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2024/02/23 14:39
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NO.10878425

日の丸・禿髪破羌の源賀と河南源氏と源氏氏族
「日の丸」デザインの原型は、中国三国時代に遡る。この時点では、後を含め日本とは関与していないもよう。
後の中国五胡十六国時代に南涼王の子である禿髪破羌が南涼の滅亡後、北魏に仕えた際に太武帝から「禿髪氏」と「拓跋氏(北魏の帝室の姓カバネを与えられ、「源賀」と名乗る。
禿髪氏の支流に中国の旧河南郡洛陽県を本貫とする鮮卑禿髪部(センビトクハツブ)系統の源氏(河南源氏)が新羅に移住後、一部の勢力が「源花(ゲンカ・ウォナ・ウォンファ)」や「花郎(カロウ・ファラン)」になり、後に日本へ渡来し1056年(天喜4年)に新羅三郎源義光の父である源頼義が、後冷泉天皇より下賜(カシ)された「日の丸御旗(ミキ)」と「楯無鎧(タテナシノヨロイ)」を嫡男義業ではなく、源義清に譲った。
後の代に、武田家に代々伝わり、惣領の印として武田家の家宝となる。
江戸幕末の1854年7月には、江戸幕府が日本の総船印(国旗)として定めており、背景には徳川慶喜の実父である常陸水戸藩主の徳川斉昭の計らいがあったとされる。
明治新政府についても、これを引き継いだ。
日本国になってからは、1999年(平成11年)8月13日に自公連立小渕恵三政権が「国旗・国歌法(国旗及び国歌に関する法律)」を公布・即日施行した。
また、他には地方行政により、国旗や国歌に関する条例を制定している自治体も存在する。
報告閲覧数514レス数50

#12023/01/04 19:10
中国三國志で有名な三国時代の「呉ゴ」の国(中国語の発音はウ)での「日の丸(デザイン原型)については、日本では明らかにされていない。
しかしながら、中国史劇ドラマを観ていると、三国時代がテーマでなくとも、稀に日の丸旗に似た旗らしき幕が宮廷などにて色違いや型の物が見受けられる。

広島県呉クレ市には、旧呉日本海軍工廠(コウショウ・軍需工場)や現在の海上自衛隊呉基地、日の丸を会社名にした事業者、不思議ではないものの、大和ミュージアムと澎湃館(ホウハイカン)での日の丸旗を販売している何てものもある。

[匿名さん]

#22023/01/05 22:13
>>0
禿髪氏(トクハツシ)
鮮卑拓跋部(センビタクバツブ)の氏族。

鮮卑(センビ)
古代アジアの遊牧民族。
紀元前3世紀から中国北部と東北部に存在した騎馬民族。
中国の五胡十六国時代と南北朝時代には、大移動で南下して、漢人(アヤビト・漢族・漢民族)の国々を征服し、中国に北魏・北斉・北周などの王朝(鮮卑大人国センビタイジンコク)を建てた。

拓跋部(タクハツブ)
鮮卑族の一部族。
華北に北魏などの王朝を建てた。

支族・支流は、南涼の歴代三人の王である初代武王(禿髪烏孤ウコ)と第二代康王(禿髪利鹿孤リロクコ)と第三代景王(禿髪ジョク檀ジョクダン※)と中国の旧河南郡洛陽県を本貫とする鮮卑禿髪部系統の源氏である河南源氏。
何れも禿髪思復ケン?コン?ゴン?カン?※の子であり、烏孤から順に長男と二男と三男。
※「ケン?コン?ゴン?カン?」は「革偏に建」の字。

[匿名さん]

#32023/01/06 20:27
>>2続き禿髪氏
本貫は、中国の西平(セイヘイ)郡楽都(ラクト)県。
西平郡
現在の青海省北東部の※ゼン州西平郡と現在の広西チワン族自治区西部の寧州西平郡の付近にあたる。
※「ゼン」は、「善偏にツクリにコザト偏」の字。

北魏と東魏と隋の代で栄えた。
その後は、サブタイトルの二項目の文章「後の五胡十六国時代に...」を参照。

禿髪破羌(トクハツハキョウ・源賀ゲンガ)
南涼から北魏に架けての軍人・政治家。
源賀の長男は源延(ゲンエン)。※1
〃  二男は源懐(ゲンカイ)。
〃  三男は源奐(ゲンカン)。
〃  四男は源玄諒(ゲンゲンリョウ)。
〃  五男は源子雍(源子ヨウ※・ゲンシヨウ)。
※「ヨウ」は、「<が三つの冠に邑」の字。
源賀の六男は源子恭(ゲンシキョウ)諡号は文献。
ここまで本貫は源賀に同じ。
源賀の子孫に源乾曜(ゲンケンヨウ)
源乾曜は唐代の玄宗(李隆基リリュウキ)代の宰相。

※1源延
日本の源延(ゲンエン)平安時代中期から鎌倉時代初期の天台浄土教の僧。
日本の源延光(ミナモトノノブミツ)平安時代中期の公卿(クギョウ)・歌人。

[匿名さん]

#42023/01/06 20:46
>>3追記
楽都県(ラクトケン)はゼン州西平郡の方に位置し、現在の青海省楽都区付近にあたる。

仙台楽都(センダイガクト)
伊達政宗による仙台開府400周年を記念して、2001年(平成13年)に宮城県仙台市の主催で開催された音楽事業において用いられたキャッチコピー。

[匿名さん]

#52023/01/07 20:49
>>3源賀
新潟県村上市(旧岩船郡山北町)には、源賀山(ゲンガソー・ウト山・源賀沢)がある。

源賀が、源氏としての始祖になる。
「源」は、皇室と祖(源流)を同じくするという意味。
源氏徴紋の代表家紋は「笹竜胆(ササリンドウ)」。

>>2
禿髪烏孤と禿髪利鹿孤と禿髪ジョク檀の父は、禿髪思ヨウケン※。
※「ヨウ」は、「<が三つの冠に邑」の字、「ケン」は、「革偏に建」の字。読み?

