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NO.5463894

歴女シノが行く井伊直虎ゆかりの地巡り
歴女シノが行く井伊直虎ゆかりの地巡り
皆様、ご無沙汰してます。
今年は真田氏から気持ちを切り替えて2019年NHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」より、主役の井伊直虎ゆかりの地を訪れてきましたので、ここにレポートしていきます。

またよろしくお願い致します。


#4552017/05/26 22:43
シノさん、お疲れ
良く頑張ったな
後でゆっくり読ませてもらうよ
次回作も期待してるからな

[坂本◆YmU4N2Ni]

#4562017/05/26 22:46
>>454シノさん♪
レポご苦労様でした🍺

[匿名さん]

#4572017/05/27 17:00
>>455
坂本センパイ、ありがとうございます。
センパイからのレスはとても励みになりました。
次回も頑張ります。

[シノ◆NzRmZDA5]

#4582017/05/27 17:03
>>456
ありがとうございます。
生ビールまで出してもらえて恐縮です。
次回も頑張りますので、またよろしくお願い致します。

[シノ◆NzRmZDA5]

#4592017/05/27 20:13
【あとがき】
いかがでしたでしょうか?

去年、沢山の真田氏ゆかりの地を巡ったことで真田氏に愛着がわき、今年の大河ドラマの主役である「井伊直虎」に切り替えることにためらいもありました。

流行りに流されるという訳ではありませんが、いつまでも同じ人物ばかり追いかけていれば、その人物だけの知識や時代背景しか知ることができなくなることも事情です。

同じ戦国時代を舞台にした人物でも、真田幸村と井伊直虎が生きた時代は異なるものです。

真田氏に触れることで関ヶ原の戦いや大坂の陣など戦国時代後期について、そして井伊氏からは今川家や武田家が勢力を広げていた戦国時代前期についての理解が深まり、まだ完璧ではないですが、私の中で戦国時代の時代背景の仕組みが徐々に紐とかれていく気がします。

真田幸村と井伊直虎は対面こそしていませんが、幸村と井伊直孝は大坂の陣で敵対し、その直孝の活躍により徳川軍が勝利を収めました。

去年ならば憎い存在だった井伊氏ですが、その歴史には辛く悲しい出来事から感動的なエピソードもあり、戦乱の世を生き抜くための知恵や処世術はどこか共通するものが見られました。

さらに次回は、井伊氏が巻き込まれた徳川家と武田家の遠江侵攻の合戦地を巡り、今川家の人質から天下を統一するまでの徳川家康の成り上がりエピソードも続けてレポートしていきますのでご期待下さい。

最後になりましたが、今旅のキーワードは
「ドラマ」
でいきたいと思います。

大河ドラマのキャスト紹介やドラマの内容を用いて綴ったことや、井伊氏の波瀾万丈なドラマのような歴史を紐といたこともあり、このワードを恒例のあの唄にのせて締めたいと思います。

[シノ◆NzRmZDA5]

#4602017/05/27 20:20
ドラマ それは 君が見た光

僕ら 見た 希望

ドラマ それは ふれあいの心

幸せの 青い雲

青雲〜♪

「青雲の唄」より。


《終わり》

[シノ◆NzRmZDA5]

#4612017/05/28 08:39
シノさん、おはよう
素晴らしい後書きだったな
読み惚れたよ 笑
次は家康か、また楽しみだな
期待してるからな

[坂本◆YmU4N2Ni]

#4622017/05/28 15:15
>>461
坂本センパイ、お疲れ様です。
ありがとうございます。
時間をかけて一生懸命考えましたのでとても嬉しいです。
はい、次は家康にスッポトを当てて、浜松城を中心に巡っていくつもりです。

[シノ◆NzRmZDA5]

#4632017/06/13 20:58
シノはネカマだから要注意な!

