そう言えば1990年頃、日曜の21:00から放映されていた『知ってるつもり?』
(司会は関口宏さん 日本テレビ系)で クリスマスが近づいてきたので
サンタクロースを取り上げていたんだもん。
少女バージニアが「サンタクロースの存在を疑う人は心のせまい人です」といった内容の手紙を
ニューヨークの新聞社の記者に送った、という話題には日本中の視聴者も感銘を覚えたのだった。
[匿名さん]
テレビデオ。
便利と思ったが、片方が故障すると
両方とも見られなくなると思ってゾッとした。
[匿名さん]
昭和40年代直前の昭和39年(1964年)のプロ野球
日本シリーズ・阪神タイガース-南海ホークス(現・ソフトバンク)戦は
10月10日の東京オリンピック開幕日までもつれ込み、
南海は間が悪い優勝日本一となった。
錦織一清(昭和40年生まれ)、東山紀之(昭和41年生まれ)、
植草克秀(同)が『笑っていいとも!』(フジテレビ系)の
テレフォンショッキングに出演した際、
「東京五輪のときにまだ生まれていない!若いなぁ!」
とタモリ(森田一義)が驚いていたのを思い出す。
[匿名さん]
昭和40年生まれの方が
23歳のときの昭和63年は
天皇陛下の病状が悪化なさっていたために
沈んだムードになっていました。
それでもソウル・オリンピックでの鈴木大地選手のメダルや
バレーの活躍は明るいムードにさせてくれました。
「天皇陛下を勇気づけたのはないだろうか」と
感動したことを憶えています。
デパート洋服店売り場の飾りがなくなり、乗用車CMの
「お元気ですか?」のセリフも消音されましたものね。
[匿名さん]
崩御なされたらテレビは追悼番組一色でレンタルビデオ屋大繁盛
[匿名さん]
子どもらしい子ども時代を過ごすことがエリートとして大成するためには不可欠だったんだ。
子どもの頃はテレビのバラエティ番組をよく見て、大衆を引き付ける術を体得した。
「8時だよ!全員集合!」(TBSテレビ)オレたちひょうきん族(フジテレビ)
「欽ちゃんのどこまでやるの」(テレビ朝日) 東芝ファミリーホール特ダネ登場!?(日本テレビ)
「天才たけしの元気が出るテレビ」(日本テレビ)、「笑っていいとも!」(フジテレビ)
「今夜は最高!」(日本テレビ)「みごろ!たべごろ!笑いごろ!
(全国朝日放送(テレビ朝日)」など、とても楽しめたなぁ。
「欽ちゃんのどこまでやるの」は「欽どこ」という愛称で親しまれた。
庶民性があって庶民の暮らしや価値観を理解するのに役立ったの。
欽ちゃん(萩本欽一さん)、見栄晴さん、真屋順子さん、わらべ。
そして「もしも明日が」という番組発のヒット曲を
全員で合唱したシーンに合わせて我が家でも全員で合唱したのは最高に懐かしく楽しい思い出なんだもん。
[匿名さん]
「巨泉のこんなモノいらない!?」(司会・大橋巨泉
日本テレビ系)という番組を子どものときに真剣に観ていた。
政治・経済から庶民の日常生活に至るまで、世の中の「いらないモノ」を
独断で切り捨てていくことをコンセプトにしたトークバラエティ。
地方分権などをテーマにした「東京」など、
それから18才で与えてもいいのではないかという
疑問をテーマにした「選挙権」などを議論していたの。
ほかに「英語教育」、「大学」などのテーマもあり的を射ていたことを
子どもながらに見抜いていた自分が誇らしいんだ。
司会の大橋巨泉氏(故人)は最初から2年で番組を終了させるつもりだった。
オーストラリアでのリタイアライフを送るために初志貫徹したらしい。
そういう生き方もあることを子ども時代に知ることが出来たのは
エリートとして生きることを宿命付けられた自分にとっては有為であったと思うんだもん。
[匿名さん]
そういえば、83年(昭和58年)第55回全国センバツ高校野球大会では徳島県立池田高校が
横浜市立横浜商業高校を3-0で破って史上2度目の夏春連覇を成し遂げたんだ。
昭和40年代生まれとしては初めての3年生が成し遂げた