[匿名さん]

#62023/01/07 21:05
>>5の下段」の「>>2に関する訂正」は間違い
>>2に記載してあるとおり人名「禿髪思復ケン?コン?ゴン?(ケン?コン?ゴン?は革偏に建の字)」

[匿名さん]

#72023/01/08 18:37
>>0拓跋氏(タクバツシ)は中国北部からモンゴル高原に架けて勢力を有した鮮卑拓跋部(鮮卑族)の中心氏族である。
狭義的には北魏第二代皇帝献帝である拓跋鄰(タクバツリン)の直系であり、後に鮮卑を統一し、五胡十六国時代を終焉させ、南北朝時代において北魏を建国した家系。

拓跋部(タクハツブ)
鮮卑族の一部族。華北に北魏などの王朝を建てた。
鮮卑族に関しては、レス#2の鮮卑を参照。
托跋部・牽頭部・牽虜などとも表記される。

壇石槐タンセキカイ・ダンジャクエ
『後漢ゴカン末期の鮮卑族の大人タイジン(部族長)
投鹿侯トゥルホウの子
和連ワレンの父
魁頭カイズ和連の甥
歩度根ブドコン又はブタクコン
扶羅韓ブラガン泄帰泥セチギナイの父
騫曼ゲンマン又はケンマン和連の子らの祖父
泄帰泥セチギナイの曾祖父ソウソフ』
の統一鮮卑が崩壊し、再び分裂した鮮卑族において台頭したのが拓跋部。

三国志では、「オ人※(オジン)」、後漢書には、「倭人」と表記されており、謎の人物である。
※「オ」は、「サンズイに于」の字。

独孤部(ドッコブ)の劉氏とも婚姻関係、外部氏族として独孤氏とも関係している。

北魏では、第五代皇帝の献文帝(ケンブンテイ)までは国姓だったが、第六代皇帝の孝文帝(コウブンテイ)の時に「元氏(ゲンシ)」に改姓した。
元氏は、後に中国と朝鮮で漢姓の一つとして姓字になる。

[匿名さん]

#82023/01/09 21:51
>>7拓跋氏により建国された北魏の歴代王(一部)
初代皇帝は道武帝(ドウブテイ)
拓跋珪(タクバツケイ)
父は道という国最期の皇帝献明帝である拓跋寔(タクバツショク)

第二代皇帝は明元帝
拓跋嗣(タクバツシ)
父は道武帝

第三代皇帝は太武帝(タイブテイ)
拓跋トウ※「トウ」は、「擣の手偏のない、下に,、、、が付く字。
父は明元帝。

第四代皇帝は南安王
拓跋余(タクバツヨ)
父は太武帝

第五代皇帝は文成帝(ブンセイテイ)
拓跋シュン※
※「シュン」は、「サンズイに叡の又がない」字。
父は拓跋晃(タクバツコウ)

第六代皇帝は献文帝(ケンブンテイ)
拓跋弘(タクバツコウ)
父は文成帝
第七代皇帝は孝文帝(コウブンテイ)
拓跋元弘(タクバツゲンコウ)
父は献文帝
  ~
第十四代皇帝は孝武帝(コウブテイ)
元脩(ゲンシュウ)
※>>7に記載したとおり、第六代皇帝孝文帝の代から「元氏」に改姓。
北魏としては最期の皇帝。
父は広平王(元懐ゲンカイ)

北魏第三代皇帝の太武帝が、禿髪破羌(源賀)に源姓を名乗らせたことで、日本の源氏という皇別氏族(源氏氏族)の興りに影響を与えた可能性が大きい。
また、北魏の国家体制は日本の古代朝廷の模範とされたため、北魏の元号・皇帝の諡号・制度と日本の元号・天皇家、皇室の諡号・制度には多く共通したものが見られる。
平城京・聖武天皇・嵯峨天皇・天平・神亀など。
年代
北魏386~534年
平城京710年に藤原京から遷都
(唐の長安城をモデル)
聖武天皇在位(奈良時代三番目の天皇)と神亀元号724~729年
天平元号729~749年
嵯峨天皇在位(平安時代三番目の天皇)809~823年

[匿名さん]

#92023/01/10 20:20
>>2
拓跋部の歴代皇帝
初代は成帝(セイテイ)
拓跋毛(タクバツモウ)

第二代は献帝(ケンテイ)
拓跋鄰(タクバツリン)

第三代は聖武帝(ショウブテイ)
拓跋詰汾(トゥオルバヂェフェン)

第四代は神元帝(シンゲンテイ)
拓跋力微(タクバツリョクビ)
父は聖武帝
拓跋部の創始者

第五代は文帝(ブンテイ)
拓跋沙漠汗(タクバツサバクカン)
拓跋力微の子

第六代は章帝(ショウテイ)
拓跋悉鹿(タクバツシツロク)
拓跋力微の子

第七代は平帝(ヘイテイ)
拓跋綽(タクバツシャク)
拓跋力微の子

第八代は昭帝(ショウテイ)
拓跋禄官(タクバツロクカン)
拓跋力微の子

拓跋力微の兄の拓跋匹孤(禿髪匹孤)は南涼の建国者である禿髪烏孤の八世孫

拓跋力微の玄孫の拓跋珪が北魏を建国
「初代皇帝道武帝」と記されている

拓跋力微のことを文献「資治通鑑(シジツガン)」では、「力微可汗」と記されている

[匿名さん]

#102023/01/11 22:02
>>8嵯峨天皇
新羅明神を祭祀する岩神社
通称が三井寺(ミイデラ)
現在の園城寺(オンジョウジ)
滋賀県大津市にある。
新羅明神の初代である円珍(智証大師)が開祖
園城寺は源氏の他、武家の信仰を集め、源頼義が先勝祈願、その三男である新羅三郎源義光が新羅善神堂の前で元服するなど、歴代の尊崇も篤かった。
比叡山延暦寺による五度の焼き討ちの件で源頼朝が平家を滅ぼした後に、園城寺を保護し、復興が始まる。
園城寺は、平安時代から戦国時代までに合戦・焼き討ち・大火(火災)など23回も炎上、内14回は延暦寺による焼き討ちだった。
伽藍カラ寺院もある。
嵯峨天皇の冷泉院(レイゼイイン)の鎮守社が京都市中京区岩上町にある中山神社(石神イソガミ神社・岩神神社・岩上神社)
816年(弘仁7年)に嵯峨天皇が行幸した時が記録の初見