[匿名さん]

#464
投稿者により削除されました

#4652017/09/25 21:20
シノさん、復活おめでとう
またレポート楽しみにしてるからな

[坂本◆YmU4N2Ni]

#4662017/10/01 21:28
>>465
坂本センパイ、ありがとうございます。

また応援宜しくお願いします。

[シノ◆NzRmZDA5]

#4672017/10/01 21:59
歴女シノが行く井伊直虎ゆかりの地巡り #467の画像
皆さん、お久しぶりです!

4月の井伊谷紀行から約半年が過ぎました。

早いもので、大河ドラマ「おんな城主 直虎」も大詰めを迎える中、ドラマの内容も徳川家康と武田信玄による遠江を巡る合戦、三方原の戦いも取り上げられました。

よって、9月24日(日)、井伊直虎の治める井伊谷も巻き込まれてしまった三方原の戦いの全貌を調べるため、再び浜松にやって参りました。

この旅では、僅か一日で、徳川家康の居城浜松城から、悲運な死を遂げた家康公の正室瀬名姫ゆかりの史跡、三方原の戦い跡地など、家康公が天下統一のきっかけとなった屈辱的敗北について、史跡巡りからレポートしていきたいと思います。

さらに、レポートの最後には、前回訪れた大河ドラマの撮影地、稲穂が実った黄金に輝く久留女木の棚田の画像もあらゆる角度から撮りましたので、ここに紹介していきます。

[シノ◆NzRmZDA5]

#4682017/10/06 20:54
シノさん、どうした?
具合悪いんじゃないだろうな

[坂本◆YmU4N2Ni]

#4692017/11/20 18:03
>>468
坂本センパイ、お気にかけて頂いてありがとうございます。

ようやく落ち着きましたので、再開させます。

[シノ◆NzRmZDA5]

#4702017/11/20 18:36
歴女シノが行く井伊直虎ゆかりの地巡り #470の画像
【徳川家康という人物】

皆さんご存知の日本一有名な戦国大名徳川家康、しかし、彼の生い立ちを説明しろと言われても、なかなか説明できるものではありません。

天下人となった徳川家康の人生はかなり奥が深いもので、一般的には波乱に満ちた人生の中で立身出世を果たした人物として、広く知れ渡っています。

去年の真田丸ゆかりの地巡りにおいても、真田幸村の宿敵として、欠かせない存在でした。

ここで、簡単ではありますが、徳川家康の立身出世エピソードから始めていきたいと思います。

[シノ◆NzRmZDA5]

#4712017/11/20 19:09
天文11年(1542年)、徳川家康は三河の松平広忠の嫡男として生まれました。

幼名は竹千代です。

当時の松平家は、尾張の織田家と駿河の今川家の圧迫を受け、苦渋の末に今川家に属することになりました。

この頃、6歳だった竹千代は人質として今川家に送られますが、身内の裏切りにあい、織田家の人質となってしまいます。

その二年後に人質交換が行われ、竹千代の身柄は駿府に移されますが、父の広忠が急死し、岡崎城を今川家に接収されてしまいます。

その後の竹千代は元服して松平元康と名乗り、今川義元のブレーンだった太原雪斎の指導を受けて、今川家の重臣関口親永の娘(築山殿)を正室に迎えました。

元康は桶狭間の戦いで義元が討ち取られると、岡崎城に入り、自立して今川家と手を切り、織田信長と同盟を結んで家康と改名しました。

その後、家康は三河で起きた一向一揆に苦しめられますが、これを平定し、朝廷より三河守(みかわのかみ)を賜わり、姓を徳川としました。

[シノ◆NzRmZDA5]

#4722017/11/20 19:40
家康やっとキター!!