この快挙だったので、我ながら嬉しく思ったのを今でもはっきりと覚えている。
ちょうどあれから「40年」経ったのだと思うと感慨深いものがあるの。
[匿名さん]
今の若い人にも是非知って欲しい。お手本にして欲しい
吉村禎章さんと言うプロ野球選手がとても印象に残っているんだ。
1963年<昭和38年>生まれ 読売ジャイアンツ
PL学園高校(大阪)時代の81年『全国センバツ高校野球大会』に出場し同校の優勝に大きく貢献した。
東海大工業高校(現・東海大静岡翔洋高校/静岡)の成田投手が
試合を通じて唯一とも言えた失投を見事、本塁打に仕留めたその打撃は素晴らしかった。
なお、この学年は高校生左腕投手の当たり年だったのを覚えておいて欲しい。
工藤公康(名古屋電気高校-西武ライオンズ)、西川佳明(PL学園-法政大学-南海ホークス)
古溝克之(福島商業高校-専売東北-阪急ブレーブス) 園川一美(九州学院高校<熊本>-ロッテオリオンズ)
高木宣宏(北陽高校<大阪>広島東洋カープ)。いずれもプロ野球界に進み、それぞれのチームで大活躍したのでした。
[匿名さん]
高校野球では、山梨の東海大甲府高校野球部は全国常連となって
戦いぶりも見事なのでそのうち優勝するだろう思っていたがまだ出来ていない。
同校の大八木治監督は名将だったが、ベスト4より上にはなかなか届かない。
87年(昭和62年)春の全国センバツ大会で同校のエース山本信幸君が
大阪・PL学園の桑田泉(元巨人・桑田真澄の実弟)から5球もファウルで粘られた。
どうなるのかと手に汗を握って見守っていたら
最後はとうとう三振に打ち取って小さくガッツポーズした場面がとても印象的だったもん。
[匿名さん]
昭和の時代は郵便局員赤い自転車乗って
配達してたよな。
[匿名さん]
街にミニパトよく見掛けたよな
悪さするとかもしか号に乗せられて(汗
[匿名さん]
◇友達が赤い原チャリに乗っていて
「郵便屋さん」(笑)と僕らが言っていたんだ。
今の名刺と違い、当時は
警察手帳を使っていたと聞いている。
女子警察官ではなく、
婦人警察官という名称だった。
◇1965年(昭和40年)生まれの方が
高校3年生だった83年に
全国高校サッカー選手権大会に
出場を果たしたのは県立鶴岡南高校。
大学1年生か、早い方は
社会人1年目のときに
同大会に出場したのが
県立山形東高校。
県立進学校の連続出場だけでなく、
県下随一の山形市内進学校である
山形東の出場は何よりうれしかった。
◇異常気象は65年(昭和40年)
生まれが新入社員のころの
84年あるいは
88年の頃からあった。
10月1日の衣替えでも
夏用スーツを着ていた。
[匿名さん]
今の全国高校野球選手権大会は、昔は
全国中等学校野球優勝大会といっていたの。
旧制京都商業中学のエースだった沢村栄治氏、
旧制海草中学の嶋清一氏などは本当に球が速かったんだ。
沢村氏は後に巨人軍に入団した。
古老にうかがったところ、沢村氏の投げるボールを
今スピードガンで計ったら
170キロ強を出していたといわれているんだもん。
もちろん、僕はそのころ生まれいなかったが、沢村氏を含めて尊い命が
太平洋戦争で奪われたのは、本当に悲しく残念だと思んだ。
エリートとして社会的責任が重い立場にある僕は
この悲劇を乗り越えた先代の方たちのおかげで
今の僕が活躍できる社会があるのだということを
忘れてはいけないと肝に銘じている。
それが本当のエリートに求められる資質なんだもん。
[匿名さん]
僕らの年代で知っている
バレーボール選手は
大古誠司、森田淳悟、
田中幹保、河合俊一など。
女子は三屋裕子、松田紀子、
中田久美、大谷佐知子ら。
[匿名さん]
字が間違っておりましたが、川合俊一
(昭和38年2月3日生まれ)や
中田久美(昭和40年生まれ)が出てきたときには
年代が近くなってきたので親しみを感じた。
オリンピック予選で
真剣に応援した。
[匿名さん]
◇猫田勝利(専売広島<JTサンダーズ広島>)、
横田忠義(本年5月9日死去)らを擁した