冷泉院(冷然院・レイゼイイン)
平安京にあった後院、里内裏

通称「三井寺」の由来は、天智天皇・天武天皇・持統天皇の産湯として使用されたことから、「御井ミイの寺」と言われていたものが転じて「三井寺」になったとのこと。

嵯峨源氏は、嵯峨天皇が源姓を下賜(カシ)している嵯峨源氏の生みの親である理由から、源氏と全く無関係ということではない。

嵯峨天皇は、平安時代三番目に当たる第52代天皇

嵯峨源氏
初期は嵯峨天皇の皇子4人から17人、皇女が4人から15人が氏祖(親王を除く・源誠流ほかが日本での一世源氏)。
初代は嵯峨天皇の七男皇子である源誠(ミナモトノマコト)が嵯峨第一源氏。

[匿名さん]

#112023/01/24 19:46
「源」とは、皇室と祖(源流)を同じくするという意味であり、今回の場合は禿髪氏と拓跋氏が同じ祖先であることに該当する。

源花(ゲンカ・ウォナ・ウォンファ)
若い美少年数百人を取り仕切る女主人となる天官女・巫女)のこと。
一説として、後の時代での妓生(ギセイ・キーセン)制に相当する。
対して男主人の場合には、風月主(フウゲツシュ・プンウォルチュ)。
6世紀の新羅では、女性戦士士官候補生のクラスとして存在。
どの程度、戦闘に従事したかについては不明。
母系中心社会だった初期の新羅が背景に存在し、真興王の治世に創設された初代のグループは約300人の若い女の子のエリートで構成されていた。
彼らの指導者は、二人の女性であった。
初代は魏花郎、第二代は用主。

花郎(カロウ・ファラン)
軍事訓練・精神修養等を行う新羅で10世紀まで続いた教育機関青年組織制度、又はそのリーダー。

朝鮮の「三国史記新羅本紀」によれば、「化粧させたり着飾って花郎と名付けた」とある。
花郎と源花は、新羅では対関係にある。
貴族の美少年を奉ずる青年戦士団。
史料では、「郎花」「風流徒」「図仙徒」「風月徒」「源花徒」とも言う。
花郎の源流は、原始時代の韓(カン)族の男子集会舎(集会所)に求め、原始宗教。
原始時代の人々は、死んだ祖先を崇拝し、祭祀することを大変、大切に考えた。
花郎の後裔は、高麗の八関会と考えられる。

[匿名さん]

#122023/01/25 20:32
新羅源氏
源義光・甲賀源氏・甲斐源氏・清和源氏・源義綱・河内源氏・信濃源氏・源義家・武田信義・武田信玄など。
現在の滋賀県大津市にある園城寺新羅明神堂の護法神が起源。

華和讃新羅源氏ハナワサンシンラゲンジ
金剛流御詠歌集に入る歌の一つ。高野山「万灯万華和讃(マンドウマンゲワサン)」と言う供養文化(新羅源氏シマ田軍法にも浄瑠璃繋がりで関与※)。
※「シマ」は、「髪冠に貴」の字。

新羅明神
中国の山東地方で祀っていた神又は朝鮮半島からの渡来神。
元は寺の地域の地主神。

京都の中山神社(旧岩神社)
鎌倉時代の内大臣の中山忠親の邸宅跡であったためと伝わる。
主神は、何れも三井の新羅明神の扱いとして素盞嗚尊・櫛石窓神(クシイワマドノカミ)・豊石窓神(トヨイワマドノカミ)。
櫛は奇か?共にクシと読む。

[匿名さん]

#132023/01/26 20:56
「河南」の名字(姓セイ)が、清和源氏(清和天皇の子孫)の小笠原流と村上源氏(村上天皇の子孫)の名和氏流と桓武源氏(桓武天皇の子孫)の肝付氏流。
島津氏と島津家にも関与した河南源氏か?
河南源氏の本貫は、現在の中国河南省鄭州や開封。
但し、桓武天皇の母が百済渡来人である高野新笠のことから、男系の桓武源氏の他に桓武平氏も存在する。


日本の「源氏」氏族とは、皇族が臣下の籍に降りる「臣籍降下」の際に、天皇が「源」の氏を授けたことに始まる。
初代は、桓武天皇の親王以外の皇子から起因の桓武源氏より。
賜姓皇族のことであり、天皇の子孫一族のこと。
平安時代は、一夫多妻制なので、天皇が子孫繁栄と勢力拡大のために多く子孫を残すと考えることも決して珍しくはないばかりか、必然なのかもしれない。

[匿名さん]

#142023/01/27 19:57
武家としての源姓は、桓武天皇の皇子であった時期に、後に嵯峨天皇となる人物が桓武第一源氏。
嵯峨天皇が自ら天皇になった時点で、嵯峨天皇は桓武源氏から離脱、桓武源氏が消滅させた。
従って、武家としての源姓の始まりは、清和天皇の第六皇子貞純親王の子が源経基(ミナモトノツネモト)と名乗ったことに因る(清和第一源氏)。

嵯峨天皇は、公家としての親王以外の七男である源信(ミナモトノマコト)に嵯峨第一源氏として授けている。(公家としての源姓の始まり)
>>13
桓武源氏(桓武天皇の子孫)の肝付氏流は、大隅の伴姓。但し、桓武平氏という説もある。

他に源氏氏族は、
宇多源氏(佐々木四兄弟(佐々木氏・京極氏)
清和源氏(源義光・源頼朝・足利尊氏〈旧源高氏〉・武田信玄・徳川家康・何れも新羅明神がある故に新羅源氏でもある)
村上源氏(源雅実〈久我家・中院家〉・岩倉具視)
など。

大阪府南河内郡大字白木(旧白木三郷・旧白木村)河南町には、白木(新羅・シラキ)神社がある。
江戸期の名称は、牛頭天王社。
「白木」は、新羅の国訓。
白木神社の北方地に「多々良」と言う名の地がある。
「多々良」は、新羅の城邑である蹈ラ津※(タタラツ)があった。
※「ラ」は、「革偏に造りが草冠の下にマダレと冊」の字。

