>>792
『法華経』は大乗仏教信徒達の共通の深層心理、ユングの言葉を借用すれば集合無意識が生み出した経典です。
それは華厳経でも同様なことです。
ユングの説いた集合無意識を遡ること1200年前にインド大乗仏教の唯識学派ではアラヤ識縁起として既に説いています。
『法華経』や『華厳経』の教主はアラヤ識の更に深層にある根本清浄識すなわちアマラ識(佛意)を教主として説かれていますから、それは現象世界に於ける事実ではないが深層心理に於ける真実だと言うわけです。
一般に形而下すなわち自然的存在の領域においては時間的空間的な制約を受けますが形而上の領域では存在そのもののあり方(法)が問われるているので時空を超越して読む者が『法華経』の主人公になることだって不可能ではありません。
あのドイツ文学者ミヒャエル・エンデの小説『ネバーエンディングストーリー』(はてしないものがたり)と同じで読者自身が自覚次第で主人公に転換できてしまうのですよ。
一歩間違えば精神に異常を来しますが、キリストにせよ釈迦にせよムハンマドにせよ、そして日蓮にせよ、ある意味に於いては共通点が見いだせるわけです。
日蓮が本佛の自覚を持っていたとは断定できませんが、彼が確実に『法華経』に登場する上行菩薩の自覚を持っていたことだけは万年救護之本尊の腰書に確かめられています。
つまり、突き詰めていけば上行菩薩はあくまでも菩薩ですから、それは釈尊己心の存在であり、世を忍ぶ仮の姿に過ぎず全ては救済者の自覚に目覚めた日蓮自身のことになるわけです。