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2024/04/14 09:46
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NO.570872

【風雲昇り龍】天龍源一郎【Revolution】
#4502010/01/26 17:25
昭和60年から二年間、天龍と長州はシノギを削って戦いに明け暮れた。
毎日が対抗戦。リングの中に緊張感が充満していた。
本当に、毎日毎日、飽きもしないでやっていた。
違う団体同士だから当然、選手たちの間に不平不満や愚痴が出てくる。
全日本の選手からは
「あいつらプロレスが分かってない。基本を知らないから、やってて危なくてしょうがない」と言っていたし、ジャパン勢からは
「全日本の連中は会場に来ても全然練習しないし、ウチのファイトスタイルがロックなら、全日本はワルツだ」とお互い好き勝手なことを言っていた。

[匿名さん]

#4512010/01/26 17:34
そういった事がお互いの耳に入って、それがまたリング上でスパークしていた。
この両者の言い分は、馬場と猪木のスタンスの違いがよく表れている。
当時、全日本はマスコミが練習中に取材に来ると、それまでの練習を止め、マスコミの言うような練習。すなわち、取材用の、形だけの練習を行っていた。
取材に来たんだから良いショットを撮らせようと、言われた事は全てやる。そして「撮った?はいはい、解散」といった具合だ。
新日本は延々と練習をやっていて、それを勝手にマスコミが撮るというスタイル。
「やってるところを勝手に撮れよ。俺たちはお前たちのためにやってるんじゃないから」といった具合だ。

[匿名さん]

#4522010/01/26 17:43
馬場の美学は「練習は人に見せるものじゃない」で、マスコミに見られるのも嫌っていた。
会場にお客さんが入ってきたりすると「お客さんが来たから、もう練習をやめろ」
猪木のほうは「レスラーは凄い」というのを見せるように、お客さんが会場に入ると、意地になって練習を見せつけていた。
長州のジャパンプロ勢も当然猪木派で、お客さんが来ても延々と会場を走ったり、スパーリングをやっていた。
馬場もジャンボも、これを凄く嫌がっていた。「わざとらしい」と。
逆に全日本は、お客さんから練習しないみたいな印象を持たれる。
どっちが良いかは分からないけど、馬場と猪木の性格の違いが、こういう部分でもよく表れている。

[匿名さん]

#4532010/01/26 17:50
天龍は練習に関して、団体で、みんなで同じような練習をしている長州たちを凄いとは思っていなかった。
みんなでこなす方が精神的に楽なのだ。自分でメニューを組んでやる方がキツい。
「全日本は全然練習してない?練習してなかったら、毎日練習しているお前らと互角に渡りあえるわけないだろ」と鼻で笑っていた。
長州とは、この頃シングルで3回戦っている。
初対決は対抗戦が始まって間もない昭和60年2月21日、大阪城ホール。
この試合が天龍にとって3回のうちで、一番インパクトが強かった。

[匿名さん]

#4542010/01/26 18:02
試合はエプロンでバックドロップを喰ってリングアウト負けだったが、エプロンで平気で凄い落とし方する長州、それをまた怪我もしないで平気で乗りきった天龍。
まさに、かけもかけたり、受けも受けたりという試合だった。
エプロンで喰ったバックドロップは今でもゾッとするという。
二回目は4ヶ月後の日本武道館。結果は天龍の反則勝ちだったが、この試合で放ったパワーボムで長州は首を負傷した。いまだに爆弾箇所になっている。
三回目の対決までは長くかかった。1年3ヶ月後の昭和61年9月3日。大阪城ホール。この頃になると、長州は新日本への郷愁を口にしていた。
だが、天龍は俺と戦っている限り、そんな事はないだろうと熱い戦いを続けた。結果はまたも、天龍の反則勝ち。シングルだけでなく、タッグも過熱した。
鶴田、天龍vs長州、谷津のインタータッグ戦は名勝負数え唄と呼ばれた。どれも素晴らしい試合だった。

それでも長州は全日本を去った。

[匿名さん]

#4552010/01/27 07:05
天龍が反則勝するなんて…

[匿名さん]