多々良津に因む蹈ラ津は、現在の韓国慶尚南道多大浦の古名。

「蹈ラ津」の「蹈ラ」と言えば、神武天皇の后である姫蹈ラ五十鈴姫命(ヒメタタライスズヒメノミコト)が存在する。

[匿名さん]

#152023/01/28 19:38
源氏にも島津家が多いと云われ、新羅の朝鮮半島版源氏島津家でもあった薩摩島津氏・薩摩島津家も花郎と同じ美青年集団の類似文化の風俗習慣を行ったことで明るみになった。

島津家伝では、島津忠久の父を源頼朝、そして母を丹後局としている。
島津忠久は、室町時代後期に島津氏自身が源頼朝の隠し子と称して、源氏を名乗り、それ以後、明治維新に至るまで称していた。
当家の家伝では、この丹後局が比企氏の出であるとしており、安達盛長の妻であった丹後内侍に比定されている。
但し、忠久が源頼朝の子であったという記述が見られるようになるのは、15世紀の初め頃からであり、同時代での史料には記述が存在しない。

[匿名さん]

#162023/01/29 20:06
>>15続き

源氏が使う「白旗」だが、八幡の素旗と同じであり、島津忠久の墓は、鎌倉の白旗シロハタ神社にある。

「吉見家系図」では、源頼朝の乳母であった比企尼(ヒキノアマ)と比企掃部ジョウ(ヒキカモノジョウ・ジョウは充の亠がない字)の三女が、都で二条天皇に仕えていた際に、惟宗広言(コレムネノヒロコト)と通じて、忠久を産み、その後に鎌倉で安達盛長に嫁いだとされる。
事実であれば、丹後内侍は源頼朝の乳母子であることになる。
但し、「吾妻鏡」には、丹後内侍と忠久の関係について全く言及されていない。
「三長記」1198年正月晦日の除目記事では、左兵衛尉惟宗忠久」とあり、この他幾つかの文書から、当時の忠久は概ね惟宗姓を称していた。

頼朝から島津荘(シマヅノショウ)下司職と地頭職に任ぜられた際に、
「島津荘」を本貫にしようと、島津左兵衛尉と名乗る。

[匿名さん]

#172023/01/30 20:22
島津氏は、鎌倉時代の御家人「島津忠久」が源頼朝征夷大将軍から日向国の「島津荘」の下司職・地頭職に、更にその後、守護職に任じられ、島津氏と名乗ることが発祥である。
島津荘は、薩摩・大隅・日向の三国にあった日本最大の荘園であり、近衛家の荘園でもある。
近衛家は、五摂家のうちの一家である貴族であり、以降の島津家とも縁が生ずる。


禿髪烏孤の子孫?日本の佐竹氏の家紋定紋「扇に月」(日の丸扇)。
日の丸扇の元祖は、「丸に日の丸扇紋」の文化であり、これは源頼朝の命。
平安時代創始の清和源氏義光流(新羅)。
 

[匿名さん]

#182023/01/31 20:56
源義経
日本での王号(稚児名の一つ)遮那王(シャナオウ)
「牛若丸は京の鞍馬で称した」
1174年承安4年3月3日

李源(リゲン・イウォン)
大韓帝国初代皇帝高宗の光武帝の曾孫
本名は、李命福→李載晃→李?※
※?は「ノと臣と己の冠に火」の字であり、日本語の訓音読みは未詳扱い。

南涼最期の第3代国王である禿髪ジョク壇の子は、禿髪オ斯(トクハツオシ)。
亡父の諡を採って、「禿髪氏」から「阿毎氏(アマシ)」に改姓した。

禿髪ジョク壇の孫は、禿髪阿毎(トクハツアマ)。
別名は、禿髪琵古主人と禿髪毘古主人。
禿髪オ斯の子。

禿髪オ斯の子は、他に継体天皇(古墳時代の第26代天皇)。
本名は、禿髪男大迹(トクハツヲホド※1)。
諡号も男大迹。
別名は、阿毎袁本抒※2・阿毎雄大迹・阿毎乎富等(アマコフト)・阿毎琵古太尊・阿毎毘古太尊。
※1「ヲホド」は、「オオド」と発音する。
※2「抒」の実際は、「木偏に予」の字。

日本の渡来人氏族の「阿毎氏」は、「アマシ・アメシ・アマウジ・アメウジ」と読む古代日本の皇室に対する姓(カバネ)。

[匿名さん]

#192023/02/01 20:35
源氏の使う「白旗」と八幡の「素幡(シロハタ)」は同じ。
八幡太郎義家(源義家)の存在もある。
源義家7歳の時に山城国石清水八幡宮で元服したことに由来。
兄弟頼朝と高氏(後の足利尊氏)の兄。

「八幡(ヤハタ)」が古名であり、「八」は多さを表し、「幡」は後の「旗」である。
神仏周合以前まで「八幡」を「やはた」と読んでいた。
「ヤーハタ」=「秦氏のヤハウェ神」より。
旗とは、単なる目印ではなく、「神の依り代(ヨリシロ)」であり、そのはためく様子は神が示現する姿そのもので、鳥に化身した神が飛ぶ様子でもある。
神使(シンシ)」としての鳥、神の乗り物としての鳥が古形。
「八幡」とは、文字どおり多数の幡(旗)」を立てて、祭祀する神なのである。
「八幡」と「稲荷」は本来、秦氏の信仰であった。
後に他の部族・氏族・支族・家門・種族等も氏社として始めることになる。

宇佐神宮の主祭神は、実は「応神天皇・神功皇后・宗像三姫神」ではなく、「延喜式」905~927年撰述に依れば、「八幡大菩薩宇佐大神・大帯姫神(オオタラシヒメガミ)・姫神」の三神と記されている。
最後(2番目の)の姫神とは、宇佐地方・御許山(オモトヤマ)の神である。
そして、大帯姫神が息長帯姫(オキナガタラシヒメ)、つまり神功皇后に擬せられ、その結果として八幡大神は神功皇后の御子である応神天皇とされることになる。

