勝2敗(谷津&仲野、馬場&タイガーに反則負け)4分け(タイガー&カブキと両軍反則、輪島&カブキ、鶴田&タイガー、ハンセン&デビアスと両軍リングアウト)2無効試合の成績を上げた。

[匿名さん]

#5222010/02/14 16:06
龍原砲のおかげで全日本プロレスも最初のシリーズからリングは熱くなった。
後楽園ホールで鶴田&輪島と戦い、輪島を血ダルマにしてボコボコにしている最中、何と、それを見た馬場までもが輪島に檄を飛ばしにリングサイドに飛び出してきた。
「俺もカーッと熱く燃えてきた。最終戦でタイガーと組んで、俺も天龍、原と戦う!」
馬場がそうコメントした。

天龍と阿修羅の革命に馬場も熱い視線を向けていたのだ。

[匿名さん]

#5232010/02/14 16:13
だが、この直後アクシデントが起こった。
札幌の試合で阿修羅が石川にイスで殴られた際、イスの金属部分が脳天を直撃してしまった。
頭の中は骨が見えるぐらいザックリいっている。
その翌日、旭川で天龍と阿修羅はハンセン&デビアスのPWF世界タッグ王座に挑戦する事になっていた。
天龍は今の勢いを止めたくなかったが、さすがに阿修羅の負傷具合を目の当たりにすると、欠場をすすめないわけにはいかなかった。
とてもリングに立てる状態ではなかったのだ。
「この怪我じゃ無理だ。明日はやめよう」
天龍はそう言った。

[匿名さん]

#5242010/02/14 16:20
ところが阿修羅は
「いや、走り始めた今が大事な時。ましてや龍原砲として初のタイトルマッチなんだから休むわけにはいかないよ。源ちゃん、俺たちは、体がボロボロになろうと突っ走るって決めたんじゃないか」
そう言って頭を縫わずに強行出場。
そんな阿修羅を天龍は
「ベルトを取る事はできなかったが、阿修羅の捨て身の心意気が嬉しかった。阿修羅とは、その名前の通り、骨太の男だ」
と試合後讃えている。

[匿名さん]

#5252010/02/14 16:26
この1シリーズの全力疾走で龍原砲は全日本ファン…いや、プロレスファンに大きなインパクトを与えた。
天龍と阿修羅の第1目標は「まずは後楽園ホールを満杯にしたい」というささやかなものだったが、7月19日の同所におけるVS鶴田&輪島で久しぶりに超満員を記録。
以後、天龍同盟解散→天龍全日離脱まで全日本の後楽園超満員神話は続いた。

[匿名さん]

#5262010/02/14 16:36
龍原砲初のタイトルマッチから1週間後、最終戦の馬場&タイガー戦にも当然、阿修羅は出てきた。
痛み止めのために試合の途中から意識を無くしていたが、それでも最後まで戦い抜いた。
馬場をダブルブレーンバスターで叩きつけて戦闘不能に追い込んだ上で、タイガーマスクを袋叩きにしたが、ここで鶴田と輪島が飛び込んできた。
さらに長州が去った後もジャパンプロレスを名乗っていた谷津までもが飛び込んできた。
みんな熱くなっている。
あのジャンボが血相を変えている。
阿修羅よくやったぞ、お前の頑張りが、俺たちの革命を一歩前進させたぞ。
朦朧とした意識の中で阿修羅は天龍の方を向いて何か喋ろうとしながら前のめりに倒れた。
このとき、天龍は確かな手応えを感じたという。

そして続く、次のシリーズで新局面が生まれた。

[匿名さん]

#5272010/02/15 21:24
執筆ありがとうございます。楽しみに読んでます。この頃って今よりはだいぶマシだけどプロレス冬の時代って呼ばれてたんですよね。
草の根で妥協ないファイトを見せる天龍同盟には本当に熱くさせられました。

それが実を結んで、伝説の鶴龍対決武道館フルハウス>レスリングサミットへと結実していったんですね。

余談ですが、週プロ編集部に届いたバレンタインチョコの第一位が天龍さんで、表紙を飾ってました。本人はなんともリアクションに困ったような複雑な表情をしてましたね・・・(笑)

[匿名さん]

#5282010/02/15 21:28
「サマーアクションシリーズ2」開幕戦の仙台・宮城県スポーツセンターで龍原砲vs鶴田、カブキ組という試合が組まれたが、カブキの毒霧攻撃を喰った天龍は戦闘不能になってしまった。
孤立した阿修羅を袋叩きにするジャンボとカブキ。
ここで全日本のセコンドについていたはずの若手の川田利明がジャンボに殴りかかり阿修羅の助けに入ったのである。

[匿名さん]

