>>359
ここが激戦が行われた仏坂です。
向こうに見える白い碑が、古戦場跡を示す記念碑です。
事の発端は同盟国だった甲斐国の武田信玄が今川家との同盟を破棄したことでした。
井伊直虎が領主を追放されたわずかひと月後の事です。
武田信玄は徳川家康に今川領の分割支配を持ちかけ、駿河国へ侵攻します。
この両軍の侵攻により今川家の支城が次々に攻め落とされ、ついに駿河、遠江、三河の3国を支配した今川家が滅亡しました。
やがて武田家は織田家と敵対するようになり、織田家と同盟者だった徳川家との間にも亀裂が入るようになります。
これにより信玄は織田、徳川軍と決戦すべく、西上作戦を開始します。
信玄自身も2万5000の大軍を率いて遠江国へ侵攻し、家臣の山県昌影と秋山虎繁も別動隊を率いて三河国へと侵攻しました。
その中の山県昌影の軍勢によりこの仏坂の戦いが勃発し、勝利を収めた山県軍は信玄の本隊と合流して、ついに武田家と徳川家が激突する三方ヶ原の戦いが始まっていきます。