宇佐神宮の名称としての歴史は、「八幡(ヤハタ)」「八幡大菩薩宇佐宮(ヤハタダイボサツウサグウ)」「八幡宇佐宮(ハチマンウサグウ)」「宇佐神社」を辿り、現在の「宇佐神宮」に至る。
「八幡」の呼称は、「ヤーハタ」から「やはた」(当時の中国人は読めずにバハン)」、「やはた(発音やわた)」「はつま」「はちまん」の歴史がある。
八幡の総本宮は、宇佐神宮。

[匿名さん]

#202023/02/01 20:46
>>14訂正
姫蹈ラ五十鈴姫命→媛蹈ラ五十鈴媛命

>>16補足
比企掃部ジョウの「ジョウ」は「允」の字。

[匿名さん]

#212023/02/02 21:37
>>19
秦氏の神山(ミヤマ)は、南豊前(現在の大分県北部)に属する宇佐地方にはなく、その北西方向の筑紫に近い北豊前(現在の福岡県南東部)にある香春岳(カハルタケ)(福岡県田川郡)である。
「香春」は「かはる」と読むが、元は「カル」である。
「カル」とは、金属(特に銅)のことである。
飛鳥地方の天香久山の「カグ」も「カル」のことであり、此処の銅から鏡や矛を作ったのである。
香春には、古い採銅所があり、此処の銅から八幡宮の神鏡(シンキョウ)が作られていて、其処には元宮八幡宮(現在の古宮八幡宮)がある。
ところが、元宮八幡宮の「新宮」が宇佐八幡宮(現在の宇佐神宮)ではない。
秦氏の神官は香春社(709年造営)。
その神々は、延喜式に依れば、忍骨命・辛国息長大姫大目命・豊姫神。
しかし、此処には藤原不比等主導による新神祇政策に従う潤色が既に混在していた。
「忍骨命(オシホネノミコト)」とは、偉大なる母神である天照大神の御子神(ミコガミ)である天忍穗根命(アメノオシホネノミコト)から「天」の一字を除いただけの神名に見える。
だが、「オシホネ」は「大シホ根」である。
つまり、中核は「シホ」であり、古代朝鮮語の原語「ソホ」からの転訛、そしてその神名はニッポン神・天オシホネ命への付会(コジツケ)と思われる。
「ソホ」とは、「ソフル(聖地の意・韓国の首都名ソウルも同じ)の「ソフ」と同じで、神の降臨する聖地を意味する。
オシホネ命は、本来は新羅の「御子神(ミコガミ)」である。

[匿名さん]

#222023/02/03 20:13
次に、「辛国息長大姫大目命(カラクニオキナガオオヒメオオメノミコト)」の「辛国」とは、ズバリ新羅の統治下に入った「加羅国」に相違ない。
「息長大姫」は、息長帯姫(神功皇后)を強く示唆している。
古事記に依れば、神功皇后は新羅の王子「アメノヒボコ(天日槍)」の後裔と記されている。
紀記伝承でアメノヒボコが立ち寄った地には、必ずと言って良いほど息長氏の跡が残る。
「大目」とは、秦王国の6世紀末に実在した巫女のオトメやオフメから採ったものと思われる。
結局のところ、朝鮮と日本の和合名である。

「豊姫命」は、紀記神話の豊玉姫に比せられたりもするが、この女神こそが秦氏の主神の一つ。
その名は、地名「豊」を付けた程度の意味であり、要は母神である。
実は、秦氏の八幡信仰も母子神信仰であり、その御子神は「太子」と呼ばれる。
何と、八幡神信仰には聖徳太子から最澄や空海まで、繋がっていたのである。
秦氏は、新羅系加羅人が多いと考えられる。
6世紀半ばに加羅は、新羅に吸収されるが、その前から加羅には新羅人が多く居住していた。

[匿名さん]

#232023/02/04 20:18
「辛国」の「カラ」とは、秦氏の故郷の地である「加羅」を指している。
香春社の神官は、赤染氏と鶴賀氏であるが、どちらも秦氏の一族である支流や後裔である。
赤染氏の氏社に香春神社(カワラジンジャ)と常世岐姫神社(トコヨキヒメジンジャ)。
鶴賀氏の氏社に香春神社・鏡山犬神社・現人神社。

「鶴賀」は、「敦賀」と同音の「ツルガ」であり、「ツルガ」とは日本書紀にある「オホカラの王子ツヌガアラシト」の上陸地である福井県ケヒの浦に因むものである。
その名は「大加羅の王子ツヌガ」であり、「アラシト」は加羅の一邑安羅の人の意である。
秦氏も多く居住した敦賀には、気比社がある。
八幡神とされる応神天皇(ホムタワケ・ホンタワケ)には、この気比の神(イザサワケ)と名を交換しあったとされる。
紀記に載る意味深な伝承もある。
「シホ」については先述したが、1313年成立の「八幡宮宇佐御託宣集」(以下「宇佐託宣集」)に依れば、「八幡神は天竜の姿で日本の辛国の城(キ・峯、山)に降臨し、そこは神武天皇再降臨の蘇於峯(ソホダケ)である」と記されており、「辛国の城」とは、秦氏の神山であった豊前の香春岳に他ならない。
「ソホ」についても先述したとおり、新羅の前身国「斯蘆(シラ・シロ・サロ)」の初代王カクコセ(カクキョセイ)居西干(キョセイカン)は、「ソフル」の聖林(ソフル)に、加羅の初代王シュロは、「ソフル」である亀旨(クジ)峯に降臨したとされる。
香春の神が新羅・加羅より渡来したことを上述したので、神武天皇の紀記上の降臨神話についても述べることにする。

紀記の降臨神話は、明らかに朝鮮の降臨神話の影響を強く受けたものである。
日本書紀は、「天才シホネ命」の子であるニニギ命
が降臨した山のことを「日向の襲(ソ)の高千穂の添(ソホリ)山峯」と本文で記し、他の一書には「日向の高千穂の樓触(クシフル)峯」と記されている。
また、古事記には「日向の高千穂のクジフルタケ」とされている。

[匿名さん]