#4562010/01/27 21:44
>>454続き
昭和62年2月5日、札幌中島体育センターにおける鶴龍コンビで長州、谷津組に挑戦したインタータッグ戦。
これが天龍と長州の全日本マットでの最後の戦いになった。
試合は天龍が谷津をジャーマンスープレックスホールドでフォールし、王座を奪回したが、試合後「カウント2じゃないのか?」と抗議する寺西勇をそっと抑え、おだやかな笑みを浮かべている長州を見た時に、「新日本に帰るんだな」と実感した。

[匿名さん]

#4572010/01/27 21:50
だが、不思議とこれで終わったという気はしなかった。
いつか戦う…。
長州とはどんな事があっても、絶対に相まみえていく運命にある。
なぜかそう感じた。
次のシリーズから長州は手首の怪我を理由に全日本のリングを降りた。
そして、そのまま新日本プロレスに帰っていった。
ある日、電話が鳴った。長州力だった。
「天龍さん、俺、新日本に帰るよ。今までありがとう。もしアレだったら新日本に寄り道しないか?」
その声は敵対するジャパンプロレスの長州ではなく、昔の飲み友達の長州だった。

[匿名さん]

#4582010/01/27 21:56
「いや、俺はこっちで頑張るよ。」天龍は答えた。
「そう。残念だな。もし、寄り道する気になったら電話してよ。じゃあ。」
静かに受話器を置いた。
そして心の中にポッカリと大きな穴があいた。
長州が去って全日本プロレスは昔に戻った。
カード的にも、日本人vs外人のパターンに戻り、何かダラーッとした緊張感のないリングになってしまった。

[匿名さん]

#4592010/01/27 22:08
そんな中でジャンボは相変わらずだった。「こういう風にやれば、お客は喜ぶんだよ」とタイガージェットシンあたりが来ると、同じように場外をガチャガチャ走り回っていた。
シンの頭を掴んで壁にぶつけて「オーッ!」
こいつはプロレスを本当にいい加減にやっているなとつくづく思った。
ジャンボの背中を見ているのに疲れたのは、これよりも二年も前、ロードウォリアーズと試合をしてラリアート喰らってフォール負け(高松)した時だ。
試合後、力尽きて立ち上がれないでいる天龍の髪の毛を掴んで引っ張りながらジャンボは言った。「ほらほら、いつまでもひっくり返ってないで起きて起きて!」
「うるせぇな、この野郎!」天龍は思わず怒鳴っていた。こんな奴のお守りをするのは金輪際、嫌だと思った。マイペースと言えばそうなのかもしれない。それに体力、センスはズバ抜けている。
しかし、ジャンボの人に対する思いやりのなさが凄く嫌だった。

[匿名さん]

#4602010/01/27 22:15
また、輪島にもある事を感じていた。
「凄いよ。輪島さんが来たら、絶対みんなワーワーなって人気が沸騰して客が入るぞ!」
輪島の全日本入団が決まってから、石川とそんな話で盛り上がっていたものだった。横綱時代の輪島の人気は大変なもので、天龍にしてみれば、輪島がお客さんを集めてくれて、来たお客さんに俺達と長州との凄い試合を見せればいいという考えだった。
だが、長州が去り、改めて輪島を見ると、ちょっと違うんじゃないのか。という気持ちが胸の中に広がってきた。

[匿名さん]

#4612010/01/27 22:27
プロレスなんてこんなもんだろ。天龍自身が、かつてそうだったような感じで輪島は試合をしている。
そして、あのハンセンやシンが輪島に付き合うように適度に流す試合をしている。
それを見ても、馬場もジャンボも何も言わなかった。
長州の離脱、ジャンボ、輪島に対する割り切れない感情…
これが重なって、長州が去って2シリーズ目に、遂に天龍は爆発した。
スーパーパワーシリーズ第二戦の昭和62年5月16日、小山ゆうえんち大会。
この日が鶴龍コンビの最後の日となった。
「とにかく長州がいなくなった現状は現状として受けとめなければ仕方がない。でも、お客さんにはフレッシュ感とインパクトを与えていかなければ失礼になるし、ウチの会社にとっても良くない。もう鶴田、輪島と戦ってもいいんじゃないか…。戦いたいってことだよ。俺はジャンボの背中は見飽きたし、輪島のお守りにも疲れた!」
鶴龍コンビ最後の試合の後、報道陣に囲まれた天龍は、そう宣言したのである。

[匿名さん]

#4622010/01/27 22:31
天龍ってジャーマンできたの?