全日本バレーに夢中だった。
「モントリオール五輪」での連続
金メダルを期待していたが、4位だった。
猫田氏が生きておられたら日本バレー界が
もっと早くから変わったに違いない。
◇昭和60年秋季高校野球東北大会で
東海大山形高校が青森山田高校を2-1、
泉館山高校(宮城)を6-1、,秋田高校を
8-6と下し、見事東北大会優勝を果たした。
まさか、あの小粒なチームで翌年の
全国選抜高校野球大会出場を
当確にするとは思わなかった。
エースピッチャー・小野と広野准一
(元・日本ハムファイターズ)を擁した
もう一つの代表校・日大山形
高校のほうが上だと思っていた。
◇『バレー界のON』(大谷佐知子・
中田久美、ともに昭和40年生まれ)。
中国でのロス五輪予選を
固唾を呑んで見守った。
[匿名さん]
ラグビーの早稲田大学・堀越正巳
(昭和43年11月27日生まれ)と
明治大学・吉田義人(昭和44年2月16日)
との対決が、今の時期から待ち遠しかったんだ。
年が近い「昭和40年代」ヒーローが
出てきたことが励みになった。
[匿名さん]
◇『ホイホイ勉強術』(多湖輝<心理学者> ゴマブックス)の
冒頭が、「『出来る!』と思うことが成功への第一歩である」であった。
ジョー・フレイザー(ボクシング 元・世界チャンピオン)は
ジムの壁に「Yes I can!」と書いた紙を張っていたという。
どんな苦しい時でも、それを見ると
みなぎる闘志がわいたという。
◇プロ野球・阪急ブレーブス(現・オリックス・
バファローズ)の上田利治監督は
選手のプロフィールを
すべて把握していたという。
「お前の高校時代のフォームは」という
指導の仕方をされるから、選手はたまらない。
人間は誰しも自分のことを知らない人よりか、
知っている人に対してのほうが
期待に応えたいと思うものである。
華々しい活躍ができなかった苦労人であるだけに
選手のハートを掴むのがうまい名指導者であった。
[匿名さん]
阪急ブレーブスが84年(昭和59年)にリーグ優勝した時
(日本シリーズでは広島東洋カープに敗戦)に
ブーマー・ウェルズ、熊野輝光、石嶺和彦らがいました。
75年~77年にかけての3年連続日本一と
78年リーグ優勝の時は足立光宏、
大橋穣、マルカーノ、
ウィリアムスらが活躍しました。
78年のヤクルトスワローズとの日本シリーズでは
あの「1時間19分」の猛抗議の末に敗れてしまいました。
それでも王貞治、張本勲、堀内恒夫、小林繁ら、
強力な布陣だった読売ジャイアンツを
全く寄せ付けない見事な
チームを作り上げました。
長嶋茂雄監督も「緻密な野球に
やられた」と語っていました。
[匿名さん]
プロ野球も日本シリーズ、ドラフト
会議を終えると野球シーズンが終了。
毎年、この時期になると高校ラグビー、高校サッカー、
高校バスケ、高校駅伝予選が楽しみだった。
さらにラグビー早明戦、
社会人ラグビー、箱根駅伝も。
バスケットも昔は日大山形
高校が強かったですよね。
全国で優勝したことがある。
[匿名さん]
◇山形市内百貨店で購入した
ネイビーVネックのセーター。
@2980だったが太い糸
だったので、意外と温かかった。
◇81年秋季高校野球東北大会で
勿来工業高校(福島)、木造高校(青森)、
秋田南高校(秋田)と下して
決勝まで進んだ日大山形高校、
87年同大会で福島北高校
(福島)を破り優勝に輝いた
東海大山形高校が全国選抜大会出場へ
当確ランプを灯したのは意外に思った。
81年のときはエース投手・津藤さんが
時速100キロ前後の軟投派、
87年は夏の全国選手権出場時のエース・増田さん
(ヤオハン・ジャパン入社)を残しているとはいえ、打線が小粒だった。
まさに全員野球の勝利、
高校野球の素晴らしさと怖さだった。
[匿名さん]
当時から温暖化傾向で雪も少なめでは
あったが、今ほどではなかった。
寒冷地・岩手ほどではないにしても
マイナスになることも結構多かった。
当時、長期予報はなかった気がする。