#242023/02/05 19:07
朝鮮の降臨神話では、王は卵から産まれる(加羅神話の亀旨クジとは「卯生の亀」を示唆する)。
実は、これが聖山より重要なのであり、その卵は方舟(箱舟)に乗って、海から漂着したというのが、南朝鮮も含めた「倭族」神話の古形である。
日本の場合は、少なくともニニギ命の場面では、聖山への降臨に重点があるが、命が包まれていたという「真床追衾(マトコオウフスマ)」には、卵の王たちを温めた布の温かみが微かに残っている。

新羅・秦氏・八幡神信仰の拡がり
島津氏が継承した新羅の民俗
島津氏は、鎌倉幕府から日向・大隅・薩摩三国の守護に補任されて以来、600年以上に亘り、南九州を支配した豪氏である。
「島津」を名乗る前は、「惟宗(コレムネ)氏である。(惟宗忠久=島津忠久)
新田八幡宮の神官も惟宗氏。
惟宗忠久は、日向国守(ヒュウガノクニガミ)の家に生まれ、源頼朝による薩摩国島津荘(シマヅノショウ)の地頭職安堵が縁で「島津氏」を名乗ることになる。
その惟宗氏こそが、秦氏の一族の後裔であり、やはり源氏の鎌倉幕府とは「新羅」系島津家政権と言えるのではないか。
幕末の西郷隆盛や大久保利通等は、貧しくとも「藩志士」であった。
薩摩藩には、厳しい藩士教育の伝統の存在に関しては、よく知られている。
特に「兵児二才(ヘコニセ)」では、藩士や戦士としての予備教育が行われていたことは、言うまでもない。
そればかりでなく、民俗宗教的な側面が強くあった。

[匿名さん]

#252023/02/06 20:02
名門の美少年を「稚児様(チゴサマ)」と称して奉り、集会や合宿、また「山野遠遊(サンヤエンユウ)」(本来の意味での遠足・ワンダーフォーゲル)を行い、戦には稚児様を先頭に青年戦士団として戦場へ赴いた(天草の乱などで記録あり)。
この稚児様とは、八幡神の依り代(ヨリシロ)であった。
実は、新羅に「花郎(カロウ・ファラン)」(元々は「源花
(ゲンカ・ウォナ・ウォンファ)と呼ばれた女性、つまり巫女だった)と呼ばれた貴族の美少年を奉ずる青年戦士団があり、同様の民俗があったのだ。
とある研究によると、この民俗が最も残っていた地が、国分(コクブ)と出水(イズミ)。
出水にも八幡宮がある。
国分とは、大隅八幡宮と韓国宇豆峯社(カラクニウヅラミネシャ)の地である。
国分兵児(コクブヘコ)の重要行事に三月に行われる正八幡宮参詣があった。
この時、出水兵児(イズミヘコ)も稚児様を奉じて参詣し、国分兵児と交友、武道を競った。
出水兵児はまた、9月下旬の出水八幡宮祭礼にも稚児様を奉じて参詣し、出水兵児と交友した。

更に彼らは、秋の彼岸には韓国岳(カラクニダケ)のある霧島連邦へ「霧島参り」を行っていた。
新羅の若者たちが、花郎を奉じて霊山である金剛山などに登っていた民俗文化と同様だ。
その他例えば、出水は六地区に分けられ、兵児二才も、それに従って編成されたが、これも聖都ソフル慶州が六村から成立していたという伝承を持つ新羅や黄金の六つの卵から産まれた男子が六加羅の王となったという神話を持つ加羅の聖数「六」に基づく。

[匿名さん]

#262023/02/07 21:01
宇佐の辛島ハトメ(辛島氏)は、「隼人の乱」の時に「神軍」を率いて大隅に向かったが、この時ハトメは、八幡神の依り代である「源花」であったのだ。
八幡神の「太子」とは、誰それの子という意味ではなく、子供であること自体が重要な神格である神を言う。
「太子」とは、元々朝鮮の巫女が降神させる、ある神霊への呼称であり、その巫女は「太子巫」と呼ばれた。
ここにも「母子」のセットが見受けられるが、朝鮮の神王は卵から生まれる。
従って、その卵(アル」は太子なのだが、生まれた太子もアルなら、産んだ卵たる母もアルなのである。

紀記神話の天照大神と天才シホネ命、神功皇后とホムタワケ命(応神天皇)もアルだと理解できる。
アメノヒボコは何故、新羅の「王子」と呼ばれなくてはならなかったのか、ツヌガアラシトは何故、大加羅の「王子」と呼ばれなくてはならなかったのか。
彼らが童神、則ち太子(アル)だったからに他ならないし違いない。

「花郎」や「兵児二才の稚児様」とは、太子だったことも頷ける。
新羅の「源花」は「アル」のもう一側面の母神なのか。
紀記中の神名に登場する「彦(日子)」も「アル」であり、太子信仰に拠るものである。
新羅には、海から漂着したアル(卵)の母子神信仰があった。
これに山上降臨型の神信仰が習合したのが、太子と巫女(依り代)のシャーマニズム信仰である。
山岳信仰遊行する者は、神若しくは神の依り代と見なされ、それが伝説の「花郎」や「源花」となる。
更に仏教、特に弥勒菩薩信仰とも習合し、太子=花郎=山岳修行者=弥勒という変換式がやがて成立することになる。

[匿名さん]

#272023/02/08 20:10
山中の弥勒(ミロク)とは、花郎でもある。
花郎とは、童子(熊野権現にも童神が多数)でもある。
比叡山延暦寺で五代坐主だった円珍(エンチン)は、遣唐使の派遣で唐から帰国途中の搭乗船で、船首に出現し、自らを「新羅国明神」と称した。
更に「仏法を日本に垂迹すべし」と命じた。

滋賀大津に園城寺(後に通称を三井寺ミイデラ)を開山するが、園城寺の本尊は、新羅の花郎が起源である弥勒像。
円珍は、智証大師、智証麻立干、初代新羅明神。

智証麻立干
チショウマリツカン
新羅第22代王500~514年に在位
新羅を正式国号、王を君主号に定めた王

宝号は、南無大師智慧金剛
ナムダイシチエコンゴウ

韓流史劇ドラマ
「善徳女王」
花郎集団の架空である各グループの名称に、「玄武」「護国」「白虎」「日月星」などの単語が含有されている。
グループは多数存在したものとされる。