[匿名さん]

#4632010/01/28 23:48
自分は長州&谷津組がベルトを奪われる前の試合(一週間前?)が印象深いですね「おい鶴竜、今、俺を倒さないと後悔するぞ」長州が啖呵を切った試合。天龍の攻めはハンパなかったですよね是非、天龍同盟編も強豪との名勝負をじっくり読ませて下さいね小佐野さんが心酔した面倒見の良い天龍の素顔も詳しく知りたいです。

[リッキー台風]

#4642010/01/28 23:54
「50」も戻ってこないかな(^O^)そう言えば偽物も消えたな(^o^)v-~~~

[テンルー]

#4652010/01/29 23:59
>>461続き
これは当時としては思いきった発言だった。
この頃の全日本は馬場の統制下、選手のランクがきっちり決まり、強固なピラミッドが出来上がっていた。
この天龍の発言は体制への反逆と取られかねないものだったのである。
実際に、天龍の良き理解者であるグレートカブキは
「源ちゃん、ウチの会社の体質はどうやったって変わらないんだから、やめといたほうがいいよ」
と忠告していたという。

[匿名さん]

#4662010/01/30 00:08
当然、全日本内の空気は変わった。
天龍が孤立してしまったことは、誰の目から見ても明らかだった。
こんな状況で、馬場は
「やりたいというものはやらせる。近々実現させる」
と語ったものの、シリーズのカードは変更されず、天龍はイライラを募らせるばかり。
そして遂には「天龍も全日本を離脱か?」という記事がスポーツ紙に躍るまでになってしまった。
だが、最悪の事態は回避された。
「全日本のフレームの中にいるからできないんだったら出る」という過激な発言も飛び出したが、天龍の本意はあくまでも、どういう形であれ、何とか、テンションが下がった全日本を活性化させたい。であり、それを馬場も心中では理解していたからだ。

[匿名さん]

#4672010/01/30 00:21
6月1日、金沢におけるタイガーマスク(三沢光晴)の猛虎七番勝負の相手となった天龍は、低迷中だったタイガーの力を目いっぱい引き出した。これが、方向性を決めあぐねていた馬場に決断を促した。
「素晴らしい試合だったと思うな。タイガーは負けはしたけど、これを機に伸びていくだろう。そして、これはタイガーに限らず、他の選手にも言えること。ファンも望んでいるだろうし、ドンドンそういうカードを組んでいきたい。その戦いには、俺が鍛えている高木、テンタをいずれは送り込むし、俺も挑戦するかもな」
と事実上、天龍のプランを受け入れることを明らかにし、翌2日の富山大会終了後、天龍に直接「思った通りにやってみろ!」とGOサインを出した。
これを受けて、天龍はオフ日の4日、名古屋のシャンピアホテルに阿修羅・原を呼び出してパートナーになることを要請した。

[匿名さん]

#4682010/01/30 00:32
前にも書いたが、天龍は、阿修羅のことは国際プロレス時代から注目していたし、昭和59年4月11日大分におけるUN戦の印象が心の中に強く残っていた。
唐突に組まれたタイトルマッチ、しかもお客さんもガラガラの中で、阿修羅はひたむきにぶつかって来てくれたのだ。それ以来、男気のある素晴らしい奴だな。という意識が芽生えていた。
しかし、阿修羅はこの後スランプに陥って10月に失踪してしまった。
そして再び姿を現したのは、半年後の昭和60年4月。
ちょうど全日本vsジャパンプロの最中で、天龍vs長州がヒートアップしており、一度は廃業を考えた阿修羅だったが「俺も熱い戦いがやりたい!」とフリーのヒットマンとなって全日本にUターンしたのである。

[匿名さん]