楽しみ♪😊

[匿名さん]

#4732017/11/20 19:42
>>471
その後は東に勢力を延ばして遠江(とおとおみ)を自領としますが、駿河を制圧した武田家の侵略を受けて大敗します。

これが、徳川家康としての戦いの中で唯一大敗を許してしまった三方ヶ原(みかたがはら)の戦いと呼ばれるものです。

この三方ヶ原の戦いの大敗を教訓にした家康は、長篠・設楽ヶ原(ながしの・したらがはら)の戦いで織田軍と協力して武田軍を滅ぼし、遠江と駿河を自領としました。

その後、本能寺で織田信長が倒れると、旧武田領を北条、上杉と争い、甲斐、信濃を領有しました。(天正壬午の乱 てんしょうじんごのらん)

これにより、東国屈指の大名となりますが、豊臣秀吉には対抗し切れず、上洛して豊臣家に服従します。

この後に、関東を所領していた北条氏が豊臣秀吉により滅ぼされ、家康は関東に移封されますが、江戸を始め領国の開発に注力し、関東に確固たる地盤を築きました。

そして、秀吉の死後、家康は関ヶ原の戦いを制し、慶長8年(1603年)に幕府を開設します。

その10年後、あの真田幸村を間一髪で打ち破った大阪の陣にて豊臣家を滅ぼし、徳川の支配体制の盤石を築き上げた家康は、元和2年(1616年)、駿府城にて74年の波乱の人生に幕を閉じました。

[シノ◆NzRmZDA5]

#4742017/11/20 19:43
>>472
はい、ありがとうございます。

一生懸命頑張りますので、また宜しくお願い致します。

[シノ◆NzRmZDA5]

#4752017/11/20 20:29
歴女シノが行く井伊直虎ゆかりの地巡り #475の画像
【浜松八幡宮(はままつはちまんぐう)】

この日も早朝から市街地を出発し、浜松時代の徳川家康ゆかりの地巡りの第一歩として訪れたのが、時間問わずに自由散策できる浜松八幡宮です。

この浜松八幡宮や浜松城など、徳川家康に関する史跡が点在する場所は、市街地周辺に固まっていますが、民家やビルなどに囲まれていたり、あまり案内標識も見掛けなかったせいか、探すのに苦労した場所が多かったです。

この浜松八幡宮もそのひとつで、一方通行の多い場所に位置していたため、境内は見えるが、何処から入っていいか分からず、駐車場探しにかなり時間を費やしました。

車で辺りをぐるぐる回ってようやくの思いで辿り着き、境内に入る前に入り口の鳥居を最初に撮影しました。

この浜松八幡宮は、徳川家康ゆかりの神社として知られ、境内には、三方原の戦いの際に家康が武田軍から逃走し、身を潜めたと言われるクスノキが遺されているようです。

[シノ◆NzRmZDA5]

#4762017/11/20 20:48
歴女シノが行く井伊直虎ゆかりの地巡り #476の画像
>>475
鳥居を潜ると、こちらの拝殿が見えてきます。

浜松八幡宮の由緒は、仁徳天皇が遠津淡海の海運安穏のため、海の神である玉依姫命(たまよりひめのみこと)を、許部の里(浜松市小沢渡町)に勧請した許部神社が始まりと言われています。

その後、天慶元年(938年)に、現在地に遷座されました。

その際に、白狐が老婆となって、「浜の松」を移し植えたことから、「浜松」の地名になったと言われています。

[シノ◆NzRmZDA5]

#4772017/11/20 20:55
シノさん、復活おめでとう
家康編楽しみにしてたんだよ
頑張ってな

[坂本◆YmU4N2Ni]

#4782017/11/20 21:05
歴女シノが行く井伊直虎ゆかりの地巡り #478の画像
>>476
拝殿をさらに近くで撮りました。

ここは古くから武家の信仰が篤く、1051年の前九年の役で、源義家が陸奥に出陣する際に参籠したことに始まり、家康公も岡崎から居城を浜松に移して以来、源義家の東征祈願の由緒があり、さらに、浜松城の鬼門鎮守の氏神として幾度となく参拝し、武運長久を祈願したようです。

[シノ◆NzRmZDA5]