#5292010/02/15 21:34
そうこうしているうちにアメリカから帰ってきたばかりのサムソン冬木(冬木弘道)までリングに駆け上がった。
渡米前まで、ずっと天龍の付き人をしていただけに誰もが天龍救出に動いたと思った。
ところが、冬木は「上がって来い!天龍!」と倒れている天龍を攻撃!
大混乱の中、急遽、馬場の判断で
天龍&阿修羅&川田vs鶴田&カブキ&冬木という形で試合開始になった。

[匿名さん]

#5302010/02/15 21:43
思わぬ乱入劇で、試合後、花道をもどる時にも天龍の頭の中は混乱していた。
「今日はとりあえず、向こうに詫びを入れて帰れ!いいな!」
後をついて控え室に引き上げてきた川田を怒鳴りつけて、全日本の控え室に戻した。
天龍は、俺と阿修羅は腹をくくってやっているから、どうなったっていい。だが、全日本の将来を担うホープの川田の人生に、いたずらに触るのはよくないと考えたのだ。
だが、しばらくすると川田は、また天龍の控え室に戻ってきた。
ジャンボとカブキにブン殴られて、帰る場所がなくなってしまったのだ。
川田はこうして押しかけてくる形で天龍同盟の一員になった。

[匿名さん]

#5312010/02/15 21:55
また、天龍に牙を剥いた冬木も、川田に先を越されて目立つために敢えて反対側に回ったという事もわかった。
天龍たちの革命に否定的だったわけでは勿論なく、熱くなる気持ちを抑えきれずにリングに駆け上がったのだった。
突っ走る天龍と阿修羅を見て、黙っていることができなかったのだ。
天龍は冬木のその気概や心意気がやたら嬉しかったという。
それもそのはず。何しろ冬木は天龍の付き人だったが強い信頼関係で結ばれていた。
冬木は昭和54年9月に国際プロレスに入門。56年8月同団体崩壊後に全日本プロレスに移籍したが、よそ者という疎外感を感じ、思い悩んでいたところで天龍の付き人になった。
二人共に「ウマが合った」と言っているが、天龍は初めての付き人という事もあって冬木を大事にしたし、冬木も唯一の後ろ楯となってくれた天龍に精一杯の礼を尽くした。

[匿名さん]

#5322010/02/15 22:11
そして天龍の口添えもあって、59年11月に海外修行に出発。翌60年12月にビザの関係で日本に強制送還されたが、その帰国第1戦では、天龍が馬場に
「1回チャンスをやって下さい。それで駄目だったら、次からはいいですから」
と進言してくれたおかげでメインで鶴田&天龍と組んで長州&谷津&小林邦昭と戦うという破格の扱いを受けた。また、サムソンというリングネームを付けたのも天龍だった。天龍と阿修羅が行動を起こした時、ちょうど冬木は2回目の海外修行中でテネシーにいたが、天龍からの「戻ってきて俺たちのグループに力を貸してくれ」という国際電話を受けて、すべてを放り出して帰国したのだ。
このサマーアクションシリーズ2では、天龍サイドに付いた川田と正規軍に付いた冬木の抗争も売り物になった。
冬木と川田は、その後何回か意地を剥き出しにして戦って、その間に心にヨシ!とするものがあったのか、お互いに認めあい、握手するようになり、このシリーズの終盤には、冬木も正式に天龍同盟入りした。

[匿名さん]

#5332010/02/15 22:30
>>527
こんばんは。

そういえばそんな事がありましたね。

当時はあのチョコの差出人のほとんどは男性ファンなんじゃないかな?(笑)と思っていましたが、実際に天龍さんはかなりモテ男だったようです。
天龍同盟時代の試合後の定番は同盟&全日本若手&マスコミで延々と続く飲み会ですが、天龍は追っかけギャル達も一緒に連れて行っていたようです。
ほとんどのレスラーは人目につかないようにコソコソやってますが、天龍はすべてオープンで堂々としてます。
だから逆に女性ファンが飲み屋でハチ合わせになってケンカもしょっちゅう。
天龍はただ笑って見てるだけだったと記者クラブ出版の本に書かれてました。

これを(も)進化させたのが、やっぱり三沢光晴ですね(笑)

[元おっかけ]

[匿名さん]

#5342010/02/16 08:28
昔のプロレスって面白そう

[匿名さん]

#5352010/02/16 11:28
確かに。昔のプロレスには見る者を熱くさせるだけの迫力があった。対戦する外国人レスラーも凄かった。今度こそヤバいぞ!対戦カードが決まった時点でドキドキしていた。あの頃、みんな自分の人生や置かれている環境などを反映させて天龍や長州を応援していた。そうだったような気がする。全てのスポーツ競技が昔より確実にレベルアップしている中、プロレスだけはダウンしていっている気がしてならない。

[匿名さん]