#4692010/01/30 00:41
だが、一匹狼の現実は厳しかった。当然マッチメークのバリエーション上、タッグマッチも必要になってくる。
いつしか阿修羅は国際血盟軍に組み入れられるようになり、いくら本人が「俺は国際血盟軍と共闘しているだけで、あくまでフリーの一匹狼だ」と主張しても、誰も耳を貸さなかった。
阿修羅の生き甲斐は年に何回か組まれるであろう、天龍とのシングルマッチのみ。もちろん必ず組まれるという保証はない。そんな状況で悶々と日々を過ごす阿修羅のことを、天龍は「そんな所に居ちゃダメだ」と気にかけていた。

[匿名さん]

#4702010/01/30 00:49
実はシリーズに突入する前に、阿修羅と話したことがあった。
ちょうど阿修羅が合宿所に寝泊まりしていて、天龍が練習に行ったときにバッタリ顔を合わせたのである。
「源ちゃん、最近元気ないよ」
「別にそんなことないよ」
「もし何かやる気だったら、俺もやるよ。源ちゃんがもえていてくれなきゃ、俺も目標がなくなっちゃって困るからさ」
短い会話だった。
天龍は腹をくくって馬場に直訴した。まだ阿修羅に具体的に相談する前だった。「阿修羅と組ませて下さい。好きなようにやらせて下さい!」
こう馬場に頼んだのだ。

[匿名さん]

#4712010/01/30 01:00
なぜ阿修羅だったのか?
阿修羅をこのまま中堅の立場で終わらせてしまうのはもったいないという気持ちもあったし、また行動を起こすに当たって、今までと違うインパクトを出すためには、パートナーは全日本カラーに染まっていない人間にしようとも考えていた。
そして「阿修羅も、もう無駄な時間を過ごしている暇はないはず。一緒に目いっぱい走ってみないか」と口説いたのだ。
もちろん阿修羅に異存があるわけがない。
「源ちゃん、俺は大分の試合が忘れられないんだ。ラグビー時代、勝ち負けにこだわらず、頭の中が真っ白になって、無心でボールを追ったゲームが1日だけあった。それに近い感覚があったのが、あの大分なんだよ。それをもう一度、味わいたくてやってきたけど…。源ちゃんと戦えるのは、年に1〜2回。いつ来るか分からない一騎打ちのチャンスを待つより、組んで競い合う方法もあると思うんだ…。」
というのが阿修羅の言い分だった。

[匿名さん]

#4722010/01/30 01:14
天龍と阿修羅はガッチリ握手した。
よしやろう、思いっきりこれまでのプロレスの枠を超えて、客席にまで、目いっぱい痛みの伝わるプロレスを二人で実践しようじゃないか。俺たちが、全日本のリングに革命を起こすんだ。

阿修羅との会談後、名古屋城の前で取材を受けた天龍は
「俺ひとりじゃ、マッチメーク上でシングルに限られてどうしようもないから、阿修羅と二人で突っ走っていく。阿修羅のプロレスに対する情熱は、試合をしたり、見たりして分かっているからね。これはファンが望む1対1の布石…ジャンボ、輪島を本気にさせて、みんなに全日本は面白いって言わせてやるよ。そして最終目標は、全日本で光る存在になって、阿修羅と二人で新日本、長州の自主興行に上がってみたいね。全日本マットの代表として長州、藤波と戦うのが夢だよ」
と晴れやかな顔で宣言。
昭和62年6月4日、天龍革命=レボリューション記念日。そして龍原砲と呼ばれ、日本マット史上に残る名コンビが誕生したのである。

[匿名さん]

#4732010/02/01 05:19
その2日後の6月6日、長門市スポーツセンターで龍原砲は発進。輪島、大熊組を血祭りにして祝杯を上げた。
何しろ二人だけの革命である。
1日でもまずい試合をやったら終わってしまう。
そんな切羽詰まった気持ちだった。

[匿名さん]