#4792017/11/20 21:07
>>477
坂本センパイ、ありがとうございます。

レポートの合間にも、センパイのスレに遊びに行きますので、また宜しくお願いします。

[シノ◆NzRmZDA5]

#4802017/11/20 21:24
歴女シノが行く井伊直虎ゆかりの地巡り #480の画像
>>478
こちらが拝殿手前に鎮座する「雲立楠(くもだちのクス)」です。

三方原の合戦に敗れた家康公が、天林寺に入り、義俊和尚の案内で浜松八幡宮へ逃れて、このクスノキの洞穴に潜んだと言われています。

このクスノキは、源義家が参籠した際に、源氏の氏神である八幡社を喜び、ここに旗を立てて武運を祈願したとも伝えられ、以前は御旗楠と呼ばれていたようです。

[シノ◆NzRmZDA5]

#4812017/11/20 21:36
歴女シノが行く井伊直虎ゆかりの地巡り #481の画像
>>480
反対側からクスノキを見ると、洞穴がはっきりとわかります。

家康公がここに潜み、武田勢の追手を逃れて武運を祈願しました。

すると、楠の上に瑞雲が立ち昇り、神霊が白馬に跨がって浜松城の方へ飛び立ったと言われ、家康公がこれを見て、「戦われに利あるべし」と勇躍して無事に浜松城に戻り、武田軍の浜松入城を防いだと言われています。

[シノ◆NzRmZDA5]

#4822017/11/20 21:50
歴女シノが行く井伊直虎ゆかりの地巡り #482の画像
>>481

この言い伝えから、いつしかこのクスノキを「雲立楠」と称するようになったと伝えられています。

その後も家康公は、居城を駿府城に移すまで、浜松八幡宮を祈願所として、旗、神馬を奉納しました。

そして、家康公が征夷大将軍となり江戸に幕府を開くと、50石の朱印地を与えられ、明治維新を迎えるまで変わることはありませんでした。

[シノ◆NzRmZDA5]

#4832017/11/20 22:03
歴女シノが行く井伊直虎ゆかりの地巡り #483の画像
>>482
こちらの連立する朱色の鳥居は、古くから拝殿脇に鎮座する境内末社の浜松稲荷神社の鳥居です。

[シノ◆NzRmZDA5]

#4842017/11/20 22:09
歴女シノが行く井伊直虎ゆかりの地巡り #484の画像
>>483
この浜松稲荷神社は、商売繁盛、事業繁栄、家内安全の神徳を持つ神社として、市民から篤く信仰されています。

毎年2月11日には、氏子崇敬者によって、賑やかなお祭りが開催されるようです。

[シノ◆NzRmZDA5]

#4852017/11/20 22:27
歴女シノが行く井伊直虎ゆかりの地巡り #485の画像
>>484
この朱色の鳥居を潜ると、二つの社が並びます。

左側が先程紹介した浜松稲荷神社で、右側が東照宮と呼ばれる社です。

東照宮と聞いて、まずは日光東照宮を思い浮かべる人も多いでしょう。

この東照宮と呼ばれるものは、家康公がお世話になった場所で、家康公を奉るお社として各地に鎮座されているようです。

そして、こちらの東照宮も、八幡宮と縁深い家康公をお奉りするお社として、正徳4年(1714年)に勧請し奉斉されました。

[シノ◆NzRmZDA5]

#4862017/11/21 23:53
歴女シノが行く井伊直虎ゆかりの地巡り #486の画像
【曳馬城跡(元城町東照宮)】

浜松八幡宮から市街地に戻り、駅前の繁華街に程近い場所に位置するのが、徳川家康の居城浜松城です。

しかし、世間一般に知られている浜松城にも、前進となったお城があったことを忘れてはいけません。

それが、次に訪れた曳馬城(ひくまじょう)です。

現在は本丸跡地に元城町東照宮が建つ曳馬城、この歴史の背景には、城主の飯尾連竜(いいお つらたつ)と、もう一人の女城主、お田鶴の方(おたつのかた)の悲運な死という悲しい出来事がありました。