それ故、冷える体質で不安なので
今頃から冬対策をしていたものだった。
足りなかったり、古いと思ったらセーター、
ダウン、こたつなどを買いに行っていた。
[匿名さん]
伝説の29対7。次の年で選抜、選手権と県代表となる。やはり負けは強くするね。
[匿名さん]
選抜は松商学園(長野)選手権は京都商(京都)に敗れたのだな。
[匿名さん]
平成あたりからスポーツの多様化により
プロ野球ナイター中継の視聴率が落ちていた。
三浦カズ、ラモスなどの
選手がいるJリーグをはじめ、
堀越正巳選手(早稲田大学出)がいた
ラグビーも人気が上昇していた。
あるバラエティー番組で各飲食店をアナウンサーが
回って、巨人戦が見られているか調査する企画があった。
「ここでも、見ていません」、「ここでも
お笑い番組です」といった具合だった。
それは91年だったと思った。
藤田元司監督(慶應義塾大学-
日本石油<現・ENEOS>)が
率いる巨人は2連覇の反動で
この年は3位か4位だったと思う。
[匿名さん]
ドラマ『俺たちの旅』(中村雅俊etc)
DVDマガジンが
発売されているけど、僕らの
年代では知らないのではないか。
『ゆうひが丘の総理大臣』
(中村雅俊、神田正輝、由美かおるetc)
であれば知っていると思うが。
『あさひが丘の大統領』
(宮内淳、藤谷美和子etc)も。
「俺たちの旅が最高だった」と
上司たちが言うから、
「もっと早く生まれて
いればなぁ」と思う。
[匿名さん]
僕らの世代はアリス(谷村新司・堀内孝雄・
矢沢透)初期のころの「走っておいで恋人よ」、
「街路樹は知っていた」は知りませんが、
「遠くで汽笛を聞きながら」、「冬の稲妻」、
「夢去りし街角」は知っています。
ニッポン放送日曜朝9:00のヒットチャート番組などで
いい曲だと思うとレコードショップへ買いに行っていました。
ワクワクしながら、店頭に
入っていった事を思い出します。
谷村新司さん、本当に
ありがとうございました。
謹んでご冥福をお祈りします。
[匿名さん]
小林ひとみのサイン会がミュージック昭和で有った時に学ランで行ったら「あらっーまだダメよお兄さん達は もう何年かしたらまた来てね♥️」と言われ握手だけしてもらえた… それ思い出しただけで100回は抜いた💦
それが私のfirstLOVE♥️
[匿名さん]
◇ラジオで聴いていい歌だと思い、レコード・ショップへ買いに行った。
アリス(谷村新司 堀内孝雄 矢沢透)の『さらば青春の時』、
『涙の誓い』、『ジョニーの子守歌』。
ほかにもドラマ『時よ燃えて!』(加山雄三、荻島眞一、野際陽子etc、フジテレビ)を見て
『天までとどけ/惜春』(さだまさし)を買いに行ったのも思い出。
◇83年(昭和58年)秋季高校野球東北大会は大船渡高校
(岩手)が優勝、金足農業高校(秋田)の準優勝で幕を閉じた。
大船渡高校は翌年の全国選抜大会でベスト4進出。
山口重幸(阪神-ヤクルト-同・スコアラー)、森範行(日本ハム-同・スカウト)、
菅沢剛(青山学院大学-熊谷組-東芝 東京・
成立学園高校監督として全国選手権大会出場)を擁して
優勝した岩倉高校(東京)に2-1と善戦している。
金足農業高校も84年全国選手権大会であの
桑田真澄(巨人など)、清原和博(西武-巨人-オリックス)、
鈴木英之(駒澤大学-神戸製鋼-関西国際大学監督
大学JAPAN監督)を擁したPL学園高校(大阪)に善戦している。
山形南高校(山形市東原町)が大船渡高校に14-1、
羽黒工業高校(現・羽黒高校 鶴岡市)が金足農業高校に
8-0(6回コールド)で大敗したのは当然だったのかもしれない。
[匿名さん]
東京なんか温暖化がすごい。
ここ数年ダウンジャケットの世話になってないもん。
作業用ジャンバーですんでいる。
僕らの幼少のころのほうがはるかに寒かった。
今年の初雪の時期や気温はわからないけど・・
昭和59年の1月は豪雪で
小・中学校では臨時休校となった。
小国町周辺では高等学校も。
[匿名さん]