#4742010/02/01 05:28
だが、一部のファン、関係者からは「長州の維新軍の焼き直しじゃないか!」という声も上がった。
確かに表面上はそっくりだし、後年になって天龍自身も「抜けた長州の影をずっと追い続けていたのかもしれないよね」と語っていたが、維新革命と天龍革命は似て非なるものだとハッキリ言える。
維新革命は長州の凄まじいハングリー精神、ガッツ…「実力的には遜色ないのに、俺と藤波のどこが違うんだ。藤波と勝負させろ!」という個人の上昇志向、野心が原動力となって生まれた。
それを何でもリングの上に転換させてしまう猪木が認めたものだ。

[匿名さん]

#4752010/02/01 05:36
一方、天龍革命は、もちろん、天龍の「長州がいた頃の熱い戦いをやってみたい!」という願望もあったはずだが、何よりも「全日本を活性化させたい!」という愛社精神が根本にあった。
馬場は猪木と違って、何事も筋が通ってないと認めない。
スキャンダラスな事をリング上に転換させるという思考は持ち合わせていないのだ。
話題を提供するために、過激なアピールもした天龍だが、決して試合をボイコットするなどの会社に迷惑がかかる強硬手段は使わずにリング上のファイトなどで粘り強く馬場を説得し、筋を通した。

[匿名さん]

#4762010/02/01 05:41
革命行動=反逆というのが常だが、天龍の行動は、きちんと団体責任者の承諾を得ての画期的な無血革命だった。
そこに大きな意義があった。こうした行動で愛社精神がクローズアップされたのは初めてのことでもあった。
レスラー、ファンの間に「個人ではなく団体」という概念が生まれたのは、これが最初だったように思う。と長年、天龍番記者を務めた小佐野氏は語っている。

[匿名さん]

#4772010/02/01 05:49
「あの当時、俺はいろいろな事を言ったと思うけど、要するに、心の中にあったのは、ジャンボ鶴田は凄いんだよ。輪島大士は捨てたもんじゃないんだよって事だよ。ジャンボの強さ、凄さは身近にいて俺自身が一番知っていたんだけど、キャラクターの強い新日本ばかりが注目されて、ファンやマスコミに伝わっていないというのが癪だったんだよね。俺自身、そろそろジャンボが振り向いてくれるような立場になったかなという気持ちがあったから、だったらやってやろうと。」

[匿名さん]

#4782010/02/01 05:58
「それに輪島さんは…。ハンセンとかシンとか、みんなが適当に合わせて試合をやってて、本人は分からないから、それでいいと思っている。それを全日本の奴らも本人の前では横綱!と呼んで立てているのに裏では笑って見ているわけでしょ。俺にしたら相撲の横綱を舐めるなよって気持ちがあったよね。それなら同じ相撲上がりの俺が輪島さんの凄さを引き出してやるよと。よく天龍の輪島への攻めはイジメみたいだって言われてたけどさ、きっと輪島さん自身は、まっ、同じ相撲出の天龍にやられるのは仕方ないかぐらいにしか思ってなかったんじゃないの(苦笑)でもジャンボが真正面から向き合ってくれて、輪島さんが容赦ない攻めを凌ごうと向かってきたからこそ、俺たちも光れたと思っているよ。その意味じゃ感謝しているよ」
と天龍は革命の真意を語っている。

[匿名さん]

#4792010/02/01 22:48
あの前田日明が輪島の顔面を蹴り上げる天龍源一郎を見てビビってたじろいだんですょね

[HBK]

#4802010/02/02 17:45
>>479
天龍と前田の対談があったからちょっと書きます。

前田「俺が第2次UWFをつくる前だったと記憶しているんですが、天龍さんと輪島さんの闘いがありましたよね」
天龍「あったね」
前田「正直に言って、あの一連の天龍さんと輪島さんの試合を見て凄い危機感を感じたんですよね」
天龍「俺のエグい攻撃に、輪島さんも必死になって向かってきてくれたよ」
前田「そのね、天龍さんの攻撃を逃げないで受けた輪島さんも凄いけど、その輪島さんの顔面に堅いレスリングシューズでガンガン蹴りを入れている天龍さんをみて、わぁ〜と思ったんですよ」
天龍「わぁ〜?(笑)」

[匿名さん]