#5362010/02/16 13:10
ミスター高橋や高田らの暴露、猪木の新日本犠牲格闘技乗り換えなどもあるが、大技連発、カウント2,9のエンドレス、キャラクター過剰設定、笑い……たしかに見た目かっこいいレスラーも、華やかな技も増えたけど、「怒り」や「負けてたまるか」が魅えない。それらを見せてる「見える」はあるが、見てる側が説明や小細工なく感じる熱さが無い。猪木、天龍、怒った沸点の鶴田、昔の長州、ハンセン、前田、赤鬼の渕…それがあった。越中と高田は対決で。…前田と渕は割と表情に出づらかったが、伝わるものはあった。



全然足りないが、中西や真壁、杉浦が評価されるのがなんかわかる。

[匿名さん]

#5372010/02/16 18:50
>>532続き
晴れて天龍同盟入りした川田と冬木は、天龍の
「俺と阿修羅が手が回らない中堅、若手層の活性化をやってくれ。それと、俺と阿修羅は辛気臭いから、お前たちは若者らしいハツラツとしたロックンロール・エキスプレスのようなビートの利いたタッグチームになるんだ」
と命じ、派手なロングタイツに頭にはバンダナを巻いたユニークなタッグチーム。名付けてフットルースとなった。
フットルースが本格始動した「ジャイアントシリーズ」では、もう一人加入者がいた。
当時の全日本プロレスのランクとしては一番下…若手の小川良成である。

[匿名さん]

#5382010/02/16 18:57
小川は昭和59年春に17歳で全日本プロレスに入門したが、当時の全日本の状況は小川にとって決していいものではなかった。
同期入門者は全員辞め、後輩が入って来てもすぐに辞め…
孤独な若手時代を余儀なくされたのだ。
切磋琢磨する仲間がいないのは辛いことだし、おまけに60年1月から長州率いるジャパンプロレスが参戦してきたことで選手過多になり、デビューの機会も与えられなかった。

そんな小川に目をかけたのが、グレートカブキであり、天龍だった。

[匿名さん]

#5392010/02/16 19:03
カブキは体が細い小川に基本から技術を叩き込み、天龍は冬木に次いで2代目の付き人になった小川を公私共に可愛がった。
入門1年半後の9月30日、ようやくデビューに漕ぎ着けたが、それも天龍の
「馬場さん、もう小川は大丈夫ですから、デビュー、ごっちゃんです」
の口添えがあったからだ。デビュー当初、黄色地に黒の縦縞が入った派手なロングタイツが話題になったが、これも
「お前はちっちゃいんだから、目立たなきゃ駄目だ」
と天龍自らデザインしてプレゼントしたものだ。

[匿名さん]

#5402010/02/16 19:11
今になって小川は
「あれは恥ずかしかったスねぇ(苦笑)思わず、これ履くんスか?って聞いちゃいましたよ。天龍さん、俺のデビュー戦を見ててくれたんですけど、きっとタイツを見に来たんだと思うんですよ」
と笑うが、きっと生涯の思い出なのだろう。
さて、デビューしてからも小川の不遇は変わらなかった。
後輩もできたが、それは大相撲出身の高木、テンタというエリートのエース候補。
昭和62年1月30日の花巻大会では、後に慢性化して随分と悩まされた左肘脱臼の大怪我を負ってしまった。

[匿名さん]

#5412010/02/16 19:17
そうこうしているうちに春にはアマレス全日本学生選手権優勝の肩書きを持った菊地毅、シューティング社会人王者だった北原辰巳(光騎)、夏には、またまた大相撲から田上明、さらには小橋健太(建太)も入門してきた。
小川の立場はまるで針のむしろに座っているようなものだったのだ。
天龍はそんな小川を有無も言わさず天龍同盟に入れた。
小川の分もレボリューションジャケットを作って
「お前もこれを着ろ」
の一言だけ。

[匿名さん]

#5422010/02/16 19:26
そして10月26日の徳島大会で川田のパートナーに起用されて、D・ワグナー・ジュニア&A・ブランコ・ジュニアと対戦。
これが小川にとって天龍同盟としての初ファイトとなった。
当の本人は
「冬木さんが上のカードになって、たまたま川田さんが余っちゃったから、僕が組まされただけでしょ。あの頃、僕は天龍さんに付いているって意識しかなかったから、同盟入りと言われても…」
と言うが、天龍同盟後期の平成1〜2年には天龍とのタッグで鶴田&小橋、天龍&ハンセンとのトリオで鶴田&谷津&仲野、馬場&木村&小橋、馬場&木村&渕、天龍&川田とのトリオで鶴田&カブキ&高木などと対戦するまでに成長。
当時の小川のニックネームは、昇龍戦士だった。

[匿名さん]