一方で、幼き日の豊臣秀吉がここを訪れ、後の天下統一のきっかけを作った場所でもあります。

この章では、それらの出来事についても詳しく解説していきたいと思います。

[シノ◆NzRmZDA5]

#4872017/11/22 00:30
歴女シノが行く井伊直虎ゆかりの地巡り #487の画像
>>486
この曳馬城跡は、浜松城の無料駐車場を国道152号線で隔てた小高い丘の上に位置しています。

地形的には、三方原のある台地の突端です。

こちらは、本丸入り口前から見た浜松城の無料駐車場です。

つまり、この曳馬城を増築したものが浜松城ということになります。



曳馬城の築城は諸説ありますが、室町時代に駿河、遠江を支配していた今川一族の今川貞相により築城されたと言われています。

その後尾張の斯波(しば)氏が遠江を支配すると、斯波氏方の巨海(こみ)氏が城代を務めます。

室町時代後期になると、応仁の乱をきっかけに今川氏が領地奪還のため斯波氏と争い、その抗争の中で戦略上の拠点となりました。

この戦いで今川方が勝利し、再び今川氏が遠江を支配すると、1514年には、今川義元の家臣、飯尾乗達(いいお のりたつ)が城主となりました。

[シノ◆NzRmZDA5]

#4882017/11/22 00:36
すごい!

[(*゚Д゚*)◆MjI1ZWEw]

#4892017/11/22 11:48
>>488
ご閲覧ありがとうございます。

[シノ◆NzRmZDA5]

#4902017/11/22 20:50
歴女シノが行く井伊直虎ゆかりの地巡り #490の画像
>>487
境内となった本丸の郭はこのような感じです。

この画像だとわかりにくいかもしれませんが、郭内に二体の像が並んでいるのが見えます。


今川義元が桶狭間で討たれ、嫡男の今川氏真が政権を引き継ぐと、今川氏の力が次第に弱まり、家臣の間で謀反が起こるようになり、曳馬城主の飯尾氏も例外ではありませんでした。

城主が飯尾乗連から連竜に代わると、今川氏真から徳川に内応したと謀反の疑いをかけられ、1565年に今川軍による曳馬城攻めが始まります。

この曳馬城攻めに、井伊家家臣の中野直由、新野左馬ノ助らが参戦し、戦死しています。

飯尾氏も懸命に戦い、陥落は免れて和議を結びましたが、後に氏真に駿府に呼び出され、氏真の命を受けた家臣により殺害されました。

[シノ◆NzRmZDA5]

#4912017/11/22 21:07
歴女シノが行く井伊直虎ゆかりの地巡り #491の画像
>>490
境内に設置されていたのは、この曳馬城に関わる二人の天下人、徳川家康と幼き日の豊臣秀吉の「二公像」です。

二人の運気が天下無敵だったことにちなみ、共に写真を撮ると出世運がうなぎ登りになると言われています。

また、この画像をSNS等で拡散すると、画像を見た皆様に運気を拡散できるようです。

[シノ◆NzRmZDA5]

#4922017/11/22 21:12
歴女シノが行く井伊直虎ゆかりの地巡り #492の画像
>>491
その詳細を綴った案内板がこちらです。

各著名人も、ここで出世運を授かっているようです。

[シノ◆NzRmZDA5]

#4932017/11/22 21:45
歴女シノが行く井伊直虎ゆかりの地巡り #493の画像
>>492
右側が16歳の豊臣秀吉の像です。

尾張から針の行商をしながら主君探しの旅に出た秀吉は、馬込川のほとりで、頭陀寺(ずだじ)城主の松下氏と出会い、この曳馬城に連れて来られました。

そこで、飯尾氏との宴会に参加し、猿の物真似をして栗を食べる芸を披露して大変気に入られた秀吉は、松下家での初の武家奉公が許され、三年間この浜松で武家修業に励みました。