[匿名さん]

#282023/02/09 21:11
>>0日の丸
「魏志」倭人伝には、
「魏の国が卑弥呼に旗を贈った」
(邪馬台国に)
また、逆説「卑弥呼が魏の王に献上した」とも云われるものもある。

旧呉日本海軍呉工厰(コウショウ)・航空自衛隊呉基地・「日の丸」が名称に含まれる事業者・大和ミュージアム・澎湃館(ホウハイカン)等が広島県呉市に存在するが、中国三国時代の国家「呉」よりも先述した「北魏と倭」の関係から鑑みて「魏」からの「南涼」「北魏」(「東魏」)「唐」「新羅」ルートで「拓跋部」「拓跋氏」「禿髪氏」「源賀」「河南源氏」「新羅源氏」「後の島津家」「日本の源氏氏族」ルートで日の丸が日本列島に伝わった可能性が大きい。

[匿名さん]

#292023/02/10 20:35
更に中国東北部3省南東方面(旧満州地域)のハルビン・吉林・チチハル・秦天(瀋陽)・新京(長春)に居住した朝鮮族(中国朝鮮族・朝鮮系中国人)による起源説もある。
その流れなのか、朝鮮三国時代の高句麗・百済・新羅にも伝来した説もあり、その中でも高句麗は始祖王である東明聖王時代の三足烏(サンソクウ)と共に賀茂氏が八咫烏とし、日の丸と併せ日本列島に伝来したという説もある。
東明聖王の諱(イミナ)が朱蒙(シュモウ・チュモン)、姓は高(コウ・コ)であり、高朱蒙(コウシュモウ・コチュモン)。

三足烏
東亜地域の神話や絵画等に見られる伝説の生き物。
この鳥は、太陽に棲んでいると信じられ、太陽の象徴日の神である三本足足の烏。
日の丸旗の赤丸印も太陽を表す。
高句麗の三足烏紋彫刻は、オニキスパワーストーンと呼ばれる魔除けを意味したデザインになっている。

この時代に存在した百済や新羅(河南源氏→新羅源氏)にも伝わった可能性が大きい。

最古の考古学的遺品は、紀元前5,000年の中国揚子江下流域に遡る。

因みに中国ハルビン市旗は、緑地に白で中央に桜のデザイン。

[匿名さん]

#302023/02/11 18:27
>>0徳川斉昭関連
茨城県水戸市常盤町にある常盤神社において、神事の国旗制定祈念祭を開催する契機となる。
主祭神は、徳川光圀と徳川斉昭。
徳川慶喜の実父である徳川斉昭は当時、常陸水戸藩主だった。
幕末の江戸幕府が1854年寛政元年年7月11日、正式に日本総船印(ソウフナジルシ・国旗)として、日の丸を定めた。

理由は、前年の1853年嘉永6年7月8日の黒船ペリー提督来航を機に、同年11月に、当時の薩摩藩11代藩主であった島津斉彬(シマヅナリアキラ)が幕府に大船・蒸気船建造の申請時に、日本船の総印として白い帆に朱色の日の丸を使用した。

[匿名さん]

#312023/02/12 01:11
俺は嵯峨天皇の末裔と言えばれっきとした末裔だが何か質問あるか?

[匿名さん]

#322023/02/12 01:12
俺は源氏の末裔と言えばれっきとした末裔だが何か質問あるか?

[匿名さん]

#332023/02/12 01:17
征夷大将軍には代々必ず源氏の血統しか決してなれず織田信長は平家の血統なためなれず徳川家康はなんとか源氏の血統が入っていると朝廷から認められ征夷大将軍になれたの知っているか?

[匿名さん]

#342023/02/12 01:29
こういう話しを嫌い批判する奴らは決まって在日や帰化人出目が怪しい日本国民しかいないことを知っているか?この前もとある神社で宮司や氏子また違う時には寺で住職やたまたま居合わせた檀家さんと話していて宮司や氏子はこういう姓や難しい話し好きな人が多くなぜかへぇ〜って聞いているとそんな話しを嫌う人が席を離れたりした。どうしたのかなー?って住職に聞いているとあの人は出目が良くないからこういう話しが面白くないんですよ的なことをボソッと言っていた。なるほどなって思った。

[匿名さん]

#352023/02/12 16:54
中国の明王朝の御旗は、下地と日の丸が逆になっただけ。
赤地に白丸。

1627年から1644年の思宗崇禎帝の代清王朝の国旗は、黄竜旗(コウリョウキ)。
黄色地に竜の小さな赤丸と白地。

錦の御旗(錦旗キンキ)
赤地に金丸印。
1868年1月27日(慶長4年1月3日)の戊辰戦争の初戦である鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍側を敵として賊軍にした、新政府軍側が掲げた烽旗には、天皇家の印である菊の御紋が金色で描かれている。

後の大日本帝国明治新政府により、「大日本金貨」(赤い敷物に金コイン)が発行されることになる。

松平家の家紋は、黒地に金紋様。

[匿名さん]

#362023/02/13 19:12
>>0
国旗・国歌法第5条国旗損傷
「国旗を損傷し、除去し、又は汚損した者は、二年以下の懲役又は二十万円以下の罰金、若しくは科料に処す。」
と明記されています。
上記内容の原文以外には、義務規定や罰則規定はないが、同法第4条国旗掲揚には公共施設において、国旗の掲揚を義務付ける規定が存在します。
公共施設の主要施設以外での飛び地地域に存在する小規模な公共施設、例えば倉庫レベルの類いにおいては、国旗掲揚を免除されております。

[匿名さん]

#372023/02/14 18:51
>>5
平氏の代表家紋は揚羽蝶。

平家物語 禿髪カムロ
日本の軍記物語古書「平家物語」では、平安京に放たれる平家方の密偵として登場する。
禿(カブロ・カムロ)とは、頭に髪がないことを言い、肩まで切り揃えた児童期の髪型、或いはその髪型をした子供を指す。
狭義では、遊郭に住む童女のこと。

児童期の髪型は祇園祭に関連
稚児様、鱗髪に江戸時代の「理髪の儀」。

[匿名さん]