#5432010/02/17 18:08
天龍革命勃発以来、ファンの最大の関心事は鶴田と天龍の頂上対決がいつ実現するかであった。
そして、それは驚くほど早い時期に実現した。
タッグ抗争、6人タッグ抗争などで手を変え、品を変えて十二分に一騎打ちの気運を盛り上げるというのが常套手段だが、この時期の馬場は天龍革命にGOサインを出すという、これまでにない思い切った策を取っていただけに「ファンが見たいというものは出し惜しみしない。鉄は熱いうちに打て!」と龍原砲の本格発進2シリーズ目の「サマーアクションシリーズ2」の天王山、8月31日、日本武道館で一騎打ちが組まれた。

[匿名さん]

#5442010/02/17 18:17
ちなみにそれまでに両雄は2度対戦している。
初対決は昭和57年4月16日、福岡国際センターにおける「第10回チャンピオン・カーニバル」公式戦。
僕が天龍を初めて見たのもこの試合だった。
すでに完成された強さを持つ鶴田。普通に鶴田が勝つだろうと少年ながら予想を立てて見ていた。しかし予想とは裏腹に、不器用ながらも必死に食い下がる天龍。その一生懸命な姿に試合終了までにテレビの前で、知らず知らず、天龍を応援していた。結果は30分時間切れ引き分けに終わった。
この試合以降、僕は天龍をひいきのレスラーとしてプロレスを見るようになった。

[匿名さん]

#5452010/02/17 18:23
2度目は昭和58年4月16日、東京体育館。
これは当日にいきなり決まったもの。
この日、日本テレビ幹部が全日本プロレス中継ゴールデンタイム復帰を前提に視察に来ることを知らされた馬場が「全日本の面白さをアピールするには、このカードしかない!」と急遽組んだものだった。
ちなみにこの頃の全日本プロレス中継は土曜日PM5:30〜6:30の放送だったと記憶している。
この対戦も30分時間切れ引き分けで、決着つかずのまま3度目の対決を迎えることになった。

[匿名さん]

#5462010/02/17 18:30
だが、今回は過去2回とは完全に別物。
公式戦でもなければ、エキシビジョンでもなく
「ジャンボは風呂に浮いたヘチマのようなフニャフニャ野郎だから、ギュッと絞ってやる。13年間トップだったというけど、それを俺と阿修羅が1シリーズと5試合で崩したことをどう思ってるのか?ジャンボにはエースの自覚がないんだ。俺が火をつけてやるよ」(天龍)
「天龍は俺の10年前の道を今、走っているだけ。エースの座を維持する難しさを教えてやるよ。ぶっ潰してやる!」(鶴田)
という、それまでは全日本ではタブーとされていた感情剥き出しの日本人頂上対決なのだ。

[匿名さん]

#5472010/02/17 18:41
試合は天龍革命勃発以来の、攻めの天龍、守りの鶴田とは逆の展開になった。
これまでムキになって攻め込んでくる天龍に対して、常にクールさを装っていた鶴田の溜まりに溜まった激情が爆発し、張り手、ニーパットを外して膝頭を叩き込むジャンピングニー、ラリアット、ブルドッキングヘッドロック、ジャンピングパイルドライバー、卍固め…と、鶴田の一方的なペース。
後に怪物と呼ばれた鶴田の片鱗が見られる試合となった。
だが、鶴田が本気になるのは天龍にとっては望むところ。
12分過ぎから初公開のジャーマンスープレックス、延髄斬り、パワーボムと反撃に出て一進一退の好試合に。
最後はエプロンの鶴田にリング内の天龍がラリアット。とっさに鶴田を腕を出し相打ちになり、鶴田はロープに足を引っ掛けて宙吊り状態。そのままリングアウトを宣せられ、天龍がラッキーとも言える勝利を拾った。

[匿名さん]

#5482010/02/17 18:50
天龍の「何が何でも勝ちたい!」という執念が勝利を呼び込み、一方の鶴田は破れたとはいえ、内容的には押し気味で、エースとしての強さと怖さを見せつけた一戦だった。
「天龍の気迫は凄かった。敵ながらあっぱれ、でも抜かれたという感じはないよ。3カウント取られないと。まだ天龍は格下という感じがするし、キャリア10年と15年の差はあったと思う」(鶴田)
「ジャンボはピンフォールを狙っていたんだろうけど、俺は今まで何歩か差があったから並んでからが勝負。ここで自分の手を上げなきゃ始まらない、とにかくリングアウトでも何でも勝ちたいというのがあった。そこのちょっとした差じゃないかな。ジャンボが負けてないって?そう思ってくれなきゃ困るよ。それを聞くと俺も、もう一丁!だよ」(天龍)

そして2ヶ月も経たない10月6日、日本武道館で再戦が決まった。

[匿名さん]

#5492010/02/17 23:13
楽太郎師匠が六代目円楽襲名みたいですね天龍関の良き理解者、楽さん天龍も師匠もまだまだ咲き続けるでしょう

[リッキー台風]


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