その後、松下氏から退職金を貰って尾張に帰還した秀吉は、織田信長に仕え、松下家で学んだ知恵と礼儀を生かせた奉公で、信長公の目に止まり、後に天下人へと成長しました。

[シノ◆NzRmZDA5]

#4942017/11/22 22:22
歴女シノが行く井伊直虎ゆかりの地巡り #494の画像
>>493
そして左側が31歳の若き日の徳川家康の像です。

武田家と同盟を結んで今川攻めを開始した家康は、遠江に侵攻し、この曳馬城に攻め入りました。

この時、曳馬城は飯尾連竜の未亡人、お田鶴の方が中心となり、飯尾家を守っていたようですが敗退し、徳川家康に攻略されました。

その後武田信玄が駿府へ進出を計るようになると、岡崎城を嫡男の松平信康に任せて、本拠地を遠江の曳馬城に移し、拡張させていきました。

やがて、遠江を巡って武田家と敵対すると、織田信長から撤退を命じられますが、これを断り、自ら意思で武田軍に挑み大敗をしてしまいます。

この元亀三年(1572年)の三方原の戦いで逃げ帰った家康は、曳馬城の玄黙口へ撤退したと言われています。

この銅像は、三方原の戦いに挑む家康公をイメージしており、家康公没後400年の記念事業として設置されました。

[シノ◆NzRmZDA5]

#4952017/11/22 22:33
歴女シノが行く井伊直虎ゆかりの地巡り #495の画像
>>494
こちらが曳馬城の遺構として本丸跡地に遺されている、境内北東の僅かな土塁です。

[シノ◆NzRmZDA5]

#4962017/11/22 22:37
歴女シノが行く井伊直虎ゆかりの地巡り #496の画像
>>495
さらに近づくとこのような感じです。

土塁の他にも台地を走る掘跡も見られるようですが、気がつきませんでした。

[シノ◆NzRmZDA5]

#4972017/11/22 22:53
歴女シノが行く井伊直虎ゆかりの地巡り #497の画像
>>496
本丸跡地の境内から浜松城の天守閣が望めます。

大河ドラマ「おんな城主 直虎」関連の史跡を示すのぼりも、この本丸跡地に立ち並んでいます。



家康公はこの曳馬と言う名称が、馬を引くとイメージされ、敗北に繋がり縁起が悪いということで、かつてこの地にあった荘園である浜松荘から、城名、地名とも浜松としたと伝えられています。

[シノ◆NzRmZDA5]

#4982017/11/22 23:00
歴女シノが行く井伊直虎ゆかりの地巡り #498の画像
>>497
そして、こちらが本丸跡地から見た三方原方向です。

都市開発が進み、高いビルが立ち並ぶ産業都市に発展した浜松市の街並みで、当時の面影は見られないですね。

[シノ◆NzRmZDA5]

#4992017/11/22 23:10
歴女シノが行く井伊直虎ゆかりの地巡り #499の画像
>>498
浜松城の増築が進むにつれて曳馬城は次第に使われなくなり、「古城」として米蔵などに使用されました。

そして明治19年、旧幕臣の井上氏が本丸跡地に家康公を祭神とする、元城町東照宮を勧請して境内としました。

しかし、戦災で焼失し、現在の建物は社殿が鉄筋造りになっています。

[シノ◆NzRmZDA5]

#5002017/11/22 23:19
歴女シノが行く井伊直虎ゆかりの地巡り #500の画像
>>499
本丸跡地の周りは、このような住宅地となっています。

こちらから見ても、丘の丘陵がはっきりとわかります。

この周辺で、曳馬城を巡る激しい争いが行われました。

[シノ◆NzRmZDA5]

#5012017/11/23 10:04
シノさん、おはよう
今回も沢山廻って来たんだな
書く事沢山あって大変そうだが頑張ってな

[坂本◆YmU4N2Ni]