#4812010/02/02 17:59
前田「そうです。わぁ〜です(笑)天龍さんの攻撃を見てね、こんなシビアな攻撃を自分自身、対戦相手に対してできるんかいな、と疑問に思っちゃったんですよね」
天龍「前田選手に疑問を持たせるほどの攻撃をしてたかな、俺」
前田「してましたよ。当時、新日本プロレスが過激なプロレスを標榜してたけど、天龍さんのほうがよっぽど過激なプロレスを実践してたと思うんです。だから、俺も負けじと新日本の枠の中で天龍さんに負けないような試合をしようと頑張ったんですけど、うまくいかなかった」

前田「輪島さんが引退した後も、自分の試合スタイルを天龍さんは押し通しましたものね。スタンハンセンにジャンピングハイキックを顔面に入れてKOしたり」
天龍「ああ、あったね、そんな試合。でも、あれからハンセンが執拗に俺を追い回してね。試合が組まれる度にハンセンにはボコボコにされたよ(苦笑)あの顔面蹴りには相当、頭にきてたんだろうな(笑)」

[匿名さん]

#4822010/02/02 18:11
前田「もう俺なんか拍手喝采でしたよ!わぁ〜天龍さんは、目の前にある壁をどんどん突破しちゃってるなって」
天龍「いや、そう言ってくれるけど、俺は必死に一生懸命にやってるだけだからね。別に難しい事はやっていないよ。ただ、やっぱり、なめるなよ。という気持ちはいつも持ってるけどね」
前田「俺も持ってます」
天龍「うん。格闘技ちゅうもんは、ひとつ間違えば、それでアウトなんだからね。だからこそ、みんな苦しい練習を積み重ねて真剣に体を鍛えている。そんな思いまでしてリングに上がっているのに、メインイベントでも下を向いている奴がいる」
前田「確かにいますね、根性のない連中が」
天龍「だから俺はいつも、この野郎、ふざけるなよ!と、そんな連中と勝負をしてきただけの話なんだ。」
前田「天龍さんの気骨は本当に尊敬できますよ。ファンもマスコミもね、天龍さんの気骨をもっと理解しなきゃあかんですよ」

[匿名さん]

#4832010/02/02 18:20
天龍「何事もやり続けるのは大変な事なんだよ。大変だけど、それでもやり続けられるのは、どんなに中傷されても意地があるからなんだよな」
前田「意地、というより男のプライドなんですよね」
天龍「うん」
前田「意地やプライドさえあれば、どんなことが起きてもやり続ける事はできますからね」
天龍「うん。そうなんだ」
前田「その意地やプライドを天龍さんは抱え込んで、立派に実践して生きている男なんだと思います。さっきも言ったハンセンをKOした試合がいい例ですよ」
天龍「なんて言えばいいのかなぁ…。うまく言葉では表現できないんだけど、スタンハンセンには、相手に向かっていく事の大切さを教えてもらったような気がする」
前田「ええ」

[匿名さん]

#4842010/02/02 18:32
天龍「ハンセンにはリングの上でいろんなことを教わったよ。意地みたいなものも含めてね。意地やプライドさえ持っていれば、どんなつらいことでも我慢して、できちゃうからね」
前田「そうですね。男同士の意地の張り合いというか、プライドを賭けた闘いは見ていて美しいし、感動するんだと思いますね」
天龍「意地の張り合いは、やってる本人たちは大変だけど、おもしろくて、ワクワクしてしまうと感じる部分もあるんだ」
前田「スポーツをやっている人間だったら、そんな天龍さんの大きなハートを敏感に感じ取る事ができるはずなんですよ」
天龍「そう言ってもらうと嬉しいね」
前田「俺、思うんです。天龍さんのようなレスラーが日本のプロレス界にあと10人いれば、誰にも後ろ指差されない魅力的で素晴らしい世界になるはずだって」
天龍「いやあ、こんなに褒められるなんて、馬場さんが俺を相撲から誘ってくれたとき以来だよ(笑)」


さて、今日2月2日は天龍さんのバースデーです。
1950年生まれだから還暦ですね。
まだまだ元気なところを見せてもらいたい。

[元おっかけ]

[匿名さん]