#382023/02/18 21:29
>>25
つまり、要約すると中国河南源氏と新羅源氏と源花と花郎と源氏島津家は秦氏源氏新羅経由の同胞だと言える。

[匿名さん]

#392023/02/21 19:25
>>25新羅に関連

李氏朝鮮李王朝の本貫をを持つ全州李氏の始祖である李翰(リカン)は、統一新羅と言う国で「司空」と呼ばれた役職に就いていた。
李翰「宗山実録」(全州李氏の記録文書)に
「李翰は元々は、中国に住んでいたが、海を渡って新羅に渡来した」
と記録されている。
「李氏得姓之由來」では
「李翰は本来は中国唐人の末裔であり、李翰の新羅への渡来以降、代々全州に住んでいた」
とも記録されている。

統一新羅の国旗の中央に三日月の印がある。
三日月は、主に秦氏が使用する文化であり、他には出雲族全般も使う。
源氏も島津家も秦氏の流れが実在する。

[匿名さん]

#402023/02/23 20:32
>>18
源氏(ゲンジ・ミナモトシ)
日本の皇族が臣籍降下した源氏氏族は、「源氏三十一流」とも呼称されることもある。
その家系は、現在の京都に存在した京の朝廷に仕えた公家貴族(公卿貴族)と、地方に下った武家貴族(軍事貴族)等に分かれた。
その起源は、継体天皇の系統とされる説があり、可能性は大きい。
継体天皇
鮮卑拓跋部の一派である禿髪部の源賀(禿髪破羌)系統とされる阿毎氏族の祖である禿髪阿毎)。

拓跋氏(タクバツシ)は、北魏第6代皇帝である孝文帝の代に「元氏(ゲンシ)」に改姓した。
禿跋氏(トクハツシ)は、南涼滅亡後に禿髪破羌が北魏へ仕えた際、北朝北魏の第3代皇帝である太武帝から「禿髪氏」と「拓跋氏」を与えられ、「源賀」と名乗ることに起源を持つ。

[匿名さん]

#412023/02/23 20:40
あ   

[匿名さん]

#422023/03/28 19:15
>>36
主要の公共施設には、国旗掲揚が同法で義務付けられているが、公共施設に勤務する一公務員には国歌斉唱の際に起立ないし、斉唱しなければならない義務付けの法律又は同法における条項は実在しない。
つまり、公務員であっても国歌君が代を歌おうが歌わまいが、起立しようかしまいが個人に委ねられていると言うことなので、誤解のないよう御注意ください。
マスコミによる印象操作した報道が、一部に見受けられます。
但し、現在において自民党内で同法を改正するような動きは存在します。
どのように改正するのかは今のところ非公開のことにより、謎のままであります。

[匿名さん]

#432023/04/01 20:10
>>17
佐竹氏は秦氏の後裔、清和源氏の新羅三郎源義光の孫である源昌義が、常陸国久慈郡佐竹郷に土着し、「佐竹氏」を称したことが始まり。

[匿名さん]

#442023/07/10 16:01
>>40
源氏三十一流の文化で阪神タイガース三塁手の掛布雅之と読売ジャイアンツ投手の背番号31に発展か

[匿名さん]

#452023/07/10 16:40
>>44
読売ジャイアンツの背番号31の主な選手は投手の水野雄仁

>>0
河南源氏に関連

白木神社(新羅神社)
大阪府南河内郡大字白木
(旧白木村・旧白木三郷)
白木神社は江戸期には午頭天王社と呼ばれた。
「白木」は新羅の国訓。
白木神社の北方地の名に「多々良タタラ」。
「多々良」は新羅の城邑」の「蹈鞴津タタラツ」がある。
「蹈鞴津」は現在の朝鮮半島慶尚南道「多大浦」の古名。
媛蹈鞴五十鈴媛命ヒメタタライスズヒメノミコト(神武天皇の后、皇后、妻)。

午頭天王は祇園祭でユダヤ教の出雲族文化でスサノオのこと。

[匿名さん]

#462024/02/14 09:34
【源平藤橘ゲンペイトウキツ】
日本の奈良時代以来、姓の代表的氏族源氏・平氏・藤原氏・橘氏からなる貴種名族4大勢力の総称。
但し、平氏の場合は他の三姓と異なり、氏長者の記録はない。
在日ヤクザの4大勢力でもある。

近代で言えば、東声会・北星会・錦政会(前身は鶴政会・後身は稲川一家・稲川組・現在の稲川会)や山口組・住吉会・稲川会と同等。

山口組は現在、六代目山口組・神戸山口組・絆会(旧任侠団体山口組)等に分裂中。

[匿名さん]

#472024/02/14 16:36
え??

[匿名さん]

#482024/02/14 17:02
あ?!

[匿名さん]

#492024/02/16 19:36
>>0日の丸伝来ルート

魏(220~265年)曹丕そうひ高祖文帝
魏初代皇帝

南涼(397~414年)禿髪烏狐とくはつうこ武王
初代国王

北魏(386~535年)道武帝どうぶてい太祖
初代皇帝

隋(581~618年)高祖
初代皇帝
聖徳太子が遣隋使に託した文書以来、自国を日出ずる国とする考え方が生まれ、赤い日の丸の太陽を象徴するようになる

唐(618~907年)李淵りえん高祖
初代皇帝
華流史劇ドラマ「独狐伽羅」で伽羅の姉として実在皇后の架空名前の独狐曼が実母

新羅(BC57~935年)敬順王けいじゅんおう
最期国王

薩摩島津氏と薩摩島津家

日本で初めて1853年嘉永6年11月、江戸幕府に対し大船蒸気船の建造申請後、1854年7月11日に幕府が日本総船印にほんそうふなじるしの国旗に指定、白い帆に朱の「日の丸」を薩摩藩11代藩主の島津斉彬が薩摩藩所有の貿易船で使用した
大日本帝国明治政府もこの日本総船印を国旗とする旨を引き継いだ

[匿名さん]

#502024/02/23 14:39最新レス
中国史劇ドラマで、随と唐がテーマの『独孤伽羅』と『月に咲く花の如く』の作品に「日の丸旗の原型」を描写

[匿名さん]


『日の丸・禿髪破羌の源賀と河南源氏と源氏氏族』 へのレス投稿
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