#5022017/11/23 18:35
>>501
坂本センパイ、ありがとうございます。

はい、朝から暗くまるまで回りに回ったので、かなり充実したレポートになると思います。

[シノ◆NzRmZDA5]

#5032017/11/23 19:43
歴女シノが行く井伊直虎ゆかりの地巡り #503の画像
ーコラムー

【もう一人のおんな城主 お田鶴の方】
只今放送中の大河ドラマ「おんな城主 直虎」、主役の井伊直虎は、井伊家の男衆達が戦死や抹殺などで相次いで死に至り、絶滅寸前となった井伊家を救うために女城主として家柄や領地を守っていくお話です。

しかし、井伊直虎は地元では女武将として讃えられていますが、武装して戦場に出たという話は残されていません。

一方で同じ時代の浜松で、夫である城主を亡くした後に命懸けで城を守り、武装して徳川軍と戦った本当の女武将が存在していました。

それが曳馬城主、飯尾連竜の妻で、後に椿姫と呼ばれたお田鶴の方(おたつのかた)です。


お田鶴の方は、今川家臣・小笠原鎮実の娘として1550年に生まれました。

やがて彼女は、同じ今川家臣の曳馬城主・飯尾連竜に嫁ぎ、共に曳馬城を切り盛りしていくことになります。

連竜の父・乗連が今川義元と共に桶狭間の戦いに参戦しましたが、義元や井伊直盛らに続いて戦死してしまい、主君の今川家と飯尾家は世代交代を余儀なくされました。

今川家が嫡男の氏真の代になると、各地で謀反が相次ぎ、犬居城主の天野氏や二俣城主の松井氏らが離反する動きを見せ、連竜自身も、今川家の人質から謀反を起こし、三河で勢力をつけた徳川家康に内応します。

[シノ◆NzRmZDA5]

#5042017/11/23 20:33
歴女シノが行く井伊直虎ゆかりの地巡り #504の画像
>>503
また、彼女は犬居城攻めに参戦した井伊直虎の曾祖父直平を出陣前にお茶に誘い、お茶に毒を入れて抹殺するなど、意外と破天荒な一面もあり、それに怒った今川氏真が新野左馬ノ助ら3000の兵を送り、曳馬城を攻撃させました。

しかし、飯尾方の反撃が厳しく、数多くの有力な家臣を失った今川軍は落城させることができず、和睦という形で曳馬城を撤退することになりました。

後日、城主の連竜が今川氏真に呼ばれて駿府へ赴き、非業な死をとげますが、これには諸説あり、連竜の嫡子の婚姻話をエサに誘き寄せられた説や、抹殺を命じられた家臣が新野左馬ノ助だったという説など、不明瞭な点が多いようです。

連竜の死後、家臣の江間時成と江間泰顕が曳馬城を守り、彼女もこれに貢献しました。

やがて、時成が徳川家康に服従しようとしたため、武田方を支援していた泰顕の家臣に殺害され、有力家臣を失った彼女は、女城主として曳馬城を引き継ぐことになります。

この時、彼女は武田方の勇将・武藤喜兵衛(後の真田昌幸)を頼って武田方に内通したとも言われています。

1568年に徳川家康が家臣の松下常慶らを使者として、彼女に降伏を促しましたが、断固として拒否し、後に徳川軍に攻め入られることになります。

この拒絶の理由としては、徳川方に付いた飯尾家が危急の際に、救援に来なかったことが挙げられます。

こうして、彼女は曳馬城を850人で徳川軍を迎え撃ち、酒井忠次と石川数正に二の丸、三の丸を攻め込まれると、自らも鎧を着て、髪を垂れ、薙刀を振るって侍女17人と共に並び、門から突撃して全員討ち死にしました。

[シノ◆NzRmZDA5]


『歴女シノが行く井伊直虎ゆかりの地巡り』 へのレス投稿
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