#4852010/02/02 19:37
流石もとおっかけさんですねっ
全部言われましたょ…

[HBK]

#4862010/02/02 19:41
スタンがスタンと落ちて失神したのゎ原とのサンドイッチ顔面蹴りでしたょね
あの後のスタンの切れっぷりゎ凄まじかったですょね

[HBK]

#4872010/02/02 22:56
強さ、男らしさを兼ね揃えた最強の還暦馬場さんや猪木の還暦より全然元気だし。生き様がかっこいいですね

[リッキー台風]

#4882010/02/03 21:27
>>478続き
そうした天龍の気持ちを馬場はちゃんと理解していた。
「俺がジャンボや輪島のケツを叩くよりも、仲間だった天龍にコキ下ろされて、リング上で喧嘩腰で向かってこられれば、その方が発奮材料になるだろ」
と言っていたし、この天龍革命勃発直後には、新日本マットで猪木に世代交代を迫る長州、藤波、前田らの新世代軍が誕生し、日本マット界は、こうした2団体の流れからニューリーダーズブームとなった。

[匿名さん]

#4892010/02/03 21:36
だが、そんな中でも馬場は
「みんなひっくるめてニューリーダーとか言っているけれども…天龍が他のニューリーダーと、どこが違うか。それはな、私利私欲がないことなんだよ。どうすればプロレス界が、ウチの会社がよくなるかを常に考えて行動している。そしてアレはプロレスでトップを獲ること、スターになるにはどうしたらいいかを知っとる。練習をして、常に一生懸命やるってことをね。だから俺は、天龍が何を言おうが、何をやろうが全然、心配しとらん」
と天龍に全幅の信頼を寄せていた。
全日本正規軍と離れた立場上、天龍は控え室も移動もホテルも馬場とは別だったが、それでも重要なことがあると、馬場は天龍を呼び出して相談していたものだ。

[匿名さん]

#4902010/02/03 21:44
こうした馬場の信頼に天龍も
「私利私欲?ハッキリ言ってそんなものはないよ。会社にとっちゃ都合のいい人間かもね。でもね、個人の欲なんて、ちっぽけなものなんだよ。俺は家族を褒められるってことは、自分自身も褒められていることだと思うからさ、だから俺は、プロレス面白いですね。全日本プロレス面白いですね。って言われりゃ、俺自身も評価されていることだと思うよ。それでOKだよ」
と言っていたものである。

[匿名さん]

#4912010/02/03 21:49
最終的には平成2年4月に全日本を離脱することになったわけだが
「やっぱり馬場さんを裏切ることはできないな。もしも俺が出るんだったらギブアップする時だよ。全日本の連中に愛想が尽きてさ、馬場さんに、すみません。て頭下げて、結果的には裏切ってしまうことはあるかもしれないけどね…」
というのが天龍同盟時代の天龍の口癖でもあった。

[匿名さん]

#4922010/02/03 21:57
馬場と天龍の関係を知る上で面白いエピソードがある。
ある巡業中、天龍同盟は巡業先の旅館で宴会になった。
そこで天龍は「馬場さんから米(相撲用語でお金の事)引っ張ってこい!」
と馬場の付き人だった小橋に命令。
すると小橋は本当に米をビニール袋に入れて宴会場にやってきた。
「ナニ?ふざけるな、この野郎!」と天龍激怒。
ところが、袋の米の下にはちゃんと現金が入っていたから、何とも粋な計らいだ。
しかも、小橋の後ろから馬場がヌーッと入ってきたのだから天龍同盟のメンバーもビックリ。
そのまま馬場も交えての大宴会となった。

[匿名さん]

#4932010/02/03 22:05
これに味をしめた?天龍は、今度はスナックで飲んでいるときに
「米が足りないな。よし、馬場さんから引っ張ってこい!」
と付き人の折原に馬場の部屋まで行かせた。
もちろん深夜。さすがに
「何時だと思ってるんだ!」と怒った馬場は財布を折原に投げつけた。
折原が「ごっちゃんです」と財布をスナックに持ち帰ると
「おう、よくやった」と天龍ご満悦。
その財布で支払いを済ませた天龍は翌日、宛名がジャイアント馬場様と書かれた領収書入りの財布を返したという。
正直な話、ジャイアント馬場はレスラーにとって近寄り難い存在だった。
だが、こんなことができるだけの信頼関係が当時の馬場と天龍の間にはあった。

[匿名さん]

#4942010/02/03 22:32
今、朝青龍問題や貴乃花親方の件で連日、角界のニュースを目にしますね。
今日たまたま、昼食時にテレビを見ていたら、二所ノ関部屋で駆け出しの天龍に影響を与えた昭和の大横綱・大鵬さんがワイドショーのインタビューに出てました。
69歳とは思えない体つきとオーラがあり、話も筋が通っているし、読書家でもあるためか、コメントも他のお相撲さんとは全く異質なもので、非常にためになりました。
天龍のコメントも他のレスラーとは明らかに違っていて、僕的には一番ですね。
前田日明もかなりの読書家でコメント面白いです。

話は変わりますが、週刊ゴングの発行元の日本スポーツ社でしたっけ?

が破綻したというニュースを見ました…

小佐野さんが書く天龍の記事を読むために毎週欠かさず買っていただけに…

何と言ったらいいか…

できるだけ正確に小佐野さんの記事をここに再現してみようと思ってます。

それとリッキーさんとHBK。
いつもレスありがとう。

最近見かけませんが、元テキ屋さんは元気にされてますか?

[元おっかけ]

[匿名さん]

#4952010/02/03 23:00
プロレスカテゴリーの参加者をレスラーに例えるなら、天龍源一郎はプロレス博士〔元おっかけ〕さんです

ノアVS反ノア、反プロレス派のレスがはびこって「読むのやめようかな」と思っていた自分を、また(恥をしのんで)カムバックさせたのは〔元おっかけ〕さんのこのスレです。

[リッキー台風]

#4962010/02/04 18:41
>>493続き
話をリング上に戻します。
昭和62年6月6日の長門市スポーツセンターにおける「スーパーパワーシリーズ」第21戦で輪島&大熊組相手に発進した天龍と阿修羅の龍原砲の勢いは想像以上に凄いものだった。
タッグチームとしてのカラーを出すために、次々に目新しい連係技を編み出した。
そして、それらの技はどれをとっても、ひとつひとつ技が重く、まさに入魂という表現がふさわしい迫力なのだ。

[匿名さん]

#4972010/02/04 18:46
もちろん相手にも手抜きはさせない。
例えば、鶴田が阿修羅にコブラツイストをかけた途端、天龍がリングイン!
鶴田に痛烈な張り手一閃。「コブラツイストで一息ついて休もうとしたって、そうはいかないぜ」ということだ。
後年、鶴田は相手をギリギリ締め上げる、説得力十分の拷問コブラを得意としていたが、それは天龍の「ジャンボのコブラは休むための意味のない技」という批判への答えだったように思う。

[匿名さん]

#4982010/02/04 18:53
天龍と阿修羅がムキになって攻め込んでくれば、相手だってムキになって反撃する。
鶴田はジャンピングニーを容赦なく顔面にブチ込むようになったし、タイガーマスクは天龍や阿修羅の腕にシューズの紐の跡がつくほどのキックで対抗、グレートカブキは強烈すぎるアッパーブローにトラースキックを的確に天龍、阿修羅のアゴ目掛けて放っていた。
輪島は仁王様のような凄い形相で立ち向かい、石川や渕もジャパンプロと戦っていた頃のような気迫を取り戻した。

[匿名さん]

#4992010/02/04 18:59
大見得を切って正規軍を離脱した龍原砲と、その龍原砲にコキ下ろされた正規軍の双方の「負けてたまるか!」という意地がリング上で交錯するのだから、面白くならないはずがない。
そうした選手たちの張り切りぶりを馬場が
「してやったり!」
と喜んでいたのは言うまでもないことだ。
ちなみに敵対しながらも、心情的に天龍派だったのはカブキと石川。
二人とも、あえて、敵側に回って熱い試合をやることこそ、天龍と阿修羅の行動をバックアップすることになると考えていた。

[匿名さん]


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